76 震災後六ヶ月を迎えた被災地で (その2)

日和山公園から石巻の海岸一帯を眺めて下に降り、石巻が誇る郷里の漫画家である石ノ森章太郎氏の作品を集めた石ノ森萬画館近くを散策した後、石巻でも最も被害が酷い渡波地区を回ってから、海岸から少し離れた高台の三陸河北新報社を訪問し、河北新報本社の常務も兼任されている西川社長から、お話を伺った。一般的には、新聞社は取材をする側であり、こちらから新聞社に取材を申し込むのは失礼に当たるのに貴重なお時間を割いて快く受け入れて頂いたことに感謝している。

仙台市に本社を持ち、東北地方最大の新聞社である河北新報は、震災に備えて、印刷工場を津波の被害を受けない高台に建設、併せて徹底的な免震化を施すと共に、自家発電装置を装備した完璧な備えを誇っていた。それでも、あの震度7以上とも言われる強烈な揺れで、本社のコンピューター室にあるサーバーは全て倒れてしまった。余震が続いていたこともあり、その日の復旧を断念した。記者が集めた記事は全て事前に提携関係を結んでいた新潟日報社に送り、新潟のサーバを使って編集された版組データを仙台の印刷工場に送り戻し、その日の号外から翌日まで休むことなく新聞の発行ができた。翌日、余震が収まってから倒れたサーバを元に戻したら、全て順調に稼働したので新潟日報社への委託は1日だけで済んだが、まさに危機管理の手本のような見事な連携であった。

しかし、石巻の海岸から少し高台にある三陸河北新報社では、そう、うまくはいかなかった。3階建ての社屋の1階は、半年たった今でも未だに使えないでいる。事務所は全て2階に緊急避難しているありさまだ。ここでは津波の直接被害はなかったが、津波は社屋に隣接する旧北上川を遡り、逆流した遡水が付近一帯を完全に水没させた。三陸河北新報社も1階は全て水没、水は2階まで押しかけて来る勢いだったという。2時46分に地震が起きてから、約40分後に津波の第一波が襲ってきた。そして、津波は合計5回も繰り返し襲来してきたのだという。最後の5回目は、なんと深夜の11時半だというから、実に、地震発生後から8時間以上も住民を恐怖に陥れたのだ。実際に、経験してみて分かったことは、津波の恐ろしさは襲ってくる波よりも、襲った後に海に引いていく引き波だという。前回、3か月前に日和山公園を訪れた時に、日和山の麓に住む古老が言っていたのは、「引き波の時に、何十台もの人が乗ったままの車が、時速50キロくらいの猛スピードで海に運ばれていった。何人もの運転者と目が合ったが、どうすることも出来なかった」と話していた。

そして、5波の津波の内の第二波と第三波が一番強く、来る前に2-3百メートルも海が引いて海底が現れ、近くの島まで陸がつながったのが見えたという。それも石巻では地形の影響か、海は後ろに引いたのではなくて左右に引いたので海が割れたように見えたという。まさに、 旧約聖書出エジプト記第14章のいわゆる「葦の海の奇跡」のようではないか。あの奇跡は。きっと事実だったのだ。 石巻に住んでいた私の曾祖母からも、多分、明治三陸大津波だと思うが、私が小さいときに、「海が轟音を立てて遠くまで引いたので、それを見て皆で高台に逃げた」と語ってくれたのを思い出して、西川社長に話すと、西川さんは、次のように仰った。

「昔はね、この辺の集落の家もまばらで、どこの家からも海が見えたんでしょう。だから、海の様子が自分の目で見えて、津波の前兆である轟音も聞こえたんでしょう。そうすると、自分の判断で逃げることが出来た。しかし、今は、これだけ家やビルが密集すると、もう海は見えない。波の音も聞こえない。大体、すぐそばに海があることを意識しないで生きていける。そのことが、被害を大きくしてしまったということもあるでしょうね。」と仰った。つまり、西川さんは、人々と自然の距離が遠くなってしまったことで、自然を恐れなくなった、それがまた被害を大きくしたと言っている。

そして苦渋の顔で、この三陸河北新報社の失敗を語る。この失敗は、三陸地区の多くの建造物で同じように経験した失敗でもある。その一つは、非常時に使う自家発電装置を1階に設置したことだ。また非常用に停電した時でも通話できる48Vの直流電力線を兼ねる昔ながらのアナログ専用回線も特別に敷いていたが、その交換機も一階に設置してあった。つまり、多くの非常用設備は全て1階に設置してあったのだ。いずれも、相当の重量物なので、屋上に設置するには建物の強度を強くしなくてはならないからだ。そして、北上川から溢れ出た水は一階部分の非常用施設を全て水没させ機能出来なくしてしまったのだ。この教訓は非常に意味がある。まさに福島第一原発と同じミスが三陸地区のあちこちで起きていたのだ。

そして、固定電話回線が使えないとなれば携帯電話が頼りだが、これがまた、地震直後は全てサービスが止まってしまった。そして信じられないことが起きた。一番最初に繋がったのはウイルコム、それからAU、ドコモは一番遅く1日半かかってようやく復旧したからだ。災害に対する携帯キャリアの耐力は事業規模の大きさは必ずしも比例しなかった。そして三陸河北新報社では駐車していた車も全て冠水して動かなくなった。ただ1台だけ出張取材していた女性記者の軽自動車だけが生き残り、その車のバッテリーで繋がっている携帯電話を充電しながら記事を送り続けたのだという。

今も、全国の地方紙から津波の取材がひっきりなしにやってくる。こうした記者達に、必ず案内する場所が、近くの女川町立病院だという。海岸から見上げる山の上にそびえ立つ病院の一階は津波で壊され、病院玄関前の高台に駐車していた車は全て海へ持ち去られたからだ。病院の駐車場からかなり下の眼下に見える海岸。海沿いの敷地に建っていた3階建ての鉄筋コンクリートのビルが津波で押し倒されて横転しているのが見える。訪れた記者たちは絶句して息を飲む。そして、「この高さまで逃げても助からないんですか?」と驚いて帰る。この女川町立病院の惨状を見てからは、「これからは高台に住めば良い」など安易には発言もできなくなる。

そして、私は村井宮城県知事の漁業権を巡る発言に関して西川社長と、相当に突っ込んだ議論をした。最後は、ノルウェーの漁業資源保護の話まで行ったところで西川さんが私に言った。「ノルウェーの漁民が豊かなのは多額の補助金ですよ。ノルウェー政府は、漁民に大型の船を購入させて長い間漁に出れば報奨金を出すんです。漁民に沿岸警備をさせているんですね。ロシアの船が安易に領海に入って来れないようにです。そんな知識は三陸の漁民なら誰でも知っています。アメリカだって、欧州だって、先進国の農業や水産業は補助金なしでは成立しません。しかし、補助金を貰う側の漁民に、どういう役割を担わせて、国民から納得性を持たせるか、それが「政治」ですよ。」と述べられた。それを聞いた私はぐうの音も出ず、全く反論も出来なかった。

コメントは受け付けていません。