326 光り輝く女性たちの物語 (2)

今から、考えるとアメリカでの単身赴任3年間は、私の会社人生の大きな転機になった。大赤字だったパソコン販社の立て直しを終えて、なんとか日本に凱旋できたのは本当に幸せだった。私としては、当然、元のパソコンの事業部門に戻るものと信じて疑わなかったからだ。しかし、私の上司は、そんなに甘いことは許さなかった。

「お前がアメリカに行っている間に、パソコン事業はなんとか目処がついたから、今度は携帯電話事業を立て直せ!」と言われて、私は携帯電話事業の担当となった。携帯電話事業は、もともと通信機事業部門にあったが、どうにも採算が合わないので、コンピューター部門に移管された。それは、ちょうど、パソコン事業が半導体事業部門からコンピューター部門に移管されたのと全く同じ経緯であった。

私が、携帯電話事業部門に赴任する前に、既に、営業、購買、生産、開発のそれぞれの部署のヘッドに多くの部門から精鋭が送り込まれていた。いわば、私は、最後の詰め駒のようなものだった。通信事業部門が、携帯電話事業を断念した最大の理由は、3GをサポートするLSI開発を行うエンジニアの手当が全くつかなかったことにあった。当時、3Gのチップを自前で開発できる力を持っている携帯電話機メーカーは、世界中で5社ほどもなかったと思われる。

それでコンピューター部門の中で、特に優秀な回路設計者を選び出して、半導体部門の回路設計技術者と混成チームを結成し、3Gチップの開発にあたっていた。それでも、開発は難航を極め、万が一失敗した時のための保険として他社との提携を模索せざるをえなかった。しかし、国内最右翼のNECが最大の競争相手である富士通と提携することなど全く考えられないので、海外メーカー、特にヨーロッパ地域のノキア、シーメンス、アルカテル、サジェムなどと提携交渉を進める必要があった。

しかし、携帯電話事業は、これまで NTTドコモとしか商売をしてこなかったので、英語を流暢に話せる、あるいは英語の文書を自在に作れる人材が全くいなかった。すでに多くの精鋭が送り込まれている携帯電話事業に、あえて、私が参加させられた意味は、アメリカで苦労して蓄えてきた英語能力にあったのかもしれない。そして、前置きが長くなったが、私の他に、英語能力の強化の意味で携帯電話事業部門に中途入社してきたのが、これから紹介する、「光り輝く女性たち」の仲間の一人である志村裕子さんだった。

裕子さんと、私は、ほぼ同時期に携帯電話機事業に参加した、いわば同期の桜である。ただ、英語能力については、裕子さんの方が、私よりダントツに高い。言い訳にはなるが、私は、たった3年間仕事の合間に個人教授について英語を習っただけであるが、裕子さんは日本の大学を卒業後、米国西海岸のサンノゼやロサンゼルスの大学で学び、ハワイのIT企業で働いた経験を持っている。

ここで補足しておかないといけないのは、裕子さんは車椅子がないと移動できない障碍者であることだ。富士通への途中入社も障碍者枠で採用されている。そして、携帯電話機事業の開発センターは武蔵中原の富士通川崎工場にあり、車で通勤している裕子さんの実家は、勤務地である川崎工場から1キロほどしか離れていなかった。裕子さんが、勤務先として富士通を選んだ理由の一つに、実家から最も近い職場ということもあっただろう。

3Gチップの開発は苦戦したが、結局、富士通は、どこにも頼らず自前で開発することに成功した。その間に、私が提携を模索していたアルカテルもシーメンスも携帯電話機事業からは撤退してしまった。そうした中で、私も、携帯電話機事業の担当から、サーバまで含む、さらに広範囲な製品事業全体を任されるようになった。挙げ句の果ては、海外事業を任されて、川崎工場から汐留の本社へ移っていった。ここで、私は志村裕子さんとは全く疎遠になることになる。

再び、私が、裕子さんに再会できたのは、私が富士通を退任して富士通総研に移ってからだ。私が、川崎工場で講演をした時に、聴衆の中に裕子さんを見つけることができた。とても懐かしく思えて、講演が終わった後で、二人で会食をする約束を取り付けた。しかし、車椅子の方と一緒に会食などしたことがないので、お店の選択は裕子さんにお任せした。裕子さんが選んだのは、鷺沼のとうふ屋うかいであった。この店には、なんと車椅子専用の個室があった。

この、とうふ屋さんで、私は裕子さんの壮絶な人生を、初めて聞かせて頂くことになった。まさに、興奮に包まれて身体が震えるような凄い話だった。もともと裕子さんは健常者として何不自由ない幸せな生活を日本の大学を卒業するまで送っていた。裕子さんは大学を優秀な成績で卒業されて、大学が提携しているアメリカの大学との交換留学生に選ばれた。アメリカの大学は、日本のように楽に卒業できるようなことは全くなく、山ほどある本を読まないとできない宿題に追われる毎日である。

その晩も、負けず嫌いの裕子さんは、夜中遅くまで、パソコンに向かって宿題をこなしていた。しかし、ようやく苦労したレポートが出来上がったところで、パソコンがクラッシュして壊れたのである。多分、アメリカの大学は、パソコンが壊れたなどという理由で、レポート提出を免除してくれるほど甘くはないのだろう。裕子さんは、仕方がないので明け方までかかり、手書きでレポートを完成させたのだった。一睡もせずに、何とかレポートを完成させて、車に乗って大学まで行く途中、睡魔に襲われた裕子さんは自らが重傷を負う深刻な事故を起こしてしまった。

一命は取り留めたものの、裕子さんは、一生車椅子が離せない生活を強いられることになった。ロサンゼルスの病院で手術を受けた後、その病院でリハビリを行ったが、医師からはさらに長期のリハビリが必要と言われ、米国での大学生活を継続することを断念し、日本に帰国してリハビリを継続することになった。しかし、当時の日本はアメリカに比べてリハビリ治療も遅れており、裕子さんは再度米国に渡って世界最先端のリハビリ治療を継続することになる。

長期間のリハビリ治療を終えた裕子さんは、バリアーフリー・インフラが整った米国で働くことを考えて、ハワイのIT企業に就職する。当初、裕子さんは、ハワイで人生を全うすることまで考えていたらしい。しかし、実家の母親が突然、病に倒れて、裕子さんは看病のために、日本に帰国せざるをえなくなった。しかし、お母さんは、裕子さんの懸命の看病の甲斐もなく、亡くなってしまう。それを機に、日本で自立した生活をしたいと裕子さんは考えた。そして、これまでのキャリアが活かせる職場が、実家に近い、富士通で見つかったというわけである。

これだけでも震えるほどの興奮が呼び起こされる話なのに、裕子さんは、さらにショックな話を私にされた。これは、既に、裕子さん自身がFacebookにカミングアウトされているので、ここで書いても構わないと思うが、この時、裕子さんは、がんの病魔に冒され治療を始めていると告白された。私も、がん患者としての経験があるので、それだけで狼狽えたりはしないが、神様は、この女性に、なんと次々と大きな試練を与えられるのだろうか?と思った。それでも、初めて会食する相手に、ここまで率直に人生を話してくれることは、私にはとても嬉しかった。

豆腐屋に来た時には、私が先に着いていたので、裕子さんが、どのように車から降りてきたのか、わからなかったが、帰りは見送りに行ったので裕子さんが、車に乗る様子を身近に見ることができた。裕子さんは、BMWのスポーツカーに乗っている。この選択は、決して趣味の問題ではない。小柄で華奢な裕子さんが車椅子で乗るには、この車しかないのだという。2ドアなので、運転席のドアを開けると後部座席が半分ほど空いた状態になる。車椅子から運転席に移動した、裕子さんは、車椅子を片手で掴むと後部座席に放り投げるのである。見ていて感動するほどの見事な所作である。

それから1年ほど経った後だろうか。毎回、二人だけで会うわけにもいかないので、裕子さんと私の秘書と3人で玉川高島屋にあるレストランで、また会食をした。もちろんレストランの選択は、駐車場にゆとりがあって、車椅子で入りやすいという基準である。この会食は、裕子さんに、病魔に勝って元気になってもらおうと励ます意味合いがあった。しかし、私たちの心配をよそに、裕子さんは、もう十分に元気を取り戻していた。そればかりか、「私、伴侶を見つけたんです」との爆弾発言。ご主人と一緒に撮った花嫁姿の写真を、満面の笑みで、私たちに見せてくれた。

お陰様で、この日は前回とは違って大変楽しい会食となった。この時、私は、まだ車が付いていたので、食事が終わった時に運転手に連絡を取ると、裕子さんは、私の秘書に対して、「すぐ近くだから、私が、ご自宅まで送って差し上げますよ」と誘う。これこそ素晴らしい感動的な光景だった。障碍者が車で健常者を自宅まで送り届けるのである。そう、裕子さんは、自分が障碍者だなどとハナから思っていないのだろう。まさに、裕子さんは「光り輝く女性」の典型である。

最後に、昨日、裕子さんが私に送ってくれたメッセージを、ここで紹介したい。

「私が車椅子の生活者になり、富士通で働く事によって、周りの方の障碍者に対する印象が変わったのであれば、それこそが私の使命であったと本望です。先日、私をケアしてくれたナースが危篤となったためロサンゼルスへ週末に行ってきました。残念ながら彼女は亡くなりましたが、彼女が、この使命を私に語ってくれたことを思い出し、今晩は彼女に心の中で話しかけたいと思います」

コメントは受け付けていません。