168 屋根のない美術館 ブルージュを歩く

「屋根のない美術館」、「北のヴェネツィア」、「水の都」と数々の呼称で呼ばれるベルギーが誇る世界遺産 「ブルージュ歴史地区」へ、私が最初に行ったのは今から30年前のことだった。それは、私にとって初めての海外出張で、ヨーロッパの各地の大学を訪れる旅でもあった。その大学とは、ドイツのミュンヘン工科大学、パリのソルボンヌ大学、ロンドンのオックスフォード大学と、今日の話題であるベルギー ブリュッセルにあるカトリック大学であった。いずれも私の上司が京都大学大学院時代に同じ研究室の先輩で、後に京都大学総長になられた、長尾真先生の紹介だった。さすがに長尾先生の紹介状を添えて訪問依頼を出すと、どこの大学も、二つ返事で快く受け入れて頂き、国際的にも著名な先生方が、私に貴重な時間を割いて下さった。

ベルギーのカトリック大学は、長尾先生から紹介を受けるまで、私は全く知らなかったのだが、実際に行ってみると最先端の半導体製造設備まで備えた理系の学科も有する立派な大学であった。聞けば、このカトリック大学のキャンパスがあるブリュッセル郊外の広大な研究学園地域は、NATO(北大西洋条約機構)の開発委託研究を一手に引き受ける場所で、大学だけでなく、IBMを始め、多くの民間の研究機関も、その居を構えていた。最寄りの駅からタクシーで行ったものの、1時間以上走っても、なお着かないので、これはオランダまで行ってしまうのではないかととても不安だった。帰りは、当然タクシーなど拾えるわけもなく、どうしようかと悩んでいたら、訪問先の大学教授が、親切にも、ご自身の車で駅まで送って下さった。

その初めての海外出張で、ヨーロッパも初めてなら、当然ベルギーも初めてである。せっかく、はるばるベルギーまで来たのだから、どこか有名な観光地を一つくらい行かないと一生後悔すると思い、ベルギーに3年間駐在していた叔父に、何処へいけばよいか?と尋ねてみた。この叔父は、ブリジストンに勤める技術者で、日本で初めてスチールタイヤを製造するための準備としてベルギーに派遣されたのだ。当時の日本の技術ではタイヤに入れる鋼線を作ること出来なかったので、ブリジストンはベルギーのベカルトスチール社から技術導入することにした。ベルギーから日本に帰った叔父は栃木県の那須に合弁会社ブリジストン・ベカルト社を設立し、その工場長となった。この叔父が、「ベルギーに来たら行くべきところはブルージュしかない!」と断言するので、私も迷わずブルージュに行くことにしたのだった。

ブリュッセルの駅から1時間ほど汽車に乗って、駅から歩いてブルージュの街に入ることが出来る。この街は、9世紀ころから記録に残っている欧州でも有数の古都で、15世紀にはハンザ同盟の主要都市として、毛織物の取引で栄えた。北海から直接、運河を通じて街まで入れるという利便性から、ヨーロッパ中の富が、この街に集まったのだという。それが、ある日、突然、街は没落してしまうのだ。ところが、街を歩いていて思うのは、没落するまで、どれだけの富が集まったのだろうと思わせるほど、綺麗で豊かな街である。その最も繫栄した15世紀の時代から、今日まで、全く時間が止まった街である。

だから、町全体が、建築物や庭園や彫像など。あるもの全てが美術品である。それで、「屋根のない美術館」と呼ばれるのに相応しい街となっている。また、徒歩で回れるほど、こじんまりした、この「ブルージュ歴史地区」は世界遺産として登録されているが、実は、このブルージュ歴史地区の中には、さらに、ふたつの世界遺産「フランドル地方のベギン会修道院」と「ベルギーとフランスの鐘楼群」の一部が含まれている。つまり、一度に3つの世界遺産を見学できるというわけだ。街を歩くだけで、500年も時間が止まった、この景観を見るだけで、心が落ち着くのである。

私は、もう、二度と、この街に来ることはないだろうと、時間をかけて、ゆっくりと見て歩いた。お土産は、手編みレースが有名だと言うのだが、どれも、とても高価で手が出ない。未だ若くて、お金もなかったので、妻が教会のミサでかぶるベールだけを買って帰ることにした。そして、その時は、このブルージュに、その後、5回も行くことになろうとは夢にも思わなかったのだ。

私は、7年前から、日本‐EUビジネスラウンドテーブル(BRT)のプリンシパルメンバーになり、EUと深い関係を持つことになった。ブリュッセルは、EUの首都であるから、当然、ブリュッセルに行く機会は多い。そして、日・EU BRTの本会議はブリュッセル市内のエグモン宮殿内の広い国際会議場で行われる。宮殿内の各部屋や庭園の装飾は素晴らしいものである。残念ながら、この宮殿内に、一般の方はめったなことでは入れない。この宮殿を散歩しながら、30年前に、たった一人で、初めて、このブリュッセルに来た時に見た景色とは何と大きな違いだろうかと感無量の思いだった。

それで、ブリュッセルに行ったときには、必ず、ブルージュを訪れることにしている。前回、ブリュッセルで開かれた日・BRTでは、NTTの宇治副社長とご一緒だった。宇治さんから「伊東さん、明日はどこか行くの?」と聞かれたので、「ブルージュに行きます。宇治さんも、お時間が許せば是非行かれるべきです。」と進言した。「そうか、行ってみるか」とお答えになった宇治さんは、果たして、翌日、NTTの随行メンバーと一緒にブルージュに来ておられたのだ。この方は、本当に実直で義理堅い方だと感心した。私の助言をきちんと聞き入れて頂いた。「伊東さん、良いところを紹介して頂いた」と丁寧なお礼まで仰って下さった。

そして、ブルージュに行かれたら、昼食はブルグ広場のレストランで蒸したムール貝を注文されると良い。なにしろバケツ一杯のムール貝がテーブルまで運ばれて来る。嬉しいことに、値段は、決して日本で食べるような高い値段ではない。周りを見ていると、どの観光客も、どうやら、このバケツ一杯のムール貝を一人で全部食べている。そして、その食べ方だが、最初の一つはホークで取り出して食べるのだが、二つ目からは、今、食べたムール貝をハサミにして、次のムール貝の中身を取って食べる。こうして食べるとワイルドで何とも言えない風味がする。そうこうしている内に、バケツ一杯のムール貝を一人で平らげてしまう。

15世紀の景色を保った世界遺産の広場の中で、着飾られた馬が引く馬車が通り過ぎるのを眺めながら、ムール貝を腹いっぱい食べたら、本当に幸せな気分になれる。どうぞ、皆様も、ベルギーにお出での節は、ブルージュに出かけて下さい。来年の日・EU BRTは、4月開催で、場所はブリュッセルかパリで開催と聞いているが、もし、ブリュッセルなら、もちろん、又、ブルージュに行って、お腹一杯ムール貝を食べてくるつもりである。

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