287  久しぶりのロンドン(その3)

英国教育省が考えている、初等中等教育におけるコア教科は、英語、数学と理科の3科目である。後は、なんでも好きなことを学習できるが、このコア3科目だけは絶対に外してはならないと指導している。その考え方の基本には、初等中等教育は高等教育の準備ではなくて、子供が社会で人として生きて行くための基本能力を早い段階からしっかり身につけさせることにある。

全く同じ話を、MITで永年、初等中等教育プロジェクトに関ってきたLarson教授から聞いた。「子供達に数学と理科を教えることは、その子が将来Ph.Dを取るための準備ではない。頭に汗をかいて集中して考える癖をつけるためだ」とLarson教授は説く。人生には、必ず、大ピンチが訪れる。その時に、思考停止し、破滅的な行動をするのではなく、何とか乗り切れる方法はないかと頭に汗をかいて集中して打開策を考え抜くことができる忍耐力が必要だと言うことらしい。

もう一つは、英語と数学と理科をきちんと身につけていれば、大抵の職業に就いても困ることがないという親心もあるだろう。そして、英国では、その数学と理科の2教科を同時に勉強するための手段として、9歳以上の小学生から、コンピューター・プログラミングを教えることが推奨されている。日本で小学校でコンピューター教育と言えば、タブレットやパソコンの使い方を教えることに留まっている。タブレットやパソコンを使いこなせれば大人になってもデジタルデバイドにならなくて済むという親心であろう。しかし、それ以上は求めない。つまり、タブレットやパソコンのソフトが、どのように動いているかまで知る必要がないと言う訳である。

しかし、英国では小学生に、パソコンが、どのように動いているかを知るために、実際にコンピュータ・プログラムを作らせる。この差は、とてつもなく大きい。そして、この学習は単にコンピューターが動くしかけを知るだけでなく、実際にコンピュータを使って、創造的な「ものづくり」を行わせることが出来るための準備でもある。まさに、現代は、コンピュータ、そのものが工作機械なのだ。

しかし、全ての教師がコンピュータプログラムを教えられるわけではない。そこで、英国教育省が音頭をとってCodeclubというNPOが、ボランティアで小学生にコンピュータ・プログラムを教えている。一般的に、日本以外ではプログラムのことをコード(Code)という。つまり、Codeの勉強をするクラブ活動と言う意味である。小学生で、こうしたCode開発の基礎を学んでいるので、中学生になればD&T(デザイン&テクノロジー)という正式な教科の中で、3次元CADを駆使して、ものづくりが出来たりするようになる。日本の初等中等教育におけるIT教育とは恐ろしいほどのレベルの差である。

私たちは、英国の普通の公立小学校で行われているCodeclubの学習風景を見せて頂いた。その授業は、パソコンが20台ほど置かれている教室で行われていた。その日の、生徒の年齢は9歳から11歳までで、Codeclubの活動は正規の授業が終わった午後3時半から5時までの1時間半である。皆、スクラッチと呼ばれるビジュアル言語で、雪だるまと雪合戦をするゲームソフトを作っていた。一応、簡単な作成マニュアルはある。生徒達は、黙々とマニュアルを見ながらコードを書いて行く。早い子もいれば、遅い子もいるが、皆、他人の進捗状況など気にする風もなく、マイペースで行っている。分からない子は、先生をつかまえて指導をしてもらう。

この中に、日本からロンドンに来て、まだ1年しかたたない9歳の女の子を見つけ出した。彼女は、私たちに日本語で、このクラブの概要を丁寧に説明してくれたが、英文のコード作成マニュアルを苦にしている様子は全くなかった。彼女によると、学校の中でも、このクラブに入りたいという子供が多く、抽選で選ばれているのだそうだ。今回、彼女も選ばれて、とても幸せだと言っていた。そう大事なことを言い忘れたが、20人ほどの子供達を教える先生は3人で、既に現役をリタイアしたと思われるシニア達である。たぶん、現役の時はITエンジニアだったのかも知れない。ロンドンも5時となれば、あたりは暗い。子供の帰りを心配する両親が寒空の校庭で、クラブが終わるのを待っていた。

何で、英国では、子供達にプログラミング(コード作成)を教えるのかと不思議に思われるかも知れないが、「コードを書く」という仕事に対する評価が、日本と欧米は決定的に異なっている。日本では、一般的に優秀だと言われているエンジニアが仕様書を書いて、実際のコード作成は賃金が安い外部に依頼することが多い。賃金が安いということは、本当は優秀なエンジニアがやっているかも知れないのだが、優秀だとは認められていないことである。つまり、日本ではコードを書くという仕事は、必ずしも尊敬される対象ではない。

ところが、欧米では、コードを書くという仕事は創造的な仕事として極めて評価が高く、報酬も高い。マイクロソフトでも、オラクルでも、大事なコード開発を絶対に外部に出したりはしない。全て、スーパー・プログラマーと呼ばれる天才的なエンジニア達が自らコードを書いている。彼らは、日本の標準的なプログラマーに比べて20-50倍の高い生産性を持っていると言われている。だから給料も極めて高い。どうして、そんなことが出来るのかと言えば、大事な所しか自分でコードを書かないからだ。あとは、世界中にふんだんに流通しているシェアウエアを各所に流用していくから生産性が極めて高い。

こうしたシェアウエアをうまく使うということが、実は日本人には出来ない芸当である。なぜなら、世界中で流通している、シェアウエアの仕様書は全て英語で書かれているからである。例えば、このCodeclubが普及している場所を示す世界地図を見ると、既に50カ国を遥かに超えているが、日本は全くの空白である。英国教育省が定める、初等中等教育のコア科目が英語と数学、理科を含むコンピュータ・プログラミングということだとするならば、日本の初等中等教育を、これから、どのように改革すべきなのか、私たちは極めて難しい正念場に立たされている。

コメントは受け付けていません。