今から4年ほど前だろうか。富士通総研の同僚が「伊東さん、私の親友がコンサートを開くので行きませんか?」と誘ってきた。見るとオペラ歌手のソロコンサートのパンフである。恥ずかしながら、私は、これまで、交響楽団のコンサートには何度か行ったことがあるがオペラ歌手のコンサートには行ったことがなかった。「ここで出演する武井涼子さん、私の親友なんだけど、どうもお父さんが富士通の役員だったらしいの。伊東さん、知りませんか?」と言う。
私が、武井専務を知らないわけがない。武井専務は、私が尊敬する大先輩で、富士通の次期社長候補として最右翼にありながら、在任中に、病に倒れて急逝された方である。ご家族にとっても、大変ショックだったことと推察できるが、富士通にとっても大きな損失であった。その、故武井専務のお嬢さんが公演されるのであれば、聴きに行かずに済まされるわけがない。早速、彼女と秘書と3人で涼子さんの公演を聴きに行った。
そのコンサートは、東京二期会の主催で、所属のオペラ歌手数人が、それぞれピアノを伴奏にソロで歌われたのだが、涼子さんだけは、他の方と全く違っていた。涼子さんの歌は、私たちの心臓をしっかり鷲掴みにして離さないのである。涼子さんの豊かな声量は、泣きそうになるという表現しか思いつかない感動であった。そして、パンフレットのプロフィールを見ると涼子さん以外は、全て名門音楽大学の出身なのに、涼子さんだけは、東京大学卒、米国コロンビア大学大学院MBA取得と書かれている。
後で涼子さんから聞いたことだが、涼子さんは、このコンサートが東京二期会正会員となって初めての公演だった。日本で活動するオペラ歌手にとって二期会の正会員とは、藤原歌劇団の団員と並び、プロのオペラ歌手としての存在力をある程度示せる資格のようなものだという。通常は、音楽大学を卒業後、二期会オペラ研修所にて1年から3年の研修期間をへて入会する。マスタークラスと言う一番難しいクラスを終了した人は正会員に。惜しくもそのクラスは終了できなかった方でも準会員には成れて、7年間を経れば正会員に昇格できるという制度である。しかし、涼子さんは、そもそも音楽大学を卒業していないし、研修所にも通っていない。
涼子さんは、もうひとつの入会方法である東京二期会外部からの厳格なオーデションに合格して、研修制度を経ないで、いきなり正会員になった。これは、教習所を経ずに、運転免許を試験場に一発で取りに行くのと同じようなものだという。一体、どうしたら、そんなことが出来るのだろうか? 涼子さんは、東京の進学校として有名な学芸大学附属中学校、高校の6年間において、確かに音楽部に所属して、オペラに出演していたことはあった。しかし、進学校なので、あくまで大学受験が主目的である。涼子さんも、その熾烈な受験戦争に勝利して東大に合格した。合唱団などの活動は続けていたが、その時点で、音楽大学に入って、音楽一本で生きていくという夢には、すでに終止符を打っていた。
東大社会学科を卒業した涼子さんはマーケティング分野のプロを目指し、見事、日本最大の広告会社である電通に入社する。涼子さんは、電通の中でも、トヨタなど日本一流の企業を顧客に持つ花形部門で3年間働くが、やはり、もっとグローバルな仕事がしたくなり、米国ニューヨークに本社を持つ世界3大広告代理店であるオグルヴィ・アンド・メイザー社に転職する。4年間、米国人上司の下で、英語で仕事をこなすうちに、また、外資系の社員たちの、自主独立の気概を学ぶうちに、自身のキャリアは、会社に敷かれたレールに頼るのではなく、自分で設計しなくはならないものだと気がつかされた。
そこで、マーケターとして大成するためにも、顧客側でのマーケティングの仕事を一度経験してみようと思うようになる。そして、とうとう、その夢が叶えられそうになった。あのITバブルの時代に、次々と新興企業が産声をあげる中で、涼子さんは、あの有名なプライスライン・ドットコムの日本上陸の準備室にマーケティング・マネージャーとして採用された。しかし、その直後に到来するITバブル崩壊で、準備室は閉鎖され、涼子さんの代理店側から顧客側でのマーケティング担当者にキャリアを展開させようという夢は、一旦崩壊し、涼子さんは仕事を失ったのだった。
そこで、次に涼子さんが考えたことは、留学をしてMBAを取得し、キャリアチェンジをするということだった。スイスに本拠を置く世界で最も優れたビジネススクールの一つであるIMDへの留学だ。ちょうど2002年に日韓共同主催のサッカーワールドカップ開催が予定されていた時で、スイスに本拠地のあるFIFAの傘下でマーケティング部門をになうFIFAマーケティングが2002年までの期限付きの仕事ではあるが人を募集していた。そこに転職し、日韓主催のワールドカップが終わるまで、この会社で働いて、オフィスが閉鎖されたらIMDへ留学しようと考えたわけである。
しかし、ワールドカップが開催される年であった2002年1月、お父上の武井専務が、突然、病に倒れることとなった。そして、2002年6月30日横浜の日産スタジアムでドイツ・ブラジルの決勝戦が無事終了した1週間後に武井専務は亡くなられた。涼子さんは「父は、私の大事な仕事であるワールドカップが無事に終わるまで待っていてくれたんです」と言う。そして、武井家は大黒柱を失い、日韓ワールドカップが終わったFIFAマーケティングのオフィスも閉鎖され涼子さんは仕事も失った。もちろん、スイスIMD留学の夢も泡と消えた。転職もかさんでいる中、次の就職先もなかなか決まらなかったが、TSUTAYAで有名なCCC(カルチャー・コンビニエンス・クラブ)に就職して、経営企画室のチームリーダーとしての仕事をなんとか見つけ、懸命に仕事を行った。
涼子さんはCCCで、熊平美香さんというハーバードビジネススクールを卒業した素晴らしい女性に出会った。熊平さんは、銀行の金庫のシェア、ナンバーワンの会社である、クマヒラの創業者のお孫さんで、日本マクドナルドを創業した藤田田さんの元でさまざまな事業開発を行った後に、独立されて、ご自身の会社を持たれたところだった。そして、CCCの増田社長のアドバイザーに就任されたのだった。涼子さんがプロジェクト・リーダーを務めていたインターナル・ブランディングのアドバイザーも熊平さんが勤めることになり、そこで二人は一緒に働くことになったのだ。熊平さんは、自身の経験も踏まえて、是非MBAを取るべきである、と、涼子さんの背中を再び留学へと押すのである。
そして、年齢も行きすぎた、と留学をあきらめていた涼子さんも再度MBAをとる夢をかなえようと考えるようになり、お父上が亡くなられて4年後の2006年に、ニューヨークにあるコロンビア大学大学院MBAコースに入学する。この時涼子さんは、ニューヨークとボストンにある大学を主に受験している。どうしてもその都市のどちらかであるひとつの理由があった。社会人に開放されている有名音楽大学のコースがあるのがこの二都市だったのだ。涼子さんは、アメリカに行ったら、、マーケティングの仕事をしながらも、仕事の傍らセミプロレベルの趣味として続けていた声楽をもう一度きちんと学びたいと思っていたのだ。
コロンビア大学に入ると同時に、涼子さんは世界でも名門の音楽大学であるジュリアード音楽院の夜学の門をたたく。すると、ジュリアード音楽院の一般人向けの夜学コースの創設者でもあったジョイス・マクリーン先生が声聞いてくださり、一般向けにはレベルがあうクラスがないから、と自分のプライベートレッスンの生徒として涼子さんを受け入れてくれたのだ。
さらに、先生は涼子さんにはフランスの歌曲やオペラの知識が足りないと思い、ジュリアード音楽院のフランス音楽のコーチとして有名なトーマス・グラップ先生をご紹介くださった。グラッブ先生は、昼間のジュリアード音楽院の一般の音楽大学院生が学んでいる修士の授業で、フランス歌曲の勉強をしたほうがいいと言ってくれた。
なんと、涼子さんは、あの世界的に有名なジュリアード音楽院に正式に入学もしていないのに学ぶことを許されたのだ。涼子さんの、入室用セキュリティーカードは生徒用ではなく補助員(チューター)用のものが支給された。涼子さんは、コロンビア大学大学院で2年間MBAコースを学びながら、同時にジュリアード音楽院で世界最高レベルのオペラの授業を、なんと無償で学ぶことができた。
日本に帰国した涼子さんは、コンサルタント会社であるマッキンゼーに入社し、2年間働き、その後、ディズニー社に転職し、シニア・マネージャーとしてマーベルやスターウォーズなどのブランドライセンス事業のマーケティング業務を行うようになる。そうしたエンターテインメント事業を行う中で、涼子さんは、もう一度、今の涼子さんのキャリアがあるからこそ可能な芸術に関する活動もやってみたいと思うようになる。
そして、その活動に説得力を持たせるために、きちんとした歌手として歌えることを示せるようにと、2011年、東京二期会のオーディションを受けることになった。見事合格して、その最初の公演を私が聴くことになったのは既に冒頭でお話ししたとおりである。
今、涼子さんはグロービス経営大学院MBAコースで英語MBAコースのマーケティング責任者としての業務を行いながらマーケティングの准教授としても教鞭をとっている。グロービスの英語MBAコースは、通学とオンラインで学べるパートタイムと、12か月でMBAを取得するフルタイムの二つのプログラムがあり、授業は全て英語である。
ことにフルタイムの受講生は90%以上が外国人で、36カ国もの国から来ているそうだ。彼らは、卒業すると、主に日系企業に就職し、日本の本社やそれぞれの国で要職について活躍しているのだという。実は、今の日本は人手不足からか、世界で一番、就労ビザが容易に取得できる国で、日本語の話せる優秀な人材には仕事がかなりあるのだそうだ。
涼子さんは、これからの生き様について、次のように語っている。仕事には三つの要素がある。稼ぐこと、好きなこと、得意なこと。この三つに常に携わっていれば満足した仕事人生を送ることができるはずである。つまり、同時にこの3つを満たすように、3つの目的を持って生きたいのだという。一番目は、稼ぐために働く。これは、自分がこれまで培ってきたマーケティングのプロとしての仕事で、稼げて、得意で、ある程度は好きなことに時間を割く生き方である。
2番目は、オペラ歌手として生きること。残念ながら、今の日本では、オペラ歌手は歌うだけでは、充分なお金は得られない。しかし、これは涼子さんにとっては儲からないけれど、純粋に一番好きで、しかもある程度得意なことで、両方をやっていくことでバランスがとれると涼子さんは言う。
3番目は社会貢献である。自分に出来る社会貢献は、やはり歌とマーケターとしての力の両方を通じて行えることだという。特に、日本のソフトパワー強化への貢献として、日本歌曲を世界に広めていくことが効果的だという。1919年、作曲家の山田耕作がニューヨークのカーネギーホールを自分のオリジナル曲だけで3日間満席にしたことや、日本にはシューベルトが作った曲などに勝るとも劣らないとても美しい芸術歌曲がたくさんあることを、多くの日本人は知らない。西欧と同じフォーマットではない歌舞伎や能をいくら海外で上演しても、西欧社会から尊敬を勝ち得るという意味で、対等なソフトパワーを発揮するのは難しいと、涼子さんは考えた。
さながら、それは、日本人が京劇やバリダンスを見るのに似ているので。一方、西欧の音楽フォーマット、オペラのフォーマットで作られている日本で作曲された歌曲は、日本的音階や日本の舞台芸術の伝統を生かしながらも、西欧と同じ土俵で、十分対抗できる力を持っているし、クラシック音楽だから、日本人だけでなく世界の人に演奏してもらうことができる。日本の、西欧のフォーマットによる舞台芸術における創作活動が西欧に尊敬されて初めて、そのルーツである日本音楽や日本の舞台芸術への尊敬を勝ち取ることができるはずだと涼子さんは言う。
世界で日本の歌がクラシックとして認められるようになるために、日本の実力ある若手声楽家を世界に送り出し、日本人にも西洋クラシックの声楽がある音楽、オペラや歌曲の素晴らしさを知ってもらう。これは自分のオペラ歌手としての力や知識も、マーケターとしての力も最大限に活かせることであるし、多分日本でこの両方のスキルを持つ人は少ないであろう。
だから、オンリーワンの活動としてこの活動を大きくしていきたいとのこと。この活動については2012年にNPO法人に経産省の後援名義をつけてもらい、2014年と2015年にはニューヨークの国連本部で日本歌曲のコンサートを行ったり、昨年からはアメリカから先生を呼んで若手の実力ある歌手に指導を行って音楽留学の糸口を作ったりと、仲間とともに積極的に活動をしているそうだ。日本の歌が持つソフトパワーの極大化を図ることを自分のライフワークにしたいと話す涼子さんは、なんとスケールの大きい、光り輝く女性なんだろうか。
なお、涼子さんは、2015年10月号の「Rola」(新潮社)にて「日本の凄い女性100人」に選ばれている。