2014年3月 のアーカイブ

263 あれから3年 (その3)

2014年3月20日 木曜日

広大な旧陸前高田市街を高台に建つキャピタルホテル1000の部屋から眺めると本当になにもない。これを見て、「大震災から3年も経つのに、まだこの状況か!」と思うかも知れない。でも、2年前の旧高田の松原には見上げるほどの高さのガレキ山脈が何本も走っていた。まだ、本物が生き残っていた奇跡の一本松もガレキの山の向こうにひっそりと隠れていた。どのように計算したのかわからないが、三陸沿岸のガレキの山を整理するには、何十年もかかると言われたにも関わらず、今は、もうどこにもガレキの山はない。言い方を変えれば、たった3年で見事に片づけられた。

お隣、大船渡市にある太平洋セメントも立派に操業をしているし、石巻市の日本製紙も大震災前より活気のある工場となっている。大震災から半年後に見た日本製紙の工場は無残にも廃墟となっていた。この大工場が、元の敷地に、たった1年で見事に甦るとは誰が想像しただろうか? この大震災で大きな被害を蒙った海岸沿いの敷地に工場を再建するのは、経済合理性だけから考えたらあり得なかったであろう。そこには日本製紙の経営陣が永年世話になった石巻市民との絆こそが最重要だと考えたのかも知れない。

しかし、もっと冷静に考えて見れば、30年で償却する工場建物や設備ならば、1000年に一度の大震災が再び起きるまでに、30回も立て直しができるという見方もできる。大津波が襲ってきた時の、従業員の避難がきちんと出来る安全策があれば、1000年に一度の確率で工場が破壊されることは、それほど大したことではないのかも知れない。そんな考え方もあったのか、大船渡市の水産物加工関連企業は、市の再建計画が発表される前に、自分たちの考えで、どんどん浸水域となった同じ敷地に工場を再建してしまったのだ。だから、街には活気が戻っている。

それは決して、「1000年に一度の災害が怖くて仕事が出来るか!」という、やけっぱちの気持ちだけばかりではない。ビジネスは一度途絶えたら、再び、元に戻すのは至難の業である。大船渡の大手水産加工会社である森下水産でさえも、国内の大手量販店向けの販路は、大震災後、たった半年休業しただけで、殆どが中国産へ置き換えられてしまったという。それでも、森下水産は、大船渡の工場が休業中、小規模ながら青森の工場で代替生産していたのにも関わらず、失った販路を、元の規模に取り戻すには、また何十年もかかるだろうと言う。

「二度と、こうした災害を起こさせない街づくりを!」という正論を唱えている間に、被災地の人々の生業は、休業している間にも、どんどん失われていく。なかなか進まない仮設住宅からの脱出も、ようやく被災者向け公営住宅が建設されて一安心かと思えば、独居老人向けの1DKばかりが高い倍率で、子供も一緒に住める家族向け3DKは、殆ど申し込みがないのだという。一家の大黒柱であるお父さんの仕事が地元にはもうないからである。

それでも、三陸の海は再び穏やかさを取り戻し、リアス式海岸の奥深い湾には、カキの養殖イカダが沢山浮かんでいる。この三陸の一番の生業である、水産業は少しずつではあるが勢いを取り戻している。いや、あの大津波で防波堤が破壊された結果、湾内に澱んだヘドロが津波の戻り波で一掃されて綺麗になり、これまでより何倍も牡蠣の育ちが早くなったという朗報さえある。

そうした三陸の水産業者が、今、一番望んでいることは、地元を守る巨大な防波堤ではなくて、福島第一原発の汚染水を海に流さないための万全の設備である。今でも、風評被害で苦しんでいるのに、万が一、汚染水の漏えいが深刻になったら、もはや、遠い将来にわたって、三陸の水産業は壊滅的な打撃を蒙るだろうと心配する。大津波は、来たら逃げれば良い。しかし、放射能による海水の汚染からは、どうやっても逃げられないからだ。

もはやガレキが片づけられた石巻や陸前高田の旧市街地には、人の姿も含めて、本当に何もない。しかし、この風景は、今、日本中の、どこにでもある景色のようでもある。そこそこに住宅が建っていても、歩いている人の姿が全く見られない、ゴーストタウンのような町が、日本中に沢山ある。それは、決して、東京から遠く離れた東北や九州ばかりではない。私が育った、神奈川湘南の地方都市ですら、程度の差こそあれ、似たようなもので、昔の活気は全く感じられない。

東日本大震災の被災地が持つ課題は、「地方」と呼ばれる日本中の各地域が抱える問題と全く同じではないかという気がして来る。少子高齢化という未曽有の大災害が日本中を襲っている。東北の被災地は、今回の大震災によって、その未曽有の大災害が加速されただけだとも考えられる。そのように考えれば、被災地の現在の問題は、日本全国民、自分達の問題でもある。

262 あれから3年 (その2)

2014年3月15日 土曜日

旧高田の松原に凛とそびえ立つ奇跡の一本松を見た後、カトリック大船渡教会へ向かった。なぜ、大船渡教会かと言えば、私の師である鷺沼教会の松尾神父が信者の皆様と大震災後にボランティアとして訪れた教会だからである。松尾神父は、ここ大船渡教会で新約聖書をケセン(気仙)語に翻訳した山浦医師に会っている。ちなみに、この大船渡教会は遠野教会から分離独立するときに山浦さんが、ご自身が保有する土地建物を提供している。山浦さんは、大船渡医師会長として地元の名士であるだけでなく、新約聖書翻訳ではローマ教皇から感謝状も頂いている国際的にも名の知れた大変敬虔な信徒である。

大船渡教会を訪れたいと思った、もう一つの理由は、大船渡教会の後背地に建つ「海の星幼稚園」が会社の同僚である池田佳代子さんが通った幼稚園であることと、その幼稚園の建物の設計デザインは池田さんのお父上によるものだったこともある。そして、最後の理由は、今回、大船渡の大震災犠牲者追悼式に出席するにあたり、被災者への義捐金を大船渡教会に寄付するためであった。元来、私は、使い方がよくわからない団体へ寄付をすることには納得がいかない。3年前の大震災直後にも、少しまとまったお金を鷺沼教会からカトリック仙台教会へ直接送ってもらった経緯がある。

まず、大船渡教会に着いて驚いた。この教会は津波浸水域の直ぐ脇の高台に建っている、本当に可愛らしい小さな教会だった。神父様にお会いするために、入り口を開けると、玄関で下足を脱ぐ畳敷きの聖堂が目の前に現れ、また、これには大変驚いた。畳敷きの聖堂をもった教会など日本全国探しても、多分、ここだけだろうに。そして、私の前に現れたフィリピン人の神父様は、大変、気さくな方で、畳敷きの聖堂と外国人神父様のお姿を、ぜひ記念に写真に収めたいという私の希望に素直に応じて下さった。喪服姿の私を見た神父様は、「ここでも13時から追悼式を行いますが、参加されますか?」とお誘い頂いたが、13時半から、大船渡市の追悼式に参加する予定だったので丁重にお断りをした。

神父さまとお別れしした後、後背地の海の星幼稚園に向かった。この幼稚園は、教会よりさらに高台に建つ2階建ての立派な建物で、教会とは大違いのスケールである。さすが、池田さんのお父上が設計されただけあって、夢のあるとてもモダンな建物であった。高台だけあって幼稚園の庭からも大船渡湾が一望できる。池田佳代子さんからは幼稚園に上がらせてもらって、その景観を楽しんでくださいと言われたが、まだお昼の12時で、たぶん、園児たちがお昼を食べているのであろう、園児の大きな声が庭にまで響いていた。そんな中、こんな喪服姿で幼稚園に上がって行ったら、ちょっと怪しすぎるので、大変残念ではあったが断念をした。

しかし、ここで、私は考え込んでしまった。今は、お昼の12時、園児達が楽しく昼食を食べている。3年前のあの日、あの時、午後2時46分、幼稚園の園児たちは、まだ帰宅の途についてはいなかったのだろうか? この地は、高台で、大船渡でも一番安全な所である。もし、まだ園児たちが、この幼稚園に残っていたとして、先生達は、自宅に帰すために父兄を呼んだのだろうか? 父兄の皆様は、園児を自宅に連れ戻したのだろうか? もちろん、私は、その真実を知る由もない。しかし、間違いなく、親も子も、自宅に帰るよりも、この高台の幼稚園に、そのまま居残ることが一番安全だったことに間違いはない。

カトリック大船渡教会を後にして、大船渡市主催の追悼式が行われる大船渡市民会館リアスホールに向かった。大震災の直前に建てられた、この市民会館も大変モダンで立派な建物であった。市民会館の入口には、「気仙」の云われを解説する碑が建てられていた。「気仙」は西暦820年の続日本書記に現れてから1200年も歴史を持つ由緒ある地名であることが記されている。山浦先生があれほどに「ケセン語」を重要視されているのも、私は、この碑を見てよく理解できた。そして、この気仙地区とは、実は、今の岩手県大船渡市、陸前高田市と、宮城県の気仙沼市を包含していたのである。

そう気仙地区という1200年も続いた伝統ある一つの文化が、江戸時代から明治の廃藩置県のドサクサで岩手県と宮城県に分断されてしまったのだ。その口惜しさが、この大船渡市民会館の玄関の碑に表されている。そういえば、あのコソボ紛争で、セルビアがコソボを攻めたてたことが世界中の非難を浴びたが、実はコソボはセルビアにとって歴史ある古都であり、日本の京都のような存在だったと言う。こうした話は、世界中にあり、あのウクライナでも同じことが起きている。ロシアに編入されようとしているクリミア半島は、もともとはトルコ系であるタタール人の国だった。

こうした歴史ある気仙地域をまとめているのが地元メディア、鈴木社長率いる、東海新報である。東海新報は、大船渡市、陸前高田市、気仙郡住田町を一つにまとめた気仙地区の意見を代表する地元の新聞社である。鈴木社長によれば、カキの養殖を最優先に考えた、岩手県大船渡市が設計した通水管付防波堤は気仙沼市から見ると羨望の的だと言う。カキ養殖のことは全く無視して、ただ堅固な防波堤だけに拘る宮城県の方針には、気仙沼のカキ養殖業者は全く納得がいっていない。国連から世界を代表する森の擁護者として表彰され、国際的にも環境保護者として高名な畠山さんも宮城県の方針には憂いている。

ともあれ、大船渡市の犠牲者追悼式は始まった。ここで、富士通の岩手支店長である太田さんに出会ったことは大変嬉しかった。太田さんは、3日前の3月8日の陸前高田市の追悼式にも参列している。昨年の陸前高田市の追悼式は、12時から始まる一般参加者が長蛇の列で、ご焼香に1時間半も要したというのに、今年は、太田さんのグループ以外、一般参列者が殆ど居なかったというのが大変ショックだったという。3年目を迎え、いろいろな所で風化が進んでいる中、太田支店長は、この3月11日前後だけでなく、日常的に岩手県の各被災地を頻繁に訪れて復興状況を、こまめにモニタリングしておられる。会社の業務からという義務感を超えた、太田支店長の日頃のご努力には、ただただ感服せざるを得ない。

追悼式の後は、東海新報の鈴木社長を含む、大船渡市の地元経済界の名士たちを交えての懇談会に参加させて頂いた。懇談会の場所は大津波でお店を流され、高台にようやく再建された「いろは寿司」であった。事前にGoogleで「いろは寿司」の場所を調べた私は、「同じ電話番号で二か所にお店があるのはどうしてなのだろうか?」と訝っていたが、Googleには、流されたお店も登録されていたのだった。この晩も、相変わらず、無線操縦のヘリコプターで被災地の定点観測を続けておられる東海新報の鈴木社長が一番雄弁で楽しいお話をされていた。

「中国製の無線操縦ヘリコプターが、この前、墜落しましてね、今、修理中なんですよ。私は、今回、こうした被災地の定点観測に対して政府の補助金が出るのを知りましてね、初めて申請書を書きましたよ。お蔭で、今度のヘリコプターは、ドイツ製の高級機を買います。もう、私も年なので、若い社員に無線操縦のやり方を教え込んでいます。これから、どんどん、被災地の復興情報を発信していきますよ!」と鈴木社長。もう70歳をとっくに超えておられるのだろうに、とにかく気持ちが若い。東北の大震災、復興に貢献しているのは、若い人達ばかりではない。高齢者だって、立派に、お役にたてるのだ。

261 あれから3年 (その1)

2014年3月13日 木曜日

大震災から3年目の2014年3月11日、小雪が舞う仙台から、陸前高田、大船渡に向かうため、東北新幹線で水沢江刺へと旅立った。この水沢江刺駅は、旧東北本線の水沢駅より少し離れたところにあるが、これは新幹線の運行による振動が、水沢緯度観測所の天文測定に影響を与えないように配慮したためと言われている。一関から大船渡へ向かうJR大船渡線が津波で途絶えてしまったので、このように現在は、沿岸部へ行くに車で行くしか方法がない。仙台を発って古川駅に到達する頃、窓の外は吹雪で、一面の雪景色となった。もちろん、水沢江刺駅の周りも一面の雪である。

もともとの計画では、水沢江刺駅でレンタカー借りて、自ら運転していくつもりだったが、かつて岩手工場に勤務した経験のある同僚が、冬の峠越えは初めての人には無理だと、ハイヤーを借りることを薦めてもらったのは本当に良かった。この雪は3日前から降り始めたとは言うものの、397号線の峠の頂上である種山が原の道の駅近くは、1メートル近い積雪であった。日影のカーブでは、凍結のためか車は随所でスリップした。北国の春を軽く見てはいけない。3年前の、この日も、私は青森に居たが、小雪が舞う大変寒い日であった。

峠を越えて397号線から107号線に入ると、大型ダンプの数が急に増えた。この山道は、もともと、大型ダンプがすれ違う幅がない。さらに、この日は両サイド雪が積もっているため、すれ違うために、どちらかのダンプが、拡幅された場所で待機することが度々あった。この道を、これほど夥しい数の大型ダンプが行き来するようなことは長い歴史のなかで、今まで無かったに違いない。陸前高田に近づくと、大型ダンプの数は、なお一層増えてきた。昼間から、ダンプ渋滞である。

ようやく、目指す、陸前高田のキャピタルホテル1000の姿が高台に見えて来たものの、そこへ近づく道がわからない。陸前高田の中心市街は津波で徹底的に破壊されたので見通しはすこぶる良い。しかし、一般車は工事用大型ダンプと違って通行が制限されている道が多数ある。もちろん、ナビゲーションは、そんなことはお構いなしだ。だから、ホテルの姿は、見えているのに一向に近づけない。後で分かったことだが、大船渡から来るときには、ホテルに向かう丁寧な案内掲示板があったのだが、気仙川を下ってくるルートからには、それが全くなかったのだ。

それにしても、3年がたっても、この陸前堅田の中心街は、大型ダンプと工事用重機の姿ばかりで、暮らしている人の姿は、未だに全く見えない。荒涼とした海岸沿いの平地に、既に幾つか、かさ上げした土地が造成されている。確かに、お隣の大船渡市は、津波の浸水域から歩いてすぐのところに高台があるので、400名近い犠牲者がでたものの、多くの方が無事避難して助かっている。しかし、陸前高田市は海岸部の平地があまりに広いので、高台に逃げるのは容易ではない。だからこそ、このように、かさ上げするのだろうが、果たして、かさ上げをして、どれだけの方が、ここに戻ってくるのだろうか?との不安な思いも巡ってくる。

ようやく、キャピタルホテル1000に辿りついて、畠山社長と再会できた。オープンを2週間後に控えた完成前に工事中のところを見せて頂いたが、出来上がってから中に入るのは初めてである。入り口のエントランスも明るくて、チェックインの時から居心地が良い。部屋の設備も快適で、何しろ海側の窓が大きく、遠く海岸までの眺めは最高であると言うより最高のはずであると言うべきか。それは、部屋の窓から見える海岸までの広大は土地には、今は、大型ダンプと工事用重機しか見えないからだ。

それでも、ホテルに隣接するレタスを水耕栽培しているという大型テントは昨年のオープン直前には3基しかなかったのが、今は、20基近くに増えている。塩が入った田んぼではコメの栽培が難しいので、こうした水耕栽培に転換されているのだが、着実に規模が大きくなっている。畠山社長は、このホテルの部屋から見える景観の価値は、少しずつではあるが、こうして復興への歩みを自分の目で見て頂くことであると言われている。だから、ここへは定期的に来ないといけないのだと、私も自分にも言い聞かせている。

ハイヤーの運転手さんに伺うと、キャピタルホテル1000の営業はオープン以来順調で、特にイベントが数多く催されているとのことであった。三菱商事復興財団が力を入れて支援していることもあり、そのイベントは地元だけでなく、東京の大企業が主催するものも少なくないようだ。翌日の3月12日には、地元の3つの中学校の卒業祝いパーティーが予定されていた。畠山社長によれば、今年の中学卒業生は、3年前、小学校の卒業式が出来なかったというのである。父兄や先生方も、この子たちには、今度の中学の卒業式こそは、この綺麗なホテルで盛大に祝ってあげようと思っているに違いない。

お隣、大船渡市の追悼式までには、まだ時間があるので、高田の松原跡にある「奇跡の一本松」まで行ってみようと思い立った。そして、この名所となった一本松周辺の景色も半年前とはガラリと異なっていた。大体、指定されている専用駐車場は一本松までは歩いて一キロ近くある場所になってしまった。この一本松周辺が、巨大な橋というかモノレールのようなもので覆われてしまったのだ。まさに遠くの山の中腹から、この陸前高田の市街地にモノレールが建設されたのかと勘違いするほどの巨大なインフラである。頑丈な橋柱が、この巨大な建造物を支えている。このようなものは、半年前には姿かたちもなかった。

どうも、後で、地元の方から話を聞くと、遠くに見える高さ120mの山を40mまで削って住宅用高台にして、その削った土砂を、この陸前高田市街をかさ上げするために利用するための土砂移動用のベルトコンベアーなのだという。凄いものだ。私のようにいきさつを知らない方が見たら驚くに違いない。今まで、大型の製鉄所や製油所へ行っても、これほど巨大な設備は見たことがない。大型ダンプを使うと4年かかる土砂移動を、この巨大なベルトコンベアーで運搬すれば1年半で済むと言う。きっと人類はピラミッドを建設するときに、このような設備を造ったに違いないと、そう思わせる驚きの設備である。

それでも、高田の松原の「奇跡の一本松」は、こんなにも巨大な人工物を、すぐ隣に建設されたにも関わらず、晴れ渡った空に向かって凛として立っている。3年前の、あの自然の猛威が作り出した恐怖の大津波に耐えた一本松は、いくら巨大とは言え、人間が作った設備に狼狽えたりはしていなかった。