119 三陸沿岸の被災地を巡って

先週、車で仙台から東北自動車道を通って一関まで行き、そこから沿岸部に向かった。1時間半ほど走って、最初に訪れた三陸沿岸部の被災地は陸前高田市だった。そこから大船渡市、釜石市、大槌町へと沿岸部に沿って被災地を回って行った。帰りは、大槌町から一度釜石市へ戻り、そこから山の中を2時間近く走って盛岡市に到着。盛岡から東北新幹線で東京まで帰って来た。

最初に、巡回ルートの話をしたかったのは、仙台や盛岡など東北地方の中核都市から三陸沿岸の被災地は、あまりに遠いということだ。当社でも、三陸沿岸部の被災地支援のためには、海岸部に何らかの拠点を設置しないと手厚い支援は無理だという認識が高まっている。実際、一関から陸前高田、釜石から盛岡を結ぶ東西の道路脇には、三陸沿岸部に向かうボランティアのための食堂や雑貨屋が何軒も営業している。一時は、こうした店舗も賑わったのかもしれないが、殆どのボランティアが引き上げた今は、そうした店舗も閑散としている。

震災直後に石巻を訪れた時に感じたことは、土埃と魚の腐った匂いと多数のダンプカーが引き起こす喧騒だった。停電で光らなくなった信号の交差点にはトラック渋滞を交通整理する警官とパトカーが沢山居た。ボランティアの方々の姿も多数見られて、とにかく、被災現場では異様な活気があった。しかし、今回訪れた各地は、ガレキは既に整理されて海岸線近くの一時保管場所に運ばれていた。その結果、海岸部は広々とした荒涼たる空地になっている。海岸線近くの土地は沈降して、海水に浸っている。そして、この海岸部の広大な平地にはトラックもダンプも人の姿も殆ど見られない。

しかし、こうした海岸部の土地の向こうに見える海や半島、そして島々は昔と何も変わっていない。その景観は、あの忌まわしい大津波が襲って来たのが嘘のような美しさである。大震災から、もうすぐ1年経つ今、こうした景色を見ていると「風評より風化が怖い」と言う被災地の方々の懸念は良く理解できる。もともと、この三陸沿岸部は美しく豊かな町だったのだ。

それでも、陸前高田の一本松を見た時には何とも哀しくなった。ガレキが、うず高く積まれた山の向こうに、たった一人で孤高に立っている一本松。7万本の中から選ばれた松なのに、選ばれた恍惚さや誇らしさは全く見えなかった。そう、彼の仲間が京都の大文字焼きに参加するのを断られたことを思い出した。そう言えば、この一本松の周囲に積まれているガレキも日本中から受け入れを拒否されている。結局、TVで熱く「絆」などと言っている人たちも、所詮、自分達に関わらない範囲で協力するというリップサービスにしか過ぎない。そうした日本人の意地悪な性格を、この高田の松原跡地に展開する構図が語っている。

釜石。少し高台にある新日鉄の威容は、やはり凄い。全く被災していない。震災後、新日鉄釜石事業所は、総発電能力の半分近くの20万キロW近くを東北電力に提供した。これは岩手県の家庭電力需要の40%近くになると言う。つまり、新日鉄釜石が総力を出せば岩手県の全家庭の電力需要を賄えることになる。日本の製鉄会社とは凄い実力があるものだ。さらに、この釜石市の特徴は市街地の建物の殆どが鉄骨で作られていることだ。さすが、新日鉄がお膝元にあるせいか、市民は鉄骨で住宅や店舗を作っていた。こうした鉄骨住宅の骨組みが津波の後にも多数無事に残っている。1階が津波に壊されたまま、2階で暮らしている家が沢山ある。釜石だけで見られる大きな特徴である。

最後の大槌は一番悲惨な被害を受けた町だ。大津波は大槌の町役場だけでなく指揮をとっていた町長の命までも飲み込んでしまった。しかし、木造プレハブで作られた仮設町役場は活気があった。建物が小さいだけに全てが凝縮されている。よく大きい政府とか小さい政府とか言うが大槌町は明らかに小さい町役場である。でも、行政とは本来、こういうものではないかとも思った。ホテルのロビーのような豪華な役場の玄関の方が異常ではないか?と、そう思うのは私だけではないだろう。しかし、この何もかも津波に流された大槌町で、しっかり残ったものがあった。大槌湾にぽっかり浮かぶ小さな島、蓬莱島である。ひょっこりひょうたん島のモデルと言われる、この島は、島の上にある社のようなものまで、しっかり残っている。

釜石では、コンクリートの巨大な防波堤が無残に壊されて、バラバラになって横たわっているのに、大槌町の、この小さな社を載せた小さな可愛い島は、しっかり、そして、しなやかに津波の力に耐えて残っている。どういう街づくりをするか、各地の被災状況をじっくり観察して考えるのも重要だと思うし、何よりも、どうしたいか?という住民の気持ちが一番大事であることは言うまでもない。

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