121 東日本大震災のガレキ処理

昨日、青山俊樹 元東北地方建設局長(現在は地方整備局と改称)から、 東北地方整備局が東日本大震災で果たされた活動について説明を受けた。

2011年3月11日 14時46分地震が発生すると、東北地方整備局は直ちに 災害対策本部(非常体制)を設置した。そして、その37分後には、 仙台空港に待機していた東北地方整備局の専用ヘリ「みちのく号」を 離陸させた。みちのく号は、その後、三陸沿岸各地の津波のライブ映像 を災害対策室に送り続けた。そして、その間に自らが発進した仙台空港が 津波に飲み込まれ水没した状態となり、もはや帰還できないことを観測した。

しかし、みちのく号は、次々と押し寄せる津波の状況を的確に災害本部に 伝えることが出来ただけでなく、高価な自らの機体も津波の被害から守る ことが出来た。そして、翌3月12日から展開された東北地方整備局の「啓開」 作戦の話を聞いて思わず感動せざるを得なかった。「これこそが日本の底力」 なんだと。一般に「啓開」という言葉は耳慣れないが、広辞苑を引くと、 「機雷、沈船、防材などの障害を取り除いて水路を切り開くこと」とある。 国土交通省では、この「啓開」を水路だけでなく、道路や航空路(実際には 空港)まで拡張して使っている。

まず、東北地方整備局が最初に手掛けたのは道路の啓開である。地震による 土砂崩れや、津波によるガレキで塞がれた道路を切り開き車が正常に通れる ようにする作業である。あらゆる救援行動は道路を含む交通路が確保されて 初めて可能となるので、この啓開作業が、どのような速度で行われるかが、 災害復旧の進捗の全てを決めるカギになるというのである。

翌3月12日から行われた啓開作業を東北地方整備局「くしの歯」作戦と名付けた。 東北地方の地図を見て貰えばわかるが、背骨のところに東北自動車道と国道4号線 が走り、三陸海岸には国道45号線が走っている。その二つの縦軸ラインを 丁度、くしの歯のように横軸ラインの道路が16本走っているからだ。まず、 三陸海岸を走る45号線は津波でずたずたに寸断されているので、最初の第一 ステップは、まず東北道、国道4号の縦軸ラインを修理し確保することから 始まった。そして第二ステップとしては、その東北道、国道4号からの16本の 横軸ラインを確保する手順で行われた。

青山さんは、このくだりになると目頭を押さえて涙ぐまれた。震災の翌日、 3月12日から昼夜兼行で行われた、この啓開作業に従事した東北地方整備局 の方々の殆どが被災者だったからだ。自分の家族や親せきの安否もわからな い人たちが、この啓開作業に従事したのだという。その結果、信じられない ことに、翌3月12日の深夜には、東北道、国道4号の縦ラインだけでなく、 16本の横ラインの内、11ルートの啓開に成功したのだった。

そして、3日後の3月15日には15ルートが開通した。残る1ルートは福島第一 原発に通じる双葉町へ行く国道288号線である。さらに、驚くことに、3月18日 には、東北地方を縦軸に走る国道45号線、6号線の97%の啓開作業が完了した。 もちろん、残る3%は原発事故による立ち入り禁止区域である。このような、 驚くべき速度で道路が復旧したことに世界中が驚いたわけだが、これらは、 各都道府県の境界を超えた広域の国直轄組織があったらからこそ、費用などの 予算措置を考えることなく作業にまい進できたのではないかという。

さらに、3月23日までには太平洋側の10港全てで緊急支援物質受け入れが可能 となった。そして最後の残った一番の課題は仙台空港の再生だった。仙台空港 には津波が運んだ500万立方メートルの水、25mプールで14,000杯分の大量の水で浸水 していたのだ。3月17日までに、日本全国から排水ポンプ車を数十台も動員して 3月24日には、殆どの水を近くの川経由で海に戻すことができた。その結果、 一か月後の4月13日には仙台空港を開港、「空路の啓開」が完成した。

こうした、世界が驚愕した快挙も、自分自身の家の復旧や、家族や親せきの 安否確認が、未だ出来ていない方々の不眠不休の活動の成果だった。まさに 、いざという時の日本人の底力である。この青山さんのお話には、聴講した 方々全員が感動を覚えたわけだが、講演終了後に、一つの質問が青山さんに 投げかけられた。「これから、ガレキの処分は、どうしたら良いのでしょう。」

皆、一同に、その道のプロフェッショナルである青山さんが何と言うのか? 注目したのだが、ここで青山さんが言ったことは意外な答えだった。 「あの莫大なガレキを他の場所まで運んで処理することは不可能です。 ガレキと泥を混ぜてお団子を作って、それを山に積むんです。現地で防潮堤 にしたい場所に積んでいくしか解決の道はありません。ただ、これには 法律的な処置が必要です。現在の法律では、廃材とヘドロを一緒に混ぜて 廃棄することは禁じられています。しかし、ガレキを安定的に積み上げるに はヘドロと混ぜて団子にするしかありません。」

私を含めて、皆、唸ってしまった。それが真実なんだ。数百年分もの廃棄物 量に相当するガレキは、他の場所に運んで処分する方法では、何十年たって も処理を完遂することは出来ないのだという。そういえば、第二次世界大戦 で壊滅的に破壊されたミュンヘン市街のガレキは、近くの公園にうず高く山 積みされたことを思い出した。それが現在の、ミュンヘン・オリンピ ック記念公園である。市街地から郊外の公園まで運ぶのに、ミュンヘン市 は貨物を走らせる鉄道まで敷いた。そして、主婦から女学生まで全ての成人 市民がこのガレキ除去作業に動員されたという。日本でも同じことをやった。 横浜港にある広大な山下公園は、関東大震災で発生した横浜のガレキを埋め 立てて作られてのだという。

やはり、もっと現実的な話をしないと、今でも全く復旧のメドさえも立たない 被災地の復興は遅れるばかりである。2週間前に行った、三陸沿岸の被災地。 広大な空き地に人の姿が全く見えない。遠い将来の、綺麗なビジョンをゆっ くりと描いている場合ではない。今、すぐに出来ることを始めないと、この 大災害の爪痕が、人々の記憶から永遠に消え去ってしまう危険性すらある。

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