2012年11月 のアーカイブ

186 メキシコから学ぶこと

2012年11月29日 木曜日

1999年、米国に駐在中だった私はパナソニックのご厚意により、米国サンディエゴと国境を挟んだメキシコのティフアナを訪問した。パナソニックのリファブリケーション工場を見学するためであった。リファブリケーション工場とは、米国の小売業者が顧客から返品として引き取ったものを再生するためのロジステッィクスである。米国商習慣では、ウオルマートのように無条件返品引き取りを行っているため納入業者は、皆、頭を痛めている。返品の殆どは良品だからだ。米国の法律では、気に入らないと言う理由だけで返品できることになっている。そして、一度返品されたものは、例え良品であってもリファービッシュ(再生)したことを表示し、そのために店頭に出したときは30%程度の値引きを強いられる。米国で商売をする以上、この仕組みから逃れることは出来ないのだ。

こうした不条理な作業を米国内の高賃金で行っては全く商売にならないので、リファブリケーションは米国国境にほど近いメキシコの工場でおこなっている場合が多い。ティフアナはサンディエゴの市街からから車で15分しかかからない。このアメリカ・メキシコの国境にある入出国管理事務所は大型トラックの長蛇の列であるが、パナソニックのようにティフアナに工場を持つ企業には別ゲートから簡易な手続きで入出国出来る特典が与えられている。パナソニックのティフアナ工場長の車に乗せて頂いた、私も、その恩恵を受けた。

豊かな緑に囲まれた南国の楽園、サンディエゴは米国でも最も住みやすい地域の一つであるが、この国境を越えて、ひとたびメキシコの領内に入ると、目に入ってくる景色はがらっと変わる。まさに植物が全く生えない不毛の砂漠地帯である。実は、ロサンゼルスやサンディエゴは米国の高度文明が作った人工都市なのだ。ラスベガスから飛行機でロサンゼルスに帰ってくると、砂漠から突然緑に囲まれた都市が出現し、プールに水を満面とたたえた豊かなアメリカの中産階級の家々が目に入ってくる。メキシコには、こうした文明は未だ届いていない。こうして水の匂いが全くしない荒涼たる砂漠の中で暮らしていたら、「メキシコ人は手を洗う習慣がないので不潔だ」とアメリカ人が非難するのはおかしいと思う。手を洗う水などメキシコには全くない。

ところが、一旦工場の中に入ると、また違う光景が目に入る。整然として清潔な環境の中で、元々勤勉なメキシコ人が一心不乱に働いている。私達と同じ、モンゴロイドを祖先に持つメキシコ人は勤勉で、手先が器用で、目がとても良いので、工場労働者として世界最高の能力を有しているのだと言う。さらにメキシコ人は勤労意欲だけでなく向学心も旺盛で、教育をすると何でも出来るようになる。だから、日本で償却が終わった古い設備をメキシコまで持ってきても、彼らは壊れた部品の修理まで簡単にしてしまう。それゆえ設備の導入費用まで大幅に節約できるというのである。

しかし、ティフアナにはパナソニックのような優良な働き場所が、それほど多くはない。そうした仕事にありつけない人々の職業は麻薬密売と誘拐しかない。パナソニックのティフアナ工場を経営・監督する日本人は、こうした治安の悪いティフアナには住めないので、皆、毎日、サンディエゴから車で通勤している。工場で問題が起きて、夜遅くなった時は、赤信号を無視して猛スピードでサンディエゴに向かうのだそうだ。止まったら、その場で銃を突き付けられて誘拐される。当然、車には衛星通信設備が備えられており、警備会社が24時間車の動向を見張っている。

そんなメキシコの経済発展が、今、世界から注目されている。2011年の統計でメキシコは名目GDPで世界14位となり、15位の韓国の上である。為替要因を除いた購買力平価ベースでは11位にまで上がる。昨今、以前の勢いが無くなったBRICs諸国に比べてもメキシコの勢いは群を抜いている。昨年の成長率4%はブラジルの2%を凌駕しており、2020年末までにメキシコは経済大国TOP10になるかも知れないと言われている。1982年、1994年と二度も通貨危機を起こした中南米の問題国のメキシコが、一体、なぜ、ここまで良くなったのかを見てみたい。

実は、1982年に財政危機を起こしたメキシコは1983年以降2008年まで財政プライマリー収支は常に黒字を維持してきた。歴代の政権は、財政規律を厳格に順守してきたのである。この結果、対外債務残高はGDP比で10%に留めており、世銀定義では「軽債務国」に分類されている。2000年以降の一貫した低インフレと低金利によって、ムーディーズ、S&P,フィッチのいずれの格付け機関からもメキシコ債は「投資適格」を付与されている。今年発行されたメキシコの100年債も5.5%の低利回りとなるなど、メキシコは財政・債務運営では世界の最優良国となった。

さて、どうして、我々、日本が羨むほどの超優良国にメキシコはなったのだろうか?それは、単に貿易政策である。かつて、隣国にアメリカと言う超大国を抱えたメキシコは自国の産業を保護するために高い関税と管理貿易で米国系企業のメキシコ進出を阻んだ。その結果、米国の隣という好位置に存在しながら、メキシコは世界経済からつまはじきにされたのだ。それを一変したのが、米国、カナダ、メキシコ間で1992年に締結された北米自由貿易協定(NAFTA)である。実際に発効したのは1994年からであるが、ここからメキシコは世界経済の繁栄の輪の中に入ることが出来た。今や、メキシコは世界のどの国よりも多い44か国と自由貿易協定(FTA)を結んでいる。この結果が、メキシコがブラジルを抜いて中南米最大の経済国にまでなるのではないかと持て囃されている理由でもある。

メキシコは、今年、世界8位の自動車生産国となり、輸出では世界4位となる自動車製造大国となった。メキシコでは米国のビッグ3と欧州のフォルクスワーゲン、日本からは日産が大規模な工場を展開、トヨタとホンダは未だ規模拡大の途上にある。このように、メキシコが自動車生産大国となった理由は、中国やタイ、ベトナムなどアジアの賃金が急上昇するなかで、メキシコの賃金水準は安定を見せており、相対的に労働コスト上も優位になったということと、何と言っても米国市場まで運搬する距離の近さにある。石油価格の高騰で輸送費が増大したため、米国市場から近いという利点は圧倒的な優位性となった。

さて、NAFTAを始めとする自由貿易協定(FTA)の締結は良いことばかりではなかった。世界有数の自動車生産国となったが、地場資本の自動車メーカーは1社もない。そして、サプライチェーンの隅々まで、米国、ドイツ、日本からメキシコに進出したメーカーで席巻され、地場資本の自動車部品メーカーは、その殆どが淘汰されてしまった。果たして、こうした事態を、どう見るかである。こうした地場資本を守るための保護主義から抜け出ることによってメキシコは繁栄への道を歩み始めた。国民に膨大な数の新たな雇用の道が開かれた。既存の地場企業の経営者を守るか?新たに、多くの労働者の雇用に道を開くか?メキシコは重大な選択をしたのだった。

さらに、メキシコでは世界最大の資産家Carlos Slim氏がブラジルの殆どの産業を支配しているという実態、貧富の格差が一向に縮まらないという、いろいろな社会問題もある。それでも、こうした分配の問題を解決するにしても、今の日本のように、トータルの富が増えないことには分配の議論すら出来ない。分配すべき原資が全く増えないのだから話にならない。反TPPを主張する人達は、一体、誰の権益を守ろうとしているのだろうか?そのことを良く観察すべきである。少なくとも、反TPP論者たちは、国民全体の雇用や、所得の拡大を考えていないことだけは確かである。それは、メキシコの経済発展を見ればよくわかる。私たちがメキシコから学ぶべきことは多い。

185 「脱原発」を叫ぶ前に、我々がなすべきことは?

2012年11月21日 水曜日

2010年に策定された日本のエネルギー基本計画の根幹は原子力発電であった。原子力発電こそが、環境性(CO2排出)、コスト、自給能力の点で他を圧倒するエネルギー源と見なされたからだ。そして、この2010年以前からも、日本のエネルギー政策は原子力を中心に運営されてきた。そして、それは原子力発電が、日本の高度な技術によって安全性が担保されていると見なされていたからに他ならない。その長期にわたる日本のエネルギー政策を、2011年3月11日に起きた東電福島第一原子力発電所の悲惨な事故によって見直しを迫られているわけだが、ことエネルギー政策に関しては、一気に舵を切れないジレンマがある。

私は、個人的には、日本の経済振興や雇用の安定を考えた時に、さらに安全性を高めると言う前提をおいた上で、原子力発電をそう簡単にやめるわけにはいかないと思っている。それほどに、原子力発電を代替すべき再生可能エネルギーを用いた発電や、火力発電には大きな課題が残されているからだ。確かに、絶対に安全と言われてきた原子力発電で、これだけ大きな事故が起きたと言う現実と、高濃度放射性廃棄物の最終処分の問題が明らかになった以上、この原子力発電をエネルギー政策の基本において、さらに拡大していくという従来のエネルギー政策を根本的に見直す必要があると言う点において、ほぼ国民的なコンセンサスが得られている。しかし、どのようにして、その転換を具体的に進めて行くかについては、殆どのメディアが触れていない。

つまり、総理大臣が「脱原発」と宣言を発することで、その日から原発依存ゼロのエネルギー政策が実行に移されるほど、ことは容易ではない。3.11大震災以降、日本全国の54基の原発が全て停止したが、需要家である企業や国民の努力と、発電事業者の懸命の努力によって大停電という最悪の事態は回避された。これを見て「やればできるじゃないか」と思うのは大間違いである。休止中だった火力が総動員されて何とか辻褄を合わせているのが実態で、そのために石油やLNGを急遽輸入拡大したため、発電コストは急上昇している。こうした負担に、いつまで企業活動や国民生活が耐えられるかわからないし、イランに端を発する中東情勢の緊迫化で、一度、緊急事態が発生すれば、日本のエネルギー供給体制は一気に破綻する。

一方、日本では太陽光発電に関して、脳天気なイリュージョンが未だに払拭されず、日本中に太陽光発電パネルを敷けば、原発は全く要らないような錯覚に陥っている。太陽光発電で先行していたドイツとスペインでは、そのコスト高から政府補助による補填政策が耐えられなくなり、既に、大きな見直しが迫られている。それでも、日本政府は太陽光発電パネルメーカーへの支援の意味もあって手厚い振興策をとってきたが、中国製パネルの価格破壊によって、もはやパネルビジネスそのものが世界中で破綻をきたしている。ドイツの超優良企業であるシーメンスは先日、太陽光発電事業からの撤退を決め、同事業を売却に出した。今や、太陽光発電よりも太陽熱発電の方に世界の注目は移っており、そして、それが採算上も優位に実現出来るのは、アフリカのサハラ砂漠か、中東の砂漠地帯に限られている。

再生可能エネルギーは、太陽光も含めて、風力、地熱、小水力、バイオマスなど、ありとあらゆる可能性を総動員しても、まだ、その不安定性から原子力発電を代替することは無理で、今後とも、火力発電に多くの能力を依存せざるを得ない。そして、電力コストを重要視して考えるなら、やはり火力の主力は石炭である。現在、世界では電力発生の70%が石炭によって起こされている。日本では、石炭火力は最悪のCO2発生源として、近年、全く新設を認められていないが、それは、あくまで原子力発電を基軸に考えていたからに他ならない。仮に、原子力発電への依存を減らすと決めるのであれば、それは即ち石炭火力の復活を意味することにしかならない。そして、最近、三菱重工業が開発したIGCC(石炭ガス化複合発電)のように、LNG並みの少ないCO2発生で、極めて高効率な発電能力を有する石炭火力発電所も実現できるようになっている。これこそ、世界の環境問題を解決する日本の宝となる高度な技術であり、まず日本から普及拡大を図るべき技術だと思われる。

いち早く、「脱原発」を実現するためには、風力、地熱、小水力などの再生可能エネルギー発電や、LNGだけでなく石炭も含めた火力発電等、国を挙げて原子力発電に替わるエネルギー施策を、次々と実行していかなければならない。そして、これらの早期実現を阻んでいる各種規制を速やかに取り除いていかなければならない。そのためには、環境省、経済産業省、国土交通省、総務省、農林省など各関連省庁が相当の覚悟で取り組む必要があるのは確かだが、詳細を突き詰めてみると、一番大きな障害は、霞が関の中央官庁ではなく、こうした新たなエネルギー発生源となる施設を許認可する権限を持つ、地方公共団体にあることがわかる。

例えば、「東京で消費される電力を福島県に依存すべきでない。エネルギーは地産地消として、東京湾にLNG大規模火力発電所を建設しよう」という発想を持つ猪瀬東京都副知事などは、地域の首長としては、全くの例外である。多くの、日本の大都市では、「火力発電所のような環境を汚す設備は大都市に作ってはならない。そんなものは過疎の田舎でやってくれ!」という調子で考えている。具体的に言えば、環境省は115,000KW以下の火力発電所は環境アセスメントを省略できると定めているのに、大都市で同じ数値を条例として定めているのは東京都だけである。横浜市、大阪府、大阪市、神戸市が20,000KW以下、名古屋市、福岡市は50,000KW以下と定めており、「火力発電所は俺たちの近所には簡単には作らせない」と言っている。まさに地域エゴである。

これは火力発電所の建設だけに留まらない。例えば、兵庫県、滋賀県、岡山県では風力発電設備を環境影響評価の重要対象として追加し、1,500KW以上の風力発電設備に対して厳しい環境アセスメントを求めている。今や、風力発電設備は1基でも2,000KWを超えることが常識となっているので、これら3県では、「俺たちの県には、風力発電設備などまかりならぬ」と言っている。一方で、滋賀県知事や兵庫県知事が関西電力大飯原発に反対し、「脱原発」を宣言するなど、言うこと自体に大きな矛盾がある。要は、「何であっても迷惑なものは自分たちの地域には一切作らせない。」という地域エゴである。「それなら兵庫県や岡山県や滋賀県では、もうこれから電気は使わないのか?」と言いたくなる。

最後の例は、私が住んでいる横浜市の例である。今、日本全国には3,000か所以上のごみ焼却炉がある。比較的、小規模なものが多いが、これを600か所に集約して、発電設備付きのごみ焼却炉に転換すれば、何と総電力発生量600万KWにもなる。これは原子力発電所6基分に相当する。しかも、ごみ焼却炉は24時間運転なので、太陽光発電や風力発電のようにお日様任せ、風任せのような不安定なものではない。極めて安定した電力である。そして、横浜市は、最新鋭の発電設備を有した大型ごみ焼却炉が2基もあるが、その能力を最大限発揮していない。なぜか?

ごみ問題の専門家を自称する、中田前市長が徹底したごみの分別回収を始めたからである。実際、私の地区では月曜と金曜日が生ごみ回収で、これは市の清掃車が回収する。プラスティックは火曜日、瓶とペットボトルは木曜日で、これは再生業者が別に回収していく。もう既にお気づきだと思うが、発電設備付きごみ焼却炉は、生ごみとプラスティックや紙など一括して収集されたゴミを高温で燃やすことで初めて実現できる。せっかく最新鋭の発電設備付きごみ焼却炉を有している横浜市は分別収集しているがゆえに、その能力が活かせないのだ。いや、活かせないどころではない。生ごみだけだと、良く燃えないので、初期燃焼に重油を追加して燃やしている。何という不見識な、やりかただろうか。プラスティックは重油以上に良く燃える最も過激な燃焼物である。

いや、横浜市のごみ分別収集方式は、原発がきちんと十分に安定した電力を安価に供給してくれる時代には、それで良かった。プラスティックを再生する方が、環境に優しかったかも知れない。実際、2000年に私が住んで居たカルフォルニア州では、大停電を起こすほどの電力パニックになってから、ごみ収集を、これまでの分別収集から一括収集に変えた。プラスティックを含む全てのごみを同時に燃やして発電するためである。日本の環境活動家は、先ほどの太陽光発電と言い、欧米のトレンドから一歩遅れている。ごみの専門家であった中田市長のやり方は、もはや世界では通用しない。

さて、地域主権が叫ばれる中、本当に、国に代わって地域の首長が実権を握ると世の中はよくなるのだろうか? 自分の所には、煙を出す発電所の建設はだめだ。大規模な発電機能付きごみ焼却炉はだめだ。放射能廃棄物処分場は、自分の近所には絶対に作らせない。こういう地域エゴが充満するなかで、国の繁栄は維持できるのだろうか? 大都市の住民が使う電力は、その住民が出すごみの発電で少しでも賄うべきである。やっかいなもの、汚いものは、過疎の村に追いやればよい。皆が、勝手に、そう考えていたら、国の経済は成り立たない。「脱原発」を目指すのであれば、それぞれの地域が、せめて自分が必要とするエネルギーを確保するだけの、一定の環境負荷を負う覚悟が必要である。殆ど環境負荷をもたらさないように見える太陽光発電のような綺麗ごとだけ頑張っていても、「脱原発」は、いつまでもたっても実現しない。

184  環境アセスメントの功罪

2012年11月12日 月曜日

先月から、内閣府が主宰する規制制度改革委員会のグリーンWGに参加している。昨年度の第三クールに続いて第四クールとなる、このWGでは、昨年度106項目の規制緩和という異例となる多数の答申した後の、詰めの議論を行っている。主要テーマは、再生可能エネルギー関連と廃棄物処理に関する規制の見直しである。元々、地球温暖化を阻止するためのCO2削減が主体であったが、福島第一原発事故の影響を受けて、太陽光、風力、地熱、小水力、バイオマス発電の他に、高効率の火力発電の建設まで踏み込んでいる。また、バイオマス発電では、当然、廃棄物処理との関連も含まれてくる。

CO2の排出量を減らし、かつ、将来の原発依存度も減らすと言う意味で、再生可能エネルギーの開発を阻むものなどあり得るのか?と思われる向きも多いと思うが、それが大ありなのだ。元々、再生可能エネルギーの利用が低い日本の状況を、原発主導を促進するために意図的に抑制したのではないか?とか言われているが、そう単純な話ではない。原発依存度を少しでも減らそうと言う国民的なコンセンサスがあるのにも関わらず、再生可能エネルギー計画は一向に進まないからだ。

太陽光発電だけが脚光を浴びているようだが、所詮太陽光発電は、その効率の悪さから再生可能エネルギーの主力には成りえない。それでも、日本政府には、日本製の太陽光発電パネル事業が発展してくれればという望みもあったかたと思うが、もはや中国勢の安値攻勢で事業として成り立つ見込みは全くなくなった。その災いの元である中国企業ですら倒産の憂き目にあっている。ドイツのエクセレントカンパニーであるシーメンスは、先日、太陽光発電事業からの撤退を表明し、同事業を売りに出した。

太陽光発電に代わって再生可能エネルギーの主力になるとして有望視されているのは、風力、地熱、バイオマス、ゴミ廃棄物発電等である。しかし、これらは、いずれも、その開発着手まで、最低でも3年、長引くと5年以上も環境アセスメントの時間を要してしまう。本来、環境を良くするための施設が環境問題で着手出来ないのだ。3年から5年先となると、その時の経済情勢や、政治情勢が全く読めないので、発電事業として果たして採算がとれるものかどうか想定がつかなくなる。従って、事業参入者はいつまでたっても現れないということになる。

もちろん、現状の規制も問題である。そもそも環境省の考え方は、人工建設物は自然を破壊するものと決めつけている。従って、環境アセスメントを始める前提条件として、複数の適地を示して、その中で、申請している場所が最適であることを示せと言っている。もう、「他を探しても、そこしかない」と言えと言っている。そして、そこが反対に会おうものなら第二、第三の候補地を予め示せとも言っている。しかし、例えば、風力発電業者に言わせると、それほど多くの適地があるのなら、それらの全てに風力発電機を設置したいという。確かに、何らかの人工建設物は自然に何らかの影響を与えるが、その再生可能エネルギーの以外の手段に頼った時に、さらに多くの自然破壊がなされるかどうかの比較の議論が必要だと思われる。チェルノブイリ原発事故近郊にある広大な立入禁止区域は、現在、自然があふれた動植物の天国になっているという。人類が、この地球に存在していること自体が、もはや自然破壊の一端となっていると考えるべきだろう。

そして風力発電は騒音問題が、地熱発電は硫化水素とヒ素の発生問題があり、小水力発電は水路を少し迂回させるかも知れない、バイオマスやゴミ焼却発電は、廃棄物運送トラックが出入りするかも知れないし、煙突から煙も多少は出るかも知れない。だから、近隣地域の人々からすれば、自分たちの近くには絶対に無い方が良いと言う論理にもなる。従って、極めて厳しい環境アセスメントを要求する。そして、出来れば、それが通らないことを願う。原発に比べて単位面積当たりの発電能力の低い、再生可能エネルギーの施設は、日本全国に原発の何百倍の面積の地域に住む住民が環境アセスメントに関わることになる。

私達、規制制度改革委員会のメンバーが霞が関の官僚達に無理強いをして、規制の緩和に漕ぎ着けたとしても、最終的に認可するのは地方の首長である。「環境問題に関心のある」首長ほど、霞が関が頑張って行った規制緩和を無視するだけでなく、むしろ、その規制の範囲を拡大解釈する。こうした状況で、日本の再生可能エネルギー利用拡大が進むわけがない。つまり、環境を守ろうという意識が、環境破壊を減らす施策を阻んでいる。地方分権こそが金科玉条のように言われているが、それぞれの地域エゴが国を滅ぼすことに繋がるかも知れないのだ。

福島の各家庭で除染した土の中間処分場が見つからないがゆえに、いつまでも各家庭の庭で保管せざるを得ないというのは最悪の事態である。いくら民主主義とは言え、不利益を被る人々への補償を伴う一定の強制力を持たないと、それこそ、皆が不幸になる。こんなことをしていたら、再生可能エネルギーが原子力発電の代替になる日は、いつまでたっても未来永劫、来ることはないのかも知れない。