私には親の介護について語る資格など全くない。何しろ、2001年に父が亡くなって以来、92歳になるまで、母が16年もの間、独り暮らしを続けてきたことを黙殺して来たからである。80歳になったばかりの母は、海外出張中の私とも頻繁に携帯メールでやり取りする能力を持っていた。しかし、80歳代後半を迎えた、数年前からは要介護のレベルとなり、ヘルパーさんのお世話で、掃除やゴミ出しなどを手伝って頂くようになっていた。
当然のことながら、何度も同じ話を繰り返すようになり、昔のことはしっかり覚えているのに、短期の記憶が明確でなくなるなど、明らかに認知症の症状も出ていたが、相変わらず滑舌はしっかりしており、機関銃のようなテンポで、私たちに話し掛けてきた。それを良いことに、私たち兄弟は、母に甘えて、独り暮らしの生活を放置してきたのである。ケア・マネージャーや、かかりつけ医からも、「お一人で大丈夫ですか?」と言われても、「いえ、うちの母は、独り暮らしが一番あっているのです」と答えていた。
私は、父が亡くなった2001年に役員に昇格して以来、2015年にリタイアするまで、海外事業担当だったこともあり、世界中を飛び回っていて、何とか年に数回は実家を訪れていたものの、日常的な母の世話については全く面倒を見ていなかった。弟二人も、それぞれの組織で重職にあり、私同様に、母親の面倒を見る時間など全くなかったのが実情である。それこそ、母にしてみれば、息子たちが出世することが本当に良いことなのかどうかわからなかった。全く、親不孝な息子たちであった。
それでも、90歳になってからは、さすがに、気力も体力も弱ってきた。二階から階段を踏み外して脊椎を骨折したりしたが、ベッドに寝るようになって、痛みもすっかり良くなったように見えた。お湯を沸かそうとして、何度も鍋を焦がすことが増えたので、ガスコンロからIHに変えて、お湯が沸いたら自動的に止まるようにした。自炊も難儀になったようなので、週五日宅配のお弁当をとり始め、私が月に2回ほど定期的に運ぶインスタント食品で、食欲を補っていた。
母は、気丈で、他人と群れることが好きではない性格なので、自宅にヘルパーさんには来て頂いてはいたものの、デイ・サービスに出かけて、皆と一緒に会話を楽しむようなことは一切しなかった。独りで暮らしている方が気楽で良いといつも言い、介護施設に入りたいというような素振りは一切見せなかった。しかし、こんな状態はいつまで続くのだろうという不安は、私には、いつもあった。
10年ほど前に、妻の母を山形から横浜に引き取り、自宅の近所に住まわせ、妻がその介護に努めていたが、2年も経たないうちに身体を壊してしまった。介護は、実に重労働で、実の親子ですら難しい。山形出身の妻も、平塚出身の私も、横浜の地域事情には疎く、義母は94歳で亡くなるまで、5ヶ所も介護施設を転々と移ることになった。「もう出て行ってください」と言われたり、「こんな所では可哀想だ」と考えたり、介護施設との相性は本当に難しい。それでも、最後に辿り着いた施設では、亡くなるまで、本当によく面倒をみて頂いた。
母を、いつ介護施設に預けるか? その決断が迫られる時は突然訪れた。弁当を届ける配達の女性から、突然、私の携帯に電話がかかってきた。実は、その前の週に母を慰問に行った時、その女性が弁当を配達に来られたのだ。玄関に出た母は、私を呼んで、「この方、誰かに似てない?」と私に言う。「大竹しのぶさんでしょ!」と私が答えると、母はいたく満足して、「そっくりでしょ!」と言う。そこで、私は、母が代金を支払うことが滞った時に連絡を頂けるよう、携帯電話番号が印刷された名刺を、その「大竹しのぶ」さんに渡した。それで、「大竹しのぶ」さんから、私に電話がかかってきたわけである。
「今、お弁当を届けに来たら出てこられないので、お家に上がってみたら、ベッドの脇にうずくまって苦しんでおられました」と連絡を受けた私が、母に電話をすると、すぐに電話に出て、「もう収まったから大丈夫、心配しないで」と言う。じゃあ明日にでも様子を見に行くかと思ったが、心配になって、もう一度電話をすると、また母が電話に出て「もうダメだ、苦しい」と呻く。それで、私は車に飛び乗り、東名高速、小田原厚木道路を飛ばして平塚の実家に着くなり、顔がいつもの倍に膨らみ、息も絶え絶えの母を見て、119番で救急車を呼んだ。
救急車で病院に運ばれた母は、直ぐに救急救命室に運ばれて酸素吸入を受けた。血圧は何と235にまで上昇。直ぐに駆けつけてくれた医師の末弟も、「これはダメだな」と言う。早速、入院手続きをして、翌日持参する入院グッズのリストを渡される。しかし、翌日は、私が社外取締役を務める会社の取締役会。末弟に年次休暇を取ってもらい入院支度品を届けてもらうことにした。兄弟とは、本当に有難いものである。そして、その翌々日、私と次弟が病院を訪れた時に、母は驚くほどの生命力を見せつけ、元の元気な姿に戻っていた。しかし、主治医の言葉は、「お母さんは、奇跡的な回復をされており、2−3週間後には退院できると思いますが、もはや、退院後、お一人で暮らすことは不可能だと思いますよ」だった。
遂に、その日が来た。母を介護施設に入れる日が突然やって来た。早速、病院の地域連携室でケース・ワーカーの方の予約をとり、無事に退院できることを前提に、介護施設を探す決心をした。しかし、やはり、恐れていることが起きた。母が以前から望んでいた、年金+アルファ(自分の預貯金の取り崩しで賄える)で入れる施設は、そう簡単には見つからない。何しろ、母のように、あの厳しい戦争をくぐり抜けて来た人たちは、逞しくて、そう簡単には死なない。下手をすれば、親子逆転だって十分にあり得る。だからこそ、金銭的に持続性のある施設を選ばなくてはならないのだ。
ネットで調べたり、平塚に住む友人たちに、いろいろ聞いたりしたが、どうも要領を得ない。もう誰でも、あたりかまわず相談することとし、自宅の近くに住んでおられる犬の散歩仲間が、平塚江南高校の後輩であることを思い出した。その方は大手広告代理店をリタイアされ自治会の副会長も勤められている。汐留でも昼休みに歩いている時に、何度かお会いした大変親しい仲である。早速、犬の散歩の時に、お聞きしたら、お父上が昨年入所した平塚の介護施設が、新設されたばかりで、とっても良いとの紹介を受けた。しかし、どうしたら、そんな素晴しい所に入れるのだろうか?
もう退院まで、あと1週間に迫った時に、母親のケア・マネージャーとしてお世話になっていた方の事務所に相談に行った。そこで、奇跡が起きた。ケア・マネージャーから推奨された施設こそが、あの自治会副会長から推薦された施設だったのだ。ケア・マネージャーは、以前から、私の母の独り暮らしをいたく心配されていて、今回も救急車が自宅に来た時に、たまたま通りかかった母のヘルパーさんから連絡を受けて、母の容態を大変心配してくださっていた。母が入院した時点で、既に独自に介護施設を探し始めて下さっていたのだった。「ここは、いかがですか」とケア・マネージャーが私に勧める。直ぐに、私は「ここで、お願いします」と返答した。「ご覧にならなくても良いのですか?」とケア・マネージャー。だって、こんな奇跡を断る理由など全くない。
介護保険証と印鑑を持っていた私は、すぐさまケア・マネージャーの事務所で申込書を作成した。その4日後に、ケア・マネージャー、介護施設の責任者、病院のケース・ワーカーと私の4者面談を行って頂き、無事、介護施設への入所が決定した。その3日後の今日。母は、無事、病院を退院して、介護施設に入所できた。母は、「ここは、どこなの?」と、私たちに何度も聞いた。「もう一度、自宅で暮らせるように、リハビリをするための施設だよ」と言うと、頷いて納得する。歴史はあるが、既に老朽化した病院から、ピカピカの施設に移って、何だか満足げな表情でもある。
私たちが一番恐れていた「もう、こんなところは嫌だ。自分の家に帰る」と言う苦情を母は決して言わなかった。きっと、これまでの16年間にわたる独り暮らしは、心細く、不安な毎日だったに違いない。私たちは、なんと親不孝な息子だったのだろうか。退院の時の医師の説明では、母の病状は大動脈弁狭窄症。弁の周囲の血管の径は0.5平方センチで、余命は、あと2年だと言う。いや、そんなことはない。不死身の母は、そんな簡単には死なない。その間、これまでの親不孝を償うべく、足繁く、母の介護施設に通おうと誓う。