449   初めての著作を上梓

2021年10月3日

2021年10月1日、私としては初めての著作である「2022年再起動する社会」がAmazonから予約販売開始された。書店での発売は10月18日からで、幸いなことに全国主要都市の著名な書店から多くの注文を頂いている。以前から講演依頼や原稿依頼にお応えしている中で「本を出してみませんか?」というお誘いは何度かあったが具体的な話に成就するまでには至らなかった。しかし、そのきっかけは突然やってきた。

昨年、コロナ禍の真最中に、古巣の富士通からお客様向けのセミナーである富士通フォーラムにて講演のお誘いを頂き「ポストコロナ時代に向けて」という演題でお話することを引き受けた。コロナ禍の中なので、当然形態はオンラインである。オンラインであることは対面でお話しできないという不都合はあるものの、主催者側の立場で見れば会場の予約も必要なく経費削減ができ、お客様側の立場から見れば、空いている時間にじっくり聴講することができるメリットがある。

このセミナーが終了した後に、その講演内容を、私が社外取締役を務めるゼンショーの取締役会でご披露させて頂いた。ご存知の方も多いと思うが、ゼンショーは、すき家、はま寿司、ジョリーパスタなど多数の業態を傘下に持つ日本最大の外食企業である。昨年、2020年4月に出された緊急事態宣言直後は全社の売り上げが急減し経営的にも危機的な状況に陥った。その後も、政府のコロナ対策は飲食業界を中心に規制強化が継続されてきた。しかし、元来、飲食業は昔からO157やノロウイルスなどの感染症に対して徹底的な予防対策を施している。従業員の手洗いの徹底や、厨房の器具や設備なども常時丁寧な消毒を施しているので、他の業種に比べたら感染症に対する認知度は極めて高い。

従って感染上の課題は店舗側ではなく、むしろ、お客さま側の振る舞いにあると思われる。その意味で、ゼンショー傘下の各業態において、殆どのお客さまは一人飯か家族飯で、見知らぬ他人と長時間会話をする状況にはなく、コロナ禍でも極めて安全な環境にあった。それでも、飲食業をスケープゴートとする世の中の風潮には逆らえず、イートインに抵抗感を持つお客様のために、テイクアウトとデリバリーを徹底的に拡大する施策を取った。デリバリー、テイクアウトに適した専用のメニューを考案し、持ち運びやすい包材にも工夫を凝らした結果、最近の業績はコロナ禍前を凌駕する状態にまで復活しつつある。

こうしたゼンショーにおけるコロナ対策の状況を見ていると、単に飲食業という「業種」で括って考えるのではなくて、そのビジネスのやり方である「業態」について議論する方が、より重要であることがわかる。なお、ゼンショーでは中国や東南アジアの店舗では、既にコロナ禍以前からデリバリーの方がイートインを凌駕するようになっていた。日本でもコロナ禍を契機に変化した飲食業の新たな「業態」は、コロナ禍が収束した後も継続される可能性は非常に高い。

むしろ、コロナ禍以前の外食業は、コンビニの中食と熾烈な競争に巻き込まれつつあった。しかし、今回、調理したてで美味しいテイクアウトメニューが数多く開発されたことで、徐々にコンビニとの競争に勝利しつつある。しかも、注文に応じて調理するので在庫を持たないですみ、現在大きな問題となっている食品廃棄問題にも大きく貢献することになる。このように、飲食業界だけを考えてみても、コロナ禍は、従来の業態が本当に最善であったかを問い直すきっかけとなり、その解決策は、コロナ禍が収束した後も事業継続の要になることが予想される。

私がゼンショーの取締役会でお話しした講演「ポストコロナ時代に向けて」では、従来の「業態」を見直し、新たに開発された「業態」が、コロナ禍が収束した後も継続される可能性が高いことを、色々な分野に関して述べさせて頂いた。この話を聞いていた同僚の社外取締役である安藤隆春氏から、「伊東さん、これ本にしましょうよ!」とのお誘いを突然受けた。安藤さんは、橋本内閣において総理大臣秘書官を務められ、東日本大震災の時には警察庁長官として全国の警察官を被災地に集めて復興に向けての陣頭指揮をされた。

本来は、私など直接お話ができる方ではないのだが、ゼンショー傘下にある北海道十勝の黒毛和牛の牧場見学を泊まりがけで、ご一緒させて頂いてから親しくお話をさせて頂くようになった。安藤さんは、若い時に警察庁からフランス国立行政学院(ENA)に留学されパリでの生活体験から、とてもお洒落で、文化・芸術の分野にも造詣が深い。現在、著名な芸能プロダクションの社外取締役も勤められているほか、いくつかのタレントエージェンシー、文化団体、出版社の顧問もされている。安藤さんが私に出版をお誘いして下さったのは単なる思いつきではなかった。

今回、私の著作の出版をマネージメントして下さったのは、安藤さんが顧問を務めるプロダクションSpeedyを主宰する福田淳氏である。福田さんは、ソニー・デジタルエンタテイメント・サービスの社長を経て、2017年、株式会社 スピーディ(Speedy)を創業され、ブランドコンサルティング、タレントエージェンシー、出版、農業、リゾート開発やスタートアップへのエンジェル投資など幅広く事業をされている。また、福田さんは、これまでの長年にわたるハリウッドでの業務経験を活かし、日本の芸能界に特有な風習に対する改革者でもある。その一例として、現在はSpeedy所属タレントである「のん」の地上波TVへの復活がある。私が大好きなニュース番組であるBS-TBS 1930に常時登場される堤 伸輔さんもSpeedyの顧問である。堤さんが番組でお話される造詣深いコメントに、私はいつも感心させられている。

また、今回、この著作を上梓するにあたって全く素人の私を優しく指導して下さったのが、Speedy所属の編集者である井尾淳子さんだった。このコロナ禍の中、対面でお会いしたことは一度もないがZoomオンライン会議やチャットやメールで頻繁に丁寧な指導を受けた。正直に申せば、私は書籍の出版に際して編集者の存在が、こんなにも重要な仕事だとは今まで全く知らなかった。井尾さんから指摘されることは全て少しも反論できる余地がなく、私も素直に納得して指導に従った。お陰様で、半年近い丁寧な指導を受け、「本の書き方」の基礎が少しわかったような気がしてきている。

私は、これまで講演ではそれなりの評価を受けているが、著作では全く経験が無いので、この本がどれほど売れるか全く自信がない。せめて、お世話になった方々に大きなご迷惑をおかけしないよう、現在、知人や友人に自分でできる範囲でのPR活動を手掛けている。もし、今回の上梓がうまくいけば、第二作、第三作と、今後も著作活動を続けていきたいと考えているが、さて、どうなることか。

448   中西宏明さんを悼む(3)

2021年9月5日

さて、中西さんは、どうして奥様が猛反対された経団連会長に就いたのだろうか? 中西さんは、地位や勲章など俗人的な栄誉にこだわる人ではなかった。やはり、「日本を変えたい」という強い思いがあったに違いない。思えば、中西さんは、今から半世紀前の東大紛争の時、先生と生徒の間に立ち、双方の意見を丁寧に聞きながら、粘りつよいファシリテーターとして活躍された。あの時の中西さんも「東大を変えたい」という強い思いがあったのだろう。

私たちは、卒業してから25年後、伊豆の川奈で、先生かたもお招きして盛大な同窓会を開催した。会の冒頭、先生を代表して挨拶に立たれた尾佐竹教授は「25年前、あの時、君たちは東大を壊せと言った。正直に言えば、こいつらは馬鹿じゃないか?と思った。でも、25年経った今、よく考えてみると、君たちの言っていたことは、あながち馬鹿なことではないと思うようになった。あの時、一度、旧来の東大の体制を壊してゼロから再生していれば、今頃、東大は、世界に冠たる大学になっていたのかも知れない」と発言された。きっと、当時の中西さんは、そこまで先を読んでいたのかも知れない。

日本を変えるために、中西さんは経団連会長に就かれたのだと確信している。会長就任後、経団連の執務室の椅子に座られた直後に、中西さんは、机にパソコン用の電源も、インターネット接続ケーブルも、もちろんWi-Fiも全くないのに気がついた。中西さんの経団連会長としての最初の仕事は、執務室にインターネット環境を整えることから始まった。私も、経団連では産業政策部会長として2年ほど仕事をさせて頂いたことがある。経団連の事務方は極めて優秀な方々が多い。おそらく霞ヶ関の官僚にも引けを取らないレベルの優秀さだと思う。財界総理とも言われる経団連会長でも、彼らと正面から議論したら簡単には勝てない。それでも中西さんは、ご自身の考え方を大事にされたのではないか。事務方との調整を経ないまま、ご自身の意見を率直に述べられている。

マスコミの報道では、中西さんは、安倍政権と蜜月時代を築いたと言われている。日本を変えたいという意思を持っている限り、経済界だけでできる事には限界があり、政治の力を利用することが必至だと考えれば、時の政権と対立することは不毛である。私は、中西さんに「安倍政権の評価は?」と正面から尋ねたことがある。中西さんの答えは「長期安定政権ということは良い。毎年、総理大臣が変わっていたらやりようがない」ということだった。さらに「日本経済の再建」、「労働者の賃上げ」という安倍政権の経済政策の基軸である2点については全く齟齬がなかったと思う。

それでも、中西さんは、国家観については、安倍元総理と、かなり違ったものを持っておられたように思われる。中西さんの国家観は、安倍元総理よりも安倍元総理の出身地である山口県が産んだ、伊藤博文、井上馨など長州五傑(長州ファイブ)と言われる人々に近かった。長州ファイブは、まだ海外への渡航が禁止されている江戸時代に長州藩主の命を受けて欧州に派遣されロンドン大学に留学した五人組のことである。伊藤博文、井上馨らの五人はロンドン大学で学んだ。当時の英国では、名門オックスフォード大学、ケンブリッジ大学は、いずれも英国貴族の男子だけに入学が許されていたのに対して、ロンドン大学は一般庶民、女子、外国人にまで広く門戸を解放した多様性の高い学舎だった。

長州ファイブは、日本に帰国して、明治政府を樹立すると、ロンドン大学という世界に冠たる高い多様性に触れて学んだ成果を日本の開国に向けて次々と適用していった。通産省の事務次官、東洋大学総長をされた福川伸次さんは、私に「伊東さん、明治政府は西欧から招聘した外国人教師の給料に国家予算の3分の一を充当したんですよ」と仰った。中西さんも、幅広い海外経験を踏まえて、日本を再生させるためには、「旧来の日本」を一度壊すほどの覚悟が必要だと思われていたに違いない。

中西さんは、30年近く続いた日本経済の低迷は、日本の「異質性」にあると考えられていた。つまり、中西さんが目指していた国家観は、長州ファイブと同じく、日本を世界で普遍的に通用する「普通の国」にしたかったことだ。中西さんが、とりあえず手をつけたのは日本の人事制度だった。新卒一括採用、終身雇用、年功序列といった日本特有の人事制度は戦後日本の高度成長には、何らかの貢献を果たしたのかも知れない。しかし、少子高齢化で生産年齢人口が減少した中で、貴重な人材をいかに活かすか?また、女性や若手の活用が叫ばれている中で、そして、日立のようなグローバル企業グループの中でも、日本だけ特異な制度を維持することは、もはや不可能となった。

中西さんが、見本にしていたであろうシーメンスがドイツという国家を巻き込んでIoT技術をベースにした製造業戦略であるIndustrie 4.0には相当注目されていたに違いない。まず、中西さんは、その対抗策として、日立社内の中で、Lumada(ルマーダ: IoT基盤)として発展されてビジネス的にも大きな成功をもたらした。その延長線上として、中西さんは、今度は日本全体を巻き込んで、さらにサービス業をも含めたデジタル改革であるSociety 5.0を提案された。中西さんが、やりたいことは、まだまだ色々あったに違いない。

昨年は、卒業してから50年経ち、同級生たちと卒業50年回を企画していたが、コロナ禍のため今年に延期したが、今年4月の再度の緊急事態宣言を受けて再度来年に延期を決めた。それでも、再延期すれば、中西さんも、きっと回復して同窓会に参加できるかも知れないという希望を多くの仲間が持っていた。しかし、今や、それもできなくなってしまった。誠に残念である。思えば、あの50年前に、東大紛争の最中に中西さんと共に、学生と先生の間にたって熱心にファシリテーションをされていた仲間に清水 勉さんがいた。同級生に清水姓は三人いたので、皆、通称「勉ちゃん」と呼んでいた。

「勉ちゃん」は卒業後、富士電機に就職した後に、地元小金井市でソフトウエア開発会社「アイコム」を起業された。その後、「アイコム」を地元の小金井市では期待される有力企業にまで育てられて、市の商工会議所でもコンサルタントとして活躍されていた。しかし、2018年末、それまで闘病中だった「勉ちゃん」は突然他界された。「勉ちゃん」の通夜に参列した私が驚いたのは、参列者の多さだった。小金井市長を始め小金井市の地元経済界の方々が多数参加されていた。さらに、驚いたのは喪主の名前が「清水宏明」だったことだ。勉ちゃんの長男である「宏明」さんは立派な若者だった。おそらく「勉ちゃん」が中西さんのように立派な人になって欲しいとの願いから命名したに違いない。

お焼香を済ませて帰路に着こうとしたら、受付を待つ参列者の長い列の最後尾に、暗い寒空の中、一人で静かに並んでいる中西さんを見つけた。「来られたの?」と私が聞くと、中西さんは「夕方になって突然官邸から呼ばれて遅くなっちゃった。なんとしても、宏明さんにお会いして、ご挨拶をしないと」と言われた。やはり、「勉ちゃん」の御子息の名前を知っていたのだ。「勉ちゃん」が、生前、中西さんに報告していたのだと思った。それにしても、この寒空の下で、受付を待つ長い列の最後尾に経団連会長が静かに並んでいることなど誰も知らなかっただろう。

447    中西宏明さんを悼む(2)

2021年8月9日

スタンフォード大学で修士号を収めた中西さんは、大みか工場に復帰して毎日の業務に勤しみ、いよいよ副工場長にまで上り詰めた。日立は工場が、完結した一つの事業体であり、工場長と言えば子会社の社長みたいなものである。その副工場長と言えば大したものである。中西さんは、その大みか工場の副工場長からお茶の水にあった日立の本社に転籍し、企画部門に勤務することになった。その当時の中西さんとの会話では「会社から100億円預かった。これから新規事業の開発に取り組む」という張り切った声が今でも忘れられない。

その後、中西さんは、海外事業へと進む。同じ時期に、私も海外事業を担務していたこともあり、成田空港で同じ飛行機に乗ることも何度もあった。私も、中西さんも、いつも一人。搭乗する列に並ぶ中で、交わす言葉は、ほんの少しだけだった。「前回は、南アフリカ。今度はヨーロッパ。いずれもボイラーの売り込み。日本のボイラーは横に置くけど、欧米のボイラーは縦に置く。所変われば品変わる。」と、いつも他愛のない会話だった。

その中西さんが、最初に就いた地域責任者は中国総代表だった。以来、中西さんは、中国に対して「中国は、どうあろうと未来永劫、日本の隣国だ」との特別な思いがあり、中国では官民ともに多くの知己を得た。リンパ腫が発見される直前、ワシントンから東京へ帰国した中西さんを中国政府の高官が、早速訪問したのも理解できる。しかし、それほど敬意を評していた中国に対しても「とうとう中国での新幹線ビジネスは、モーターだけになった」とこぼしていたのも印象的だった。

中国の次は、ロンドン駐在となって欧州総代表になられた。英国は、金融事業で生業を立てている国で、インフラ構築には全く関心のない国である。送電線も通信線も地下埋設されているが、その地下道もローマ帝国時代に建設された水道設備を、今も使っている。それで、英国が深刻な電力不足に陥っていることを何とか救えないかと中西さんは原発設備の商談を英国政府に持ち込んだのだと思われる。さらに、欧州の鉄道網はドイツのシーメンスとフランスのアルストムが独占しており、日立が欧州で進出できる可能性があるのは英国だけだった。こうして、英国の原発と鉄道の商談成立は中西さんの欧州総代表時代の大きな功績となった。

しかし、2010年に中西さんが日立の社長に就任された直後、東日本大震災に伴う福島第一原発の事故を契機に世界の原発ビジネスは大きな変化を生じてくる。原発は、従来以上に事故防止のために必要な費用が膨らみ、運転収益が当初の見込みから大幅に減少した。英国原発ビジネスについても、日立社内の取締役会で社外取締役を中心に反対意見が強まる中で、中西さんの動向が注目されていた。そんな中で、私は中西さんに「どうするの?英国原発は」と尋ねると、中西さんは「今のマスコミ報道には頭に来てる。私は、日本政府にお伺いを立てているわけではない。政府系金融機関から支援をお願いしているので、官邸には交渉経緯を報告する義務はある。しかし、この問題は、日立と英国政府の問題だ。だから、最後に決めるのは日本政府ではなくて日立だ」と言い切った。

中西さんは欧州総代表として勤務した経験からも、日立の将来の姿をシーメンスに重ねていたと私は思っている。かつて、ジャック・ウエルチによって理想的なエクセレントカンパニーに仕立てられたGEは、所詮、金融会社になっただけだった。やはり金融業と製造業の両立は難しい。GEがリーマンショック以降、アメリカを代表するクオリティの高い企業を示すダウ工業株30種から転落したのも必然だった。私も、シーメンスとの共同事業に10年も参加したお陰で、シーメンスの幹部とは大変親しくお付き合いさせて頂いた。シーメンスは、常に事業の入れ替えを行なっており、祖業である通信ビジネスまでノキアに売却した。今も、引き続き経済合理性を最重要視するシーメンスは、GE以上にエクセレントな企業である。

中西さんは、日本の経営者としては珍しく、経済合理性を非常に重要視していた。日立の祖業である火力発電事業を三菱重工に売却したのも、そうした考えからだった。この祖業の売却は、当然、日立社内の猛反対に会った。その当時の中西さんの言葉では「東日本大震災以降、日本の電力会社は体力を失った。コスト意識が従来に比べて全く違う。これからは日本の電力会社の設備投資も、価格が安い韓国や中国との真っ向勝負になる」と言っていた。超超臨界圧で石炭をガス化して発電する設備で世界一の燃焼効率を誇っていた三菱重工に売却する方が日立の火力発電事業の生き残り戦略として正しいと考えられたに違いない。

さらに、シーメンスが原発事業から撤退したのを、中西さんは、本当は羨ましく思っていたのではないかと思われる。しかし、福島第一原発の事故で、日立は東芝やGEとともに当事者となった。現在も廃炉に向けて2,000人もの日立社員が働いている。そうした中で、中西さんは、原発事業からの撤退は許されないと考えたに違いない。それでも、従来のような大規模な原発設備は災害に対して脆弱であり、今後の原発は全電源喪失にも耐えられる水中格納型の小型原子炉に限定すべきだとの考えを持っていたように思う。「これからは大規模集中発電設備に頼らない、小型の分散電源方式にしなくてはいけない」と中西さんは常々語られていた。

そのために、中西さんは、日立がこれから貢献すべき事業は、発電設備というよりも、再生エネルギー発電も含めた分散電源に適合した送電設備であり、それに深く関わるべきだと考えられた。実は、日本の電力会社は世界で類を見ないほど、高品質の電力を供給しているため相互融通の送電網に対して50Hz-60Hz変換以外は、何の工夫も入らないで接続できる。しかし、欧州や中国のように広域で信頼性のない発電設備を相互融通するには、高圧直流送電技術を使うのが一般的である。ところが、日本でも太陽光や風力を使う発電設備が増えてくると、お日様任せ、風任せで、頼りない発電設備を相互融通できる直流送電設備が何としても必要となってくる。

この点に関して、中西さんは「実は、日本には直流送電の技術がないんだよ。だから、スイスのABBを買った」と言われた。実に、7,800億円もかけて日立がABBを買収したのは、日本の送電網を大転換するという中西さんの夢があった。実は、日立は、風力発電設備(風車)の製造事業からも撤退している。もう、風車の製造では、三菱重工と合弁会社を設立した世界一の風力発電設備会社であるデンマークのヴェスタスやシーメンスには、どうあがいても勝ち目がないと踏んだからだ。しかし、送電線の設備なら、日立には、日本に地の利があるし、日本中の送電設備を変えていくには、今後、100年近く事業が続くと考えたに違いない。

こうして、日立の大改革に目処をつけて、大みか工場時代から長い間信頼関係にあった東原氏に日立の未来を託した中西さんは、次に、日本の大改革へと経団連会長として、仕事を進めることになる。実は、中西さんも「家内は、最後まで経団連会長に就任するのは猛反対だった」と言っていた。これまで長い付き合いがある私にも、なぜ中西さんが、経団連会長の職にこだわるのかが理解できなかった。中西さんは、これまでの経団連会長というような予定調和を目指す仕事よりも、むしろ、周囲からの支持が得られにくいようなリスクの高い直言を若い時からしばしば行われてきた。それが一度、日立の社長レースに敗れた一因かも知れないと私は今も考えている。中西さんの父親は中堅企業のオーナー経営者であり「いざと言う時は、親父の跡を継げばいいか」というような覚悟が中西さんにはあったからかも知れない。