2012年、トロント大学のヒントン教授が発見した深層学習アルゴリズムによって、長らく暗黒の歴史を続けてきた「AI」が一気に飛躍する「AIビッグバン」を迎えた。この年、アメリカ各地を訪問した私は、これまで暗い表情しか見せなかったAI研究者達が、皆、明るい顔で未来を力強く語ることに正直驚いた。彼らは、ヒントン先生が長年の研究成果として2012年に発表した逆誤差伝播法(バックプロパゲーション)を使って、これまでの課題に対して大きな成果を出しつつあった。まずは画像認識から始まって囲碁など複雑なゲームにまでAIが大きな力を発揮するようになっていった。さらに、こうした「AIを教育に応用したらどうなるか?」という命題に挑戦している人たちが居た。
この年、私が訪れたスタンフォード大学の教授達は、「今後AIが大学教育を大きく変えるはずだ」と言っていた。彼らは、現在のアメリカの大学教育制度に大きな危機感を持っていた。アメリカの一流大学の殆どは私立で授業料は年々高額となり、今では寄宿料を含めると年額7万ドル(1,000万円)にも上がっている。子ども達に、こんなに高い授業料を払える家庭は限られており、アメリカ人の大学進学率は女子で40%、男子で30%と、先進国の中では極めて低い。一方、海外からの留学生の比率は年々高まるばかりである。大学を経営する側から見ると、インドや中国の富裕層の子供達に極めて高額の寄付金を納入させ、ゆるい試験で、どんどん入学させた方が大学はさらに儲かるからだ。
スタンフォード大学もアメリカでは超一流のレベルであるが、教授達はもっと高いレベルのアメリカ人学生が大量に修学できる仕組みが必要だと考えていた。そのためには、学費の低廉化が必要だが、これを実現するために「AI」を教師にすれば一度に大量の学生を教えることができると考えていた。アメリカの大学での教え方は日本と異なり、生徒が能動的に学習に参加し、グループディスカッションやプレゼンテーションなどを通して、思考力や問題解決能力を養うことを目的としたアクティブ・ラーニング形式で行われている。それでも、今や「生成AI」は、このアクティブ・ラーニングに適した学習システムを大学に提供することが出来るようになった。
そして、「生成AI」は、大学という高度な教育システムを変えることが出来るだけでなく、「大学」という「高等教育システム」そのものを再考させる大きなインパクトを与え始めている。福沢諭吉は、その著書「学問のススメ」の中で「役にたつ学問を学べ」と述べている。いくら高度な知識を得ても、「役立たない学問を学んでいたら高い給料は稼げない」と言っている。一方で、戦後、慶應義塾大学塾長を務めた小泉信三氏は「すぐ役立つ人間は、すぐに役に立たなくなる」という名言を残している。つまり「今、役に立たないと思える学問でもいつか役に立つことがあるかも知れない」と言っているのだ。しかし、「生成AI」は世の中のすべての知識を身につけているので、もはや、知識そのものを単に大量に覚える勉強が、それだけで何の役に立つのかという疑問が出てくるだろう。
2020年以降およそ3年間続いたコロナ禍を経て、アメリカでは「大量離職時代(Great Resignation)」の到来という時代に突入した。2021年11月に自主的に退職・離職した人の数が過去最高の450万人を記録し、2023年3月には、さらに記録を更新するなど毎月400万人以上の高水準が続いている。当初は、定年制度がないアメリカでベビーブーム世代の人たちがコロナ禍でリモートワークなど働き方を変えた経験を経て一旦離職した後に、もう元の職場に復職しなかったからだと言われていた。しかし、実際には、このコロナ禍でアメリカでは単にリモートワークという働き方を変えただけでなく、「生成AI」による仕事のやり方を抜本的に見直す流れが各所で加速したのである。
この結果、アメリカにおける高学歴中間層の多くが「生成AI」によって職を追われたのではないかと言われている。2024年に行われたアメリカの大統領選挙においてトランプ候補は、従来民主党の支持基盤だった工場労働者層にターゲットを絞った選挙戦を戦い成功した。一方で、民主党のカマラ・ハリス候補は、工場労働者層というよりむしろ中間層に焦点を絞った選挙戦を行ったわけだが、実は、この中間層がコロナ禍後の「生成AI」によって工場労働者層以上に大きな打撃を受けていた。これも、多分ハリス氏が大統領選に敗れた理由の一つになったのかも知れない。アメリカのIT進化は、日本で進展したキャシュレス化以上に、「生成AI」を本格的に利用する労働変革として進んでいた。
さて、こうした「生成AI」利用の動きは今でも進行し続けている。高学歴を必要していた多くの職業が、この「生成AI」に代替させられつつある。むしろ、「生成AI」を「うまく使える技術」が必要とされている。こうした新しい分野の技術は、これまでの大学教育の中で教えられていたものではない。その結果、GoogleやMeta、MicrosoftといったIT企業や、アクセンチュアというような大手コンサル企業では、入社試験を受けるための要件として4年制大学を卒業している資格を絶対に必須とは言わなくなった。大学を卒業していなくても「生成AI」を使いこなせる人間なら十分役に立つ社員になれるというわけなのだろう。
最近の「生成AI」と雇用をめぐるアメリカのテック業界のTOPの発言を紹介しよう。Amazonのアンディ・ジャジーCEOは「AIエージェントは時間のかかる多くの作業を自動化する。そのため、数年で管理部門の従業員数が大幅に減るだろう」と。Metaのマーク・ザッカーバーグCEOは、「2026年にはプログラム開発作業の半分が人間ではなく「AI」が負うだろう」と。そして、また、最近注目されているAI企業であるアンソロピックのダリオ・アモディCEOは、「5年以内にホワイトカラー雇用の半分が「AI」になり、高学歴者の失業率は20%にまで高まるだろう」と、三人の高名なテック企業のCEO達が揃って同じことを言っている。
つまり、「生成AI」や「AIエージェント」の出現によって、今後、「役に立つ学問」が、これまでの常識で「役たつと思われていた学問」とは異なる分野、あるいは異なる手法の技術を学ぶ必要に迫られている。このことは、これまでの教育手法や勉強のやり方を見直すことを私たちに迫っている。現在、欧米では「STEM教育: Science Technology Engineering Mathematics」という理系教育を重要視する傾向にある。当然のことと思われるだろうが、STEM習得人数が最も多いのはアメリカである。英国教育省も一般の大学へ行くことよりも、初等中等教育期間に、このSTEM教育を履修することの方がより重要だという新たな教育方針を打ち出している。まさに世界中が、福沢諭吉翁の「学問のすすめ」で述べられた指針通りに「何が役にたつ学問か?」を問うようになった。
加えて、最近のAI教育者たちは子ども達に「多くの知識を持つより、多くの疑問を持て」と訴えている。疑問さえ持てば、「生成AI」は、その疑問に何でも答えてくれるからだ。こうした問題意識は、学校だけでなく役所でも企業でも同じである。現状に何の疑問も持たなければ、何の改善案も出てこない。現在のシステムが、「何かおかしいのではないか?」と疑問を持つことが一番大事な最初の出発点となる。そして、「生成AI」が答えた解答に対して、さらに本質的な質問を加えていけば、そこで、どんどん議論が深まって本来あるべき真相に近づいていく。こうした活動を日常的に深めていくことによって、企業はさらに生産性を増して、社会はさらに効率性が高まっていくのだろう。