446   中西宏明さんを悼む(1)

2021年7月14日

2021年7月1日、日立製作所の社長・会長、日本経団連の会長を勤められた中西宏明さんが逝去されたとの報道を聞き身体中から力が抜けた。これから日本を再び成長軌道に乗せることができる数少ないリーダーだったのに本当に残念でならない。中西さんは、今年、5月に会長職から退かれて体調が戻り、6月には時々出社されるほどまで回復されたが、突然容態が急変され6月27日にお亡くなりになられた。ご家族だけで、6月29日にお通夜、6月30日に御葬儀を執り行われてからの公表だった。経団連会長職に就くことに最後まで猛反対されていた奥様が「これからは私だけの中西」と仰っている姿が目に浮かぶ。

中西さんには、もう何年にもわたって、東大電気電子工学科の同級生たちと毎年ゴルフコンペを付き合って頂いていた。ビジネスの世界では、これまで何度も窮地を凌いでこられた中西さんのことだから、今回も、きっと元気になって、また、ご一緒できることを信じていたのに残念でならない。とうとう最後になってしまった、2018年6月のコンペは、経団連会長就任祝いも兼ねて行われ、見事、中西さんが優勝された。歴代の経団連会長には、必ず、警護のSPが就く慣わしとなっているのに、どうも見当たらないので「中西さん、今日、SPは居ないの?」と尋ねると「総理みたいに10人も付けば安心だろうけど、一人付いたから大丈夫ということはないでしょ。だから、お断りした」とあっけらかんと笑っている。中西さんらしいなと思った。

その次の年の2019年6月にも、中西さんには我々ゴルフ仲間のために貴重な時間を予定して頂いたが、三週間ほど前に体調不良で参加できないとの連絡があった。5月の連休直後にお会いした時は、少し疲れた様子だったが「連休中はワシントンに缶詰だった。それで日本に帰ってきたら、今度は、中国の高官からどうしても会いたいと言われて」と相変わらずの活躍だった。まさに、米中問題の渦中に置かれている様子だったので、体調不良も、そうした激務から生じた過労なのかと思っていた。その直後に、「急性リンパ腫で入院」との報道があり、本当に驚いた。普通の人の何十倍も濃い仕事をこなされてきたので、これまで累積していた疲れが一挙に出たに違いない。

マスコミでは、いつも中西さんが過激な発言をされているように報じられているが、ロンドンに駐在され欧州総代表、米国シリコンバレーに駐在され米国総代表を務められた中西さんから見れば、欧米では当たり前に行われていることを発言されていただけである。新卒一括採用、年功序列、終身雇用は、世界で日本だけの固有の人事制度なので、グローバルカンパニーを目指す日立のリーダーとしては、当然、世界の中で日本だけ異なる人事制度に固執するわけにはいかない。何しろ競争相手は世界中の企業なのだから、同じ条件で戦わなくては勝ち目がないからだ。現に、日本国内においてすらも、一流と言われている日本企業が、外資系企業から優秀な人材を、どんどん引き抜かれている。もはや、ピカピカのタレント社員は平等・公平な処遇では決して満足はしない。

それでも、中西さんは、一生懸命頑張っている人間には優しかった。その反面、偉そうなことを言っていながら、さっぱり働かない人間には厳しかったかも知れない。私が、初めて中西さんと行動を共にしたのは大学3年生の時の「北アルプス縦走」だった。高校時代から山歩きをされていた中西さんがリーダーで、電気電子工学科で同期の友人数名と、中西さんの婚約者だった明美さんもご一緒だった。一方、私は、高校時代に突然発症した関節リューマチがようやく寛解したばかりで、そのようにタフな計画に同行できるか自信がなかった。何しろ、高校時代3年間は学校の階段の登り下りにも苦労し、体育の時間は殆ど見学だったからだ。中西さんは、そんな薄弱な私に気を使ってくれて、とにかく一番弱い者にペースを合わせて進んでくれた。その時、私は、「この人は優しい人だな」と思った。

そして、なんと言っても、一番忘れられないのは、東大紛争と 70年安保騒動だ。1968年10月21日 国際反戦デー、いわゆる「新宿騒乱事件」の日に、中西さんから「デモに行こう」と誘われた。とにかく、同級生の皆と一緒に夕方早稲田大学構内に集まった。それから、都内をデモ行進し国会議事堂の近くに来たら、ヘルメットを被った人たちが「国会突入!」と叫んでいる。「そんな話は聞いてないよ!」と思ったが、もうだめだ。学生たちの国会突入を防ごうと機動隊が我々に本気で攻撃を仕掛けてくる。もう逃げるしかない。皆で、全力疾走で逃げた。銀座あたりまで逃げただろうか? 私は、裸足で走っていることに気がついた。そこから本郷の下宿まで裸足で歩いて帰った。

東大紛争で7ヶ月間のロックアウト期間中も中西さんは、クラスのリーダーだった。先生と生徒たちの間を取り持って、何度も集会を開き何時間も議論をする場を作ってくれた。それは、先生たちも大変だったに違いない。何しろ、学生たちにしても、何で、自分たちが、こんなに怒っているのか、よく理解できていなかったからだ。私も、中西さんも、卒業と同時に、私は富士通に、中西さんは日立に就職した。二人とも、神奈川県の出身なので、日立には好感を持っていた。日立のコンピューター部門は、ハードウエアが神奈川工場、秦野工場、ソフトウエアが戸塚工場、周辺機が小田原工場と全て神奈川県に集中していたからだ。

それでも、私は、日立は日本一博士号を持っている社員が多いので、学部卒では希望する職場には行けないだろうと思ったのと、卒論の研究室にて、たまたま見学にこられた池田さん(その当時、私は知らなかったが、富士通では天才技術者との異名をとるカリスマ経営者)から直接リクルートされたこともあり、富士通を選んだ。私が想像していたとおりか、それとも中西さんが、あえて望んだのか?はわからないが、中西さんの最初の勤務地はプロセス制御機器を開発する茨城県の大みか工場だった。しかし、それが中西さんの将来の運命を決定することになった。

当時の大みか工場長は、その後、日立製作所の社長となる三田勝茂さんだったからだ。中西さんは、若い時に、この三田工場長の薫陶を受けて育った。この三田さんと、富士通で社長・会長を務められた山本卓眞氏は、戦時中、千葉市に設立された東大第二工学部電気工学科の同級生である。この第二工学部は、戦後の日本経済を牽引された立派な経営者を数多く輩出している。ちなみに、日立製作所の三田勝茂社長と富士通の山本卓眞社長は、官公庁向けシステム販売会社FHLを合弁で設立している。

中西さんは、仕事に励む一方で、英語を猛烈に勉強した。後に中西さんの後継者となる東原さんも、この大みか工場時代に上司だった中西さんから英語のレポートを義務付けられたと述べている。この中西さんの英語への情熱には、一つの目的があった。それは、会社派遣の留学制度を使ってアメリカへ勉強に行くことである。その甲斐もあり、中西さんは、見事、社内の競争に勝ち抜き、スタンフォード大学への留学を果たした。しかし、当時の日立の制度では、米国留学といっても期間は1年で、「まあ、せいぜい聴講生として勉強して来い」という程度のものだった。

ところが、妻子を連れてアメリカに渡った中西さんは、想像を絶するほどの猛勉強をして、普通なら2年かかるところを、たった1年で修士論文を完成させて、スタンフォード大学の修士号を取得してしまった。中西さんは、受験勉強は卒業してからという気風の都立小山台高校で高校生活を送っていたせいか、最初の東大受験では文科二類(経済学部)を受験して失敗、次の年は、理系に転換し、理科一類(理学部、工学部)を受験して見事合格した。中西さんの学年は120万人、その次の私たちの学年はベビーブームで250万人もいる。私たちが受験する前の東大は、現役40%、浪人60%の比率だったのが、私たちの学年では、現役80%、浪人20%と圧倒的に現役が多かった。中西さんは、その数少ない20%の中で見事リベンジを果たした。その不屈の精神は生涯衰えることがなかった。

445  稗田康夫さんのこと

2021年6月18日

2021年6月3日 稗田康夫さんが、肺がんのため、73歳でご逝去された。心よりご冥福をお祈り申し上げます。1970年東大電気電子工学科卒業の同級生だった、稗田さんを追悼する意味で、私の思い出をほんの少しだけ語る。

1995年から1996年にかけて、首都圏で東大入学を目指す受験生で稗田康夫さんの名前を知らない人はおそらく誰もいない。当時、東大の学生たちが組織していた東大学生文化指導会が主催する「東大学力コンクール」、いわゆる「東大学コン」は東大へ入学するための模擬テストとして最も権威があった。模擬試験会場は、理一を目指す私の場合だと東大本郷の法学部1号館、まさに本試験を受ける会場そのものだった。さらに、問題用紙や回答用紙も本物の受験時と全く同質のザラザラした紙で、印刷様式も全く同じだった。そのため、本試験の当日も全く違和感なく受験できるので、それだけでも「東大学コン」は大変人気があった。

その「東大学コン」にて、稗田康夫さんは、いつも二位に大きな差をつけて堂々の一位だった。稗田康夫さんが、私と同じ理科一類を目指しているのは知っていたので、ぜひ一度会ってみたいと思っていたが、残念ながら駒場の教養学部時代に身近で会うことはなかった。そして、遂に、本郷の専門学科(工学部電気電子工学科)へ進学し、憧れの稗田康夫さんに巡り会うことが出来た。しかし、実際に会った稗田さんは、外見上は、ごく普通の人だった。むしろ控えめで大人しそうな人柄だった。

しかし、私と同じ、ベビーブームの先頭にいた稗田さんをめぐる受験戦争における伝説は、凄いものがあった。中学・高校と名門私立武蔵で学んだ稗田さんは、中学受験の時に私立武蔵だけでなく慶応中等部も受けたらしい。ところが、稗田さんは慶應中等部を落ちたと言うのである。どうも、稗田さんが、普通はあり得ない高得点を取ったので、集計係が、これは何らかの間違いだとして、最上位の数字を書き換えてしまったと言う噂だった。もちろん、これは単なる噂にしか過ぎないのだが「東大学コン」で常時一位の席を渡さなかった稗田さんを知っている私としては「多分本当の話だろう」と思っている。そして、もし稗田さんが慶応中等部に合格していたら、八丁堀で歯科医院を営んでおられた、お父上の影響もあって、慶応の医学部に進学し、医者になっていたのかも知れなかった。

稗田さんや、私が、本郷に進学して、まもなく、東大紛争が始まった。7ヶ月間のロックアウトの間、私たちは、色々なことを議論した。その中で、いつもは控えめだった稗田さんは、元々純粋な気質だったこともあり、東大のあるべき姿を熱く語る論客として目立つ存在にもなった。同じ電気電子工学科には、稗田さんにも決して負けない論客として、確か、大阪天王寺高校出身だったと思うが川上富清さんがいた。私の記憶では、この川上さんの大阪の実家も、歯科関連の事業を営んでおられたと思う。この時の付き合いがあったからだろうか、この二人は、後に、同じ運命を歩むことになる。

1970年東大電気電子工学科を卒業した私は富士通へ、中西宏明さんは日立製作所へと企業へ就職する道を選んだのに対して、稗田さんは純粋な学問を志向し、東大大学院物理学科へ進学した。同大学院で修士号を取得して、博士過程は東大原子核研究所へ進学し、素粒子の研究に打ち込んだ。その後、八丁堀で長年歯科医院を営んでおられたお父上の跡を継ごうと思われたのだろうか。博士課程を中途退学し、東京医科歯科大学を受験し合格する。東大受験に合格してから8年経っても、稗田さんの受験能力は全く落ちていなかった。東京医科歯科大学といえば、東大の理一に合格するより遥かに難度が高い。私の末弟も東大の理一は合格したが東京医科歯科大学は落ちている。

稗田さんが、東京医科歯科大学へ入学して学んでいると言う話を聞いて、すぐに思い出したのが先ほどお話しした稗田さんの親友だった川上富清さんだ。川上さんは、東大電気電子工学科を卒業すると、直ぐに、大阪大学歯学部に入学し、大阪の阿倍野市で歯科医になられた。多分、この川上さんの生き様が、稗田さんに与えた影響は大きかったと思われる。その稗田さんも、昨年秋からステージ4の肺がんとの闘病生活を続けられていた。このコロナ禍の中で、さぞ不自由な入院生活だったことだろう。でも、自分の思う道を、ひたすら歩み続けてこられた稗田さんに、きっと悔いはない。あの7ヶ月間のロックダウン生活を共に過ごした仲間として、今一度、心からご冥福をお祈りしたい。

 

444 マスクと手洗いだけで大丈夫?

2021年5月3日

中国に進出している日系の百貨店で、コロナ禍で一番売れた商品はメガネだという。相手のマスクから漏れて出る飛沫は、自身のマスクによって口から侵入することはある程度防げるかも知れないが、目から侵入することには無防備である。そのため、コロナ患者に相対する医療関係者はマスクだけでなく、目からのウイルス侵入を防ぐために必ずフェイスガードを着けている。確かに、中国の武漢で、最初に新型コロナウイルスで亡くなった医師も眼科医だった。

よくマスクの代わりに透明なプラスチック製のフェースガードをつけている人を見かけるが、あれは大きな間違いである。フェースガードはマスクの代わりにはならない。フェースガードは、マスクでは覆うことが出来ない目から感染することを防止するためである。外出する時な終始マスクをしていて、外食もしていないのに、一体どこで感染したのだろうと不思議に思っている方こそ、目からウイルスが侵入した可能性が高い。

私は、当初、コロナウイルスが目から侵入するのを防ぐために、花粉防止用のゴーグルを購入して着けてみたが、何とも、ものものしくて不自然だった。今では、外出する時には、必ずメガネを着けている。若い時は、近眼と乱視だったのだが、歳をとって老眼と重なり、今では本を読む時以外は全くメガネが要らなくなった。それでも、眼科医からは白内障の症状があると言われているので、紫外線とブルーライトを遮断する透明のサングラスをかけている。なぜ、透明かと言えば、色の濃いメガネは瞳孔を大きく開き紫外線の遮断効果が減少すると言われているからだ。今回のコロナ禍で、この透明サングラスが外出時には離せないものとなった。

コンタクトレンズを常用している、多くの若い中国人が日系の百貨店でコロナ感染防止用に洒落た日本製のメガネを購入している。福井県鯖江市は高級メガネフレームの世界的大産地だ。これが、中国の日系百貨店に於いて、コロナ禍でのベストセラーだというのだから驚きだ。確かに、コンタクトレンズは、手で挿入するし、その手にウイルスが付着していたらと考えると本当は恐ろしい。こんなニュースを報じている、日本のメディアがあっただろうか? コンタクトレンズ業界は大スポンサーだから、ご機嫌を損ねるわけにはいかないのだろう。

実は、中国では未だ完全にコロナ禍が収束しているわけではない。上海や北京のような大都市で、時々、一定数の感染者が判明しているのだ。しかし、その度に、短期のロックダウンを行い、1,000万人規模の大規模なPCR検査(もちろんプール検査)を行い、無症状感染者を徹底的に炙り出している。彼らは、彼らなりに地道で継続的な努力を重ねている。「なにしろ、中国は、強権社会だからね」と言ってしまえば、それで終わってしまうが、本当に、それで良いのだろうか?