2011年2月16日、IBM製の人工知能(AI)コンピュータである、「ワトソン君」は Sonyが制作したアメリカの人気クイズ番組,「Jeopardy!」において、このクイズ番組で、76週連続勝ち抜いたグランドチャンピオン二人をぶっちぎりで打ちのめした。まさに、IBM創立100周年を飾るに相応しい快挙であり、世界中がAIコンピュータの新たな歴史が始まったことを感じた。私も富士通に入社してからパターン認識という分野で17年間も仕事をしてきたなかで、人工知能(AI)の勉強も一通りはしてきたつもりであるが、それだけに、このIBMの快挙には感動せざるを得なかった。特に、正解するときはともかくも、間違えるときの間違え方が、何とも愛らしい不思議な間違え方をする。そこに、また、機械とは違う生身の人間らしいものを感じてしまうからこそ「凄い!」と思ったわけである。
そして、このIBMが成し遂げた奇跡の”ワトソン”プロジェクトを書いたスティーブン・ベイカー著 「人工知能はクイズ王の夢を見る」を読んで、またまた、別な意味で感動してしまった。常に謙虚さを失わないIBMは、このワトソン君を「人工知能マシン」とは位置づけていない。彼らは、「質問回答マシン」と呼んでいたのだ。世界のIT業界をリードするIBMは「人工知能」と呼べるものは、まだまだ遠いレベルにあることを十分に心得ていた。
1997年、IBM製スーパーコンピュータ「ビッグブルー」がチェスの世界チャンピオンを破った。この「ビッグブルー」が、現在のIBM製スーパーコンピュータの主流となる「ブルージーン」の基礎となった。そして、今回のワトソン君の開発においてIBMが目指したものは、スーパーコンピュータの高速処理能力ではなくて、その潜在的な力を、いかに人間の思考能力に近づけられるかという人工知能の分野の開発に賭けたのだ。2011年のIBM設立100周年記念事業として、創立者「ワトソン」の名を背負ったワトソン君は、IBMに恥をかかせるわけにはいかなかったのだ。
そして、この本に書かれているワトソンプロジェクトの詳細を読むと、2007年から2011年まで足かけ5年間かかった、この奇跡のプロジェクトの困難さと、それを克服したプロジェクトチームの、とんでもない苦労がわかる。やはりコンピュータは人間に遠く及ばないのだ。コンピュータは、未だ暫くの間は全知全能にはなり得ない。この本を読んで、そのことを知って、ふと安心する。
だから、IBMの開発チームは決してワトソン君を全知全能の人工知能マシンに仕立てようなどと最初から思っていない。人気クイズ番組「Jeopardy!」で勝てるための方策を5年間もかかってワトソン君に教え込んだのである。それも 1年前の2010年ですら、過去のJeopardy!の普通のチャンピオンに少し近づいた程度で、グランドチャンピオンには程遠い成績だった。担当者は焦った。このワトソン君はIBM100周年記念事業に泥を塗るのではないかと危惧したわけである。
どうして人間はコンピュータに比べて凄いのか、いくつかの例で説明がされている。その一つに「コンピュータには冗談が通じない」ということだった。 Jeopardy!では、時々、ジョークも質問やヒントの中身に入っているから性質が悪い。そして、人間は明らかに虚構や嘘だとわかる「常識」を備えているがコンピュータにはそれがない。過去100年分に発行された書籍の内で、今でも人気の高い数十万冊をワトソン君の記憶にぶち込んだのは良いが、その中には100年前の医学書も入っていた。なぜ、100年前の医学書に人気があるのかわからないが、そこに書かれている内容は、殆どが、今では真実ではないことが分かっている。人間は、それが真実でないことを知った上で、好んで読んでいるのだ。
次に性質が悪いのは、お伽話や、空想小説である。Jeopardy!には、こういうテーマも質問に出るから、当然、記憶に入れておかなくてはならない。しかし、そこに書かれている内容は真実ではないのだ。人間は、当然、書かれている記述の幾つかはフィクションだと分かって読んでいる。コンピュータには、そうした芸当は出来ない。だから、ワトソン君が間違える時は、常識外れの、とんでもない間違えをする。こうした、多くの課題を克服し、社内での模擬テストを何年間も行ってきた。2年前からは、実際にJeopardy!でチャンピオンをとった人たちと模擬試合を何度も行って学習を重ねてきた。しかし、2011年 2月16日に挑戦をした二人のグランドチャンピオンは、これまでの普通のチャンピオンとは比べ物にならないくらいの、圧倒的な強さを誇っていた。これにぶっつけ本番で、しかも公開番組で挑戦するのだから、IBMの開発チームのリスクは大きかった。
結局、ワトソン君は未曾有のクイズ王達に勝ったのだ。しかも、圧倒的な勝利で勝った。このことは、将来の人間社会に何をもたらすかである。確かに、コンピュータは暫くの間は全知全能からは程遠い。しかし、ある特定な分野で、しかるべき訓練を施せば、その道では世界一と言われるスーパー人間に圧倒的に勝利することができることを証明した。
このワトソン君が勝利した翌日の2011年2月17日のWSJ紙に、「Is Your Job an Endangered Species ?:貴方の仕事は既に絶滅危惧種では?」」という記事が載った。つまり、「テクノロジーが消滅させる職種は高速道路の通行料金徴収員だけではない」と言っている。そして、職業をホワイトカラーとブルーカラーを区別する時代は古いとも言っている。今後は、コンピュータプログラマーやLSIチップの設計、創薬、作曲、画家など新たなものを創り出す「Creators」とサービスを提供する「Servers」に分別されるという。そして、その「Servers」の多くは機械によって代替されていくというのである。そして、さらにショッキングな話は、その絶滅危惧種の職業として、現在高給のエリートと目されている、弁護士、医師、金融トレーダーまでもが入ってくると言うのであるから考えさせられる。