このシリーズで、どうしても書きたかった女性である水戸部優子さんと、ようやくお会いでき、その軽やかで変化に富んだ半生について大変感動的なお話が聞けたので、ここで、ご紹介したい。そもそも、私が優子さんを知ったきっかけは、ある女性の友人が「水戸部優子さんという凄い女(ひと)に、ぜひ一度会って話を聞いてみたら」と推薦して下さったからである。早速、Facebookで優子さんと友達になったのだが、まずそのプロフィールの学歴を見て驚いた。宝塚音楽学校、慶應大学経済学部卒業という記述には想像を超える大きなギャップがある。
そして、その優子さんのFacebookには日常生活をうまく切り出したセンスある写真に言葉少ないコメントが付された投稿が数多くアップされている。言外にミステリアスな世界を彷彿とさせる余韻がなんとも言えない。やはり、どうしても会って見たいという気持ちを長い間持ち続けて、この度、ようやく実現した。待ち合わせたレストランに優子さんは先に着いていて、しかも多くの女性客で混んでいたが、私は初対面の優子さんをすぐに見つけることができた。宝塚歌劇で10年近く舞台に立っていた優子さんは、それほどのオーラを全身から解き放っていたからである。
優子さんは、東京の下町、秋葉原で生を受けた。今でこそ秋葉原は、AKB48や各種サブカルチャーといった芸能の発信地であるが、優子さんが生まれた時の秋葉原は、日本一の電気街、パソコンやインターネットの聖地であった。だから優子さんの小学生のとき「将来はプログラマーになりたい」と書いていた。また、当時私が開発責任者だった富士通のマルチメディアパソコン「FM-TOWNS」の愛好者で、まさに当時流行した「デジタルキッズ」の一人でもあった。そんな優子さんは秋葉原から少し遠い国会近くの永田町小学校へ越境して通っていた。
レーガン大統領が訪日した際に、ファーストレディであるナンシー夫人が永田町小学校を訪問し、数人の生徒と一緒に合唱するイベントが催されることになった。TV報道までされる、この重大イベントに優子さんは見事に選ばれたのだ。そんな初舞台であった優子さんは、少しずつ舞台に立つことに興味が湧き、いくつかの習い事の中でもバレエに興味を持っていた。しかし、ピアノ教師だった母上は、ピアノそっちのけでクラシックバレエに専念する優子さんの行動が気に入らず、バレエの習い事をやめさせてしまった。
それでも舞台に立つという夢を諦められなかった優子さんは、カトリック系女子大学付属高校2年の時に一念発起して宝塚音楽学校を受験。普通に考えたら17歳からのスタートはあまりにも遅すぎる。しかし、何のコネも無く1,600人の応募者の中から100人を選ぶ一次試験を通過したことで、その道に進んでも良いという母上の了解を取り付けた。流石に半年では準備不足で、当時、寄宿舎生活であり、満足にバレエ教室に通うことも出来なかったこともあってか二次試験は手も足も出なかった。しかし、翌年、高校3年生のラストチャンスで、寄宿舎を出ることを説得し、最後の半年は新幹線通学をして平日も宝塚音楽学校を目指す予備校で稽古に励んだ。その結果、見事に、難関を突破して、宝塚音楽学校への入学を果たした。身長170cmを超える長身の優子さんは、当然、男役である。同期では娘役トップの「彩乃 かなみ」「紫城 るい」がいる。同じ組の先輩には娘役トップの「壇 れい」がいた。
自分は本当に不器用で下手だったと優子さんは言う。しかし、その10年間は自分にとって決して無駄ではなかった。宝塚は、毎回、新しい作品と出会え、毎日が楽しかったし、長い間舞台に立つことによって自信と度胸もついた。そして、何よりも、そこで出会った仲間達はかけがえのないものだった。そんな優子さんの生活は、他の劇団生とは少し違っていた。仕事が休みの時、優子さんは公演の合間にニューヨークやパリでホームステイをして芸術鑑賞をし、周囲がいわゆるタニマチやファンに会っているときに、むしろ宝塚に興味の無さそうな、別の世界で活躍している人々と交流していたそうである。それが、宝塚を卒業した後で、経済活動の仕事をしてみたいと思うきっかけとなったようだ。
宝塚を退団した後の、優子さんは新興コンサルティング企業に就職する。そして、社長に働きながら大学に行かせてくれと懇願し、慶應大学経済学部へ入学した。優子さんは、今でも、この時の社長の英断には感謝しているという。大学に通いながら先輩コンサルのアシスタントにつくが、そのプロジェクトがことごとく成功を納めたのである。もちろん、優子さんが強運の持ち主であったこともあるだろうが、私は、異文化の融合による共創が成功の大きな要因であろうと推察する。
やがて、今度は同じ会社でヘッドハンターとして独り立ちすることを勧められた優子さんは、時期尚早であると何度も断ったそうだが、やってみるとさらなる快進撃を続けることになった。ヘッドハンターは、文字どおり、今まで会ったこともない企業のVIPとやり取りをする一匹狼である。この時に、宝塚歌劇の舞台に立っていたという経歴はVIPと会うという障壁を低くしたことは間違いないだろうし、また彼らと堂々と渡り合えたのも、宝塚で培った度胸が役に立ったとかも知れないと優子さんは言う。気がつけば、優子さんの担当クライアントの年間の売上が社内で1位になっていた。そんな充実した生活を続けていると「また、違うことをして見たい。人材業の幅を広げたい。引く手あまたな方の転職よりも、本当に自立が困難な方の支援をしたい」と言う優子さんの挑戦者魂が頭をもたげてきた。
こうした時に優子さんの頭をよぎったのは「発達障害」と言う言葉である。「発達障害」は、「障害」という一括りの言葉では語れない。Apple創業者のジョブスやFacebook創業者のザッカーバーグも「発達障害」と言われており、発達障害者達は、他の人が普通に出来ることが出来ない代わりに、普通の人が出来ないことが出来る人もいる。あるいは、視覚や聴覚が過敏なために、普通のコミュニケーションが取りづらいとも言われている。今から思えば、ヘッドハンティング時代に出会った数多くの優秀なキャンディデートにもその兆候が見られた。
優子さんも、自分は、たまたま運よく順調に人生を切り開いてきたが、ひょっとしたら自分も発達障害の兆候を一部共有しているのではないかと思い始めたのだ。優子さんの、その感覚は、私にもよく理解できる。私は小さい時、皆と群れることが好きではなくて、その結果、友達も少なく、いつも兄弟三人で遊んでいた記憶がある。私と優子さんも、出会った瞬間からお互いに発達障害的な匂いを感じて、今回、中身の濃い話しが出来たように思う。とにかく、優子さんは、ヘッドハンターを辞めて発達障害者の就労移行支援組織に参加することにした。
その組織は、NPOではなくて株式会社である。優子さん以外にもユニークな職歴のメンバーが勢ぞろいしていて、もちろん、公的な支援はあるものの、この会社は、その支援金によってのみ発達障害者をケアするという考え方ではない。公的支援が抜け落ちる期間である大学生向けのサービスも含めて、発達障害者の才能を活かすことによって、本人も雇用者も共に利益を得られるようにすることを目的として難度の高い職業訓練も用意されている。東京都が出している指標として年間6人就職すれば優良事業所と認定される中で、優子さんの事業所は約40名が就職。さらに定着率も良いとのことである。
はじめは困っている方の支援をしようと思い飛び込んだが、結果として、発達障害の支援を学ぶことは、人と接する際のヒントが沢山つまっていて、自身の学びのほうが大きかったそうだ。賛同してくださる企業や、障害者の家族の方々がどんどん増えてきて、今や、入所希望者が収容能力を大きく超えており、順番待ちの長い行列ができているのだと優子さんは言う。確かに、こんな元タカラジェンヌの綺麗なお姉さんから優しく褒められて励まされたら、今まで、少し落ち込んでいた人たちも、これから頑張ろうとやる気を出すに違いない。またもや、華麗な転身を遂げた優子さんである。しかも、今度の仕事は社会の共通善に根ざしており大義に沿っている。なんとも素晴らしいとしか言いようがない。
さて、優子さんは、これからどんな人生を歩むのだろうか? 優子さんは宝塚在団時からアート作品に興味があり、最近は若手アーティストを支援するプロジェクトの一員にもなっている。また、10年ほど前から相撲が大好きになり高砂部屋へ応援に通っている。もっとも、優子さんのタニマチは、お金持ちでお大尽のタニマチではなく、デジタルキッズらしく、ネットを使ったプロパガンダを行なっているタニマチではないだろうか。今の相撲人気も相撲界の近代化が大きく貢献しているのであろう。
確かに、今の相撲は面白い。私も、今や大好きなスポーツ番組は、プロ野球やサッカーより、とにかく大相撲になった。昔に比べてスピードがあるし、やはりガチンコ相撲は見ていて迫力がある。今度、私も、高砂部屋に招待して頂けるらしいので楽しみにしている。そう、次の優子さんの仕事は、アート・芸術に関わる仕事なのか、ひょっとするとどこかの相撲部屋の女将さんかも知れない。こんな素晴らしい話を聞かせてくれる優子さんは、日本を代表する「光り輝く女性たち」の一人である。