2016年2月 のアーカイブ

332 光り輝く女性たちの物語 (8)

2016年2月27日 土曜日

今から4年ほど前だろうか。富士通総研の同僚が「伊東さん、私の親友がコンサートを開くので行きませんか?」と誘ってきた。見るとオペラ歌手のソロコンサートのパンフである。恥ずかしながら、私は、これまで、交響楽団のコンサートには何度か行ったことがあるがオペラ歌手のコンサートには行ったことがなかった。「ここで出演する武井涼子さん、私の親友なんだけど、どうもお父さんが富士通の役員だったらしいの。伊東さん、知りませんか?」と言う。

私が、武井専務を知らないわけがない。武井専務は、私が尊敬する大先輩で、富士通の次期社長候補として最右翼にありながら、在任中に、病に倒れて急逝された方である。ご家族にとっても、大変ショックだったことと推察できるが、富士通にとっても大きな損失であった。その、故武井専務のお嬢さんが公演されるのであれば、聴きに行かずに済まされるわけがない。早速、彼女と秘書と3人で涼子さんの公演を聴きに行った。

そのコンサートは、東京二期会の主催で、所属のオペラ歌手数人が、それぞれピアノを伴奏にソロで歌われたのだが、涼子さんだけは、他の方と全く違っていた。涼子さんの歌は、私たちの心臓をしっかり鷲掴みにして離さないのである。涼子さんの豊かな声量は、泣きそうになるという表現しか思いつかない感動であった。そして、パンフレットのプロフィールを見ると涼子さん以外は、全て名門音楽大学の出身なのに、涼子さんだけは、東京大学卒、米国コロンビア大学大学院MBA取得と書かれている。

後で涼子さんから聞いたことだが、涼子さんは、このコンサートが東京二期会正会員となって初めての公演だった。日本で活動するオペラ歌手にとって二期会の正会員とは、藤原歌劇団の団員と並び、プロのオペラ歌手としての存在力をある程度示せる資格のようなものだという。通常は、音楽大学を卒業後、二期会オペラ研修所にて1年から3年の研修期間をへて入会する。マスタークラスと言う一番難しいクラスを終了した人は正会員に。惜しくもそのクラスは終了できなかった方でも準会員には成れて、7年間を経れば正会員に昇格できるという制度である。しかし、涼子さんは、そもそも音楽大学を卒業していないし、研修所にも通っていない。

涼子さんは、もうひとつの入会方法である東京二期会外部からの厳格なオーデションに合格して、研修制度を経ないで、いきなり正会員になった。これは、教習所を経ずに、運転免許を試験場に一発で取りに行くのと同じようなものだという。一体、どうしたら、そんなことが出来るのだろうか? 涼子さんは、東京の進学校として有名な学芸大学附属中学校、高校の6年間において、確かに音楽部に所属して、オペラに出演していたことはあった。しかし、進学校なので、あくまで大学受験が主目的である。涼子さんも、その熾烈な受験戦争に勝利して東大に合格した。合唱団などの活動は続けていたが、その時点で、音楽大学に入って、音楽一本で生きていくという夢には、すでに終止符を打っていた。

東大社会学科を卒業した涼子さんはマーケティング分野のプロを目指し、見事、日本最大の広告会社である電通に入社する。涼子さんは、電通の中でも、トヨタなど日本一流の企業を顧客に持つ花形部門で3年間働くが、やはり、もっとグローバルな仕事がしたくなり、米国ニューヨークに本社を持つ世界3大広告代理店であるオグルヴィ・アンド・メイザー社に転職する。4年間、米国人上司の下で、英語で仕事をこなすうちに、また、外資系の社員たちの、自主独立の気概を学ぶうちに、自身のキャリアは、会社に敷かれたレールに頼るのではなく、自分で設計しなくはならないものだと気がつかされた。

そこで、マーケターとして大成するためにも、顧客側でのマーケティングの仕事を一度経験してみようと思うようになる。そして、とうとう、その夢が叶えられそうになった。あのITバブルの時代に、次々と新興企業が産声をあげる中で、涼子さんは、あの有名なプライスライン・ドットコムの日本上陸の準備室にマーケティング・マネージャーとして採用された。しかし、その直後に到来するITバブル崩壊で、準備室は閉鎖され、涼子さんの代理店側から顧客側でのマーケティング担当者にキャリアを展開させようという夢は、一旦崩壊し、涼子さんは仕事を失ったのだった。

そこで、次に涼子さんが考えたことは、留学をしてMBAを取得し、キャリアチェンジをするということだった。スイスに本拠を置く世界で最も優れたビジネススクールの一つであるIMDへの留学だ。ちょうど2002年に日韓共同主催のサッカーワールドカップ開催が予定されていた時で、スイスに本拠地のあるFIFAの傘下でマーケティング部門をになうFIFAマーケティングが2002年までの期限付きの仕事ではあるが人を募集していた。そこに転職し、日韓主催のワールドカップが終わるまで、この会社で働いて、オフィスが閉鎖されたらIMDへ留学しようと考えたわけである。

しかし、ワールドカップが開催される年であった2002年1月、お父上の武井専務が、突然、病に倒れることとなった。そして、2002年6月30日横浜の日産スタジアムでドイツ・ブラジルの決勝戦が無事終了した1週間後に武井専務は亡くなられた。涼子さんは「父は、私の大事な仕事であるワールドカップが無事に終わるまで待っていてくれたんです」と言う。そして、武井家は大黒柱を失い、日韓ワールドカップが終わったFIFAマーケティングのオフィスも閉鎖され涼子さんは仕事も失った。もちろん、スイスIMD留学の夢も泡と消えた。転職もかさんでいる中、次の就職先もなかなか決まらなかったが、TSUTAYAで有名なCCC(カルチャー・コンビニエンス・クラブ)に就職して、経営企画室のチームリーダーとしての仕事をなんとか見つけ、懸命に仕事を行った。

涼子さんはCCCで、熊平美香さんというハーバードビジネススクールを卒業した素晴らしい女性に出会った。熊平さんは、銀行の金庫のシェア、ナンバーワンの会社である、クマヒラの創業者のお孫さんで、日本マクドナルドを創業した藤田田さんの元でさまざまな事業開発を行った後に、独立されて、ご自身の会社を持たれたところだった。そして、CCCの増田社長のアドバイザーに就任されたのだった。涼子さんがプロジェクト・リーダーを務めていたインターナル・ブランディングのアドバイザーも熊平さんが勤めることになり、そこで二人は一緒に働くことになったのだ。熊平さんは、自身の経験も踏まえて、是非MBAを取るべきである、と、涼子さんの背中を再び留学へと押すのである。

そして、年齢も行きすぎた、と留学をあきらめていた涼子さんも再度MBAをとる夢をかなえようと考えるようになり、お父上が亡くなられて4年後の2006年に、ニューヨークにあるコロンビア大学大学院MBAコースに入学する。この時涼子さんは、ニューヨークとボストンにある大学を主に受験している。どうしてもその都市のどちらかであるひとつの理由があった。社会人に開放されている有名音楽大学のコースがあるのがこの二都市だったのだ。涼子さんは、アメリカに行ったら、、マーケティングの仕事をしながらも、仕事の傍らセミプロレベルの趣味として続けていた声楽をもう一度きちんと学びたいと思っていたのだ。

コロンビア大学に入ると同時に、涼子さんは世界でも名門の音楽大学であるジュリアード音楽院の夜学の門をたたく。すると、ジュリアード音楽院の一般人向けの夜学コースの創設者でもあったジョイス・マクリーン先生が声聞いてくださり、一般向けにはレベルがあうクラスがないから、と自分のプライベートレッスンの生徒として涼子さんを受け入れてくれたのだ。

さらに、先生は涼子さんにはフランスの歌曲やオペラの知識が足りないと思い、ジュリアード音楽院のフランス音楽のコーチとして有名なトーマス・グラップ先生をご紹介くださった。グラッブ先生は、昼間のジュリアード音楽院の一般の音楽大学院生が学んでいる修士の授業で、フランス歌曲の勉強をしたほうがいいと言ってくれた。

なんと、涼子さんは、あの世界的に有名なジュリアード音楽院に正式に入学もしていないのに学ぶことを許されたのだ。涼子さんの、入室用セキュリティーカードは生徒用ではなく補助員(チューター)用のものが支給された。涼子さんは、コロンビア大学大学院で2年間MBAコースを学びながら、同時にジュリアード音楽院で世界最高レベルのオペラの授業を、なんと無償で学ぶことができた。

日本に帰国した涼子さんは、コンサルタント会社であるマッキンゼーに入社し、2年間働き、その後、ディズニー社に転職し、シニア・マネージャーとしてマーベルやスターウォーズなどのブランドライセンス事業のマーケティング業務を行うようになる。そうしたエンターテインメント事業を行う中で、涼子さんは、もう一度、今の涼子さんのキャリアがあるからこそ可能な芸術に関する活動もやってみたいと思うようになる。

そして、その活動に説得力を持たせるために、きちんとした歌手として歌えることを示せるようにと、2011年、東京二期会のオーディションを受けることになった。見事合格して、その最初の公演を私が聴くことになったのは既に冒頭でお話ししたとおりである。

今、涼子さんはグロービス経営大学院MBAコースで英語MBAコースのマーケティング責任者としての業務を行いながらマーケティングの准教授としても教鞭をとっている。グロービスの英語MBAコースは、通学とオンラインで学べるパートタイムと、12か月でMBAを取得するフルタイムの二つのプログラムがあり、授業は全て英語である。

ことにフルタイムの受講生は90%以上が外国人で、36カ国もの国から来ているそうだ。彼らは、卒業すると、主に日系企業に就職し、日本の本社やそれぞれの国で要職について活躍しているのだという。実は、今の日本は人手不足からか、世界で一番、就労ビザが容易に取得できる国で、日本語の話せる優秀な人材には仕事がかなりあるのだそうだ。

涼子さんは、これからの生き様について、次のように語っている。仕事には三つの要素がある。稼ぐこと、好きなこと、得意なこと。この三つに常に携わっていれば満足した仕事人生を送ることができるはずである。つまり、同時にこの3つを満たすように、3つの目的を持って生きたいのだという。一番目は、稼ぐために働く。これは、自分がこれまで培ってきたマーケティングのプロとしての仕事で、稼げて、得意で、ある程度は好きなことに時間を割く生き方である。

2番目は、オペラ歌手として生きること。残念ながら、今の日本では、オペラ歌手は歌うだけでは、充分なお金は得られない。しかし、これは涼子さんにとっては儲からないけれど、純粋に一番好きで、しかもある程度得意なことで、両方をやっていくことでバランスがとれると涼子さんは言う。

3番目は社会貢献である。自分に出来る社会貢献は、やはり歌とマーケターとしての力の両方を通じて行えることだという。特に、日本のソフトパワー強化への貢献として、日本歌曲を世界に広めていくことが効果的だという。1919年、作曲家の山田耕作がニューヨークのカーネギーホールを自分のオリジナル曲だけで3日間満席にしたことや、日本にはシューベルトが作った曲などに勝るとも劣らないとても美しい芸術歌曲がたくさんあることを、多くの日本人は知らない。西欧と同じフォーマットではない歌舞伎や能をいくら海外で上演しても、西欧社会から尊敬を勝ち得るという意味で、対等なソフトパワーを発揮するのは難しいと、涼子さんは考えた。

さながら、それは、日本人が京劇やバリダンスを見るのに似ているので。一方、西欧の音楽フォーマット、オペラのフォーマットで作られている日本で作曲された歌曲は、日本的音階や日本の舞台芸術の伝統を生かしながらも、西欧と同じ土俵で、十分対抗できる力を持っているし、クラシック音楽だから、日本人だけでなく世界の人に演奏してもらうことができる。日本の、西欧のフォーマットによる舞台芸術における創作活動が西欧に尊敬されて初めて、そのルーツである日本音楽や日本の舞台芸術への尊敬を勝ち取ることができるはずだと涼子さんは言う。

世界で日本の歌がクラシックとして認められるようになるために、日本の実力ある若手声楽家を世界に送り出し、日本人にも西洋クラシックの声楽がある音楽、オペラや歌曲の素晴らしさを知ってもらう。これは自分のオペラ歌手としての力や知識も、マーケターとしての力も最大限に活かせることであるし、多分日本でこの両方のスキルを持つ人は少ないであろう。

だから、オンリーワンの活動としてこの活動を大きくしていきたいとのこと。この活動については2012年にNPO法人に経産省の後援名義をつけてもらい、2014年と2015年にはニューヨークの国連本部で日本歌曲のコンサートを行ったり、昨年からはアメリカから先生を呼んで若手の実力ある歌手に指導を行って音楽留学の糸口を作ったりと、仲間とともに積極的に活動をしているそうだ。日本の歌が持つソフトパワーの極大化を図ることを自分のライフワークにしたいと話す涼子さんは、なんとスケールの大きい、光り輝く女性なんだろうか。

なお、涼子さんは、2015年10月号の「Rola」(新潮社)にて「日本の凄い女性100人」に選ばれている。

331  光り輝く女性たちの物語 (7)

2016年2月11日 木曜日

東京の中高一貫校では女子御三家の一つである桜蔭学園を経て、東大を卒業し、シカゴに本社がある世界最大手の人材紹介企業であるハイドリック・アンド・ストラグルズのパートナーを務める渡辺 紀子さんが、今回の登場人物である。こうした経歴を見ると、どれほど高慢ちきな女性だろうと思われるかも知れないが、実物の紀子さんは、いつも優しい笑みを浮かべる、庶民的で、とてもチャーミングな女性である。このギャップに、日本を代表する大企業の経営TOPが、つい心を許し、社内外の誰にも話したことがない悩みを紀子さんに打ち明けてしまうのだ。

現経営陣の穴を埋める人材の探索だけでなく、創業者であれば、息子に譲るまでの間を埋めてくれる中継ぎの後継者探しを頼まれることもある。それだけでなく、息子さんや娘さんの結婚相手まで探してくれないか?と頼まれることもしばしばで、紀子さんは、自分が結婚紹介業か?と錯覚することもあるという。だから、紀子さんは、ここ数年、ヘッドハンターとして、日本でトップクラスの業績を上げ続けている。しかし、それほどまでに華々しい活躍をしている紀子さんでも、これまでの人生において、女性であるがために数多くの試練を受けてきた。

両親も祖父母も学校教員という教育家庭に生まれ難関の桜蔭中学校に入学した紀子さんは、夏休みに両親の反対を押し切って中国各都市を巡るツアーに参加した。13歳の少女がたった一人で、大人たちに混じって上海、北京と中国の各都市を全く新しい世界として見て歩く様子は、一体、どのようなものだったろうか? この旅行で、紀子さんは、中国の将来に大きな展望があることを確信した。「よし、私は、大学を卒業したら中国でビジネスをする」と決め、紀子さんは、東大文学部中国語中国文学科に進学する。

大学を卒業した紀子さんは、中国でビジネスをしたいという希望を叶えてくれそうな準大手の商社に就職を決めた。その商社は、車や自動車用鋼板を中国に大量に輸出していたからだ。だから、紀子さんは新人研修を終えると鉄鋼部門に配属を希望する。しかし、鉄鋼部門の人事からは「鉄は男がする仕事で、女には向かない」と断られ、結局、女性の紀子さんを受け入れてくれたのは食品部門だけだった。

気を取り直して、食品部門に配属され「私は中国でビジネスをしたい」と上司に希望を言うと「食品部門は中国でビジネスはしていない。どうしても、やりたければ、貴女が自分で始めれば良い」とけんもほろろの対応だった。騙されたと思ったが、もはや仕方がないと諦めて、紀子さんは、新人の立場でありながら中国に通って新たなビジネスを懸命に探し出す。とにかく、朝から晩まで、休日も返上で働いたという。

紀子さんの努力の甲斐もあって、中国での食品部門ビジネスが少しずつ軌道に乗り始めてきた。そして、35歳になった時に、念願叶って中国へ転勤できるという話が部門長からあった。しかし、人事は猛反対。それまで女子の海外駐在はアメリカに一人だけ派遣されていたが、その方はで内勤であった。紀子さんは、まだ途上国段階の中国で、しかもバリバリの営業としての外勤だったので、人事はリスクが大きすぎるというのである。それでも、部門長の説得でなんとか中国への転勤は決定した。

しかし、今度は派遣先の中国側の総代表が、女性の営業は絶対に受け入れられないと反対する。その理由は、顧客接待である。第一の理由は、中国での宴会では、白酒(パイチュウ)で乾杯と一気飲みをする習慣があり、普通の日本人の男性でも簡単に酔い潰れてしまう。しかし、紀子さんは、酒豪であり、白酒の一気飲みなど全く問題ない。理由の第二は、顧客に女性を横に侍らせた二次会である。これを、女性の営業がやれるのか?という懸念であった。これも、結局、紀子さんは、顧客に好みの女性を選んでやり、自分はボーイを相手に飲んで時間を過ごしながら見事にやり遂げた。

紀子さんは、5年間の駐在生活で、現地企業との合弁を2つもやり遂げた。一つは、中国最大の穀物メジャーとの合弁で製パン工場を建設したことだった。北京郊外の更地の掘建小屋で、何もないところから建設を始めたのだという。中方の穀物メジャーは国営企業なので、年に1回男性社員も女性社員も一緒の軍事訓練があるのだという。当然、紀子さんも参加させられた。高さ3メートルの壁を乗り越えて反対側に飛び降りるというようなレンジャー部隊のような訓練もさせられた。訓練はとてもハードだったけれども、中国の企業は、日本の企業より男性も女性も同じように扱うことに大変感動したと紀子さんは言う。こうした紀子さんの努力の甲斐もあって、この会社は、見事な成長を遂げ、今では、中国のスターバックスのパンは、全て、この工場から出荷されるようになった。

しかし、5年間の夢のような中国駐在生活は、会社からの帰任命令で終わりを告げる。日本に帰任したら、自分は、何をするのかという紀子さんの問いかけに会社は、まともに答えてはくれなかった。そんな悩みを抱えている最中に、日本から中国に出張中のヘッドハンター企業の社長から、「中国でヘッドハンターをやってみないか?」と誘いを受ける。これが、紀子さんのヘッドハンターになったキッカケとなった。

しかし、この日系ヘッドハンターに、中国での活動基盤は何もなかったのである。またしても、紀子さんは、ゼロからのスタートだった。まず、日系企業の総経理にしらみつぶしに電話をかけるが、女性のヘッドハンターに中国の人材など探せるわけがないと全て無視された。そこで、紀子さんが取った行動は、まず、狙いをつけた企業の門前まで、全くのアポなしで行くのである。そこから総経理に電話をするのだが、当然、相手にはされない。そこからが、紀子さん流である。「今、会社の門の前まで来ています。お願いですから、10分でもお時間をください。ごく、手短に、お話をさせて下さい」と頼み込むのであった。

一旦、会ってしまえば、どこの日系企業も中国での人材確保は大変な苦労をしているので、日本語も中国語も流暢に話し、中国ビジネス界に多くの人脈を持つ紀子さんの話には、どの総経理も食い入って聞いてしまう。このやり方が、その後、紀子さんの日本でのヘッドハンター活動にも大いに役立つことになる。流石に、日本企業のTOPは、アポなしでは会ってくれないが、アポさえ取れれば、後は、紀子さん流の誠意ある説得術で、大抵の企業TOPは、すぐに心を取り込まれてしまう。話が終わりになる頃には、社内の誰にも話していない極秘の悩み事まで語り始めることなる。

私と紀子さんとの出会いもそうだった。紀子さんは、私の秘書に直接電話をかけて来た。私の秘書は、すぐに私に取り次がないで、紀子さんの電話を一度切った。そして、私には「ご存知の方でないのなら、お会いにならないほうがよろしいと思います」と伝えたのだ。私は、紀子さんが電話で秘書に伝えた所属会社名が日系のヘッドハンター企業であることは知っていたし、私も翌年には会社を退任ということもわかっていたので、とにかく一度会うことにした。つまり、紀子さんが相手を攻めるタイミングというのが実に絶妙なのである。

私は、紀子さんに聞いた。「どうして私を見つけたのですか?」と。「とにかく、顧客の要望があまりにもシビアなので、東証一部上場企業の役員名簿をしらみつぶしに調べました。最初の一次候補は数百人いましたが、10日間かけて、最終的には3人に絞りました。それで、お電話をかけさせて頂きました」という。ヘッドハンターというのも、大変な職業である。こうしたやり方で、年間相当な数の人材紹介をマッチングするのだから、やはりハードな職業である。

そのように、業界でもTOPクラスだった、紀子さんが、あえて日系企業から外資系企業に転職したキッカケは、やはり、女性の待遇だった。日系企業は、ヘッドハンター業界に限らず、どの企業でも、まだ「女性」を意識している。それは、ある意味で、か弱い女性を保護するというナイト精神からかも知れない。若い女性を途上国への駐在には出せない。歓楽街の接待に女性営業は出せない。こうした配慮は、決して悪意からではない。しかし、紀子さんのような女性には全く余計な配慮だった。

今、紀子さんは、シカゴの本社からも注目される存在になっている。紀子さんの商談成功事例が社内で紹介されると、皆が、そのノウハウを聞きに来るという。紀子さんは、今、インド人、カナダ人、オーストラリア人など、日本で働く外国人ヘッドハンターたちの指導者になりつつある。そして、どんなに実績を上げても無冠だった日系企業とは異なり、この世界的に高名なヘッドハンター企業でパートナーの称号を得たのである。企業の経営TOPに直接会うからこそ、ヘッドハンターにとって肩書きは重要である。

外資系企業は、実力さえあれば、入社してから半年も経たないうちに高い地位を授与してしまう。何と、人の使い方が上手いのだろう。人というより、女性の使い方が上手いのだろうか。こんなことを続けていたら、有能な女性は、皆、外資系企業に移ってしまうであろう。「光り輝く女性」の一人である紀子さんの、これまでの貴重な経験は、どうしたら日本が「女性が活躍できる社会」になれるのかという大きな示唆を与えている。

330 光り輝く女性たちの物語   (6) 

2016年2月6日 土曜日

これから、ご紹介する杉山千明さんは、既に高校生の息子を持つ、立派な、お母さんでありながら、Facebookでは友達5000人、フォロワー5300人を抱える、いわばFacebookの女王的な存在である。普段の何でもない投稿でも、直ぐに300人から「いいね」が来るし、プロフィール写真の更新では500人ほどが、たちどころに「いいね」を押して来る。そして多くの投稿が日常的な話題で、一番多いテーマは自宅の庭に咲く美しい花である。一体、どれだけ沢山の花が咲いているのだろうと「あなたの家は植物園?」と聞いたことがある。

千明さんの家は静岡市の山あいで江戸時代から続く農家で、父方の一族には自民党若手のホープである城内実衆議院議員がいる。城内代議士の父上で元警察庁長官だった城内康光氏と千明さんのお父さんは従兄弟である。千明さんの、お父さんも、お母さん共に花が大好きで、しかも、お互いに好きな花の種類が全く異なるので、庭には膨大な種類の花が一年中咲き続けている。千明さん自身、小さい時からの愛読書は園芸大百科であり、東京港区にあった花屋チェーンの店長経験から、今でも花束やアレンジを頼まれている。Facebookに、その作品が時々投稿されるが、それは見事なものである。

さて、千明さんの実家の生業は、元々はお茶とみかん生産者で、現在はイチゴ生産者。イチゴは毎年15000本の苗を作り栽培している。今シーズンも静岡産出の新品種『きらぴ香』を総面積2000平米のハウスで栽培中である。Facebookのプロフィールで千明さんの写真をご覧になられた方は、あまりに綺麗すぎて、これは修正写真ではないかと思われるかも知れないが、実際に会うと、実物はもっと綺麗である。そんな千明さんと私がFacebookで友達になれたのは、千明さんがFacebookを始めたばかりで、未だ100人も友達が居なかった時だからだ。今なら、5000人を超えているので友達申請すらできない。

千明さんの投稿を見ていて、地元の山間部の町おこしや、地域のボランティアとして一生懸命活動している様子が見て取れたので、当時、私が勤務していた富士通総研のコンサルタントが書き起こした地域振興策の本を何冊か、お送りした。それが縁だったのか、それから何ヶ月かした2013年6月に千明さんから連絡があり、自分がキャスターを務めるネットTV番組が始まるので、その第一回のゲストに出演してくれないかと言う依頼が来た。開始当時、このTV番組のスポンサーは教育事業を行う財団で、財界や政界、ジャーナリズムで活躍している人たちを、若い人や世界に向けて紹介することが主旨の番組であった。この第一回の番組(2013/7/13)のビデオは以下のYoutubeでご覧になれる。  https://www.youtube.com/watch?v=_62s5UC0hhE

私は、このスタジオで初めて実物の千明さんである「生」千明に出会った。ここで、第二回の主演予定者であった、あのNHKプロジェクトXのプロデューサーとして有名な今井彰さんにも初めて出会う。私も千明さんも、こうしたTV出演は、初めての事なのに、高名なNHKプロデューサーが目の前で見ているのである。先のyoutubeをご覧になられれば判るが、芸能活動はしていたとはいえ、生番組のMC経験の全く無い、千明さんがガチガチに緊張しているのも致し方ないと思う。

その後、この番組は2年半続き、多くの著名人が出演する。千明さんの地元静岡4区選出である、前環境大臣 望月義夫衆議院議員も、この番組に出演されている。そして、その2年半後の2015/12/9にリニューアルしたネットTVの第一回目に私は再び出演した。 以下のYoutubeをご覧になれば、この2年半で、千明さんのキャスターぶりにも、ずいぶん進歩があったことが判る。 http://www.youtube.com/watch?v=rjTFSF535JM&sns=em

しかし、千明さんにとって、この2年半を含む、ほぼ5年間ほど、Facebookの投稿からは全く窺い知れぬ苦闘の歴史があった。実は、千明さんには、目の中に入れても痛くない、器量好しの、一人息子のA君がいる。A君は、小さい頃から体を動かすのが大好きで、やんちゃで、人一倍手の掛かる子供だったが、人懐っこい性格で、皆んなを笑わせることが大好きな青年である。

このA君は、これまで自由奔放に成長してきたが、小学校高学年になると急に周囲との成長の違いを意識し始め、自分に自信を無くし段々と不登校になっていった。心配した千明さんがA君を連れてこども病院で検査してもらうと、アスペルガー症候群(最近では正式名を自閉症スペクトラムと呼ぶ)とADHDと両方あると診断されたが、A君のIQは小学生でありながら、既に東大生の標準値を遥かに超える高い値であることも分かった。授業中に出歩くなど、友達に比べて多動性も強く、空気が読めない所があり、注意散漫で子供っぽい所もあった。かなり担任泣かせだったそうだ。

日本では、このアスペルガー症候群を「発達障害」と呼ぶが、アメリカでは「障害」と言うより「非凡な才能」という意識がある。過去には、エジソンやアインシュタインもアスペルガーと言われており、最近ではAppleのスティーブ・ジョブスや、Facebook創業者のザッカーバーグもアスペルガーではないかと言われている。世界一のイノベーション発祥の地と言われるシリコンバレーでは小学生の3分の1がアスペルガーの疑いがあるとも言われている。この数値は、アメリカでもダントツに高いが、それも世界中から集まってくる稀有の天才の子供達だからではないかと言われている。だから、シリコンバレーの小中学校は、アスペルガーの子供達をとても大事に指導する。シリコンバレーを支えてきたのは、いつも、非凡な異才達の力だったからだ。

ここで、千明さんは、不登校になりがちの息子のA君を学校に行かせる策として、何と小学校のPTA会長を引き受けたのである。結果、先生達や父母達と仲良くなり、学校や地域に奉仕することで、少しでも息子のA君が抱える問題の理解を得ようと、必死の努力を続けたのであった。先ずは周囲にカミングアウトすることにより独りで抱え込む事を避け、同じ悩みを持つ父母とも助け合えた。A君に協調性を持たせるため、千明さんは、A君に和太鼓やコーラスを習わせ、リトル野球、ボランティア活動などにも参加させた。お祭りやイベントで皆んなと一緒に太鼓をたたくことで連帯感を持たせることができ、小学校は何とか皆と卒業することができた。

しかし、中学校に入学すると、学制服を着る事や、同級生と同じ行動をする事が苦痛で、教室に入ると必ず吐き気や腹痛、チック症状なども表れ、体調が悪くなってしまい、事態はさらに深刻になった。千明さんは、もはや無理やり学校に行くことを強いずに、放課後職員室に顔を出して、プリントをやったり、絵を描いたり、時には担任とグランドでキャッチボールをしてもらったり、定期的に親子でスクールカウンセリングも受けた。今度は太鼓の代わりに、本人が興味を持ったドラムの教室に通わせてみた。千明さんがFacebookの投稿で「ドラムすこ」と呼んでいる所以である。

こうした経過を千明さんは、断片的にFacebookに投稿しているので、千明さんの友達やフォロワーの方は、ドラムすこの成長をよくご存知だと思う。千明さんが、凄いのは、この投稿の中で、A君のことで、愚痴や嘆きを一切言っていないことである。だから、この投稿を読んだ方の多くが、千明さんの投稿に共感し、何か応援してあげよういう気持ちになるのは自然な流れである。

A君は、小さい時から仮面ライダーが大好きだった。今では、A君は、もう大好きを通り越して、仮面ライダー、ヒーローそのものになりたいのだ。千明さんとA君は、日本武道館で開催される『超英雄祭』や映画『仮面ライダーXスーパー戦隊』は必ず観に行き一緒に研究する。千明さんも、驚いていたが、日本武道館や映画館を埋め尽くす熱烈なファンの大部分は大人だったことだ。つまり、大きくなって、まだ仮面ライダーにご執心とは子供じみているという考えは全く間違っている。

それにしても、Facebookの力は凄いものがある。千明さんがFacebookに投稿した、A君の仮面ライダーへの思いを見た、業界関係者がA君への応援を始めたのだ。仮面ライダーのイベントを見せてくれたり、仮面ライダーに抜擢される率の高い若手俳優の登竜門とされる、某イケメンコンテストへのオーディションも受けてみた。残念ながら、A君は、惜しくも二次で落ちたが、まだ若いので、これから毎年挑戦をする覚悟である。

さて、A君は、中学校の授業には殆ど出席は出来なかったのだが、信頼関係を築いてきた先生方の、ご好意で無事卒業できることになった。校長先生、先生方が一堂に会して、A君だけのための卒業式を開いてくれたのだ。千明さんは、本当に嬉しくて、先生方に感謝し、咽び泣いたという。そればかりか、この中学校の先生方は、あちこち探し回ってA君に最適な高校を見つけ出してくれたのである。

それは、ちょうど静岡市内に新設されたばかりの私立高校で、全日制と通信制がミックスしたような単位制高校であった。週3日学校に行くか、休んでもインターネットでの自宅学習で補うことができる。毎日通いたければ全日制を選べる。極め付けは、この高校には人よりキラリと秀でた才能を磨く、選択コース授業があることだ。自由な校風で制服やアルバイトも自由である。この高校の在学生徒の7割が不登校経験者だという。環境を変えてやることにより、A君は全日制に通い沢山の友達が出来て、笑顔を取り戻し、毎日楽しい高校生活を送っている。最近ではこの高校のモデル生徒として県内CMに抜擢された。

元々音楽が大好きで、特に歌うことが好きなA君は、部活は軽音部、コースは声楽を選択した。そして、声楽の先生はイタリアで修行したプロのバリトン歌手から教師になった方だった。今、A君は、週に2日、合計6時間にわたりマンツーマンで声楽の特訓を受けている。先生から音大に行かないか?とまで言われるが、A君はまだまだ自分の実力に納得いかず、学校から帰ってくると寝るまで歌い続けている毎日だという。

やがて、A君は、主役の仮面ライダーにはなれなくても、主題歌を歌うアーティストや脇役、制作スタッフでも良いから、仮面ライダーに対して何らかの形で関わりたい、どんな仕事でも極めたら、皆に夢を与えるヒーローなのだと考えられるようになる。とにかく、千明さんの5年間の苦労が、ようやく実って、今、A君は前向きに夢を見つけ人生を歩み始めたのである。最終的には役者になって仮面ライダーに変身したいという目標が、A君に大いなるやる気を与えている。

この話を聞いていて、私は少し非現実的な気がして不安になった。そして聞いてはいけないことを千明さんに質問してしまった。「もし、A君が頑張っても、夢が実現しなかった時は、どうするつもりなの?」と。

しかし、母は強い。「口に出しては言わないけれど、最近、彼は、お祖父ちゃんと一緒に、イチゴハウスやイチゴの出荷場に自ら進んで着いて行く機会が多くなったんです。いろいろ、手伝いながら、教えてもらっているみたいです。今では耕運機も使いこなせます。地域のボランティア活動にも積極的に参加しています。きっと、彼なりに、我が家の後継者の事や、夢が叶わない場合のことも考えているんです。私は、スポーツマンや芸能人は、実家が自営業の人の方が成功すると聞いたことがあります。将来に対して余計な不安を持たずに、今、やるべきことに集中できるからだと思います。だから、生きる目標を見付けた彼の将来について、私は、応援してあげたいし、地域の皆様、Facebookの皆様も応援して下さっているので、あまり心配をしていません。」

千明さんは、美しく強い母として、静岡が誇る、光り輝く女性の一人である。