2025年4月21日。復活祭の翌日、教皇フランシスコが亡くなられた。私は、2019年11月25日東京ドームで教皇フランシスコのお姿をスタンドから初めて見た時の感動を今も忘れることができない。指定された座席はネットでオーダーしたので、周囲は全く知らない方ばかりだった。私の席の両側に座られた方々はどちらも高齢のご婦人で、お一人で参加されていたが、私と全く同じ大きな感動に浸っていたように見えた。教皇フランシスコは、ヨハネパウロ2世が亡くなられた2005年のコンクラーベでは、次の教皇となられたベネディクト16世と最後まで競われて接戦で敗れたが、ベネディクト16世が辞任された2013年のコンクラーベでは圧倒的多数で教皇に選出された。
教皇フランシスコは、初のイエズス会出身、初の南アメリカ出身であるばかりか128年ぶりのヨーロッパ以外の出身者である。1936年、アルゼンチンでイタリア移民の子として生まれ「ホルへ・マリオ・ベルゴリオ」と名付けられた。ベルゴリオはイエズス会が運営するサレジオ学院高校を卒業後、ブエノスアイレス大学で化学を専攻し学士号を習得している。その時、ベルゴリオは、まだ聖職者になる決心はしていなかった。ベルゴリオが聖職者を目指すきっかけはブエノスアイレスが抱える貧困地域への支援だった。ブラジルやアルゼンチンといった南米における貧困の程度は、私たちアジア人から見ると想像を絶するものがある。私は、アルゼンチンには行ったことがないが、ブラジルのリオデジャネイロで見た貧困地帯「ファベーラ」は、まさにブラジルが有する「世界一の貧富格差」の象徴でもあった。アルゼンチンは、これまで何度も国家が破産している国なので、その貧困の厳しさは、むしろブラジル以上のものに違いない。
私がブラジルを初めて訪れたのは2012年6月22日から二日間開催された「リオ+20:国連持続可能な開発会議」への参加だった。この「リオ+20」とは、1992年にリオデジャネイロで開催された「国連環境開発会議(地球サミット)」から、20年後に開かれた世界首脳会議として命名された。富士通からは、私も含めて環境関連の仕事に従事している4人が参加し、私は、この会議で2度講演する予定があった。リオに渡る前に東京で開催された事前準備会議では、リオがいかに危険な場所であるかを徹底的に教え込まれた。それでも、今回の国際会議は世界中から首脳がリオに集まるので、「ブラジル政府」と「ファベーラのマフィア」とは事前に次のような取引がされていた。つまり、「リオ+20」の会議期間中に「警察は一才マフィアの取締りをしない」代わりに「マフィアはリオの市中に絶対に姿を現さない」という約束だった。
それでも、会議が終了した後に、あの有名な「コルコバードの丘にある巨大なキリスト像」を皆で観に行こうということになり、ホテルの掲示板にあった貸切バスのチケットを買った。しかし、このバスが、全くいい加減で、本来はキリスト像へはケーブルカーで行くのが普通なのだが、この運賃を省くためにバスで山を登り「ファベーラ」の中を通っていくのだという。バスの運転手は、「ファベーラ」は極めて危険なので、「何があっても窓は開けない」で、また「外をジロジロ観ないで知らぬふりをして大人しくしていろ」という。そんなわけで、私たちは期せずして「ファベーラ」の実態を見ることになったが、その実態は「想像を絶するほどの貧しさ」であった。街から山へ登ると木陰に隠れるようにして多くの貧しい小屋が数多く立ち並んでいる。国家が治安維持を放棄した場所というのは、「こんな具合なのだ」と感じ入った。
こんな「ファベーラ」に似た貧困地帯は、ブラジルだけでなくアルゼンチンにも多数あり南米全体で500ヶ所にも及ぶと言われている。そして、この地域は全くの無法地帯で麻薬や博打は当たり前、強盗や殺人も日常的に起きている。ベルゴリオは、こうした貧困地帯で、困っている人々を救おうとしたのである。そのため、31歳になった1967年にサン・ミゲル神学院に進学し、1969年に司祭として叙階された。1987年には宣教師活動として日本を訪れて、被爆地である広島、長崎を探索している。この日本訪問が教皇になってから核兵器に対する絶対的な放棄を主張するきっかけとなったのであろう。その後、ベルゴリオは、1998年にブエノスアイレス大司教に選ばれて、2001年には教皇ヨハネ・パウロ2世から枢機卿に任命された。
そのヨハネ・パウロ2世は、ポーランド出身の教皇で、在位中に世界129カ国を訪問し「空飛ぶ聖座」と呼ばれていた。2011年5月1日、私は幸運にもバチカンで行われたヨハネ・パウロ2世の「列福式」に参加することができた。当時、私は日本・EU間EPA交渉会議の一員としてローマで行われた会議に出席した。列福式とは、「聖人」に推挙されるために必要な、一つ前段階の「福人」に推挙されるための儀式である。ヨハネ・パウロ2世は2005年に逝去されてから、まだ6年しか経っておらず、こんなに早く「福人」に推挙されたのは歴史的にも初めてだった。それ以前の最短記録はマザー・テレサだったようだ。その3年後の2014年4月には教皇フランシスコによってヨハネ・パウロ2世は「聖人」となった。
教皇ヨハネ・パウロ2世も教皇フランシスコと同様に世界中から愛された立派な教皇であり、その「列福式」に参加しようと世界中から熱心な信者がローマに集まっていた。私たちの日本・EU間のEPA交渉会議は毎年行われており、いつもはベルリンかブリュッセルかパリだったのだが、この年は、珍しくローマで開催された。多分、EUの事務局が意図的に「列福式」に合わせてローマでの会議を企画したのだろう。バチカン周辺の道路には膨大な数の簡易トイレが設置されていた。世界中から集まってきた信者の多くはローマ市内には宿が取れず「野宿」だったからだ。そんな状況の中で私たちが泊まったホテルはローマ市長が特別に手配した立派なホテルでアフリカのカトリック国の大統領も「列福式」に参加するために泊まっていた。
私は、その時には未だカトリックの洗礼を受ける前だったが、私と同じ会社の同僚はカトリック信者だったのでバチカンには詳しく、彼には宮殿の中など、いろいろ案内をしてもらった。彼は、欧州日本商工会議所の代表の資格で、この会議に参加していた。このヨハネ・パウロ2世の「列福式」を開催したのは教皇ベネディクト16世だが、先の教皇であるヨハネ・パウロ2世を慕う信者の熱意は想像を絶するほどすごいものだった。何百万人という膨大な数の信者が世界中からローマに集まっていた。私は、同僚と一緒にバチカン市内のお土産屋さんで、ヨハネ・パウロ2世の「列福式」の記念品を、妻をはじめとする日本の信者さん達に差し上げるために幾つか購入した。
このヨハネパウロ2世「列福式」のお土産を、お渡しした方の中に、特許庁長官から富士通の副会長を経て富士通総研の会長を務められた高島 章さんの奥様がいる。高島さんは、富士通時代に常に私の指導役であった。また、敬虔なカトリック教徒で、作家 遠藤周作氏とは親しい友人付き合いをされていたという。しかし、高島さんが亡くなられた葬儀の日に、私は中国政府からの招待で上海万博の開会式に出席しており、残念ながら参列できなかった。それで、バチカンから日本に帰国してすぐに、渋谷の初台教会で行われた高島さんの一周忌に参列した。その初台教会は私の妻が学生時代に洗礼を受けた教会でもあった。儀式の後で、ヨハネパウロ2世「列福式」のお土産を奥様にお渡ししたところ、奥様から次のような驚くべきお話を伺った。
高島さんご夫婦は、まだ、若い頃、お子様たちを連れてバチカンへの旅行をされたことがあったのだという。ローマで、たまたま昔からの知り合いだった駐イタリア大使に会ったところ、大使は「せっかく、バチカンに来たのだから教皇様にお会いしたらどうか?」と謁見の機会を作って下さった。奥様は、「今回は、プライベートな旅行なので、教皇様とお会いできるような服は持ってきておりません」と固辞されたのだが、結局、教皇ヨハネパウロ2世と家族一同で謁見し、直接、教皇とお話しする機会を得たのだという。奥様には、そのヨハネパウロ2世の列福式の記念品を受け取られて大変喜んで頂いた。高島さんとは一緒に台湾を訪れ、台湾政府高官の招待で「五本の指を持つ龍」が書かれた天井をもつ高貴なレストランで食事をご馳走になったこともあり、これで少しは恩返しができたと喜んだ。
教皇ヨハネ・パウロ2世も大変立派な方だったが、教皇フランシスコも、決して引けを取らないほどの立派な方だった。教皇に就任されてからも、ローマ教皇としての長い間専用宿舎とされていた「立派な宮殿」には住まず、106人の枢機卿が住んでいるサン・マルタ館201号室に居を構え、毎日、同僚である枢機卿達と一緒の食堂で食事をされていたという。こんなことは教皇に関する長い歴史の中で初めてのことであった。今回、残された教皇フランシスコの遺言には自身の遺体は土の中に埋葬し、その墓には「フランシスコ」とだけ刻印するよう指示している。つまり、フランシスコは「教皇として特別なことは一切しないし、してくれるな」という思想を貫いていた。
教皇フランシスコは、おそらくヨハネ・パウロ2世以上に早く「列福式」を迎えることになるだろう。私は、そうして欲しいと願っている。教皇フランシスコは、それだけの方だった。私は、X(旧Twitter)で教皇フランシスコの投稿をフォローしていたが、教皇は誰にも恐れることなく、いつも「正しい言葉」を発していた。ヨハネ・パウロ2世も政治的問題については、いつも明確なコメントを出されていた。そのせいか、1981年5月13日、サンピエトロ広場で行われた一般謁見の時に、トルコ出身のテロリストの銃弾を受け重傷を負っている。教皇という存在が、そうした危険な場面も覚悟しなければならない立場にあることを重々承知しながら、教皇フランシスコは、マフィアは「神を冒涜」する存在であり、私は彼らを破門すると宣言した。それはまさに「命懸けの破門宣言」だった。
特に、核兵器廃絶に関して、教皇フランシスコが発したメッセージの中で、私が一番印象に残っているのは被爆地長崎で撮られた「焼き場に立つ少年」の写真である。この一枚の写真は原爆投下に対する深い悲しみと大きな憤りを発していた。アメリカ人の従軍カメラマンだった、故ジョー・オダネルさんが1945年の原爆投下直後に長崎で撮影したものである。教皇フランシスコがこの写真を、自らの手で公表したことは、核兵器廃絶を繰り返し世界に強く訴えるその姿勢を表している。以下にオダネルさんが発した、この写真の説明を添付する。
「焼き場に立つ少年」
佐世保から長崎に入った私は小高い丘の上から下を眺めていました。すると白いマスクをかけた男たちが目に入りました。彼らは60センチほどの深さに掘った穴のそばで作業をしています。やがて、10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目にとまりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に負っています。弟や妹をおんぶしたまま広場で遊んでいる子どもたちの姿は、当時の日本ではよく目にする光景でした。しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的をもってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。しかも裸足です。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすりと眠っているのか、首を後ろにのけぞらせていました。
少年は焼き場のふちに5分か10分も立っていたでしょうか。白いマスクの男たちがおもむろに近づいて赤ん坊を受け取り、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。まず幼い肉体が火に焼けるジューという音がしました。それからまばゆいほどの炎がさっと舞い上がり、真っ赤な夕日のような炎が、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。その時です。炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気づいたのは。少年があまりきつくかみ締めているため、血は流れることもなくただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が鎮まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。
次の教皇を選ぶコンクラーベは空位が生じてから15~20日以内に開催されることになると聞いているが、私たちが知っているヨハネ・パウロ2世やフランシスコのような立派な教皇が選ばれることを心から願っている。今、私にできることは、本当に素晴らしい教皇フランシスコが、亡くなられたことを心から悼むしかない。