2015年1月 のアーカイブ

293   貧困と格差

2015年1月25日 日曜日

トマ・ピケティは、その著作「21世紀の資本」の中で、「格差は常に拡大し続けるが、20世紀に例外的に格差を縮小したのは戦争であった」と述べている。確かに、20世紀の戦争は、非戦闘員も巻き込んで市民を多数殺害し、都市を空爆で壊滅的に破壊した。欧州も日本も、これまで巨万の富を築いてきた富裕層は、戦争で殆どの資産を焼失した。戦火が及ばなかったアメリカでさえ、その莫大な戦費は、インフレで目減りした富裕層の資産で賄われることになった。

敗戦により壊滅状態にあった日本で、未だ焼け野原から立ち直れない1947年に生まれた私たち団塊世代第一号は、そうした絶望の中に生まれてきた。私が生まれた湘南平塚は、日本海軍の火薬工場があったせいで、米軍の徹底的な爆撃を受けて市街地は、ほぼ100%殲滅された。その焼け跡に、戦争から帰還した兵士達と戦火を生き残った女性達、つまり何もかも失った若い夫婦が、平塚の海岸地帯に掘建て小屋を建てて住み始めたのだ。

私の両親も、そうした仲間であった。私たち家族同様、ご近所の方々も、とにかく貧しかった。でも、貧しくとも不幸せではなかった。なぜなら、周囲も、皆、同じように貧しかったからである。皆、継ぎ接ぎだらけの服を着ているので、自分のボロな服も全く目立たない。しかし、私たちは、志だけは貧しくなかった。親達は、たまたま戦争に巻き込まれ不遇な人生を送ったが、自分たちは違う。一生懸命勉強して、この貧しさから抜け出すのだという強い意志があった。

親達も、同様で、自分たちは運が悪かったが、子供達には同じ人生を送らせはしない。自分たちは、水を飲んで暮らしても、子供達の教育には精一杯、お金をかけるという思いがあった。しかし、何せお金がないので、私立大学には行かせられない。国立大学は、当時、月謝が、たった1,000円だったので、国立大学であれば、何とか行かせることができた。平塚は東海道線で東京まで70分。当時はJRではなく「国鉄」なので、運賃はすこぶる安い。また学生割引であれば、市内のバス代と、ほぼ同じ料金で東京まで行けた。

だから、皆、死にもの狂いで国立大学に合格するべく勉強をした。私の実家がある地域は、子供の時は、本当に、殆どバラック小屋同然の粗末な住居ばかりだったが、向こう三軒、両隣、皆、殆どの家の子供達が、東大、東工大、一橋大、教育大(現筑波大)、横浜国立大など、首都圏の超一流国立大学に入学出来た。男3人兄弟の長男である私も、両親から「お前が私立大学に行くのであれば、何とか無理して行かせてあげるが、弟二人は大学には行けないよ」というプレッシャーを受けていた。そのプレッシャーのお陰で、結果的には兄弟3人とも東大に合格出来たという意味で、両親には感謝しなければならない。私たち兄弟も、周りの友人達も、皆、本当に貧しかった。皆が貧しければ、貧しさは苦にならない。貧しさのために、両親や社会を恨んだりはしない。むしろ、そのハングリー精神が向上心を育むことになった。

幼い頃、沼津に住んでいた私の従兄は、米軍の大空襲で家を焼かれ両親と兄弟を失い、たった5才で孤児となった。私の父親が沼津に探しに行ったが、とうとう見つからなかったという。彼は、上野駅で靴磨きをしながら孤児として暮らしているところを保護され、女優の小暮実千代さんが理事長を務める群馬県高崎の孤児院「鐘の鳴る丘少年の家」に引き取られた。後日、岐阜でバスの運転手になった従兄が、なんとか探しあてて、我が家に訪ねてきたときに、彼の自慢は、自分たちの孤児仲間で最優秀の者は、高崎高校から東大医学部に行ったというものであった。日本の敗戦は、本当に悲惨な社会を生み出したが、それでも未だ当時は希望があった。

貧困であっても、周囲が、皆、貧困であれば、それは決して不幸ではない。しかも、一生懸命頑張れば、その貧困から抜け出せるという可能性が見えていれば、全く不幸ではなく、むしろ、希望に溢れてくる。一方、世界の一流国となった、今の日本の閉塞感は、貧困が世代間にわたって連鎖することから生じている。今の日本では、貧困家庭に育った子供が、一流大学に進学し、無事、卒業することは、かなりの困難を伴う。

しかし、トマ・ピケティが述べる、格差是正のための税制改革は、当分の間、殆ど実現不可能だと思われる。それよりも、貧困家庭に育ち、一生懸命頑張ろうという意欲のある子供達に、公平に、高等教育の機会を与えることの方が、より現実的である。そのことは、結果的に日本の国際競争力を伸ばすことになるし、世界中から優秀な移民を日本に招請するよりも、遥かに現実的である。

それを政策的に実現しているのが英国である。英国は、アメリカ以上に厳しい格差社会と言われているが、今、その英国の高等教育の分野で、貧富の格差を乗り越える機会を与えている。英国では、今から45年前の1969年に、日本の放送大学に相当する放送を使った遠隔地への通信教育機関であるThe Open Universityが設立された。そして、今や、このThe Open Universityは、英国での大学序列順位でも、5本の指に入る一流名門大学となった。

この大学に入学するには、日本のように大学検定試験のような特別な資格も不要で、16才以上であれば誰でも入学することが出来る。そして、このThe Open Universityは今や352コースの授業があり、この大学を卒業出来れば、その学位は世界中で立派に通用する。しかも、言語が英語であることを活かし、The Open Universityは旧英連邦を中心に91カ国25万人の学生を抱える規模となった。そのThe Open Universityが、世界中の誰でもが無料で受講出来る大規模公開オンライン講座(MOOC)を始めたのだ。その名もFuture Learn。

英国のThe Open Universityが始めた、このFuture Learnには、現在、ニュジーランドのオークランド大学、南アフリカのケープタウン大学、韓国の延世大学、中国の上海交通大学、復旦大学など、世界の名門校が加わっている。世界中の一流大学が、今、貧困社会の中に潜む優秀な若者を探し出して、育て上げ、国家の成長に寄与させようとしている。確かに、ピケティが言うように格差を縮めることは容易なことではない。しかし、格差を乗り越えようとする若者を救う手だてはいくらでもある。そのために、最新のICT技術が貢献できることは沢山ある。私たちは、まだまだ諦めてはならない。

292  表現の自由とは何か

2015年1月17日 土曜日

今月7日、武装した男らに襲撃され12人の犠牲者を出したフランス・パリの新聞社「シャルリ・エブド」は、事件から1週間後に発行した最新号でイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を再び掲載し、世界中から大きな波紋を呼んでいる。欧米人の中でも、これはやり過ぎだと自制を求める意見があるのと同様にイスラム各国では、「シャルリ・エブド」に対して抗議のデモ活動が起きている。

そんな中で、ローマ法王フランシスコ1世は、「神の名のもとに人を殺すのは、常軌を逸しており、正当化できない」という前提の元で、「自分の母親が侮辱されたら反応したくなるものだ」とたとえ話を示しながら、「人の信仰を挑発したり、侮辱したり、笑いものにするべきでもない」と「シャルリ・エブド」紙が行った予言者ムハンマドの再度の風刺画掲載に対して厳しい苦言を呈している。南米アルゼンチン出身のフランシスコ法王は、従来のバチカンの風習を大きく変える革新的な法王として、2013年を代表する人物として米国タイム紙の表紙を飾った方でもある。

アルゼンチンのブエノスアイレス大司教時代から、「ローマ法王にだけは絶対なりたくない」と主張してきた、この型破りなフランシスコ法王は、法王に就任してからも、法王の館には住まず、他の枢密卿の方々と同じ館に寝起きして食事も取られている。このフランシスコ法王は、先代の、在位中に退位されバチカンから離れてお住まいになっていた、ベネディクト16世に対しても、再びバチカンに呼び戻され、名誉回復の機会も与えられている。

ドイツ出身の先代法王、ベネディクト16世は厳格な治世で、世俗の人からは必ずしも評判は良くなかった。そして、運悪く、これまで永年にわたり非難され続けてきたバチカンの醜聞を放置してきた責任を追求され、ご自身で責任を取る形で自ら退位され、お住まいもバチカンから離れられることになった。そのベネディクト16世が在位中に行われた、後世に語り継がれるべき大英断が二つある。一つは、ユダヤ教やイスラム教、仏教からヒンズー教に至るまで、全世界の全ての宗教に対して団結と融和を図った、前任者のヨハネパウロ2世を異例の早さで聖人の前段である福者に推挙したことである。4年前、私は仕事でローマを訪れた時に、幸運にも、このヨハネパウロ2世の列福式に巡り会うことが出来た。

もう一つは、ドイツ人法王である自分が、在位中にユダヤ人に対して何か出来ることはないかと思案したことである。それが、新約聖書に記述されているユダヤ人の神の名「ヤハウェ:YHWH」の削除であった。ユダヤ人の言語であるヘブライ語は、中東アラブ人の言語であるアラビア語と同じく母音の記述がない。文字は、全て子音だけの記述である。だから、ヘブライ語で書かれている旧約聖書に記述されているYHWHがヤハウェと発音されるのかどうかは、実は正確には分からない。

皆様も良くご存知のように、キリスト教やユダヤ教と同じ旧約聖書を原典とするイスラム教は、神を絵に描いたり、像を作ったりして拝むという偶像崇拝を固く禁じている。しかし、イスラム教は、神の名だけは口頭でアラーと呼んでいる。一方、ユダヤ教は、イスラム教徒と同じく偶像崇拝を禁じているだけでなく、神の名前さえも声に発することを固く禁じている。つまり、YHWHは声に出して読んではいけないのだ。すなわち、ユダヤの人々は、YHWHを直接口に出して発音せずに「我が主:アドナイ」として読み換えているのである。

ユダヤ人にとっては、キリスト教徒が自分たちの神をヤハウェと発音すること自体が、2000年の永きにわたり、たまらなく嫌なことで、全く許しがたいことであった。ドイツ人の出身であるベネディクト16世は、第二次世界大戦中にドイツ人がユダヤ人に対して行った大きな罪の反省として、カトリック教徒が用いる聖書の中に記載されているヤハウェの記述を削除することを法王として正式に決定を下したのだった。

そのベネディクト16世の後を継いだフランシスコ法王は、ヨハネパウロ2世から脈々と続く考え、即ち、世界の他の宗教に対して畏敬の念を失ってはならないと強く念じられておられるに違いない。世俗の権力者を風刺するのと、現世の苦しみに耐えて必死に生きている人々が救いを求めて念じる宗教の預言者を風刺するのとでは、全く次元が違う。それは、言論の自由とは全く別な議論だとフランシスコ法王は言いたかったのであろう。

291  フランス新聞社襲撃テロについて

2015年1月11日 日曜日

年明け早々の7日、世界中に衝撃が走る大事件がフランスで起きた。イスラム過激派がムハンマドやISIS指導者の風刺漫画を掲載する新聞社を襲撃したというテロは、先月、久しぶりにロンドンを訪れて、最近の欧州情勢をヒアリングした私にとっては、決して意外性のある事件ではなかった。正直、やはり、ついに起きたかという感じである。

そして、この悲劇を「過激なイスラム教徒がなせる凶悪事件」とだけ捉えるのはあまりに短絡的だと言わざるを得ない。日本と同様、少子高齢化で悩む欧州が、失われた20年に苦しむ日本とは異なり、それなりの経済成長が出来たのは移民による生産年齢人口の補給があったからだ。しかし、リーマンショックに端を発した欧州経済危機が顕在化し、失業率の増大が深刻な問題になってくると同時に、今度は移民問題が欧州各地で大きな社会問題となってきた。

欧州への移民を送り出している国々は、トルコからドイツ、バングラディッシュから英国、北アフリカからフランスへと、いずれも、その殆どがイスラム教信者である。祖国から欧州へ渡った第一世代は、貧しいながらも祖国の生活から比べれば、それなりの安定して豊かな生活実感をえられたものの、欧州で生まれた第二世代や、第三世代では、社会の底辺から一向に上昇出来る可能性を見出せないまま、その殆どが鬱積した怨念で満ちた生活を送っている。

今や、欧州は金融危機、若年層の失業率と並んで移民問題が大きな政治テーマになっている。2009年イタリアのラクイラで開催されたG8サミットで議論された主要議題は移民問題だった。北アフリカからの不法移民は、小舟でスペインやイタリアから欧州大陸へ上陸するのだが、英仏独にしてみれば、スペインもイタリアも本気で不法移民の取り締まりをしていないという不満がある。なぜなら、北アフリカからの不法移民は一旦欧州大陸に上陸すると経済停滞していて職が得られにくいスペインやイタリアを通過して、職が得られやすい、フランスやドイツ、英国へと移動してしまうからだ。

欧州へ渡ってきた、イスラム系の移民は、どんなに努力しても、中間層の仲間入りすることは出来ない。だからイスラム教徒同士が、同じ地域に集結し、その団結の象徴としてモスクを建設する。今や、欧州中で建設されているモスクの数は夥しい数に上っている。そして、イスラム教徒は白人キリスト教徒に比べて子だくさんである。ロンドンの小学校の3割がイスラム教徒となっているし、ベルギーで昨年生まれた子供の半数がイスラム教徒である。今後、200年から300年後に、欧州ではイスラム教徒がキリスト教徒を上回るのではないかとキリスト教徒は本気で恐れている。そうした恐れが、一層、イスラム系の移民を既存の社会に簡単には同化させないという圧力にもなっている。

そうした中で、起きたのが、今回の深刻な欧州経済危機である。若年層の失業率は、フランスでも50%近い。しかも、大学卒の高学歴若年層の失業率は、大学を出ていない若者の2倍というほど深刻な状況となっている。つまり、いくら、一生懸命勉強しても、今の欧州の若者は将来が全く見えないという状況である。そんな中で、北アフリカからの移民の子は、勉学の機会すら与えられていない中で、まともな就職など出来るあてなど全くない。そうした閉塞感の中で、毎日を暮らすイスラム系移民の若者の心情は、社会全体が混乱しているシリア、イラクで将来が全く見えない若者の心情と殆ど同じだと思ったほうがよい。

だから、今回、フランスで起きたようなテロは、今後、英国でも、ドイツでも、スイスでも、北欧でも、いつ起きても不思議ではない。私は、年末年始にトマ・ピケティ著「21世紀の資本」を読んだ。これは経済学の本というよりも、深刻な格差問題を論じた社会学の本である。経済が成長すればするほど、格差は増大する。そして格差の増大は社会の良識を司る中間層を限りなく減らして行く。この格差の問題は、決してキリスト教徒とイスラム教徒の間の問題だけに留まらないであろう。テロのような過激な事件を起こさない社会、良識ある社会は豊かな幅広い中間層が存在して初めて成立するのだと考えた方が良い。

今回のフランスにおける残虐非道な事件は、決して宗教問題だけの議論には留まらないのだと、改めて申し上げたい。