300 あれから4年 石巻・女川(その2)

震災前を超える勢いで元気に稼働する、日本製紙石巻工場の勇姿を見届けてから、石巻市の隣町、女川町へ向かった。震災から3ヶ月経った2011年6月に、石巻市にある三陸河北新報社を訪れた時、「全国から、この石巻へ大震災の被害状況を視察に来られた記者さんを、必ず連れて行くのが隣町の女川町立病院です。こんな所まで津波の被害に会うのですか?と皆様、驚かれます。」と教えて頂いてから、私の女川町への訪問が始まった。

女川町は、海岸以外の全ての周囲境界を町村合併で拡大した石巻市に囲まれている。女川町が石巻市と合併しなかった理由は、もちろん原発立地自治体として豊かな財政に恵まれているからに他ならない。今回の大震災にも耐えて、女川原発は何の支障もなく運転停止出来たということで、女川町では、原発再稼働賛成の住民が多数派であると聞いている。東北電力との信頼関係も揺らいでいないのは、やはり原発の運営主体が、地元の電力会社であることにも関係しているのかも知れない。

石巻市から女川町への境界を越えると、多数の建設機械が忙しく嵩上げ工事とおぼしき作業を行っている。この女川町は、原発のおかげで、三陸地方の中では財政が一番豊かであり、震災復興における最優秀の優等生と言われているが、それでも、見た目には、何が完成したというわけでもなく、今、まさに工事の真っただ中という感じである。つまり、詳細な復興計画が決められず、未だ着手さえもできていない市町村が沢山あるということだろう。

急な坂道を登り詰めると、高台にある女川町立病院前の駐車場に出た。100台ほどの車が入る駐車場は、ほぼ満杯であった。あの大震災による津波が、標高20メートル近くある、海岸からは見上げるような、この高台の病院の1階を水没させたとは、改めて見ても全く信じがたい。当然、病院玄関前にある、この駐車場に停められていた車は全て津波の引き潮によってフェンスを乗り越えて崖を転がり落ちて海まで流されたのだ。

修復された駐車場境界のフェンスから崖の真下にある海岸沿いの街を見下ろすと、確かにこの女川町立病院が建っている場所は、目もくらむような高さである。こんな高さでも大津波に対しては、決して安全な場所とは言えないのだと、ただただ茫然とする。この日は、崖の中腹にある踊り場で、数人の若い方々が、お花を供えて海に向かって合掌をされていた。そして、その下の街を見ると、あの有名な鉄筋コンクリート3階建ての横転ビルは、既に解体され撤去されていた。合計6棟の横転ビルがあった海岸通りの街は、奇麗に片付けられ、今、まさに嵩上げ工事の真っ最中であった。そう、まさに土地改良工事の真っ最中で、街が元通りになって人が住めるようになったわけでは全くない。

病院と駐車場の間に建てられた薬局を含む仮設商店街は今でも健在であった。病院から少し離れた場所にある、仮設商店街、「きぼうのかね商店街」にも訪れてみたが、ここも、3年前と同様に、今でも健在である。この仮設商店街が健在ということは、多くの商店が、未だに、仮設のままでの商売を強いられているということでもある。

女川を後にして、今回の主目的である、石巻市主催の東日本大震災合同追悼式に出席するため、石巻市営河北総合センターに向かった。石巻市の中心市街地からは、ずいぶん遠い所だと思ったら、河北総合センターは、市町村合併で併合する前の河北町中心地区の大型イベント施設だった。一昨年は仙台市の追悼式、昨年は大船渡市の追悼式に出席し、今年は、石巻市の追悼式への参列が出来ることになった。石巻市は、私の母方の祖母の生まれ故郷であり、私の身体には、きっと石巻の血が流れている。

追悼式の行事の中で私が注目していたのは、遺族代表の佐藤さんの式辞だった。先週、NHKの震災特集で佐藤さんが出演されるのを偶然見ることになった。佐藤さんは、私と同じ67歳。今は、仮設住宅で一人暮らし。毎日、妻と孫二人の遺影を抱いて寝ている、佐藤さんは、一時、何もする気がしない中で、鬱々と暮らしていた。それではいけないと、今は、浜で海産物の加工を手伝っている。その佐藤さんが、今年は、遺族代表で式辞を読むことになった。妻と孫二人のお墓の前で、佐藤さんは何度も式辞の原稿を読むのだが、途中で涙に咽び、読めなくなって中断せざるを得なかった。

しかし、本番では、一度も嗚咽で中断することなく、佐藤さんは一気に読み上げた。この式辞で初めて聞いたことだが、あの日、佐藤さんは90歳になるお父上と80歳後半の母上と家に居た。地震が余りに大きな揺れだったので、近くの海岸に確かめに行ったら、水位が少しずつ下がっている。すぐさま、自宅に戻り、身体が不自由な父親を背負い、母親の手を引いて高台に避難する。思うように、目的地まで進めない中、津波は足下から水かさを上げて行く。それでも、何とか高台の避難所に両親共々辿り着くことができた。そして佐藤さんは、その高台から、ご自宅が海へ流されていくのを見た。

津波が引いた後、ご両親は東京に住む弟さんに引き取ってもらい、佐藤さんは家族の探索に歩き回った。まず、佐藤さんが、最初に見つけたのは、お孫さん、二人の遺体だった。二人とも、家の瓦礫の中で見つかったが、何も傷ついていない本当に奇麗な姿だった。二人の遺体を、一緒に荼毘に付す時、佐藤さんは例えようもない空しさに襲われたという。それから、1週間後、遺体安置所で奥様が見つかった。佐藤さんが、嗚咽もせず、一気に読み進む中、私を含む聴衆は、皆、涙が止まらなかった。街の復興も思うように進まない中、被災された人々の心も、未だ、癒される状況ではない。

石巻市主催の合同追悼式を終えると、辺りは、夕闇に包まれていた。仙台に戻る前に、私は、何としても、震災後に石巻で知り合った大事な友人達を訪れなくてはならなかった。石巻市水明北にある開北小学校に隣接する仮設住宅の中に2棟のプレハブ事務所がある。一つは、かつて天皇陛下の侍医も務められた武藤真祐先生が在宅医療の拠点として開設された「祐ホームクリニック石巻」で、もう一つは石巻市民病院に隣接する大きな薬局を経営されていた丹野佳朗先生が、武藤先生と二人三脚で石巻での在宅医療をサポートする「石巻医薬品センター薬局」である。

この日は、大変ラッキーなことに、武藤先生、丹野先生のお二人とも、それぞれの事務所におられて、久しぶりに、貴重なお話ができた。武藤先生は、現在、次世代の高齢者医療のあり方というテーマで厚労省での委員会に頻繁に出席されているほか、最近はシンガポールの大学でも、この高齢者医療のテーマで教鞭をとられている。一方、丹野先生は、大災害時における薬局の役割について、薬局の事業継続というテーマで全国を講演行脚されている。そうした多忙な生活を送られている、お二人の先生と同時にお会いできるということは稀有の機会であったが、これも4年目の3月11日に石巻に来たからこそだと、この出会いに心から感謝した。

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