今回は、自治体業務獲得の支援サービスのコンサルタントとして、その名を轟かせている、LGブレイクスルー代表取締役、古田智子さんの物語である。智子さんは、自らの大切なノウハウを著作として世にオープンにしたベストセラー「地方自治体に営業に行こう」を出版され、その太っ腹さで、支援企業だけでなく、自治体からも、ますます高い評判を得ておられる方で、私も、富士通を卒業して、富士通総研というコンサル会社に転身した身として、智子さんは、同業者として大変尊敬する方でもある。
その智子さんが、昨年の6月剃髪されたご自身の写真をFacebookに投稿されたのには、私は大きな衝撃を受けた。もともと美しい方であるが、その写真は、神々しい美しさを表していた。表現は良くないかもしれないが、その智子さんの写真は、怪しいエロティシズムまでも醸し出しており、いわゆる病のやつれや、憐れっぽい表情など微塵も感じさせるものではなかった。その投稿に添えられていた智子さんコメントは、「乳がんを告知されてから、もうすぐ1年。やっと、生還しました。今日からFacebookを再開します」というものだった。
そうだったのか、あの無敵だった辣腕コンサルタントも、そう容易には叶わぬ事態と戦っていたのだと思わず感慨にふけった。早速、お会いしたいと思ったが、あの強気な智子さんのことである。本当は、どういう状態なのか、よくわからないので、無理をお願いするのはと、ご遠慮申し上げていた。ところが、先日、智子さんのお祖母様の墓参りということで高知の秘境、四万十川をも凌ぐ、日本一の清流である仁淀川でダイビングしている智子さんの姿を発見した。
仁淀川の清流は「仁淀ブルー」として知られ、その霊水にダイビングして潜水した智子さんの髪は、抗がん剤の副作用ですっかりダメージを受けてチリジリになっていたのが、霊水のせいで、元のさらりとした美しい髪に戻ったのだという。なんという奇跡であろうか。そのようにして智子さんが「すっかり元気になった」と確信し、ぜひお会いしたいとお願いした。この度、智子さんから快く引き受けて下さったのは、同じガン患者の戦友としても大変嬉しいことであった。
そして、智子さんにインタビューさせて頂き、私はさらに多くのことを学ばせて頂いた。やはり、あのFacebookに投稿された智子さんの剃髪された写真には深い意味があった。そこには智子さんの並々ならぬ思いが込められていたのである。2014年10月、乳がんと告知された智子さんは、外科医、抗がん剤の専門医、放射線の専門医、病理学の専門医と4人の高名な医師からセカンドオピニオンを得て、外科手術、抗がん剤、放射線治療の3点セットで万全の治療を受けることにした。
そこでも、智子さんは、治療の副作用や頭髪が抜けることを懸念して、万全な治療を受けることに躊躇する女性が多くいることに衝撃を受けた。特に、髪は女性の命として大切にされていて、そう簡単には諦められないことも知った。智子さんは、そうした女性たちに、たとえ髪を全て失っても、こんなに綺麗でいられるのだということを自身の姿で訴えたかったのだという。この写真は、確かに、その主張を見事に訴求していた。
手術の日が決定したので、クライアントにご迷惑がかかってはいけないと、事前にリスケジュールをお願いに行った時に、智子さんはクライアントの発言にさらに大きな衝撃を受けた。「それでは、これまでの契約を解除させていただきます。大変なことになりましたね、お大事になさって下さい」と、まるで智子さんが不治の病になり、余命いくばくもない運命に心から同情するという対応だったのだ。
一般社会のガンという病気に対する対応は、そういうものなのだということを智子さんは、そこで初めて知った。自分は、仕事を断られただけだから、まだ良い方で、世の中には、乳がんになったというだけで離婚される女性も少なくないのだという。なんという理不尽さなのだろうか。そうした実態を知り、智子さんは、ビーシーアンドミーというNPOを立ち上げた。(BCは乳がんの意味)
これまで、乳がん患者同士のつながりを促すNPOは数多くあるが、智子さんが立ち上げたNPOは乳がん患者とは無関係の方々に乳がんの実態をよく知ってもらうための活動を支援するものであった。智子さんが私に熱く訴えたのは、乳がんは全てのガンの中で特別なガンなのだという。乳がん以外のガンは、高齢になるほどかかりやすいのに、乳がんだけは30代から40代がピークであり、50代以降は減少傾向にある。乳がんが、女性の働き盛り、育児の盛りに最も発生しやすいガンであることこそが大きな問題なのだという。
だからこそ、初期段階で早く見つけること、副作用など気にしないで完全な治療を受けることを前提とすれば、乳がんは決して致命的な疾患ではないのだということを世の中の雇用者や夫に知ってもらいたい。智子さんが立ち上げたNPOは、乳がんになった女性に対して、正しい知識を持って優しく、その社会復帰を応援してもらいたいという主旨があった。もう一つは、他のガンと違い、乳がんだけは若い人がなるガンであるからこそ、女性が30代という早い時期からきちんと検診を受け、早い段階で発見できるような体制、職場の雰囲気作りをしてもらいたいという願いであった。
さて、こうした卓越した人柄の智子さんは、一体、どのように育ったのだろうか。1965年に東京都で生まれた智子さんは大手商事会社に勤務する父親と一緒に4歳から小学校5年生までインドのニューデリーで暮らした。現地では日本人学校に通っていたが、それでも日本のように肩苦しい授業ではなくて自由闊達な教育を受けて育つこととなった。インドでの生活の中で一番印象に残っているのは、ムガール帝国の皇帝が愛妻のために建てた、あの壮麗な建物タージ・マハールだった。智子さんは、その時、将来は建築家になりたいと思ったのである。
日本に帰国した智子さんは、慶応大学中等部に入学、絵が大好きで美術部に所属した。慶應義塾女子高校から慶応大学に進学した。大学2年生になる時、お父上がユーゴスラビア支店長として赴任するのをきっかけに大学を休学し、共産圏の国の事情を体験したいと現地生活を送り、日本から訪問するお父上の顧客を接待したり、現地レストランでアルバイトをしたりした。
大学を卒業した智子さんは、大手百貨店に就職した。日本がバブルの時代、智子さんは高級雑貨売り場で高額のバッグをバリバリ販売し、その業績を求められて2年目には売り場の統括に昇進した。そうした中で、人生がうまく行きだすと、果たして、自分の人生は、これで良いのかという疑問も首をもたげてきた。インドで感動したタージ・マハールの姿が思い出され、とうとう智子さんは、百貨店を辞めて建築の専門学校に通うことになった。しかし、95年に建築の専門学校を卒業した時には、日本はとっくにバブルが弾けていて、とりわけ建築業界は厳しい状況にあり30歳の独身女性を雇ってくれるところは皆無だった。
それでも、50社以上を回って、ようやく最終面接に残った1社も、結局不採用だったが、採用担当があまりに哀れに思ったのか「あなたのような根性のある人は初めて見た。先輩の会社に紹介しようと、ある建設コンサルタント会社を紹介してくれた。その会社でアルバイトとして働き始めて、夜昼を問わずバリバリ働いた結果、半年で正社員として採用された。地方公共団体向けの建設商談の仕事というのは、元来男社会であり、毎日、怒鳴られながら、夜討ち朝駆けという過酷な仕事をこなしていった。そして、98年に上司がスピンアウトしたベンチャー系シンクタンクに同行し、7名の社員が30名の大世帯になるまで、夜昼を問わず働いた。
そうした努力と実績が業界でも知られるところになり、ヘッドハンターから誘いがかかり、7年後の2005年には、官公庁向け知的専門集団に転職した。こうして、あしかけ18年のコンサルタント経験から得た経験に基づいて独自の営業スタイルを確立したので、智子さんは、2012年に株式会社LGブレイクスルーを立ち上げた。LGはLocal Government(地方政府)の意味である。この会社は、単に地方自治体向けビジネス提案の支援だけでなく、顧客の顧客である地方自治体が豊かになり、地域活性化に貢献できることを目的としている。まさに、地方創生こそが智子さんのビジネスの大義である。
智子さんは、最近、コンサルの仕事を通じて思うところがある。それは、どうして世の中が公務員のバッシングをして憂さ晴らしをするのだろうかということである。智子さんが仕事で付き合っている多くの公務員の方々は、皆、私欲をそっちのけにして大義に基づいて仕事をしているのに、世間は、どうしてバッシングして喜んでいるのだろうか。もっと真面目に働いている人を褒めて、彼らのモチベーションを高めるようにしないと勿体ないというのである。智子さんは、「自治体職員 勝手に応援組」というフェイスブックページを立ち上げ、頑張る地方公務員を応援して元気づけようと意気込んでいる。
乳がんという病にもめげず、むしろ、それを梃子として世直しを目指す、地域活性化コンサルタントである古田智子さんは、日本を代表する光り輝く女性の一人である。私も、及ばずながら、これからも智子さんを精一杯応援をしていきたい。