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494  パクス・アメリカーナの行方

2025年6月1日 日曜日

紀元前27年から395年まで400年間続いたローマ帝国繁栄の歴史を「パクス・ロマーナ」と言う。地中海を取り囲んだ広大な覇権を築いたローマ帝国は、地中海貿易のおかげで莫大な富を得た。この平和な時代を最初に築いた皇帝アウグストゥスは、200年もの長い間戦争を続けてきたローマ人に対して、危険な戦争で得られる富や名誉よりも、戦争がなくても得られる繁栄の方が良いと説得した。これまで、ローマ人にとって平和とは戦争がない時期ではなく、全ての敵対勢力が打ちのめされ抵抗力を失った稀な状況だと認識されていたからだ。アウグストゥスは、ローマが平和であることを示すヤヌス神殿の扉を3回にわたり閉じた。その後の皇帝たちも、ヤヌスの門を閉めるための豪華な式典を催し、パクス(Pax)と裏面に印字された硬貨を発行した。

ソ連崩壊後による冷戦終了後のアメリカは、ヨーロッパにおける旧共産圏の諸国を含めて「アメリカによる平和」を推進した。まさに、ローマ帝国の絶対的な覇権と同じ規模の力を持ち、世界平和に貢献するアメリカを「パクス・アメリカーナ」と世界中の人々が呼ぶようになった。この「パクス・アメリカーナ」が、従来の「超大国による平和」と異なる点としては、多国籍企業や非政府組織の世界政治への影響力拡大があった。こうした組織がアメリカの推進する「グローバル・スタンダード」によって影響力を拡大してきた。しかし、このアメリカ一極集中で回ってきた世界経済が、アメリカ自身の内部崩壊によって崩れようとしている。そのうちの一つとして、これまでアメリカを支えてきた世界経済への支配力崩壊の兆しとして2008年に起きたリーマンショックがあった。その後、2013年にオバマ大統領は、アメリカが「世界の警察官としての役割」から降りると宣言。このオバマ大統領の戦略は、先代のブッシュ政権によるイラク・アフガニスタンへの侵攻が、世界の新興勢力に比べて相対的に衰退しつつあるアメリカから多くの資産を奪っていったという反省もあった。

しかし、それ以上にアメリカにおける産業構造に大きな変化が起きつつある。一番大きな変化はアメリカ全体が製造業に対する熱意を失ったことだ。多くのアメリカ企業の経営者は、自社のビジネスモデルから製造プロセスを海外にオフショアリングすることに熱中した。確かに、アメリカの賃金は世界的に見ても極めて高い。また、IT業や金融業で世界を制したアメリカでは、製造業で働くことが魅力的には見えないことからか有能な人材もなかなか集まらない。従って、開発や設計、及び部品調達などはアメリカ本土で行うにしても、製造プロセスはアジアや中南米で行う方が良いと、多くのアメリカの経営者たちは考えてきた。

低価格製品の製造を途上国にオフショアすることは、今や世界中で行われてきており、日本でも特に珍しいことではない。しかし、一国の重要な基幹産業まで海外へオフショアしたら、その国は、一体どうなるのだろうか? 今のアメリカを見ていると、その結果がよくわかる。まず、日本製鐵のUSスチール買収で問題になっている鉄鋼産業だ。世界の鉄鋼産業は圧倒的なシェアを誇る中国と、インド、日本、韓国のほぼ4カ国で占められている。鉄鋼産業で一番問題なのは、他の産業に比べてリサイクル率が圧倒的に高いことだ。多くの先進国では、鉄鉱石から新たに銑鉄を作り出す高炉に、もはや大きな役割はない。リサイクルから生じた鉄スクラップを銑鉄に再生する電炉で十分間に合うのだ。今や、中国ですら既に新たなインフラ設備を建設する需要は限られており、高炉の能力は明らかに余剰となっている。そうした中で、日本製鐵は、中国やインド、韓国と差別化するために自動車用の高性能な特殊製鋼品開発で高炉を有効に活用している。

今回、トランプ大統領は、バイデン前大統領が反対していた日本製鐵のUSスチール社の買収を承認したと言われている。これが本当なら、このトランプ大統領の決断は大英断である。日本には、全米鉄鋼労組(USW)が、日本製鐵の買収に反対と報じられているが、実はUSスチールの買収に失敗したクリーブランド・クリフス社の労働組合が反対していたのだ。クリーブランド・クリフス社は、既に高炉から電炉への転換を終了しており、日本製鐵の買収によりUSスチール社が電炉に転換することを防ぎたかったものと思われる。今後、アメリカ政府所有の黄金株と言われる特権条項を条件にトランプ大統領が日本製鐵の買収を認めるとすれば、彼はUSスチールの労働者を守ったと将来賞賛されるかも知れない。

次にアメリカ製造業の衰退の象徴となるのが、自動車である。第二次世界大戦でアメリカの軍事産業を支えてきたフォード、GMを含むビッグ3は、今や見る影もない。もはや、アメリカ人がアメリカ車を買わない時代になったからだ。それでも、最近、アメリカの富裕層は新興テスラのEV車を買い始めた。シリコンバレーのゴルフ場に行くと駐車場に停まっている車の半数以上がテスラ車だという。そうして、せっかくアメリカの富裕層から大きな支持を受けたテスラ車だったが、イーロン・マスクCEOのトランプ政策を支持する政治行動によって、購入者たちの反感を招き、今では、アメリカの富裕層の間で全く売れなくなった。テスラ社にとってマスク氏の行動は、なんとも勿体ない話である。

そして、最近、少しずつ大きな問題となっているのがアメリカの造船業だ。もはやアメリカの造船業の規模は中国の200分の1である。これでは、中国に対抗できる次期原子力空母や次期原潜はアメリカ単独では作れないのではないか? 航空機産業も全く同じだ。アメリカで唯一の商用機生産企業であるボーイング社も、最近は品質の問題が続発しているだけでなく、もはや機体の殆どを日本メーカに発注している。そう考えると、日本の防衛省が次期戦闘機の開発を英国、イタリアと共同開発に変更したのも良く理解できる。アメリカは、もはや自国だけで最先端の防衛機器を作れないのではないだろうか。

アメリカの半導体産業ではAI半導体のエヌヴィデアやスマホ半導体のクアルコムなど多くの世界的一流企業が存在するが、自分で半導体チップを製造できるのはインテルだけだった。インテルは、従来、互換チップを開発するAMD社を優れた製造技術で追随を許さなかった。しかし、AMD社がインテル社より優秀な製造後術を有する台湾のTSMCにオフショアすると、もはや、インテル社は価格・性能ではTSMCを担いだAMDに勝てない負け組となってしまった。これまで、インテルの製造技術は卓越して世界一だった。インテルは前世代の安価な製造設備を使い、他社が高価な最新世代の設備で製造したチップより高い性能を大量にしかも安価に製造できた。これまで、インテルが抱えていた多くの優秀な製造技術者たちは、一体どこへ行ってしまったのだろうか。

今後、中国やロシアだけでなくグローバルサウスが台頭する近未来で、アメリカは、製造業分野で、どのように競争力を確保していくのだろうか?それは極めて深刻な課題である。あまりに深刻なので、誰も解を見出せない。だから、まさに従来の常識を超えた「トランプ関税」に関して誰も正面から反論ができない。今も、アメリカの有識者たちは、「トランプ関税」に替わるべき代案を見出せないでいる。もちろん、「トランプ関税」でアメリカの製造業が復活するとは誰も思ってはいないにも関わらずだ。世界中の人々はトランプ関税が創り出す深刻な未来に怯えている。その中で、実は、アメリカ人自身が世界中の誰よりも「アメリカの製造業衰退」に対する解が見出せないことに怯えているのかも知れない。

さて、アメリカが悩む製造業の問題に関して日本では今後大きな問題はないのだろうか?実は、日本は、アメリカ以上に大きな問題を抱えている。トランプ自身は製造業そのものに大きな関心はない。彼が一番関心を持っているのは製造業衰退から生まれる多くの失業者である。彼が前期の大統領時代に起きたコロナ感染で世界中がリモートワークなど働き方を大きく変えた。しかし、この数年間でコロナ感染以上の一番大きな変化として挙げられるのは「AIの普及」である。アメリカは「AI普及」で世界一進んでいるので、その影響が極めて分かりやすい。「AI革命」はホワイトカラーと呼ばれる、従来高給で働いていたオフィス労働者の職を次々と奪っている。しかも、高給であるほど人々ほど「AI革命」の影響は大きいからタチが悪い。

日本は「人手不足倒産」が叫ばれるほどの労働力不足で悩んでいる。しかし、オフィスで働くホワイトカラーは、「AI革命」になると、もはや、今以上に多くは要らない。今後、日本が最も必要としているのは、むしろ工場や建設現場、運輸やインフラ管理、あるいは病院や介護現場で働くエッセンシャル・ワーカーである。さらなる大きな問題は、日本のエッセンシャルワーカーの多くの人々の給与水準が極めて低いということだ。それゆえ、こうしたエッセンシャルワーカーの労働力としてアジアからの移民政策を活用することは必ずしもうまくいかない。こうしたエッセンシャルワーカーの給与を上げるためには、その労働生産性を上げることにある。つまり、「現場」でデジタル技術を採用して効率化を行い少ない人数でビジネスを行えるよう「現場力」を改善すれば、彼らの給与を上げることができる。しかし、こうした現場で活躍できるデジタル技術者が日本には絶対的に不足している。

このために必要なことは、「教育分野」の変革。すなわち、これまで私たちが長い間学んできた学問の科目を見直す必要がある。福沢諭吉は「学問のすすめ」で「役にたつ学問を学べ」と言っている。もちろん、福沢諭吉は、個人の趣味で学ぶ学問を否定してはいない。しかし、重要なことは「お金を稼げない学問」をいくら学んでも、これからは生きていけないということだ。英国の教育省では公立の初等中等教育においては「英語」、「数学」、「科学」の三科目に絞り、小学校一年生からプログラミング教育を始めて、中学からは「職業」という科目で「3次元CAD」を学ばせて「将来の自宅を設計」させている。英国の教育省は、公立の小中高校で学ぶ生徒たちが「大学へ進学しなくとも食べていける」、役に立つ初等中等教育を目指すのだと言い切った。

アメリカの大手コンサルやIT業は、もはや入社資格から「大卒の要件」を削除した。これから世界中で起きる「AI革命」は、これまでの教育体系に関しても根本から見直しを迫っている。あのOpen AIの創業者アルトマン氏はスタンフォード大学のコンピュータ学科を2年で中退している。今後、ホワイトカラーが高給を取れる憧れの職業ではなくなる時代になることは間違いない。これからの日本において、深刻な人手不足問題を解消するためには、建築業や製造業、鉄道や運輸、介護や看護といったエッセンシャルワーカーが、きちんとした給与を獲得できる誇り高い職業として活躍できる時代になるべきだ。今後、「AI革命」を意識して、従来とは考え方が異なる新たな教育制度が必要となるだろう。