私は、このたび初めて広州を訪れた。広州は広東省の省都で、北京、上海に次ぐ中国第三の都市。そして、広州は深圳、珠海などの経済特区を経済圏に抱える、現代中国で最も早く繁栄を享受した都市でもある。さらに、広州は、孫文の故郷で辛亥革命を起こした地としても名高い。私の、今回の広州訪問の目的は、広州にある中山大学での講演であった。中山こそ、孫文の号であり、この中山大学は医師であった孫文が創設した大学でもあり、2001年には中山医科大学も吸収し、4地区トータル7平方キロ、25学部を有する総合大学となった。
中山大学は中国大学ランキングの8位にあたる、超一級大学であり、華南地区ではダントツTOPの地位を確保している。だから、この大学で講演をさせて頂くというのは、私にとっても大変名誉なことであった。上海を始め、中国の大都市を訪れると必ず「中山路」という名の通りがあるほどに、中国で「中山」の冠は重たい価値がある。南京市郊外にある孫文の陵墓である「中山凌」は、中国の歴代皇帝の陵墓と比べても全く遜色がないほど立派で、私は、これほど緑が深い広大な地区を中国では未だ見たことがない。孔子廟を訪れた時には、無残にも文化大革命時代に破壊された跡に目を覆ったが、この中山凌は、その文革時代にも全く無事であった。
そんな中山大学で私の講演を聴講された学生や教職員の方達は見るからに優秀そうであった。当日、同僚の柯隆さんに通訳をして頂いたのだが、聴衆の中には、日本語も理解できる学生も少なくなかった。多くの方々が、既にアメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアなどへの海外留学や研修を経験されていて、流石、孫文が創立した大学だけあって国際色が豊である。この時期は、多くの学生がインターンシップに出かけていることもあって、私の講演は、柯隆さんの通訳も付きでビデオ撮りをされていた。
もともと、今回の講演は柯隆さんが特任教授を務める静岡県立大学の教授でもあり、この中山大学の教授も兼務されている濱下武志先生のお招きによるものであった。濱下先生は、東京大学教授として東大東洋文化研究所長もされた方であるが、米国のコーネル大学、香港大学、シンガポール国立大学とアメリカやアジア各地の大学で教鞭をとられている。この中山大学に来られる前は、韓国の大学でも教鞭をとられていたと伺った。講演終了後、濱下先生から、大学が経営するレストランでご馳走して頂きながらアジア各地の学生気質の違いなど伺い大変参考になった。ご案内頂いた部屋は学長が顧客を接遇するための特別室で、その名も「中山」という立派な個室だった。
私たちは、この中山大学で講演会を催す前に、孫文が設立した黄埔軍官学校を見学した。この黄埔軍官学校は、孫文が起こした辛亥革命で成立した中華民国の陸軍士官学校で、校長が蒋介石で、後に中国共産党のNo2にもなる周恩来も教官であり、毛沢東の面接試験官だったという話もある。中国海軍の軍艦が接岸している軍港の岸壁に沿って建てられているが、後背地は静かな緑地となっている静かな環境にある。学校の理事長でもあった孫文の居室や、学生食堂、寝室、勉強部屋など見学できるようになっている。
入り口近くの展示室には、孫文が革命を起こすまでの歴史資料が沢山保存展示されている。中でも、私が一番印象に残ったのは、梅屋庄吉との親しい交流を示す数多くの資料である。まさに、辛亥革命は梅屋庄吉の支援で成し遂げられたともとれるような雰囲気の展示である。この展示室の中には、実に様々な人々が実写の写真として登場するので面白い。孫文の奥さん、宋慶齢という方は、こんなに綺麗な方だったのだとつくづく思った。蒋介石、周恩来から、なんと江沢民までが登場する。その江沢民の写真は、何と日本人と一緒に仲良く笑って撮られた写真である。これこそ嬉しくなるような写真である。
濱下先生は、東京大学を退官後、香港、シンガポール、韓国で教鞭をとられた後に、この中国華南随一の大学、中山大学で教えられているわけだが、私は、濱下先生も偉いが、それを受け入れた中国の大学も偉いと思う。しかも濱下先生のご専門は「歴史」である。こうして海外の知識人から素直に学ぶ姿勢が、今の日本にもっとあって良いのではないかと思うのは、実は私だけではない。
先日、元通産省次官で神戸製鋼の副社長もされ、現在、東洋大学の理事長をされている福川伸次先生から聞いた話である。「伊東さん、明治の初期には、日本は国家予算の25%を外国人教師の給料に使ってたんですよ。今だったら、こんな大胆な政策を考えられますか? 明治政府は、国家の繁栄に一番大事なことは人材教育だと考えたんですね。だから江戸時代の遅れを取り戻して、日本は急速に近代国家になれたんですよ。」実に、感銘深い話である。