285   久しぶりのロンドン(その1)

そう、前回ロンドンに来たのは、何年前だろうか? 富士通の海外事業の総責任者として、また欧州、中東、アフリカを含むEMEA総代表として、ロンドンを頻繁に訪れたのは、もう8年ほど前になるかも知れない。毎回、出張目的は、大型プロジェクトの開発遅延や人事問題など緊急のテーマであり、予定外の出張で1−2泊で帰国していたので、ゆっくりロンドン市内の観光などしたことがない。

その後、今から7年前の第一次安倍内閣の時から日本とEUの官民合同会議のメンバーとして頻繁に欧州を訪れているが、ロンドンに来たことは一度もない。EUの本部があるブリュッセルだけでなく、ベルリン、ローマ、パリなど欧州の大陸側の各主要国の首都で会議は開催されてきた。欧州の共通通貨であるユーロの適用地域が、どんどん拡大し、その通貨価値が高まるとともにポンドという独自通貨に固執する英国は、欧州の僻地、あるいは片田舎に没落した感があった。だからこそ、私もロンドンを訪れることもなかったのかも知れない。

しかし、リーマンショックを皮切りに、欧州の経済危機が勃発すると、欧州金融市場は、EU加盟国の、それぞれの国境の中に閉じこもってしまった。それとともに、独自通貨を持つ英国の存在が相対的に高まり、ロンドンは再び欧州金融市場の中心的存在を取り戻した。加えて、英国政府のテクノロジーに立脚した新興企業支援政策が功を奏し、ロンドンは隅々に至るまで活況を呈している。そのロンドンへ、今回は「教育」をテーマに、ヘッジファンドからベンチャー、大学、小学校、NPOと英国教育省を訪問することになった。

今年の4月にも、この「教育」をテーマに、特に大規模オープンオンライン授業(MOOC)を中心として、アメリカの西海岸、東海岸の大学、ファンド、ベンチャー企業を中心に調査に訪れた。英国は、オープンユニバーシティやFuture Learnなど、米国には劣らない規模でMOOCが発達している国でもある。すなわち、この英国の人材育成に関する国策は世界的にみて、最も先進的とも言える。しかし、今回の調査の対象は、そうした大学のような高等教育機関ではなくて、初等中等教育をターゲットとして回ることにした。

今回から、この1週間に及ぶ調査の結果、私が感じたことを忘れないうちにまとめておきたいと思い筆を起こした。まず、最初に、10年ほど前に、このロンドンで創業し、あのリーマンショックを見事に乗り切り、シティの金融界でも多くの尊敬を集めているヘッジファンドの日本人創業者の方から伺った話を紹介したい。この方のことは、多分、日本の金融業界でも相当有名なのだろうと思われるが、その歯に衣を着せぬ大胆な発言を、ここで紹介することによって、万が一、ご迷惑がかかるといけないので、一応匿名のAさんとしておきたい。

Aさんの話は、私に取って逐一納得できることばかりで、その話を聞いてから、英国政府の教育施策を調べてみると、より正確に理解が出来た。まず最初に、Aさんは、今、世界の金融界をリードしているのは、ニューヨークとロンドンであり、欧州の経済危機を発端に、欧州大陸のフランクフルトは完全に、世界をリードする国債金融都市としての地位を失ったと言うのである。その次に、登場する第三の国際金融都市はシンガポールでもムンバイでも上海でもなく、そして残念ながら東京でもなく、香港だろうという。

その理由は、シンガポールもムンバイにも四季がなく、1年中暑い。金融相場は、過去の失敗の教訓を生かすことが重要だが、この失敗の記憶は季節感とともに身体に染み込んだものでなければならない。これが身体に染み付いてないと、何度でも同じ失敗を繰り返すのだという。そして、上海と東京が国際金融都市になれないのは、英語人口が決定的に少ない。世界経済、特に金融の世界は全て英語で動いており、英語が話せない人は、絶対に金融世界では成功しないのだと言う。

Aさん自身も日本の銀行に勤務している時は、全く英語が話せなかったが、英語を習得したことで、人生が大きく変わったという。英語が自在に話せると、ビジネスの世界が、こんなに大きく広がるものかと驚くばかりだったという。こうした自らの貴重な体験を、自分の子供達だけでなく、これから成長する日本の子供達にも、ぜひ味あわせたい。そんな気持ちで、日本の中学生、高校生達を英国で学ばせたいという活動を主たる事業とする会社を傘下に設立された。

さて、Aさんがヘッジファンドとして、主に扱っている対象は日本国債である。その日本国債をトレードするのに、なぜロンドンか?という点が、実は、今日の話の重要なテーマにもなる。それは、人材問題なのだ。Aさんは、トレーダーが50人、プログラマー50人ほどの、それほど多くない社員を抱えて、2兆円近い資産を毎日運用をしている。その仕事場を見せて頂いたが、殆どがインド系である。IQ180以上の優秀な頭脳を持ち、数学、物理学、コンピュータサイエンスを専攻し立派な成績を残した人材でないと金融ビジネスは出来ないのだと言う。もちろん、英語が堪能であることは絶対の必要条件となる。そんな人材は日本では集められない。だから会社はロンドンにある必要があるのだという。

Aさんの話によれば、現代の経済は経済学者がいうほど単純な論理では動いていない。非常に複雑な仕組みで動いているので、いかなる理論も通用しない。経済学は後から検証するのには有用な学問でも、未来を予測するのには全く役に立たないと言う。本当に信用出来るのは、今、動いている数字だけだと言うのである。今、動いている、為替、債券、金利を含む、ありとあらゆる経済指標を解析して、10分後に何が起きる、1時間後には、6時間後には、そして明日には何が起きるかを予測して、売りか?買いか?どちらのポジションを取るかを即座に決めるのだという。だから、Aさん自身も含めて、Aさんの会社の社員は、皆、驚くほどの高給取りではあるが、睡眠時間は1日、3時間を切る人ばかりだという。

世界の金融業界は、そうした過酷な労働環境で動いている。こんなことを日本の東京で毎日やっていたら、マスコミからブラック企業として熾烈な非難を浴びるのは当たり前で、従って東京は世界の金融界をリード出来る都市には間違いなくなれない。世界に冠たる豊かな社会を実現するには、生半可なぬるま湯で生きているのではすまされない。それは、金融の世界だけでなく、ものづくりの世界でも全く同様である。

ロンドンオリンピック以前は、貧民街のスラムで観光客も近づけなかった、イースト・ロンドンが、今や、サンフランシスコを凌ぐばかりのベンチャー企業のメッカになりつつある。クリスマスシーズンということもあるが、今のロンドンは、活況を呈している。一方、日本の東京は、例年、師走で酷く渋滞する首都高速も、今年はガラガラである。「景気が悪いのは、うちの業界だけじゃないですか」と嘯くタクシーの運転手こそ、実は、本当の経済の実態を知っているに違いない。日本は、これからどうすべきなのか、ロンドンから学ぶことは沢山ありそうだ。

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