2016年9月 のアーカイブ

349  光り輝やく女性たちの物語(14)

2016年9月18日 日曜日

今から2年前、富士通が年に数回、パートナーの方々をお招きして開催する女子プロを交えたチャリティーゴルフコンペに参加した。日本を代表する女子プロ33人をお招きして33組のチームが各ホールからショットガン方式でスタートした。私の組は、シングルHCをお持ちの上級者のお客様が二人と2004年のミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープンで優勝された山岸陽子プロだった。私は、山岸プロをよく存じ上げなかったが、パートナーの皆様は、すでにママさんとなられていた美人ゴルファーの陽子さんを良くご存知で、スタート前に皆様、ご挨拶に来られていた。

私も一緒に回り始めて驚いたのだが、陽子さんは容姿が淡麗だけでなくスイングフォームが素晴らしく綺麗なのだ。さらに、ゆっくりとしたスイングで軽く250ヤード以上飛ばすパワーヒッターでもあった。これなら、皆さん、一緒にラウンドしたいと思うのも無理はない。朝から、陽子さんに、多くの方から声がかかってくるのも当然だと思い、幸運な組み合わせに恵まれたと感謝した。そして、運命の武蔵丘ゴルフコース12番ショートホールを迎えたのだった。

富士通主催のプロアマゴルフのルールは、まず、お客様お二人が先に打って頂き、それから主催者のメンバーが打ち、最後の女子プロが打って、ベストボールを選択するということになっている。その12番ショートホールでは、シングルHCのお客様二人とも、ピンからかなり近い場所に乗せられた。これで、私はほっとした。もう、私は、どこに打っても構わない。もともと、これまでの私は、ショートホールでティーショットがグリーンに乗ることなど滅多にないので、この二人以上に近くつけることなど有りえないからだ。

気が楽になった私は、149ヤードの、このショートホールを6番アイアンで本当に軽く打った。そして、ボールはピンを目指して高く舞い上がった。次の瞬間、陽子さんは「これ、入るわよ!」と口にされ、ボールが頂点に達するころ「入れー」と大声で叫ばれた。周りじゅうの人々が、その声を聞いて、私が打ったボールに注目した。果たして、そのボールはピンの2mほど前に落下し、ゆっくりと転がってホールに吸い込まれた。全く想像だにしなかった「ホールインワン」である。

次の瞬間、私の頭は真っ白になった。何しろ132人のプレーヤが参加する大コンペである。よりによって、こんなスケールの大きなコンペで「ホールインワン」はないだろう。それでも、気をとり直し、ポケットの入れていたカメラでお客様二人と陽子さんを交えて記念写真を撮った。そして、その時、プロって本当に凄いなと感動した。何しろ打った瞬間に、それが入ると感じ取るのだ。多分、入るために必要な軌道が逆算して分かっていて、打ったボールが、その軌道に乗ったということがわかるのだろう。本当に凄い。

今回は、その陽子さんの物語をこれから書いてみたい。陽子さんは、福井県勝山市に生まれ、小学校1年生から高校3年生までアルペンスキーに熱中し、福井県では3位に入賞するプレーヤになっていた。陽子さんとしては、絶対に優勝できると思って頑張っていた。しかし、お父上は、いくら頑張っても絶対に優勝なんて出来ないし、スキーのプロを目指したって活躍できるわけがないと大変厳しい評価だった。

その、お父上は地元福井県で繊維関連の会社を経営されていて、趣味のゴルフはHC1で、もはや、趣味の域を超える領域に達していた。そのお父上の影響もあったのだろう、高校卒業後、陽子さんは、お隣の岐阜県に前の年に開校した日本女子ゴルフ専門学校への入学を自分の意思で決めた。これまで、陽子さんは、ゴルフは一度もしたことがなかったが、ゴルフなら、お父上も反対しないだろうと思ったのと、いつか女子プロになって、お父上を見返してやろうという気持ちも多少はあったかもしれない。

そこで陽子さんは、たった1年で、スキーで鍛えられた体幹を活かして中日女子アマで優勝し、東海クラシックへの出場権を得るなど、アマ女子ゴルフ界の新星となった。この東海クラッシクでプロと一緒にラウンドした陽子さんは、女子プロを目指すことを決め、アマチュアの競技会に参加することはやめて、いきなりプロテストを受けることにした。1994年8月、挑戦4回目で、プロテストに合格した陽子さんは、翌年の1995年4月には、25歳で単身アメリカに渡った。

「よく、一人でアメリカに行くことを決心しましたね」と私が尋ねると、陽子さんは、「東京の大学を出た母が、地方で育つ娘が東京の子供に対抗するには、英語で卓越した才能を持つしかないと、小学校低学年から中学生まで、外国人が主宰する本格的な英会話学校に通わせてくれました。だから、言葉に対しては何の不安もありませんでした。」と言う。それで、陽子さんは南カルフォルニアのゴルフスクールに席を置き、アメリカの女子プロ下部ツアーに参戦し、3年間で2度の優勝も果たしている。

陽子さんの華麗なスイングフォームは、この米国でのゴルフ修行から来ているようだ。米国から帰国した陽子さんは、一時、日本のゴルフコーチにもついたが、やはり米国でなくてはと、暇を見つけては、米国のゴルフスクールに通った。米国の何が日本と違うかと言えば、米国の教え方が科学的だと言うのである。すべてのスイングをビデオに録画して、陽子さんのスイングが、理想のクラブ軌道とどこがどう違うのかを徹底的に明らかにした。本人が、自分の目で見て納得出来る教え方である。

本格的にゴルフを修業したのが18歳と、プロゴルファーとして遅いスタートだったが、プロに転向してから11年目に、陽子さんは、遂に、ミヤギテレビ杯で古閑美保プロとプレーオフの末に優勝した。その時の優勝インタビューで、陽子さんは記者に対して「私はゴルフが好きで、一生懸命やってきましたが、これまで、辛いとか苦しいと思ったことは一度もありませんでした。ぜひ、明日の新聞には『苦節11年』なんて書かないでください」と全く涙も見せずに気丈に答えている。いつも、前向きに生きている陽子さんらしい言葉である。

日本の女子プロは、1,000人近くいるが、優勝を経験する女子プロはほんの一握りである。プロゴルファーは男子も女子も、一度プロ登録を果たせば、会費を支払っている限り一生涯プロである。もちろん陽子さんも、今も立派な女子プロであり、毎月4−5回はプロとして、プロアマ戦に招待され立派に仕事を果たしている。しかし、39歳を境に、名古屋グランパス所属のコーチで、元Jリーガーの飯島寿久氏と結婚し、ツアーに挑戦することより母親になる道を選ぶことにした。

現在、陽子さんは、3年前に名古屋グランパスのコーチを辞任した、ご主人と二人で名古屋市郊外の閑静な住宅地に、心休まる喫茶店を経営している。プロアスリートたちの華やかな人生は短い。その後に、どのように暮らしていくかが、極めて大事なこととなる。陽子さんと、ご主人は、そのことをわきまえた上で、これからの長い第二の人生設計をされている。東京町田市で生まれた、ご主人の飯島寿久さんは、サッカーの名門である帝京高校から東海大学を経て、名古屋グランパスで活躍された後、なんと富士通がサポートする川崎フロンターレにも籍を置かれたことがあった。現役引退後はずっと名古屋グランパスのコーチをされてきた。

この喫茶店も、もともと、陽子さんが、娘さんの幼稚園の送り迎えの際に待ち時間を過ごしていた憩いの場だったと言う。何度も通っている内に、オーナーから買い取らないかと誘われた。ちょうど名古屋グランパスのコーチを退任した、ご主人が、第二の人生のために、この喫茶店を買い取ることを決断したのだという。今、お二人の共通の生きがいは、この9月に名古屋インターナショナルスクールの小学校1年生になった娘さんの存在である。

米国で修業した陽子さん、英国にサッカー留学し、世界各地で日本代表として戦った飯島氏が、娘さんに期待しているのはグローバル人材になって欲しいということである。幼稚園からインターナショナル校に通っている娘さんは、小さい時から多くの外国人の子供達と付き合うことで、英語が堪能なことはもちろん、多様な考え方を容認できる寛容な子供に育っているという。目に入れても痛くないくらい可愛い娘さんがすくすくと育っていく様子は、私も、陽子さんのFacebookで楽しくみさせていただいている。

「娘さんをプロゴルファーにしたいとは思わないのですか?」という私の問いかけに、「私が18歳からゴルフを始めたのは遅すぎた。それでも、ゴルフで生きていくために、全てを犠牲にして、非常に狭い範囲で生きてきた。娘には、もっと広い世界を知ってほしい。単に知識を詰め込む日本の教育より、自分の頭で考えさせる海外の教育を受けさせることによって、娘には、世界に羽ばたいてほしい」と陽子さんは語る。

共に厳しい世界の水準を知り尽くしたプロアスリートの夫婦が選択した、娘さんの教育方針には、やはり重みがある。そして、今の陽子さんは、ここまで好きなことをやって生きてこられたのは、祖父母や両親のおかげだと感謝している。若い時には、厳しい父親の意見にはついていけないと思ったことがあったが、いざ、自分が親になってみると、その父親の愛情が身にしみるという。今も立派に現役の女子プロを続けながら、自らが信じるやり方で子育てをし、ご主人と一緒に新たな人生を歩み始めた陽子さんは、まさに、光り輝く女性である。