幼い頃に犬の散歩をしていた平塚の海岸までは、家から歩いて20分くらいの距離だった。いつも波静かな相模湾は左手に江ノ島、右手には伊豆半島の奥に富士山が見えるうっとりするような景色だ。そして正面の水平線の沖合には大島の影がうっすらと見えた。「あの島影の向こう側に、私が憧れるアメリカがある。いつかアメリカへ行ってみたい」と子供の時からずっと思っていた。その憧れのアメリカへ単身赴任したのが1998年4月である。日本がバブル崩壊した直後で、バブル時代には考えられなかった超円安で、1ドル145円だった。それが今は160円にもなっているのだから全く信じられない。親から借りた500万円も、新車を買っただけで全てなくなった。なにしろ、公共交通機関が殆どないアメリカでは車がないと全く移動できないから必須品である。
当時のアメリカの大統領はクリントンで、毎日テレビで放映されていたのはモニカ・ルインスキー嬢との不倫問題で弾劾裁判をかけるかどうかの議論ばかりだった。結果的には、上院の弾劾裁判では有罪評決に必要な2/3には達せず、クリントン大統領は、かろうじて大統領罷免を免れた。しかし、クリントン大統領は、このルインスキー事件の進展にタイミングを合わせてアフガニスタンへの爆撃を行い、「スキャンダルから目をそらせるための爆撃だ」と批判された。このアフガニスタン爆撃が、クリントンが大統領を退任した後年2001年9月11日にニューヨークで起きた同時多発テロの引き金になったのかも知れないと言われている。もし、そうした因果関係が正しいとすれば「私が憧れていたアメリカ」とは一体、なんだったのだろうと考えてしまった。
私がアメリカに憧れていた最大の理由は、アメリカという社会が「一生懸命努力すれば誰でも夢を叶えられる可能性が世界一高い」ということだ。これは、アメリカ社会の評価基準が公平で、誰にでも挑戦の機会が与えられるという歴史的事実だった。そのため、世界中から優秀な人材がアメリカを目指してやってきた。そして、彼らが興した新しいイノベーションがアメリカをさらに豊かにしていった。こうした好循環は世界中の誰にも真似できない新しい仕組みをアメリカに作り上げていく。しかし、その好循環が、逆にアメリカの新たな弱点を作っていった。その一つは、かつて世界を圧倒していたアメリカの製造業がすっかり衰退してしまったことにある。当時、私が買い物に行く街の日用品売り場では、殆ど100%が「Made in China」になっていた。
もう一つは、アメリカの製造品質劣化である。毎朝、車で通勤すると路肩に故障で止まっている真新しい車を発見することが度々あった。そして、その殆どがアメリカ車である。私の職場でも、多くの同僚がドイツ車か日本車に乗っていた。たまにアメリカ車を購入する従業員がいると「あいつ、最近は金に困っているのだな」と変な邪推を招くことになった。それだけ、人々がアメリカの製造業に対して、その品質を信頼していないことを示している。そして20世紀はもうすぐ終わりを迎えようとしていた。そう、21世紀に入るとアメリカは深刻な製造業の衰退期を迎えることになった。IT産業も、ハードウエアは台湾、ソフトウエアはインドにアウトソーシングしており、アメリカで研究開発された新製品がアメリカ国内で製造されることは殆どなくなっていった。
1990年にデジタル時代を迎えたアメリカはGDPを飛躍的に増加させていった。この30年間に幾何級数的なGDPの増加を得たアメリカは、デジタル技術によって、エネルギー消費量や二酸化炭素消費量を殆ど増加させないで飛躍的なGDP成長を実現したのだ。アメリカが、こうした理想的な成長を実現できたのも、デジタル技術で需要を超えた過剰な生産を抑制し、最適な物流システムを構築したからである。しかし、その素晴らしい実態は、アメリカの製造業の衰退という不都合な真実を隠していた。この30年間のアメリカの飛躍的な成長はデジタル産業と金融事業という二つの産業の発展が大きく貢献しており、中国など海外への依存度を益々増大させた自国の製造業は次々と撤退を決めていた。むしろ、製造を海外に依存するという「オフショア」というトレンドは、世界を代表する超大国で技術先進国のアメリカが進むべき方向と合致しているとして賞賛されたのだ。
こうした30年間という時間は、かつてアメリカの消費社会を支えていた中間層を没落させた。しかし、現代アメリカを支えているデジタル産業や金融業は、製造業のように多数の労働者を必要としない。しかも、この間にアメリカを発展させた「高給労働者」は、「極めて優秀な理系の高学歴者」に限定されていった。この人たちの多くは、夢を持ってアメリカに渡ってきた移民で、彼らの出身地はインド、東欧、マレーシアやベトナム、フィリピンなどの出身者だった。現在、アメリカの出身国別平均所得のランキングで上位に見られるのは、こうした地域の出身者である。まさに、白人やヒスパニックでアメリカ生まれのアメリカ人の平均所得は、こうした移民出身者よりも遥かに下位に属している。かつて多くの移民たちが作り上げた自由の国に住むアメリカ生まれのアメリカ人が、激しく移民排斥運動を支持する原点はここにある。
一方、トランプ大統領の登場を支えた選挙区は伝統あるアメリカの製造業が衰退した(ラストベルト:アメリカ中西部地域、大西洋岸中部地域)である。この地区で、かつて工場の職長を務めていた白人やヒスパニックたちは、次々と職を失い家族を養う収入が得られないために妻から離婚を迫られた。トランプ大統領の麻薬排斥運動は、こうした人々が薬物の魅力に誘引されて街を彷徨う状況をなんとかしたいとしたいという願望から来ているのだ。そのためトランプ大統領は、アメリカの製造業をダメにしたのは自由貿易であり、その復活には、関税の導入しかないと考えた。しかし、それは極めて短絡的な政策であり、これでアメリカの製造業が将来にわたり徐々に復活していくとは私には全く思えない。
しかし、これまでのアメリカの長い歴史を見ると、本来、こうした製造業の労働者を支援していたのは「民主党」だった。そして、東部のエリート達を代表するのが保守を標榜する「共和党」だったはずだ。しかし、いつの間にか「民主党」は中間層を代表するアメリカの新興エリートに支持される中で、一方で困窮する労働者たちの支持を失っていった。そして、今やトランプ大統領が叫ぶ「MAGA : Make America Great Again」こそが、良い職を見つけられないアメリカ貧困労働者達の心の支えになっている。そう、考えるとトランプ大統領は、そうしたアメリカの窮状を民主党のエリート達以上に敏感に感じていることは間違いない。つまりトランプ大統領のアンテナは民主党よりも優れていると言える。ただ彼には、その状況を是正するための正しい対策がわからないだけなのだ。
アメリカの多くの有権者達も、トランプ大統領を支持すれば、「偉大なアメリカ社会」を再興できると信じることができないとわかり始めてきた。しかし、一方で、彼らがトランプ大統領を離れて民主党に近づくかと言えば、そう簡単な時代ではなくなってきている。つまり、民主党の堅固な支持基盤であり、現代のアメリカの繁栄を支えてきた2大セクターである「デジタル産業」と「金融業」さえもが、今後のアメリカの労働市場を支える主役ではなくなりつつあるからだ。その背後にある「悪役」が、「AI産業」である。アメリカを恐怖に陥れた「コロナ禍」が、なんとか終息を見せた2022年から4年間、アメリカ経済を支えてきた「マグニフィセント・セブン」と呼ばれている7社(マイクロソフト、アップル、エヌビィデア、アルファベット、アマゾン、メタ、テスラ)の従業員が全く増えていない。
もちろん、この7社は現在もそして将来も「AI産業」を支える主要7社でもあり、この4年間に多数の「AI研究者」を採用していることは間違いない。しかし、そうした採用者と同数分の「一般プログラマー」や「管理業務に携わる従業員」を解雇しているのだ。一方、アメリカを支えてきた金融業も同様である。金融業は今後とも、アメリカ経済を支える主要業種であることは間違いない。しかし、多くの人々が理解しているように、今日、彼らが取引する巨額の投資を瞬時に判断する能力はもはや人間を遥かに超えている。それを効率的に実現できるのは「AI」にしかできない。そして、これまで、アメリカ社会のデジタル技術を支えてきたのは、多数のインド出身のプログラマーだった。その証拠に「マグニフィセント・セブン」と称される7社のCEOだけでなく、デジタル前世代の覇者IBMのCEOまでがインド人である。
こうした状況も、これから大きく変わるだろうと私には思われる。現在、アメリカで活躍する一流の「AI研究者」の分布で、最も多い38%が中国生まれの中国人である。次に37%がアメリカ生まれのアメリカ人だ。一方で、インド生まれのインド人は7%、欧州生まれの欧州人が6%となっている。こうした状況はアメリカにとって脅威ではあるが、幸いなことに現在のところ中国からアメリカに渡ってきた中国人は、中国には帰りたくないと言っている。しかし、今後、アメリカ政府が中国から来た人々に圧力をかけるとか、あるいは中国からアメリカへ移住することを排除するような施策を取り、アメリカが中国人から見て憧れの国でなくなった場合、少なくとも「AI産業」の分野でアメリカの優位性は中国に劣るという危機に晒されることも覚悟しなければならない。アメリカが、将来ともに、やる気のある世界の人々から「行ってみたい」という憧れの国であり続けるために、どのような国であらねばならないのか極めて重要なことである。
この記事を書いている最中の6月12日、史上最強のAIソフトであるアンソロピック社の「Claude Mythos 5」と、その一般企業向け「Claude Fable 5」を、米国政府は安全保障上の理由で外国人の利用を止めるよう指示しただけでなく、開発主体であるアンソロピック社内部においても同ソフトを外国人社員が取り扱うことを禁止した。これを受けてアンソロピック社は、同ソフトの一般企業への提供を中止した。このため、多くのデジタル関連企業で大きな混乱が起きている。ネット社会の進展の中で、金融取引の安全性を確保するという意味で「Claude Mythos」の存在は世界中の多くの人々の期待を集めていた。しかし、これまで技術開発に対して広く門戸を開いてきた米国政府が、米国内外の「外国人」をその対象外としたことは、もはやアメリカが「世界中の人々が憧れる世界」であり続けることを断念した証なのかも知れない。