生産年齢人口が減少し続ける日本を再生させるために、1億総活躍社会を実現する、特に女性が活躍できる機会を増やしていくという、安部首相が主張する政策を、私は素直に支持したいと思っている。しかし、私が見る限りでは、男性以上に活躍している女性は、もう既に沢山いる。
むしろ、もっと大きな問題は、目の前に活躍している女性がいるのに、それを見てみないふりをする、あるいは過小評価している男性があまりにも多いということである。この活躍している女性たちは、大概の場合、社内の評価よりも社外の評価の方が高い。
近くで見るより、遠くで見る方が光り輝いて見えるというよりも、利害関係がない方が公平に評価できるからに違いない。私が、直接の人事権も待たないからこそ客観的に見ることができる、光り輝いて見える女性たちを、これから何人か紹介していきたい。
最初は富士通の環境本部に勤務する永井千惠さん。入社30年選手だが、どう見ても30代にしか見えないのは、私だけではないだろう。山形県出身の母上が「ミス庄内」だったというのも、なるほどと、うなずける鼻筋の整った美形である。千惠さんは、立教女学院を卒業後、富士通に入社。得意な英語を活かせるよう通信事業本部の海外販売推進部に配属された。当時の富士通の通信部門は、コンピューター部門より遥かにグローバルで、先進国、途上国を含めて全世界にビジネス拠点を持っていた。
千惠さんが勤務する、南武線の武蔵中原駅にある富士通川崎工場は、製品開発部門の総本山で、コンピューター、通信、半導体の3部門で総勢15,000人の開発エンジニアを抱えていた。どこの会社も、皆、そうだと思われるが、富士通も、この3部門は、事業的に独立していて人事交流は全くなかった。だから、コンピューター部門に所属していた私が、同じ敷地にいながら、これまで一度も千惠さんを全く見たことがなかったのも不思議ではない。
2004年、私が、コンピューター部門と通信部門を統合した初めての新たな統合組織の長に就任した時に、千惠さんが、私の前に初めて現れた。その年に北京で開催される中国郵電部主催の展示会に富士通として出展するので、富士通の代表として、現地でVIP対応してほしいという要請だった。
この千惠さんの要請については、快く了解させて頂いたが、その時の千惠さんのファッションには、私もさすがに驚きを隠せなかった。もともと、川崎工場に勤務する社員は男性も女性も地味な作業服を着ているのに、千惠さんは、銀座に本社があるファッション企業の社員を思わせるほどに洗練された装いで私の前に現れたからだ。こんな女性が川崎工場に居たのか?と、私は正直驚いた。
千惠さんからの要請で訪れた北京での展示会で、富士通ブースを訪れる中国政府やキャリア幹部など、言われるままにVIP対応を済ませた私は、スタッフの慰労も含めて、皆と食事会に出かけたのだった。しかし、千惠さんは、男性の上司と中国人の通訳を伴ってブースに居残った。中国政府から19時以降に特別なVIPが視察に来るかもしれないので、電気を落とさないで各ブースで2人ずつ居残ってほしいとの要請を受けたからだ。
しかし、その特別なVIPが一体誰なのか? 本当に来るのか来ないのか? どのブースを見る予定なのか? その詳細は全く知らされていなかった。果たして、やってきたのは、なんと温家宝首相だった。そして、温家宝首相が富士通ブースの前を通りかかった時に、千惠さんは、新宿歌舞伎町のキャッチバーのごとく、富士通ブースに温家宝首相を呼び込んだのである。結果的に、温家宝首相は、大変喜ばれて熱心に見学されたというが、この時のSPとの格闘は大変なものだったと千惠さんは語る。
翌朝、その武勇談を聞かされて、千惠さんは本当に凄いと感動した。もし、千惠さんのような美しい女性でなく、男性が同じことをしていたら、きっとSPに撲殺されていたかも知れないからだ。しかし、北京から日本に帰国してから、千惠さんは、突然、しかも長期間に渡って、私の前から姿を消してしまったのである。後から聞けば、2年半ほどもの間、大病を患って第一線から退き自宅療養に専念していたのだった。
そして、2009年、私は海外事業の総責任者として、川崎工場から汐留にある富士通本社に移っていた。そこへ、突然、大病を乗り越えて、すっかり元気になって輝きを取り戻した千惠さんが私の部屋にやってきた。私は、あまりに嬉しくて思わず千惠さんをハグして迎えてしまった。今度の千惠さんの要請は、3年に一度ジュネーブで開かれるITU(国際電気通信連合)主催のテレコム会議に出席してほしいということだった。そして、開会式のオープニングリマークス(3分間)と会場で流すビデオメッセージ(5分間)を準備して欲しいという。
こういうこともあろうかと、3年間の米国駐在期間に英語スピーチの特訓を受けてきたのだからと快く千惠さんの要請を受けた。メッセージの英文は、アメリカ生まれで、アメリカ育ちの富士通ワシントン事務所長にチェックし修正してもらった。日本人が書いた英語原稿は、とても読みづらいが、ネイティブが作った英文は、洗練されていて、ところどころで韻を踏んでいるので、発音していて、とても心地よい。
千惠さんに導かれて、生まれて初めてジュネーブで開催されるITUテレコム会議に出席した。一生懸命暗記し練習したせいか、前日に録画するビデオメッセージは、一発でOKが出た。その後で、千惠さんの案内で、ITU本部にいるマリ共和国出身のツーレ事務総局長に会いに行った。驚いたのは、千惠さんと、マリ共和国の大統領候補とも言われている超大物のツーレ氏とは旧知の仲のように大変親しい間柄なのだ。そして、ツーレ事務総局長からは「明日の開会式は大変だが、よろしく」と頼まれた。その時は、一体、何が大変なのだろうと思ったのが、翌日には、それがわかる。
そして、いよいよ開会式が行われる会場に入って驚いた。世界110か国から、5万人以上が参加するというテレコムの開会式には、既に7,000人もの人々が一堂に集まっている。そこで、最初にツーレ事務総局長が開会の挨拶をした後で、壇上に5つの椅子が用意された。メーカーは、富士通の私とノキアシーメンスのCEO、キャリアは、AT&Tとフランステレコム、チャイナモバイルの3社のCEOが椅子に座って順番にスピーチを行うのである。何で、日本人の、富士通の、しかも私が、ここに居るのか?という違和感があったが、ここでジタバタしても仕方がないと覚悟を決めて覚えてきたオープニングリマークスを一気にまくしたてた。
そして、広大な展示会場にセットされた多数のTVモニターでは、録画された私のビデオメッセージが定期的に流されている。そう、この一大国際イベントで突然、私は、有名なスターになったようであった。それにしても、ITUが主催するテレコム会議で私がオープンニングリマークスを行うということに対して大きな違和感を感じたのは、私だけではなかったようだ。
ジュネーブから日本に帰国する際に空港のラウンジで、当時のNTTドコモの山田社長からは、「どうして、伊東さんがオープンニングリマークスをすることになったの?」と聞かれたのである。山田社長の疑問は、全くごもっともである。これこそが、きっと、千惠さんが富士通のプレゼンス拡大のために事前に仕組んだ努力の結果に違いないと私は思った。千惠さんは目的を遂げるためにはITUの事務総局長までも仲間に引き入れてしまう。しなやかに、そして、したたかに目的を着実に遂げていく底知れない力が光り輝く女性には生まれながらにして備わっている。
こうして国連傘下のITUで多くの実績を残した永井千惠さんは、通信事業本部から環境本部に移動してからもITUと深く関わった活躍を続けている。昨年、千惠さんは、ハンガリーのブタペストで開かれたITU設立150周年記念式典に富士通を代表して出席した。地球環境保護にはIoTの利活用が絶対に必要と、千惠さん自身で総務省を説得し、総務省の要請で富士通をITU設立150周年記念会議に参加させたという、千惠さんの凄まじい執念が実ったためである。
同じ富士通の中でも千惠さん以上に、会社のプレゼンス拡大のために積極的に強い意志を持って海外で仕事をしている男性を私は知らない。これからも、ずっと元気に世界を股にかけて活躍してほしいと、私は千惠さんにエールを送り続けるつもりである。