2025年12月1日付の今回の投稿は通算500回目となる。この投稿を始めたキッカケは2011年3月11日の起きた東日本大震災だった。1000年に一度と言われる、この大災害は私にとっても極めて大きなショックだった。この当日のまさに地震が起きた午後2時46分、私は青森で講演の最中だった。異常な揺れに気がついたので、握っているマイクで聴衆に向かって「皆さま、すぐさまビルの外に出て避難してください!」と大声で叫んだ。この地震が起きる2−3日前から、東北地方北部の太平洋岸で何度か地震が起きていた。それにしても、こんなに大きな地震が起きるとは夢にも思わなかった。この日は、講演が終わった後、関係者の皆と浅虫温泉で慰労会を開く予定だったが、この大地震のため温泉旅館から、その日の宴会も宿泊も断られた。
それでも富士通の青森支店長の配慮で、代わりのビジネスホテルを手配してもらい二日間宿泊することができた。また、東北新幹線が運行中止となったため、地震発生直後から青森空港から羽田行きの便は、暫くの期間は全て予約済みとなった。しかし、青森市内から三沢空港まではかなりの距離もあり、地震直後からガソリンスタンドが長い列となり、どの車も長距離運行が厳しくなったので青森から三沢空港までのタクシーの手配が困難となった。その結果として、私は三沢空港から東京行きの便が取れたのだ。当日、青森支店長車を手配してもらって、そのお陰で何とか私は三沢空港まで行くことができた。
当時、私はJALの役員の方に知り合いが居て、何とか青森空港からの羽田便を取ってもらおうとしたのだが、その方が言うには、三沢空港は米軍が管理しているので、こうした非常時には三沢空港の方が青森空港より安全度が高いと言う。さらに、この方の言によれば、今後、アメリカからの支援部隊は全て三沢空港経由で日本に派遣されるだろうとのことだった。三沢空港に着くと、近隣各地から避難してきた人々が大勢集まっていた。待合室で聞いた話の中で、大阪から八戸に出張中で空港まで避難してきた方々が「レンタカーを返さないで、そのまま避難したので何とか命が助かった」、「もしレンタカーをお店まで返していたら、私たちは津波に呑まれていたかも知れなかった」と言うのである。
これだけの大災害が起きた日本では、この後、本当に「天変地異の事態」が次々と起こることになる。こうした未曾有の経験の中で、私のような者でも、いろいろ考えた事を後世に少しでも残しておく価値が何かあるだろうと考えて、このブログ「千秋日記」を立ち上げた。震度6の青森で、この大震災を自身で体験したと言うことと、関東大震災の翌年に東京で生まれた私の母の生誕戸籍が、宮城県石巻市にあることが、東北各地の被災地を自分の目で見て回りたいと思う直接のきっかけとなった。そして最初に訪れたのは、新幹線が復旧した5月の連休明けに行った会津若松だった。会津には、全国で唯一の公立のIT専門大学である会津大学がある。その会津大学から復興支援センターのアドバイザリーボードになって欲しいという依頼があり躊躇なくすぐに引き受けた。それ以来、今も13年間にわたって会津大学主催の復興支援活動に関わらせてもらっている。
この会津大学を訪問する前日に宿泊したのが会津東山温泉にある「新滝」であった。この旅館は会津藩主だった松平家の別荘で、竹久夢二が逗留し宿泊代の代わりの書いて行った絵が数多く展示されている有名な旅館である。しかし、当日、この宿に宿泊していたのは私を含む少数の客だけだった。あの大震災の直後であったせいもあるだろう。しかし、風呂から上がった直後に気がついたのは、ひっそりと宿泊している多数のお客が泊まっているらしいことだった。翌日の朝食時に、多数の方々にお会いしてから分かったのは、福島第一原発から至近距離にある大熊町の方々が避難宿として、この「新滝」を利用されていると言う。この「新滝」は何と素晴らしいことをしているのだろうと私は感動した。会津地域は原発のある浜通りから離れているので放射能汚染からは安全である。この新滝でお世話になった大熊町の人々が、恩返しとして、今でも家族揃って「新滝」に泊まりに来るのだという。
その後、東北の太平洋沿岸地域、石巻、気仙沼、陸前高田、大船渡、釜石、宮古など津波の被災地域を何度も定期的に見て回った。特に宮古市の田老地区で、かつて頑丈だと思われていた巨大な防波堤が、無惨にも粉々に壊れているのを見て、津波の攻撃に対しては、防波堤ですら、こんなにも脆弱だったのだと大きなショックを受けた。一方で、津波の被害を直接受けていない福島浜通りの放射能汚染地域は、見かけ上の被害は深刻ではないが、その被害は見た目よりも深刻度は高い。その後、東大農学部が行った放射線汚染被害調査では、「土に生えている農作物は土から根を介して放射線物質の除去を行なっている」と言う話に私は少しだけ救いを覚えた。しかし、同じ農作物を水性栽培したらダメだし、菌類(キノコ)は一般農作物とは逆で放射線物質を集約するというのだから怖い。
富士通の親会社は富士電機で、富士電機はシーメンスと古河電工のジョイントベンチャーである。そんな関係から富士通はシーメンスのコンピューター部門を買収した。その関係で私は、何度もシーメンス本社があるミュンヘンを訪問した。そのミュンヘンで、チェルノブイリ原発事故により欧州地域で最大規模の放射能汚染を被った知見を数多く聞いたことがある。「ミュンヘンでは、キノコとイノシシだけは食べるな!それ以外は何でも安心して食べられる!」と言う話が、今だに多くの市民に伝えられている。特に、イノシシはミミズなどがいる土をそのまま食べるので、体内の放射性物質濃度が高いから危険だと言うのである。このミュンヘン市民が言うことは極めて分かりやすく、また理にかなった言葉でもある。
「津波に耐えた一本松」で有名な陸前高田市の市街地は、津波でほぼ完全に消滅してしまった。その市街地全体を底上げしようと計画された巨大なスケールの土木工事は、周辺の山を崩した土砂を巨大なベルトコンベアで運び新たな市街地を造成中だった。私は、これほど巨大な土木工事をこれまで見たことがない。しかし、その結果、嵩上げされた広大なかつての市街地は、今も多くの部分が空き地のままである。他の太平洋沿岸の市街地に多く建てられた公営の賃貸住宅の入居者は、当然のことながら殆どが住処を失った高齢者である。被災者の救済事業としては大変意義深いが、一方で、街の復興支援に対しては殆ど無力のようにも見える。大震災以前から徐々に衰退が進んでいた街を震災復興事業で成長に転換すると言う施作は本当に難しい。
こうした東北地方の震災復興計画を見ていると、その苦労している様子が、日本全体の将来を象徴しているようにも見える。人口が減り、緩い速度で衰退している街を、元の元気な姿に戻すことは巨額の資金を投じて土木工事や建設工事を行なってもそう簡単には実現できない。どうして地方では、人口が減り、人々が都会に向けて去っていくのか? その根本原因を見直していかないとダメだろう。唯一の救いは、今後、AIが発展する時代には、大都会にホワイトカラーが集結して大きな富を作り出す仕掛けが、もはや通用しないことを暗に予測できることだ。一方で、今後、世界中が、気候変動の影響で、農作物や水産物の獲得に苦労し、餓えに苦しむ時代が確実に来るだろう。
私たちは、終戦直後の日本を思い起こしてみるべきだろう。餓えの時代に最も大事な職業は何だろうか?食料安全保障の論理から言えば、近い将来、こうした食料を海外から簡単に輸入できる時代ではなくなるだろう。従って、仮に経済優位な都会に居ても、食の危機から逃れる道を探すことは難しい。こうした時に、気候変動の影響を凌ぎやすい、例えば、北海道から東北に至る、北日本の農地に暮らす人々が豊かな暮らしを満喫できる時代が来るかも知れない。あの悲惨な東日本大震災によって大きな苦痛を受けた東北地域では、もっと長い視点で将来の復興を期して欲しい。今後、500回を過ぎた投稿において、そうした地域の応援が少しでも出来れば良いと考えている。