299   あれから4年 石巻・女川 (その1)

2015年3月11日の早朝、私は、仙台ワシントンホテルの正面から、あらかじめチャーターしていたハイヤーに乗り込んだ。仙台に泊まる時は、いつも駅前のメトロポリタンホテルか、ウエスティンホテルを定宿としていたが、今回は、両ホテルとも、週末から国連主催の世界防災会議が仙台で開催されることもあって、半年前から予約がフリーズされていた。仙台ワシントンホテルは、完成したばかりの新設のビジネスホテルで設備は新しく、とても奇麗な客室であった。

それと、私は、ワシントンホテルに対しては、尋常ならぬ恩があった。4年前の2011年3月11日午後2時46分、青森で講演をしている最中に、それは起きた。その時、私は、最初、酷い目眩がして、もう講演は出来ないと思った。しかし、直に、それは目眩ではなくて、地震だと気がついた。ちょうど良く、マイクを手に持っていたので、「皆さん、講演は、これで終わりです。すぐさま、ホテルの外へ避難して下さい。」と言いながら、聴衆の皆さんと雪が降りしきる外へ出た。

その晩は、関係者揃って、浅虫温泉で宴会を開き、疲れを癒す予定が、とんでもないことになった。当然、浅虫温泉のホテルから、今夜は宿を提供出来ませんと申し渡された。地元、青森の方々も全市が停電となり、他所から来ている旅行者の面倒を見るどころではない。そんな混乱の中で、私を寒さから救って下さったのが、青森ワシントンホテルだった。「全館停電で、何のサービスも出来ませんが、それでよければ、どうぞ、お泊まり下さい」と言って下さったのだ。

石巻に着いて、最初に訪れたのは、石巻市街が見渡せる、日和山公園である。大震災から3ヶ月後の2011年6月に、私は、初めて、この日和山公園を訪れている。その時、日和山公園から見渡した石巻市街は、まるで、絨毯爆撃を受けたかのような惨状だった。北上川の向こう岸には、大きな貨物船が陸上に打ち上げられている。眼下の石巻市立病院も地盤沈下で堀の中に浮かぶ水中城となっていた。すぐさま、一体、下の街はどうなっているのだろうかと急な石段を下っていった。途中の社で、この山の麓に住む老人と出会う。

この老人は、この社の下を,何十台もの車が、海へ流されて行くのを目の前で見たのだと言う。運転席の人々からは、恨めしそうな視線を投げかけられたが、自分は、どうすることも出来なかったと。それでも、泳いでいる人たちを5人ほど助けることができたのだが、それ以上はどうにもならなかった。と口惜しさが顔に滲み出ていた。そんな老人の話を聞きながら、さらに下へ降りて行くと、そこは徹底的に破壊しつくされた家々の残骸だった。

今年の3月11日、日和山公園から見える景色は、4年前とは大きく異なっていた。瓦礫は、全て片付けられ、広大な更地となっていた。そして、水中城となっていた石巻市立病院は既に解体されて、盛り土を積まれ海浜公園となっていた。それでも、その広大な更地には、まだ何も新しい建造物は建っていない。

今回、いちばんショックだったのは、下に降りた後、また、同じ急な階段を登って日和山公園の頂上に戻る時だった。4年前は、何の躊躇もなくスイスイと登れたのに、今回は、ゼーゼー言いながら、途中で息が切れて小休止を取らざるを得なかった。この4年間で、これほどまでも年を取ったのかと深刻に思った。その意味で、高齢者が、この日和山公園へ避難するのは体力的に半端なことではないと実感することができた。

日和山公園を後にして、次に向かったのは北上川中州にある石ノ森萬画館である。この建物は、非常にユニークな形をした、まさに夢見る館である。地元宮城県出身の石ノ森章太郎の漫画作品を展示してある館であるが、川の中州にあるためこのたびの大津波では、その1階が壊滅状態になった。今は、もう全て復旧し、震災前と同じように営業している。しかし、私が、震災直後に、石ノ森萬画館以上に気になったのは同じ中州に建つ小さな教会だった。

今回の大津波で、周囲の壁は無惨にも壊されてしまったが流失だけは免れた、この可愛らしい小さな教会こそ、日本最古の木造建築の教会である旧石巻ハリストス正教会である。既に教会としての役割を終えた、この古い教会は石巻市が建物を買い取って中州に移転したものである。今、一般から寄付を募って再建中であると聞いているが、早く再建されることを望んでいる。

次に向かったのは、火災で焼けただれた門脇小学校である。門脇小学校の裏手は小高い丘になっている。津波から逃れる人たちは車に乗って、皆、この門脇小学校の校庭を目指して走って来た。その車のうちの一台から発火し、津波によって校舎に押し寄せられた多くの車に一斉に火が回った。門脇小学校は、その大量の車火災の延焼で見るも無惨に焼け焦げた。しかし、今回は、その痛ましい姿を晒すことのないよう、白いビニール布で校舎全体が覆われていた。聞けば、この焼け焦げた、門脇小学校を保存するか解体するかで、まだ議論が分かれているという。

その門脇小学校から数百メートル離れた海岸沿いの道路脇に、「がんばろう石巻」と大きく横書きされた献花台がある。この日も、多くの方々が訪れて、花を供えて合掌している。この献花台の左脇に見上げるような高さ約7メトールのポールが立っていて、一番上には「津波はこの高さまで到達した」と書いてある。大津波の恐ろしさをしっかり視覚的に記憶にとどめてもらおうという意図であろう。しかし、一方で、こんな高さで襲って来られて、逃げ後れたら、もうどうにもならないという気もする。

次に向かったのは、日本製紙石巻工場だ。大震災の3ヶ月後、この日本製紙の工場を見た時には、「これは二度と復旧出来ない」と思ったのは私だけではないだろう。工場の全ての建家の一階は、津波で完全に破壊されていた。そして、海岸沿いの埋め立て地にある日本製紙の工場敷地のあちこちで地盤沈下し、深刻な水溜りが出来上がっていた。復旧を目指す工場作業者の方々も、ひたすら海水に浸った巨大なロール紙を一つ一つ転がしながら埠頭に集めているだけだった。

こんな辛い作業を毎日していても、工場が復旧できなければ、どんなに空しいだろうと私には思われた。もし、日本製紙が石巻から撤退すれば、4,000人近い雇用が失われ、日本製紙の城下町である石巻市の再興は、ほぼ絶望的になったであろう。しかし、日本製紙は石巻から撤退しなかった。日本製紙の経営陣は、すぐさま、津波で大きな被害を受けた同じ敷地での復旧計画をまとめ、ほぼ1年後に完全復旧することができた。どうして、こんなことが出来たのだろう。そして、なぜ、日本製紙の経営陣は迷いなく、このような大英断を下したのだろう。

その謎は、後に、佐々涼子さんが著した「紙つなげ!彼らが本の紙を造っている 」に詳しく書かれている。実は、日本製紙の石巻工場には、大震災直前に設置された、世界最大級で、しかも最新鋭の書籍向け紙すき機があった。全長280メートルの巨大な紙すき機の陣容は戦艦大和とほぼ同じ大きさで、この設備への投資額は800億円、東京スカイツリーの建設費540億円より遥かに巨額であった。その上、沿岸にある、この工場からは、想定外の大津波の襲来を受けても、一人の犠牲者も出すことはなかった。それが、同じ敷地で元通り復旧させるという決断をされた大きな理由である。

日本製紙石巻工場の社員達は、経営TOPの素早い決断によって大きな力を得て、懸命の復旧作業に立ち上がった。巨大な紙すき機に装着された数千個ものモーターを、一個一個取り外し、湯煎をして海水を取り除いていった。これは、もの凄いドラマである。この日本製紙の石巻工場が、万が一ストップしたら、日本の出版社は、たちまち本を出せなくなったからである。日本の本を守るためにも、日本製紙石巻工場は、どうしても素早く立ち上がる必要があった。

その日本製紙石巻工場を訪れ、4本の巨大な煙突が白い煙を勢い良く吐いている姿を見るとき、何とも頼もしく思えた。未曾有の大震災の復興に必要なことは、議論ではなく決断である。考えてみれば1,000年に一度の大災害。工場設備は、1,000年間には、一体、何十回更新することだろう。人命がきちんと守られるのであれば、設備更新費用など、実は、大したことはないはずだ。

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