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462    大学卒業50周年会の開催

2022年10月25日 火曜日

東大紛争が終わってまだ日も立たない1970年3月31日に学科の事務室で学生証と卒業証書を交換し、卒業式もないまま、東京大学工学部電気・電子工学科を卒業した私たちは、卒業後50周年を迎える2020年に記念同窓会を開催しようと考え、2019年春に企画グループを立ち上げた。毎年2回東京新橋で行われているミニ同窓会「新橋会」の幹事を務めてくれている堺和夫さんをリーダとして、それを手伝う6名のグループが参加して、このグループが発足した。光栄なことに、今回、私もその企画グループに参加させて頂いた。

この「新橋会」に参加するメンバーの多くは、経団連会長に就任された中西宏明さんにぜひ会いたいという気持ちがあった。今回、幹事団に参加したメンバーも毎年中西さんと定期的にゴルフをプレーしてきたメンバーだった。その中西さんが、この2019年の5月に悪性リンパ腫を発病されたとの発表があり、大きなショックを受けた私たちは何としても50周年記念同窓会までには回復されることを願った。

2019年に行われた会合は、メンバーが表参道にある堺さんのご自宅に集まって議論を重ねていたが、翌2020年春からは日本でもコロナ禍が始まり、この準備会合はZoomによるオンライン会議へと変更した。その後、日本でもコロナ禍の感染状況は益々酷くなり、2020年秋の開催は断念し、2021年秋へ一年遅らせることにした。しかし、2021年6月には、皆が、何としても会いたいと願っていた中西さんが逝去された。2021年になってもコロナ禍は一層酷くなり、私たちは、2022年秋に順延することを決めた。そして迎えた2022年、そろそろ収まるだろうと考えていたコロナ禍は7月以降にこれまで最も感染者数を出した第七波を迎えた。

こうした状況を見て、8月に、私たちは今年2022年秋には何としても記念同窓会を開催すると言う結論を出した。まだ第七波が収束する気配も見せていない中で、私たちが考えたのは、「これ以上遅らせたら、もう何時になったら開催できるのかわからない。その間に、中西さんのように、私たちの大切な仲間が何人亡くなってしまうのだろうか?」と言う恐れだった。最悪の場合にはマスクしたまま、会食には手をつけられないパーティであっても仕方がないと腹を括ったのだ。7人の幹事がZoom会議で全員一致での結論だった。

私たちの同じ学科の仲間にはシンガポールとタイから留学生が入学しており、彼らは二人とも現在米国に住んでいる。このコロナ禍で日本と米国の往来は簡単ではなくなっているので、マレーシアに移住した日本人同級生も含めて、当日会場とZoomを経由して参加してもらうことにした。さらに、本来の予定より2年遅れてしまったので、参加する学生も75歳となり、全員もはや後期高齢者である。本来、同窓会には先生もお呼びするのが当たり前であるが、先生は殆どの方が90歳を超えておられるのでどうすべきか随分悩んだが、お招きすることにした。その結果、3人の先生から参加のご返事を頂き出席いただいた。お招きして本当に良かった。

さて、当日午後3時から始まる同窓会の1時間前の午後2時に幹事が設営準備のために集合することになっていたが、私は、設備がうまくできるかという緊張のため1時間前に着いてしまった。私が担当した設備は会場の様子をZOOM参加者から見えるようにしたカメラを設定する役割だった。元々、自宅発のオンライン講演のために揃えた設備だったので大きな不安はなかったが、万が一のことがあってはいけないと自宅で何度も演習を繰り返した。SONYのα7カメラからの出力をHDMI-USBコンバーターで変換してパソコンに繋いでZOOMを立ち上げて会場の画像と音声を送る設定が無事に会場で作動した時は本当に安心した。

先生が3名、会場に直接来場して参加した卒業生は35名。ZOOMで参加が海外在住者2名を含む合計8名の参加があり卒業生総数90名の約半分が同窓会に参加したことになった。堺 代表幹事を含む合計7名の幹事は予め決められたそれぞれの持ち場で無事に役割を担うことができた。私は、自分が一番得意な司会進行役を担ったが、それなりにこなせたと思う。会場での挨拶は先生と海外在住者だけに絞り、残りの時間は会場リアル現場やZOOM空間を使ってそれぞれ談話をして頂くことにした。また、会場では、こうした催しに慣れている浮穴さんが事前に皆から集めた思い出の写真集にコメントを加えて会場で皆に見せる仕掛けを設定してくれた。

東京地区では、コロナ禍前、年に2回ほど東京地区のミニ同窓会である「新橋会」で会っていたが、関西地区でも同じような同窓会を行なっていたことが、浮穴さんの写真展示システムでよくわかった。関西地区では、奥様も同伴で海外へ行って同窓会を開催するなど東京よりも密度の濃い集まりをされていることがわかりビックリした。皆、それぞれリタイアした後の人生で学生時代の仲間と一緒に語り合うことの楽しさを求めているのだと思った。私も司会役を勤める合間に、久しぶりに会う何人かの仲間と話をさせて頂いたが、こうした会合に出席されない仲間には、それぞれに抱えた家庭の事情があることも知った。こうした仲間たちに私たちが出来ることは何かないか?今後考えて見たい。

こうした中で、毎日、重篤な病気と闘っている湯山さんが「来年は皆に会えないかも知れないから」と言うことで、この同窓会に参加してくれたのは、本当に嬉しかった。咽頭の手術で言葉を話せない湯山さんは、タブレットを手に持って筆談を行なっていた。大きな手術を何度も繰り返し、今は食事も少しずつ毎日10時間も食べ続けなければならない状況で、私は、湯山さんに「ここまで、どうやって来たの?」と尋ねたら、身振り手振りで「自分で運転してここまで来た」と私に説明してくれた。田園調布から、この神保町の学士会館まで自分で運転して来たのだ。思わず「凄い!よく来てくれたね」と涙が出るほど感動した。

それにつけても、コロナ禍さえなければ本来の50周年である2020年に、この同窓会が開催できていれば、その翌年に亡くなられた中西宏明さんも参加できたのではないかと思いうと本当に悔しい限りである。中西さんが、この50周年同窓会に参加されていたら、さぞかしもっと華やかな雰囲気が醸し出されていただろうにと、本当に残念でならない。今回の参加者名簿を見ると、中西さんを含めて10名の方々が既に亡くなっている。今回、過去最大のコロナ感染者を出した第七波の最中には、「本当に今年開催して良いのか?」と言う懸念もあった。幸にして、当日は、第7波も収束方向にあって恵まれたが、そこでも私たち幹事連中が「何としても今年は開催する」と決意したのは、これ以上伸ばしたら、また参加できない方を増やしてしまうという懸念だった。

開催が2年遅れた卒業50周年同窓会なので、参加している卒業生は、私も含めて今年殆どが後期高齢者になった。75年も生きていると、何かしら病気を抱えるものである。私も10年ほど前に前立腺癌を患い、なんとか寛解したが、これからまだ色々な病気に罹患するだろう。皆、具体的な病名まで話さないが、何かしら深刻な領域の病気を抱えている。それでも、そうした病に向き合い騙しながら生きている。そんな中で、私たちが、これまで伊豆の川奈ホテルで開催した25年会に続いて、今回神田神保町の学士会館で50年会を開催できたことを誇りに思っている。次に、75年会を行うことはちょっと無理なので、せめて、このコロナ禍の収束が見えてきたら、ぜひ毎年、ミニ同窓会を行いたい。参加者の中では、名古屋で東京同窓会と関西同窓会の合同ミニ同窓会をやろうという話も出た。よし、ぜひ、やろう。