2016年1月 のアーカイブ

327 光り輝く女性たちの物語 (3)

2016年1月22日 金曜日

今回、取り上げたい女性は中国人のAngela Wang(王)さんである。私が、海外事業の総責任者をしていた時に、富士通中国から頼まれたことは、中国最大のソフトウエア会社であるNeusoftとの関係強化であった。恥ずかしいことに、富士通はそれまで、このNeusoftとは何の関係も持っていなかった。Neusoftは中国東北地方の瀋陽に本社を持つ、東北大学の子会社である。その社名であるNeuはNorth East Universityの意味を持っている。

Neusoftの創業者である劉 積仁氏は、中国人で初めて、米国のコンピューター・サイエンス分野のPh.Dを取得した伝説の人であり、私はスイスで毎年開かれるダボス会議でDr.劉と知り合った。Dr.劉は中国人としては珍しく知財権を重んじる西欧型の思想を持った起業家であった。Neusoftの本社である瀋陽と、瀋陽以上に巨大な開発拠点である大連を見学させて頂いて、私は大変驚いた。米国のインテル、マイクロソフト、シスコ、HP、IBM、GEなど一流ITベンダーの冠を掲げた専用開発センターを有しているほか、日本のドコモ、Auなど携帯電話会社の検査センターがあったからだ。

Neusoftが、欧米社会でこれだけの信頼を築いた最初のきっかけは、日本のアルプス電機の子会社であるアルパインが、カーナビの開発を全てNeusoftに任せたことにあった。この成功を見て、欧米のITベンダーはNeusoftを信頼できるアウトソーシングのベンダーとみなすようになった。私が、Dr.劉から頼まれたことは、Neusoftとしては、日本最大のITベンダーである富士通と、ぜひ緊密な連携を模索したい。ついては、その大事な仕事をAngela Wang (王)に任せたい。Angelaと共に、提携についての相談をして欲しいので、よろしく頼むということであった。

瀋陽のNeusoftの本社で、私が会ったAngelaは愛くるしい、まだ30代の女性であった。既に、5万人もの従業員を抱え中国最大のソフトウエア会社になっていたNeusoftの社長も、同じく、まだ30歳代の王さんだった。若くして巨大な組織の長になることは、その重圧も大変なことである。Dr.劉からは、王社長が一番好きなゴルフに誘い出して、気分転換を図ってくれと頼まれたので、一緒にゴルフをすることにした。そのゴルフ場は、中国でも一番の名門である大連のゴールデン・ペブルビーチであった。

私は、米国駐在のときにカルフォルニア州モントレーにある米国でもナンバー1のゴルフ場であるペブルビーチでは何十回もプレーをしていたが、驚いたことに、この大連のゴールデン・ペブルビーチは米国のペブルビーチと景観も何もかも、そっくりなのである。しかも、この地は5億年前の地層から出来ているので、米国のペブルビーチより起源が古いというのである。つまり、アメリカのペブルビーチが中国のコピーだと中国人は主張しているのだ。

そんなことはどうでも良いのだが、このNeusoftの王社長とのゴルフに、ゴルフを全くやらないAngelaが一緒に付いてきた。彼女は、私と王社長が乗るカートに一緒に乗って18ホール回ってくれた。この時、Angelaは、他社との提携関係を模索する課長職であった。創業者でCEOのDr.劉から命じられたのだから、ゴルフもしないのに、必死にゴルフ場までついてきたのであろう。この時のAngelaの心意気は健気で、私には、とても可愛らしく見えた。

私は、何とか、富士通とNeusoftの提携の道はないかと思案した末に、当時、富士通が中国向けに開発を計画した携帯電話のソフト開発をNeusoftに委託した。Angelaが仲介した、携帯電話のソフトの出来上がりは見事なものだったが、結果的にビジネスは決して成功とは言えなかった。この結果を見て、私と王社長とは、もっとコアなビジネスでの提携を模索しようと考え始めた。そのテーマは中国の病院に最適な医療システムだった。富士通は医療システムで、既に日本ではTOPレベルにあり、中国でも四川病院など、既に幾つかの成功を収めていた。

しかし、やはり中国政府は中国ベンダーを優先するので、所詮、富士通単独では、現地ベンダーには勝ち目がない。そこで、私は、富士通の医療システム部門とNeusoftとの中国市場でのJVを模索することにした。その時のNeusoft側の責任者は、やはりAngelaであった。富士通側からは、いつも私はクレームを受けた。Angelaとは、もうやっていられない。あんな、タフな交渉相手はいないと。それを聞いて、いつも私は次のように言った。「無理することはないですよ。嫌ならやめれば良い」と。しかし、Angelaと富士通医療システム部門は、最終的に合意に達したのである。

Angelaは、この仕事の成果を認められ、ついに上級副社長になった。つまり、Dr.劉、王社長に次いでNeusoftのNo3となった。大連で開かれたNeusoft創立20周年式典に参加した私は、Angelaが見違えるように凛々しく、そして美しくなっているのに驚いた。ついに、彼女は、中国で大成功した女性経営者となった。もちろん、Angelaは結婚しており、一人息子を持つママさんである。ご主人は、同じNeusoftに勤務するエンジニアであるが、Angelaの方が遥かに地位が高い。

現在も、Angelaとはメールでやりとりをしているが、彼女は、最近、殆ど中国にはいない。今、Angelaが頻繁に行っている先は、エストニアとルーマニアである。中国での最近の賃金高騰は、既にIT業界でも大問題になっている。東欧の途上国の方が、中国より賃金が安く、しかも英語能力も高いので、ソフトウエア開発能力では中国人エンジニアが、彼ら東欧のエンジニアに対して太刀打ちできないのだという。

可愛い息子の世話を夫に任せて、Angelaは今も、会社の活路を東欧に託して戦っている。富士通医療システム部門と共同で、彼女を接待した東京湾クルーズにおいて、Angelaと眺めた東京湾の夜景が今でも思い出される。その晩は、世界中を駆け巡るAngelaが心を癒す、ひと時でもあったに違いない。NeusoftのNeuは東北大学の意味であり、東北大学の学長であった父上の切実な願いを、Angelaは、今、一つ一つ着実に実現しようとしている。まさに、中国で活躍する光り輝く女性の一人である。

326 光り輝く女性たちの物語 (2)

2016年1月16日 土曜日

今から、考えるとアメリカでの単身赴任3年間は、私の会社人生の大きな転機になった。大赤字だったパソコン販社の立て直しを終えて、なんとか日本に凱旋できたのは本当に幸せだった。私としては、当然、元のパソコンの事業部門に戻るものと信じて疑わなかったからだ。しかし、私の上司は、そんなに甘いことは許さなかった。

「お前がアメリカに行っている間に、パソコン事業はなんとか目処がついたから、今度は携帯電話事業を立て直せ!」と言われて、私は携帯電話事業の担当となった。携帯電話事業は、もともと通信機事業部門にあったが、どうにも採算が合わないので、コンピューター部門に移管された。それは、ちょうど、パソコン事業が半導体事業部門からコンピューター部門に移管されたのと全く同じ経緯であった。

私が、携帯電話事業部門に赴任する前に、既に、営業、購買、生産、開発のそれぞれの部署のヘッドに多くの部門から精鋭が送り込まれていた。いわば、私は、最後の詰め駒のようなものだった。通信事業部門が、携帯電話事業を断念した最大の理由は、3GをサポートするLSI開発を行うエンジニアの手当が全くつかなかったことにあった。当時、3Gのチップを自前で開発できる力を持っている携帯電話機メーカーは、世界中で5社ほどもなかったと思われる。

それでコンピューター部門の中で、特に優秀な回路設計者を選び出して、半導体部門の回路設計技術者と混成チームを結成し、3Gチップの開発にあたっていた。それでも、開発は難航を極め、万が一失敗した時のための保険として他社との提携を模索せざるをえなかった。しかし、国内最右翼のNECが最大の競争相手である富士通と提携することなど全く考えられないので、海外メーカー、特にヨーロッパ地域のノキア、シーメンス、アルカテル、サジェムなどと提携交渉を進める必要があった。

しかし、携帯電話事業は、これまで NTTドコモとしか商売をしてこなかったので、英語を流暢に話せる、あるいは英語の文書を自在に作れる人材が全くいなかった。すでに多くの精鋭が送り込まれている携帯電話事業に、あえて、私が参加させられた意味は、アメリカで苦労して蓄えてきた英語能力にあったのかもしれない。そして、前置きが長くなったが、私の他に、英語能力の強化の意味で携帯電話事業部門に中途入社してきたのが、これから紹介する、「光り輝く女性たち」の仲間の一人である志村裕子さんだった。

裕子さんと、私は、ほぼ同時期に携帯電話機事業に参加した、いわば同期の桜である。ただ、英語能力については、裕子さんの方が、私よりダントツに高い。言い訳にはなるが、私は、たった3年間仕事の合間に個人教授について英語を習っただけであるが、裕子さんは日本の大学を卒業後、米国西海岸のサンノゼやロサンゼルスの大学で学び、ハワイのIT企業で働いた経験を持っている。

ここで補足しておかないといけないのは、裕子さんは車椅子がないと移動できない障碍者であることだ。富士通への途中入社も障碍者枠で採用されている。そして、携帯電話機事業の開発センターは武蔵中原の富士通川崎工場にあり、車で通勤している裕子さんの実家は、勤務地である川崎工場から1キロほどしか離れていなかった。裕子さんが、勤務先として富士通を選んだ理由の一つに、実家から最も近い職場ということもあっただろう。

3Gチップの開発は苦戦したが、結局、富士通は、どこにも頼らず自前で開発することに成功した。その間に、私が提携を模索していたアルカテルもシーメンスも携帯電話機事業からは撤退してしまった。そうした中で、私も、携帯電話機事業の担当から、サーバまで含む、さらに広範囲な製品事業全体を任されるようになった。挙げ句の果ては、海外事業を任されて、川崎工場から汐留の本社へ移っていった。ここで、私は志村裕子さんとは全く疎遠になることになる。

再び、私が、裕子さんに再会できたのは、私が富士通を退任して富士通総研に移ってからだ。私が、川崎工場で講演をした時に、聴衆の中に裕子さんを見つけることができた。とても懐かしく思えて、講演が終わった後で、二人で会食をする約束を取り付けた。しかし、車椅子の方と一緒に会食などしたことがないので、お店の選択は裕子さんにお任せした。裕子さんが選んだのは、鷺沼のとうふ屋うかいであった。この店には、なんと車椅子専用の個室があった。

この、とうふ屋さんで、私は裕子さんの壮絶な人生を、初めて聞かせて頂くことになった。まさに、興奮に包まれて身体が震えるような凄い話だった。もともと裕子さんは健常者として何不自由ない幸せな生活を日本の大学を卒業するまで送っていた。裕子さんは大学を優秀な成績で卒業されて、大学が提携しているアメリカの大学との交換留学生に選ばれた。アメリカの大学は、日本のように楽に卒業できるようなことは全くなく、山ほどある本を読まないとできない宿題に追われる毎日である。

その晩も、負けず嫌いの裕子さんは、夜中遅くまで、パソコンに向かって宿題をこなしていた。しかし、ようやく苦労したレポートが出来上がったところで、パソコンがクラッシュして壊れたのである。多分、アメリカの大学は、パソコンが壊れたなどという理由で、レポート提出を免除してくれるほど甘くはないのだろう。裕子さんは、仕方がないので明け方までかかり、手書きでレポートを完成させたのだった。一睡もせずに、何とかレポートを完成させて、車に乗って大学まで行く途中、睡魔に襲われた裕子さんは自らが重傷を負う深刻な事故を起こしてしまった。

一命は取り留めたものの、裕子さんは、一生車椅子が離せない生活を強いられることになった。ロサンゼルスの病院で手術を受けた後、その病院でリハビリを行ったが、医師からはさらに長期のリハビリが必要と言われ、米国での大学生活を継続することを断念し、日本に帰国してリハビリを継続することになった。しかし、当時の日本はアメリカに比べてリハビリ治療も遅れており、裕子さんは再度米国に渡って世界最先端のリハビリ治療を継続することになる。

長期間のリハビリ治療を終えた裕子さんは、バリアーフリー・インフラが整った米国で働くことを考えて、ハワイのIT企業に就職する。当初、裕子さんは、ハワイで人生を全うすることまで考えていたらしい。しかし、実家の母親が突然、病に倒れて、裕子さんは看病のために、日本に帰国せざるをえなくなった。しかし、お母さんは、裕子さんの懸命の看病の甲斐もなく、亡くなってしまう。それを機に、日本で自立した生活をしたいと裕子さんは考えた。そして、これまでのキャリアが活かせる職場が、実家に近い、富士通で見つかったというわけである。

これだけでも震えるほどの興奮が呼び起こされる話なのに、裕子さんは、さらにショックな話を私にされた。これは、既に、裕子さん自身がFacebookにカミングアウトされているので、ここで書いても構わないと思うが、この時、裕子さんは、がんの病魔に冒され治療を始めていると告白された。私も、がん患者としての経験があるので、それだけで狼狽えたりはしないが、神様は、この女性に、なんと次々と大きな試練を与えられるのだろうか?と思った。それでも、初めて会食する相手に、ここまで率直に人生を話してくれることは、私にはとても嬉しかった。

豆腐屋に来た時には、私が先に着いていたので、裕子さんが、どのように車から降りてきたのか、わからなかったが、帰りは見送りに行ったので裕子さんが、車に乗る様子を身近に見ることができた。裕子さんは、BMWのスポーツカーに乗っている。この選択は、決して趣味の問題ではない。小柄で華奢な裕子さんが車椅子で乗るには、この車しかないのだという。2ドアなので、運転席のドアを開けると後部座席が半分ほど空いた状態になる。車椅子から運転席に移動した、裕子さんは、車椅子を片手で掴むと後部座席に放り投げるのである。見ていて感動するほどの見事な所作である。

それから1年ほど経った後だろうか。毎回、二人だけで会うわけにもいかないので、裕子さんと私の秘書と3人で玉川高島屋にあるレストランで、また会食をした。もちろんレストランの選択は、駐車場にゆとりがあって、車椅子で入りやすいという基準である。この会食は、裕子さんに、病魔に勝って元気になってもらおうと励ます意味合いがあった。しかし、私たちの心配をよそに、裕子さんは、もう十分に元気を取り戻していた。そればかりか、「私、伴侶を見つけたんです」との爆弾発言。ご主人と一緒に撮った花嫁姿の写真を、満面の笑みで、私たちに見せてくれた。

お陰様で、この日は前回とは違って大変楽しい会食となった。この時、私は、まだ車が付いていたので、食事が終わった時に運転手に連絡を取ると、裕子さんは、私の秘書に対して、「すぐ近くだから、私が、ご自宅まで送って差し上げますよ」と誘う。これこそ素晴らしい感動的な光景だった。障碍者が車で健常者を自宅まで送り届けるのである。そう、裕子さんは、自分が障碍者だなどとハナから思っていないのだろう。まさに、裕子さんは「光り輝く女性」の典型である。

最後に、昨日、裕子さんが私に送ってくれたメッセージを、ここで紹介したい。

「私が車椅子の生活者になり、富士通で働く事によって、周りの方の障碍者に対する印象が変わったのであれば、それこそが私の使命であったと本望です。先日、私をケアしてくれたナースが危篤となったためロサンゼルスへ週末に行ってきました。残念ながら彼女は亡くなりましたが、彼女が、この使命を私に語ってくれたことを思い出し、今晩は彼女に心の中で話しかけたいと思います」

325 光り輝く女性たちの物語 (1)

2016年1月14日 木曜日

生産年齢人口が減少し続ける日本を再生させるために、1億総活躍社会を実現する、特に女性が活躍できる機会を増やしていくという、安部首相が主張する政策を、私は素直に支持したいと思っている。しかし、私が見る限りでは、男性以上に活躍している女性は、もう既に沢山いる。

むしろ、もっと大きな問題は、目の前に活躍している女性がいるのに、それを見てみないふりをする、あるいは過小評価している男性があまりにも多いということである。この活躍している女性たちは、大概の場合、社内の評価よりも社外の評価の方が高い。

近くで見るより、遠くで見る方が光り輝いて見えるというよりも、利害関係がない方が公平に評価できるからに違いない。私が、直接の人事権も待たないからこそ客観的に見ることができる、光り輝いて見える女性たちを、これから何人か紹介していきたい。

最初は富士通の環境本部に勤務する永井千惠さん。入社30年選手だが、どう見ても30代にしか見えないのは、私だけではないだろう。山形県出身の母上が「ミス庄内」だったというのも、なるほどと、うなずける鼻筋の整った美形である。千惠さんは、立教女学院を卒業後、富士通に入社。得意な英語を活かせるよう通信事業本部の海外販売推進部に配属された。当時の富士通の通信部門は、コンピューター部門より遥かにグローバルで、先進国、途上国を含めて全世界にビジネス拠点を持っていた。

千惠さんが勤務する、南武線の武蔵中原駅にある富士通川崎工場は、製品開発部門の総本山で、コンピューター、通信、半導体の3部門で総勢15,000人の開発エンジニアを抱えていた。どこの会社も、皆、そうだと思われるが、富士通も、この3部門は、事業的に独立していて人事交流は全くなかった。だから、コンピューター部門に所属していた私が、同じ敷地にいながら、これまで一度も千惠さんを全く見たことがなかったのも不思議ではない。

2004年、私が、コンピューター部門と通信部門を統合した初めての新たな統合組織の長に就任した時に、千惠さんが、私の前に初めて現れた。その年に北京で開催される中国郵電部主催の展示会に富士通として出展するので、富士通の代表として、現地でVIP対応してほしいという要請だった。

この千惠さんの要請については、快く了解させて頂いたが、その時の千惠さんのファッションには、私もさすがに驚きを隠せなかった。もともと、川崎工場に勤務する社員は男性も女性も地味な作業服を着ているのに、千惠さんは、銀座に本社があるファッション企業の社員を思わせるほどに洗練された装いで私の前に現れたからだ。こんな女性が川崎工場に居たのか?と、私は正直驚いた。

千惠さんからの要請で訪れた北京での展示会で、富士通ブースを訪れる中国政府やキャリア幹部など、言われるままにVIP対応を済ませた私は、スタッフの慰労も含めて、皆と食事会に出かけたのだった。しかし、千惠さんは、男性の上司と中国人の通訳を伴ってブースに居残った。中国政府から19時以降に特別なVIPが視察に来るかもしれないので、電気を落とさないで各ブースで2人ずつ居残ってほしいとの要請を受けたからだ。

しかし、その特別なVIPが一体誰なのか? 本当に来るのか来ないのか? どのブースを見る予定なのか? その詳細は全く知らされていなかった。果たして、やってきたのは、なんと温家宝首相だった。そして、温家宝首相が富士通ブースの前を通りかかった時に、千惠さんは、新宿歌舞伎町のキャッチバーのごとく、富士通ブースに温家宝首相を呼び込んだのである。結果的に、温家宝首相は、大変喜ばれて熱心に見学されたというが、この時のSPとの格闘は大変なものだったと千惠さんは語る。

翌朝、その武勇談を聞かされて、千惠さんは本当に凄いと感動した。もし、千惠さんのような美しい女性でなく、男性が同じことをしていたら、きっとSPに撲殺されていたかも知れないからだ。しかし、北京から日本に帰国してから、千惠さんは、突然、しかも長期間に渡って、私の前から姿を消してしまったのである。後から聞けば、2年半ほどもの間、大病を患って第一線から退き自宅療養に専念していたのだった。

そして、2009年、私は海外事業の総責任者として、川崎工場から汐留にある富士通本社に移っていた。そこへ、突然、大病を乗り越えて、すっかり元気になって輝きを取り戻した千惠さんが私の部屋にやってきた。私は、あまりに嬉しくて思わず千惠さんをハグして迎えてしまった。今度の千惠さんの要請は、3年に一度ジュネーブで開かれるITU(国際電気通信連合)主催のテレコム会議に出席してほしいということだった。そして、開会式のオープニングリマークス(3分間)と会場で流すビデオメッセージ(5分間)を準備して欲しいという。

こういうこともあろうかと、3年間の米国駐在期間に英語スピーチの特訓を受けてきたのだからと快く千惠さんの要請を受けた。メッセージの英文は、アメリカ生まれで、アメリカ育ちの富士通ワシントン事務所長にチェックし修正してもらった。日本人が書いた英語原稿は、とても読みづらいが、ネイティブが作った英文は、洗練されていて、ところどころで韻を踏んでいるので、発音していて、とても心地よい。

千惠さんに導かれて、生まれて初めてジュネーブで開催されるITUテレコム会議に出席した。一生懸命暗記し練習したせいか、前日に録画するビデオメッセージは、一発でOKが出た。その後で、千惠さんの案内で、ITU本部にいるマリ共和国出身のツーレ事務総局長に会いに行った。驚いたのは、千惠さんと、マリ共和国の大統領候補とも言われている超大物のツーレ氏とは旧知の仲のように大変親しい間柄なのだ。そして、ツーレ事務総局長からは「明日の開会式は大変だが、よろしく」と頼まれた。その時は、一体、何が大変なのだろうと思ったのが、翌日には、それがわかる。

そして、いよいよ開会式が行われる会場に入って驚いた。世界110か国から、5万人以上が参加するというテレコムの開会式には、既に7,000人もの人々が一堂に集まっている。そこで、最初にツーレ事務総局長が開会の挨拶をした後で、壇上に5つの椅子が用意された。メーカーは、富士通の私とノキアシーメンスのCEO、キャリアは、AT&Tとフランステレコム、チャイナモバイルの3社のCEOが椅子に座って順番にスピーチを行うのである。何で、日本人の、富士通の、しかも私が、ここに居るのか?という違和感があったが、ここでジタバタしても仕方がないと覚悟を決めて覚えてきたオープニングリマークスを一気にまくしたてた。

そして、広大な展示会場にセットされた多数のTVモニターでは、録画された私のビデオメッセージが定期的に流されている。そう、この一大国際イベントで突然、私は、有名なスターになったようであった。それにしても、ITUが主催するテレコム会議で私がオープンニングリマークスを行うということに対して大きな違和感を感じたのは、私だけではなかったようだ。

ジュネーブから日本に帰国する際に空港のラウンジで、当時のNTTドコモの山田社長からは、「どうして、伊東さんがオープンニングリマークスをすることになったの?」と聞かれたのである。山田社長の疑問は、全くごもっともである。これこそが、きっと、千惠さんが富士通のプレゼンス拡大のために事前に仕組んだ努力の結果に違いないと私は思った。千惠さんは目的を遂げるためにはITUの事務総局長までも仲間に引き入れてしまう。しなやかに、そして、したたかに目的を着実に遂げていく底知れない力が光り輝く女性には生まれながらにして備わっている。

こうして国連傘下のITUで多くの実績を残した永井千惠さんは、通信事業本部から環境本部に移動してからもITUと深く関わった活躍を続けている。昨年、千惠さんは、ハンガリーのブタペストで開かれたITU設立150周年記念式典に富士通を代表して出席した。地球環境保護にはIoTの利活用が絶対に必要と、千惠さん自身で総務省を説得し、総務省の要請で富士通をITU設立150周年記念会議に参加させたという、千惠さんの凄まじい執念が実ったためである。

同じ富士通の中でも千惠さん以上に、会社のプレゼンス拡大のために積極的に強い意志を持って海外で仕事をしている男性を私は知らない。これからも、ずっと元気に世界を股にかけて活躍してほしいと、私は千惠さんにエールを送り続けるつもりである。