172  千住真理子さんの講演「音に命を宿す」

先日、私は千住真理子さんの講演を聴く機会を得た。私の妻は千住さんの大ファンで、絶対に一言も漏らさず聴いてくるようにと、お願いされたので、私は、その覚悟で、一生懸命に千住さんの講演を聴かせて頂いた。

さて、私の妻は、小さいころからバイオリンやバレー、フィギュアスケートと、いろいろなお稽古事をしてきたようである。戦後間もない頃としては、珍しく恵まれた境遇だったらしい。それも、マッカーサーが農地解放を命ずるまでの、ほんの僅かな期間だったようで、農地解放で田畑を全て召し上げられた後は、財産も全てスッカラカンになり、決して豊かとは言えない普通の公務員の家庭へと没落した。

その実家の没落のせいか、本人が才能に恵まれなかったせいか、妻のバイオリンは全くものには、ならなかったのだという。もちろん、私は妻がバイオリンを弾くのを一度も聞いたことがない。しかし、同じ故郷で、同じように元紅花商人の家に生まれた堀米ゆず子さんは、世界的なバイオリニストになられた。同じく妻が郷土のヒロインとして尊敬している堀米ゆず子さんの演奏を、彼女が参加しているチャリティーコンサート「子供に音楽を」で、私も何度も聴かせて頂いている。先日も、ドイツのフランクフルトで堀米さんが愛器を税関当局に没収された記事を読んで、あまりにも理不尽だと、私は一人で憤慨しまくっている。

そして、やはり血は争えないもので、妻が挑戦してダメだったバイオリンを孫娘が始めることになった。本人がどうしてもやりたいと言い出したのは、幼稚園に上がる前の2歳の頃だったろうか? しかし、バイオリンの先生は、こんなに分別のない子がバイオリンを習うなど全く無理だと相手にしてくれない。暫の間は、ティッシュの箱をバイオリンに見立てて、弾く真似だけをしていなさいと言われて、哀れなことに、孫娘は本気でティッシュの箱を相手に暫くの間、弾く真似だけをし続けたのだった。

その努力が実ってか、3歳になったころから、小さなバイオリンを借りて習い始めることになった。しかし、世の中は、いつも、そうはうまくは行かないもので、孫娘のマンションから300m位離れた場所に、ある有名私立大学の横浜小学校が出来ると言う話になった。しかも、孫娘が小学校に上がる、その年に開校だというのである。そんなうまい話があるのなら、挑戦しないのは勿体ないということになったのだろうか。孫娘が大好きだったバイオリンはそっちのけにして、いわゆる「お受験」を始めさせられたのだった。結局、その大学はリーマンショックに端を発する金融恐慌で巨額の損失を出し、横浜小学校は開設延期となり、孫娘が、そこを受験するという話は幻のように消え去った。

それでも子供は既にその気になっているので、行きがかり上、「お受験」を途中で止めるわけにはいかず、結局、別な大学の付属小学校に入学することになった。もう大学まで、受験勉強をする必要もないというので、また大好きなバイオリンを再開することになったのだが、同じ、バイオリン教室の同級生は、もう既に、孫娘より、遥かに上達していたのだった。「お受験」で失ったものは、孫娘にとって非常に大きかったのである。

そんな孫娘が「くやしい」ばっかりで一念発起して頑張ったせいか、先日、国際ジュニア音楽コンクールバイオリン部門の小学校低学年の部で第二位に入選した。私も、初めて、第一次予選、第二次予選、本選と上がる過程で、高名な先生から個別に特訓を受ける様子を少し見せて頂いた。これが、凄い。当たり前のことだが、もはや音符通り弾いて居れば良いと言うものではない。先生が、模範演奏を見せて、「はい、このように弾いて」と言われて、直ぐに、それを真似して、その場で弾くのである。「よしよし、それで良い」と先生は仰るのだが、私たちは、何が「それでよい」のかさっぱりわからない。これはもはや単なるお稽古事では済まないと思った。

しかも、孫娘の行くはずの大学は、音大ではなく普通の大学である。「これは、この先は尋常な事では続かないな」と妻も私も直感した。しかし、それを見事に成し遂げた方が居る。それが千住真理子さんだ。千住さんは、小学校から大学まで慶応で過ごされて世界的に有名なバイオリニストなられた方である。だからこそ、妻が、私に一言も漏らさず聴いてこいと言った理由が、そこにあった。

千住さんの講演の題名は「音に命を宿す」であった。そして、千住さんは愛器「デュランティ」を持参されて講演会場に入られた。「デュランティ」はストラディヴァリが製作して、すぐにローマ教皇クレメンス14世に献上されたという名器で、千住さんが購入されるまで300年間、誰も弾いたことがなかったという希代の品である。それを講演会場に持参された千住さんは、講演の前に、その愛機「デュランティ」でG線上のアリアを弾いて下さった。もうこれだけでも、今日の講演は十分価値があると私は思った。

千住さんのお父様は数学者で、お母様は化学者で、その先祖も医者の家系で、音楽家は一人も居なかったのだという。それが、なぜ、バイオリンをやることになったかと言えば、一緒に暮らしていたお祖父さまが、留学先のドイツに向かう船の中で、あのノーベル物理学賞受賞者、アインシュタイン博士に出会ったことが原因だというのである。博士はバイオリンの名手でもあり、毎晩、甲板で奏でる、そのバイオリンの調べを、千住さんのお祖父さまは日本に帰国後も忘れることができなかったのだという。それで、ぜひ、孫にはバイオリンを習わせたいと、そう思われたのだと言う。

それで、千住さんは鷲見三郎先生と言う、当時では日本一の先生に師事して、バイオリンを習うわけだが、なにしろ、同じ教室の仲間たちは、両親ともプロの音楽家という家庭ばかりで、千住さんは、少しも上達することはできなかった。そこで、千住さんは、数学者の、お父上に、「どうしたら、うまくなれるのか?」と尋ねると、お父上は、「円グラフと折れ線グラフを書けばよい」と教えて下さって、円グラフには、一日の練習予定表を、折れ線グラフには練習時間の記録を付けるように教えて下さった。

折れ線グラフには、目標とする一日4時間のところに赤い線が引かれて、練習時間の記録はストップウオッチを使って測るように命じられたのだと言う。千住さんは、お父上に言われたとおり、毎日4時間以上の猛練習を続けた結果、小学校4年生以上がエントリーできる、毎日新聞社主催、NHK協賛の全国小学校音楽コンクール、バイオリンの部門にて、小学校4年生で2位、翌年、小学校5年生で1位を取られたのだ。

5年生で小学校の頂点を極められた千住さんは、もう目標が無くなったので、主催者であるNHKの誘いもあり12歳と言う若さでプロデビューされた。まさに天才少女である。いくらお父上の言われたとおり猛練習したからといって、練習時間だけで、誰しも日本一に成れるものではない。しかし、千住さんからしてみれば、「自分は決して天才ではない。こんなに血のにじむような努力をしたからこそ出来たことであって、決して自分は天才ではない」と思われたのだ。

プロデビューした天才少女、千住真理子は、当時、日本一のバイオリニストと言われていた江藤俊哉先生に、毎週2日、1日、2時間半の特訓を受け、ますます、天才少女の名を世に高めることとなった。もはや、マスコミの寵児となった。それでも千住さんは「自分は、決して天才少女ではない。しかし、どうしたら、天才少女のように振る舞えるのだろうか?」と自問自答されて悩まれる。悩んだ末に、音大系ではない、普通の高校生活、大学生活の中で、1日、10時間から14時間に至る信じられない猛練習を続けられた。

大学3年生の20歳になった時に、あまりの猛練習で、いよいよ全身の筋肉も動かなくなり、体も疲労困憊すると、良い演奏が出来なくなった。そうすると、今度は、音楽評論家から「堕落した天才少女」と酷評され罵られることとなった。千住さんは、そこで「音楽とはなんだろう?」という本質的な問題にぶち当たる。「音楽は、本当に人に感動を与えられるものなのだろうか?」「自分は決して天才ではない、だから努力する。しかし、どんなに努力しても、ずっと天才のように振る舞い続けられはしない。」という挫折感に陥り、生きている価値をも見いだせなくなった。そして、バイオリニストであることを辞めた。

2年間、大好きなバイオリンを弾くことを断った千住さんは、悶々として悩み、数週間の間、無意識の世界を彷徨うこともあった。そんな千住さんを復活させる、きっかけとなったのが、ホスピスでの末期がん患者さんからの演奏依頼だった。患者さんの依頼曲はエルガー作曲「愛のあいさつ」だった。折角の患者さんの希望なので、千住さんは、うろ覚えで「愛のあいさつ」を弾かれたのだが、その時は、うまく弾けなかったのだという。しかし、その患者さんは、目を赤くして涙一杯浮かべて「生きていて良かった」と感謝の言葉を千住さんに述べられたそうだ。

千住さんは、そこで、「音楽は、人を感動させる力があるのだ」と初めて知った。しかし、千住さんからしてみれば、決して満足な演奏ではなかったのだ。そして、その翌週、その患者さんは亡くなられて、もう一度、良く練習して、「愛のあいさつ」を聞かせてあげたいという千住さんの希望は叶えられなかった。それ以来、千住さんは、いつも「一期一会」と思って弾くのだと言う。聴衆は、その時しか聴けないかも知れない、自分も、その時しか弾けないかも知れない。だから、精一杯、この一度限りの演奏を弾くのだと言って、また愛器「デュランティ」を取り出して、講演会場で「愛のあいさつ」を弾いて下さった。そう、この曲は、何と私の息子が自分の結婚式で、自らのチェロで弾いた曲だった。もちろん、私の息子は単に趣味でチェロを弾くだけのシステムエンジニアである。

それ以来、千住さんは、ホスピスだけでなく、孤児院や老人養護施設でボランティアをされながら、傷ついた自身の心を癒していく。千住さんは、「ボランティア活動は、自分が、癒す立場でなくて、癒される立場だった」と振り返る。こうして、プロの道に再び復帰された千住さんは、横浜の自宅で、あの3月11日東日本大震災を経験された。そして、千住さんは、今、被災地を回られて、子供を失った母親や、家族を失って一人になった老人のためにバイオリンの演奏をして回っている。

その方たちは、必ずしも、クラシック音楽の素養がある方たちばかりではない。それでも、涙を流して、体を揺らしながら一生懸命聴いて下さる聴衆のために、千住さんは、まさに演題にあるように「音に命を宿す」ように、弾くのだと言う。「人に感動を与える。これこそが、音楽ではないのか」と千住さんは、悟ったのだという。華やかなステージで拍手喝采を浴び、天才少女のように振る舞っていた自分が弾いていた音楽は、「本当の音楽ではなかった」とそう思われたそうだ。そして、千住さんが最後に演奏された曲は、いつも被災者の方々に演奏するアヴェ・マリアだった。

この話を帰ってから私は妻にした。妻は「本当に、良い話を聴いてきてくれた。」と私に礼を言った。特に、千住さんが、バイオリニストを辞めると決心し、お母さんに、その気持ちを述べたときに、千住さんのお母様は、千住さんと一緒に、わあわあ泣きながら、「ごめんね。もう真理子はバイオリニストを辞めて良いのよ!私は、音楽の事を何も知らなかった。だから、貴女の輝かしい十代を奪ってしまったのね。そして、貴女を、そこまで、追い詰めるまで、何も知らずに貴女を放りっぱなしにしていたのね。」と言われた話に、妻は、たいそう感動した。千住さんの講演「音に命を宿す」。孫娘の将来のために、本当に良い話を聞いた。

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