未曾有の大災害である東北関東大震災の復旧に際して、関東大震災で壊滅的打撃を受けた東京市の復興に粉骨砕身した後藤新平に再び登場してもらえないだろうかという熱い期待が各方面で上がっている。さて、どうして、今、後藤新平なのだろうか? そのユニークな発想と有り余るほどの才能を持ちながら、あと一歩のところで総理大臣には成れなかった後藤新平。「ほらふき」、「大風呂敷」、「中二階」との悪評もありながら、何故、今、後藤新平なのだろうか?
後藤が、総理大臣になれなかったのは、長く院政を敷いていた西園寺公望に迎合しなかったからだとか、薩長が大勢を占める当時の支配階級の中で、後藤が東北の賊軍の支配下の生まれだからだとか、同郷で一つ違いの平民宰相、原敬から妙な牽制をされたからだとか、いろいろな理由を言われるのは、後藤が総理大臣になっても全くおかしくない華麗な経歴と輝かしい功績を残して来たからでもある。
後藤新平は、岩手県奥州市(旧水沢市)の生まれで、今回の大災害の被災地の大半を占める東北地方が誇る日本の巨星でもあった。そして、水沢と言えば、小沢元民主党代表の地元でもある。昨年、私が講演のため盛岡を訪れたときに、「もし小沢元代表が総理大臣になっていたら、岩手県は山口県(長州)と同じ数の総理大臣を輩出したことで、ともに総理大臣輩出者数日本一の栄誉に輝いたはずだ」というのである。だとすれば、後藤新平と小沢一郎が共に総理大臣になっていれば、岩手県は山口県を抜いて日本一となっていたのかも知れない。明治維新で賊軍というハンディキャップを背負っての、この岩手県の健闘ぶりは、東北には綺羅星のような人材がいかに豊富に居るかという証でもあろう。
ちなみに、後藤新平の経歴を羅列すると、次のようになる。1857 岩手県水沢市生まれ、1875 福島県須賀川医学校卒、1879 愛知病院長、1892 内務省衛生局長、1898 台湾総督府民生局長、1906 満鉄総裁、1908 逓信大臣、鉄道院総裁、1916 内務大臣、1918 外務大臣、1920 東京市長、1923 4月に東京市長を辞職後、9月1日関東大震災が起こる。翌9月2日に内務大臣に就任。9月29日には内務大臣のまま帝都復興院総裁を兼務。10月には、後藤の復興案が否決。12月に内閣総辞職。1924 東京放送局(現NHK)初代総裁と言った具合である。この経歴をよく眺めてみると、これは、いわゆる政争に明け暮れる「政治家」の経歴ではない。その仕事の内容は、医師、衛生管理、都市設計、鉄道設計と、まさに高度なテクノクラートの経歴である。
もう一つ、この年表を見て判ることは、関東大震災が起きた当時の山本権兵衛総理大臣は、地震発生の翌日に、東京市長を辞職した後藤新平を震災復興のための総責任者として内務大臣に任命している。まさに電光石火の早さである。そして同じ9月中に東京市の復興専任組織である帝都復興院を創設し、後藤新平を内務大臣兼務のまま初代総裁に就任させている。中央の権力を保持させたまま、東京市復興の現場監督をやらせているのだ。
さて、この未曾有の大災害の復興に際して、内務大臣から外務大臣まで内閣の要職を勤め上げて、一度は政界の花道から退いた後藤新平に、なぜ山本総理は全権を委嘱したのだろうか? それは台湾総督府において後藤が行った都市設計・産業振興の功績である。
欧米の列強は、日本が台湾を植民地にしたものの、永年鎖国を続けた結果として熱帯特有の伝染病に対して免疫を持たない日本人が台湾に上陸した途端に、コレラや赤痢でバタバタと死に、たちまち日本に逃げ帰るだろうと考えていた。ところが後藤が台湾に赴任して最初に行ったことは、日本から派遣されていた法学士の官僚を全て日本に帰還させたことだった。代わりに台湾総督府の役人を医師、建築士、土木技師、機械技師、電気技師と言ったテクノクラートへと総入れ替えを行った。そして、後藤自身、医師であり、衛生局長だった知見を活かして、首都台北に当時の東京を凌ぐ高度な上下水道を完備した。
そして、台湾で後藤が行ったことは都市設計だけではなかった、サトウキビの増産施策と現地での精糖工場の建設だった。その結果、台湾は日本の植民地の中でも群を抜く豊かで清潔な地域となった。後藤は、この功績を買われて日本では未経験の広軌の満州鉄道建設を任される。また、そこでも大成功を収めて初代鉄道院総裁として日本国内の鉄道建設をも任されるのである。
その後藤が、なぜ東京市再建の途中で失脚したのか?である。後藤の東京再建計画は壮大なもので、総工費は、当時の日本の国家予算にも匹敵するものだったという。後藤は、東京に世界の首都で初めて環状道路を建設する計画を立てた。それが、現在の環状1号線から8号線までの道路である。しかし、現在に至るまでに後藤の計画どおりに最後まで完成したのは環状7号線だけである。後藤の考えに一番共鳴していた昭和天皇は、「もし東京が後藤の計画どおりに作られていたら、東京大空襲で、あれだけの多くの犠牲者を出さずに済んだ。」と大変残念がられたそうである。
そんな素晴らしい計画が、なぜ頓挫したかである。総工費がかかりすぎたのか? だから「大風呂敷」とか、「ほらふき」と言う悪評が浴びせられたのだろうか? 私は、そうは思わない。後藤は、東京を全く新しい都市に作り変えるために、個人の私権を制限しようとしていたのだった。つまり、欧米並みに個人に土地の所有権を認めない、つまり使用権に留めることを画策していたらしいのだ。これで、既得権を持つ人々の顰蹙を買い失脚させられたのだと思われる。これで、東京は世界に類をみない近代都市に生まれ変わる機会を阻害された。この教訓は、これから東北関東大震災の復興計画に活かしていかなければならないだろう。後藤新平 待望論は、そこまで含んでの期待があるのかも知れない。