昨日、旧古河財閥系の企業で社長を務められた方々の定期会合で講演をさせて頂いた。テーマは「デジタル技術で日本をどのように再生すべきか?」という点でお話をした。今年、すでに何十回も講演したテーマで、来月に今年最後の一回が控えている。どこの会場でも、お話をさせて頂いた後で、皆様が一番苦労されている話はいつも同じで「デジタル人材をどのように拡充して行くか?」と言う悩みである。とにかく、多くの経営者が、自らの会社を助けてくれる救世主となってほしい「高度デジタル人材」が見つからない、あるいは絶対的に足りないと悩んでおられる。
富士通のようなIT企業でも悩みは全く同じである。優秀なデジタル人材が次々と離職してしまうのだ。従来は、競合する同業への転出が多かったが、最近は顧客側の企業から望まれて転出するケースも多い。こういう話を聞いていると、もはや日本全国で、どの企業もデジタル人材が足りないと言う事態になっている。なぜ、日本ではデジタル人材が、こんなに足りないのか?と言う事だが、実は、今、世界中でデジタル人材が足りない。これはアメリカでも全く同じ状況である。
実は、シリコンバレーで活躍している優秀なデジタル人材は、アメリカ生まれでない人が多い。インドやウクライナ、東欧など世界中の国々から腕に自信のあるデジタル人材が高度技能を有しているものに与えられるH1Bビザでアメリカに渡ってきている。Apple、Google、Amazonの創業者たちは皆、移民か移民2世である。アメリカで暮らしてみると、日米を比較することが全く無意味であるように思える。アメリカは、単なる一つの国ではなくて、もはや「世界」なのだ。日本では「国内」と「海外」と世界を二分するが、アメリカでは「World (世界)」と「Rest of World(残りの世界)」と分けて議論する。アメリカ人が「アメリカは世界」と言えるのはアメリカの言語が世界共通語である「英語」であるからだ。
日本がデジタル分野でアメリカに少しでも追いつきたいと考えるのであれば、アメリカが持っている潜在能力を少しでも真似て行く必要がある。その潜在能力の一つとして、国民全体で「英語能力」を高めて世界中から優秀なデジタル人材を受け入れられる体制について考えなくてはならないかも知れない。昨日の会合に出席しておられた元みずほFG会長、みずほ銀行頭取を務められた塚本隆史さんから「デジタル人材の問題には英語の問題が深く関わっているのではありませんか?」というご質問を頂いた。さすが、ニューヨークとロンドンで金融ビジネスに関わってこられた方の意見は重い。
全く塚本さんの仰られる通りである。日本企業でもソフトバンク、楽天、メリカリなど最先端を突っ走るデジタル企業は、デジタル人材を海外から多数雇用し、英語を社内公用語としてビジネスに活かしている。「デジタル化」とは、単に、現在行われている仕事を、そのままプログラムコードに落とせば良いと言うものではない。私は、常々、「デジタル」の「D」は「Direct」の「D」で、従来、人手を用いて幾つかのプロセスを経由して行われていた仕事において、必要なデータをインプットしたらやりたいことがすぐにアウトプット出来ると言うことだ。例えば、これまでツーリストを通して列車や飛行機の券を予約していたのを旅行者が自分のスマホから直接予約できることを指す。つまり、デジタル化とは「D」処理によって仲介を省くことである。
こうした国際人脈を活かしたデジタル化を推進するためには、現在行われている仕事のプロセスの分析作業に英語しか話せない外国人が問題なく参加できる環境づくりが重要である。私が40年間勤務していた富士通は富士電機から分離独立した新興企業で私が入社した時には「富士通信機製造」と言う社名だった。背広につける社章は富士電機と同じく「F」と「S」の二つの英文字を合体させたものだったが、なんで富士(Fuji)だったら「F」と「J」ではないのか?と不思議に思っていた。その理由は親会社である富士電機が古河電工「F」とドイツのSiemens「S」との合弁会社だったからだ。つまりSiemensは富士電機の親会社で富士通の祖父にあたる会社だった。
その後、私は富士通とSiemensの合弁会社であるFujitsu-Siemensの取締役となり、Siemensの本社があるミュンヘンには何度も通い、Siemensの幹部とも多くの話し合いを持った。Siemensに関して私が一番驚いたことは、Siemensの役員は全員英語が堪能で、しかも地位が高いほど綺麗な英語を話すと言うことだった。いろいろ聞いてみると、Siemensは1970年に会社の公用語を英語と定めて会社の公式文書は全て英語にしたとのことだった。これはすごい事である。ドイツ人だったら英語を話すのは当たり前と思われる方も多いかも知れないが、ドイツ人が英語を普通に話せるようになったのはつい最近のことである。
1980年、入社して10年たって私は初めての海外出張としてヨーロッパ各国を回った。最初に訪れたのは、毎年ドイツのハノーバーで開催されている世界有数の見本市であるハノーバーメッセだった。世界中から私のようなビジネスマンが集まっていると言うのに、展示は殆どドイツ語で、説明員もドイツ語しか話せない。大学時代に、もう少し真面目にドイツ語を勉強しておくのだったと思ったくらいだ。Siemensは、それより10年も前に英語を社内公式語に採用していたのだ。さすが、世界を股にかけて活躍する一流企業である。
私は、ドイツの次にフランスを訪れたが、1980年当時のフランスも英語が通じなかった。会社の上司からは「英語ができなくても心配ない。ヨーロッパは、どこも英語が通じないから」と言われて余計に不安になったことを覚えている。日本も含めて、その時代の一流と言える国々の人々は、自国語で毎日のビジネスができて、それで生活ができたのだ。しかし、今は、違う。ドイツもフランスもEUのどの国でも英語が標準語として使えるし、EUの多くの国の人々は英語が理解できる。英語が使えないと、きちんとした給料をもらえる職に就けないばかりか、日常の生活にも支障をきたすからである。英国がEUを離脱した後も、英語はずっとEUの標準語であり続けるであろう。
元々、高度デジタル人材になるためには優秀なプログラマーである必要がある。日本では、昔、プログラマーは尊敬される人材とは思われていなかった。仕様書を書ける人間が高度人材でプログラムを書くのは少しランクが低い人材と思われている時代があった。これは大きな間違いで、世界では全く逆である。プログラマーこそが尊敬されるデジタル人材で、プログラムが書けない人材は全く尊敬されないのが世界の常識だ。今、日本に進出している外資系コンサルの入社試験では必ずプログラム能力が試されている。今の時代のコンサルは最後にプログラムとしてどう実現できるかが頭に描けないとダメだと言うことだ。
このプログラム言語は、実は英語構文のルールで出来ているので、巧みに英語を操れる人はプログラムを書く速度も速いはずである。さらに、英語が得意な人材には、もっと大きなメリットがある。それが多くの優秀な人たちが書いたプログラムである「オープンソース」の存在だ。今や、あのGoogleでさえ、開発プログラムの60%はオープンソースを使っている。もちろんGoogle自身が巨大なオープンソースの提供者でもある。このオープンソースを使うには、高度な英語能力が必要とされる。それは、そのプログラムが何ができるプログラムで、どのように使うのかが全て英語で記述されているからだ。
そして、もっと大きな現実が目の前に現れた。あのイーロン・マスクが創設した「Open AI」である。「Open AI」は世界中の優秀なエンジニア達が開発したAIソフトを誰もが使えるオープンソースとして提供している。この卓越したオープンソースを使うのか、自分たちでゼロからAIソフトを考えるのかでは全く大きな違いが出来てくる。私が、昨年まで社外取締役をしてきた日立造船では、こうしたAIのオープンソースを活用して次々とAIを使ったビジネスを実現している。元々、日立造船にはAIのエンジニアなどいなかった。しかし、優秀な英語力を持つ理系エンジニアであれば、こうした既存資産を有効利用して卓越したAIエンジニアになれる。
「デジタル人材がいない」と嘆く前に、自らの組織に近い将来素晴らしい人材になれる人物がいないかよく確かめるべきだ。そして、「もう何歳になってしまった」とか関係なく、意欲のある人々を探し出して再教育するリスキリングの機会を充実すべきである。その際に、仮に理系の大学の出身でなくても構わないと思った方が良い。プログラミングは言語である。人文科学専攻で英語が得意であれば、そうした方々は優秀なデジタル人材になる資格を十二分に備えている。なぜなら、プログラムは言語なのだから。そして限りなく英語に近い言語でもある。