185 「脱原発」を叫ぶ前に、我々がなすべきことは?

2010年に策定された日本のエネルギー基本計画の根幹は原子力発電であった。原子力発電こそが、環境性(CO2排出)、コスト、自給能力の点で他を圧倒するエネルギー源と見なされたからだ。そして、この2010年以前からも、日本のエネルギー政策は原子力を中心に運営されてきた。そして、それは原子力発電が、日本の高度な技術によって安全性が担保されていると見なされていたからに他ならない。その長期にわたる日本のエネルギー政策を、2011年3月11日に起きた東電福島第一原子力発電所の悲惨な事故によって見直しを迫られているわけだが、ことエネルギー政策に関しては、一気に舵を切れないジレンマがある。

私は、個人的には、日本の経済振興や雇用の安定を考えた時に、さらに安全性を高めると言う前提をおいた上で、原子力発電をそう簡単にやめるわけにはいかないと思っている。それほどに、原子力発電を代替すべき再生可能エネルギーを用いた発電や、火力発電には大きな課題が残されているからだ。確かに、絶対に安全と言われてきた原子力発電で、これだけ大きな事故が起きたと言う現実と、高濃度放射性廃棄物の最終処分の問題が明らかになった以上、この原子力発電をエネルギー政策の基本において、さらに拡大していくという従来のエネルギー政策を根本的に見直す必要があると言う点において、ほぼ国民的なコンセンサスが得られている。しかし、どのようにして、その転換を具体的に進めて行くかについては、殆どのメディアが触れていない。

つまり、総理大臣が「脱原発」と宣言を発することで、その日から原発依存ゼロのエネルギー政策が実行に移されるほど、ことは容易ではない。3.11大震災以降、日本全国の54基の原発が全て停止したが、需要家である企業や国民の努力と、発電事業者の懸命の努力によって大停電という最悪の事態は回避された。これを見て「やればできるじゃないか」と思うのは大間違いである。休止中だった火力が総動員されて何とか辻褄を合わせているのが実態で、そのために石油やLNGを急遽輸入拡大したため、発電コストは急上昇している。こうした負担に、いつまで企業活動や国民生活が耐えられるかわからないし、イランに端を発する中東情勢の緊迫化で、一度、緊急事態が発生すれば、日本のエネルギー供給体制は一気に破綻する。

一方、日本では太陽光発電に関して、脳天気なイリュージョンが未だに払拭されず、日本中に太陽光発電パネルを敷けば、原発は全く要らないような錯覚に陥っている。太陽光発電で先行していたドイツとスペインでは、そのコスト高から政府補助による補填政策が耐えられなくなり、既に、大きな見直しが迫られている。それでも、日本政府は太陽光発電パネルメーカーへの支援の意味もあって手厚い振興策をとってきたが、中国製パネルの価格破壊によって、もはやパネルビジネスそのものが世界中で破綻をきたしている。ドイツの超優良企業であるシーメンスは先日、太陽光発電事業からの撤退を決め、同事業を売却に出した。今や、太陽光発電よりも太陽熱発電の方に世界の注目は移っており、そして、それが採算上も優位に実現出来るのは、アフリカのサハラ砂漠か、中東の砂漠地帯に限られている。

再生可能エネルギーは、太陽光も含めて、風力、地熱、小水力、バイオマスなど、ありとあらゆる可能性を総動員しても、まだ、その不安定性から原子力発電を代替することは無理で、今後とも、火力発電に多くの能力を依存せざるを得ない。そして、電力コストを重要視して考えるなら、やはり火力の主力は石炭である。現在、世界では電力発生の70%が石炭によって起こされている。日本では、石炭火力は最悪のCO2発生源として、近年、全く新設を認められていないが、それは、あくまで原子力発電を基軸に考えていたからに他ならない。仮に、原子力発電への依存を減らすと決めるのであれば、それは即ち石炭火力の復活を意味することにしかならない。そして、最近、三菱重工業が開発したIGCC(石炭ガス化複合発電)のように、LNG並みの少ないCO2発生で、極めて高効率な発電能力を有する石炭火力発電所も実現できるようになっている。これこそ、世界の環境問題を解決する日本の宝となる高度な技術であり、まず日本から普及拡大を図るべき技術だと思われる。

いち早く、「脱原発」を実現するためには、風力、地熱、小水力などの再生可能エネルギー発電や、LNGだけでなく石炭も含めた火力発電等、国を挙げて原子力発電に替わるエネルギー施策を、次々と実行していかなければならない。そして、これらの早期実現を阻んでいる各種規制を速やかに取り除いていかなければならない。そのためには、環境省、経済産業省、国土交通省、総務省、農林省など各関連省庁が相当の覚悟で取り組む必要があるのは確かだが、詳細を突き詰めてみると、一番大きな障害は、霞が関の中央官庁ではなく、こうした新たなエネルギー発生源となる施設を許認可する権限を持つ、地方公共団体にあることがわかる。

例えば、「東京で消費される電力を福島県に依存すべきでない。エネルギーは地産地消として、東京湾にLNG大規模火力発電所を建設しよう」という発想を持つ猪瀬東京都副知事などは、地域の首長としては、全くの例外である。多くの、日本の大都市では、「火力発電所のような環境を汚す設備は大都市に作ってはならない。そんなものは過疎の田舎でやってくれ!」という調子で考えている。具体的に言えば、環境省は115,000KW以下の火力発電所は環境アセスメントを省略できると定めているのに、大都市で同じ数値を条例として定めているのは東京都だけである。横浜市、大阪府、大阪市、神戸市が20,000KW以下、名古屋市、福岡市は50,000KW以下と定めており、「火力発電所は俺たちの近所には簡単には作らせない」と言っている。まさに地域エゴである。

これは火力発電所の建設だけに留まらない。例えば、兵庫県、滋賀県、岡山県では風力発電設備を環境影響評価の重要対象として追加し、1,500KW以上の風力発電設備に対して厳しい環境アセスメントを求めている。今や、風力発電設備は1基でも2,000KWを超えることが常識となっているので、これら3県では、「俺たちの県には、風力発電設備などまかりならぬ」と言っている。一方で、滋賀県知事や兵庫県知事が関西電力大飯原発に反対し、「脱原発」を宣言するなど、言うこと自体に大きな矛盾がある。要は、「何であっても迷惑なものは自分たちの地域には一切作らせない。」という地域エゴである。「それなら兵庫県や岡山県や滋賀県では、もうこれから電気は使わないのか?」と言いたくなる。

最後の例は、私が住んでいる横浜市の例である。今、日本全国には3,000か所以上のごみ焼却炉がある。比較的、小規模なものが多いが、これを600か所に集約して、発電設備付きのごみ焼却炉に転換すれば、何と総電力発生量600万KWにもなる。これは原子力発電所6基分に相当する。しかも、ごみ焼却炉は24時間運転なので、太陽光発電や風力発電のようにお日様任せ、風任せのような不安定なものではない。極めて安定した電力である。そして、横浜市は、最新鋭の発電設備を有した大型ごみ焼却炉が2基もあるが、その能力を最大限発揮していない。なぜか?

ごみ問題の専門家を自称する、中田前市長が徹底したごみの分別回収を始めたからである。実際、私の地区では月曜と金曜日が生ごみ回収で、これは市の清掃車が回収する。プラスティックは火曜日、瓶とペットボトルは木曜日で、これは再生業者が別に回収していく。もう既にお気づきだと思うが、発電設備付きごみ焼却炉は、生ごみとプラスティックや紙など一括して収集されたゴミを高温で燃やすことで初めて実現できる。せっかく最新鋭の発電設備付きごみ焼却炉を有している横浜市は分別収集しているがゆえに、その能力が活かせないのだ。いや、活かせないどころではない。生ごみだけだと、良く燃えないので、初期燃焼に重油を追加して燃やしている。何という不見識な、やりかただろうか。プラスティックは重油以上に良く燃える最も過激な燃焼物である。

いや、横浜市のごみ分別収集方式は、原発がきちんと十分に安定した電力を安価に供給してくれる時代には、それで良かった。プラスティックを再生する方が、環境に優しかったかも知れない。実際、2000年に私が住んで居たカルフォルニア州では、大停電を起こすほどの電力パニックになってから、ごみ収集を、これまでの分別収集から一括収集に変えた。プラスティックを含む全てのごみを同時に燃やして発電するためである。日本の環境活動家は、先ほどの太陽光発電と言い、欧米のトレンドから一歩遅れている。ごみの専門家であった中田市長のやり方は、もはや世界では通用しない。

さて、地域主権が叫ばれる中、本当に、国に代わって地域の首長が実権を握ると世の中はよくなるのだろうか? 自分の所には、煙を出す発電所の建設はだめだ。大規模な発電機能付きごみ焼却炉はだめだ。放射能廃棄物処分場は、自分の近所には絶対に作らせない。こういう地域エゴが充満するなかで、国の繁栄は維持できるのだろうか? 大都市の住民が使う電力は、その住民が出すごみの発電で少しでも賄うべきである。やっかいなもの、汚いものは、過疎の村に追いやればよい。皆が、勝手に、そう考えていたら、国の経済は成り立たない。「脱原発」を目指すのであれば、それぞれの地域が、せめて自分が必要とするエネルギーを確保するだけの、一定の環境負荷を負う覚悟が必要である。殆ど環境負荷をもたらさないように見える太陽光発電のような綺麗ごとだけ頑張っていても、「脱原発」は、いつまでもたっても実現しない。

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