先月、社内の勉強会で、あの「釜石の奇跡」で有名な群馬大学大学院教授 片田敏孝先生の講演を聴かせて頂いた。ちょっと、大げさに聞こえるかも知れないが、私は、生涯で一番の講演を聴かせて頂いたような気がする。講演中も、涙なしには聞けなかったが、こうして抄録を書いてみて、また涙ぐんでしまう。
私は、釜石にも行ってみた。先生がお話されたとおり、あの巨大な堤防が見るも無残に破壊され、岸壁にゴロゴロと残骸が転がっている様を見て、人間の非力さ、無力さを感じざるを得なかった。そんな中で、片田先生が教育された釜石の子供たち、約3,000名の99.8%が逃げ延びることが出来たという、この話は、人間が、非力で無力なことをきちんとわきまえれば、あのような大災害でも逃げ延びて生き残れる道があるのだと教えてくれる。
最近の新聞で、東海、東南海、南海で32万人が犠牲になると、また大きく報じているが、それがハード的な防災で本当に防げるのか?という問題を、この片田先生は提起して下さっている。「防災」は災害を防ぐと書いてあるが、所詮、非力な人間は自然が起こす大災害を人為的な設備で完璧に防ぐことは出来ないのだ。むしろ、災害が起きた時に、どう対応するかという「応災」の方が、重要ではないかと仰っている。
片田先生の講演の演題は「想定外を生き抜く力」であった。片田先生は、2004年に起きたM9.1のスマトラ島沖地震が起こした津波調査から帰国された後から、今回の東日本大震災の、あの津波が、いつか来るという事を確信された。それで、せめて釜石の子供達の命くらいは何とか救いたいとずっと思っておられて、防災教育を続けてこられてきた。そして、片田先生が、いずれ来ると思って子供達と話をしていると、どうも、お父さんもお母さんも、お祖父ちゃんも、お祖母さんも誰も逃げないと言うのだそうだ。実際に、3.11の時に多くの大人達はまともに逃げないで命を落とすことになった。しかし、釜石の子供達は片田先生の教えどおり、自分たちで自分の命を守り抜いたのだった。
先生は、演題にある通り「想定外」という問題から説き起こされた。私たちは、生きて行く上で、様々な「想定外」を持っていると言う。つまり、私たちは、いつから、この東北地方に地震が起きるとわかっていたのだろうかと自問する。一般的に、海溝型地震だと1年間で8cmづつ太平洋のプレートが沈んでくるという。そして、100年経つと800cm、つまり8mになる。こうなると、もう耐えられなくなって弾けることになるのだそうだ。そして、こうした現象は永久に続くので、3.11が終わった後も、実は、もう次の地震に向けて刻々と秒針が動いているので、いつか同じような地震や津波が必ず来るのだと言う。
しかし、片田先生が、この釜石で防災教育を始める前は、子供たちは地震の後、津波が来ても全く逃げようとはしていなかった。これは、子供に罪はないのだという。しかし、この子供達は、この釜石で生きている限り、必ず、「その時」を迎える。子供達に「僕、逃げないよ!」と言わせているのは、我々大人たちの責任なのだと言う。お父さんや、お母さんや、お祖父ちゃんや、おばあちゃんが、「どうせ、津波なんて来ない」という背中を見せているから、子供も逃げやしない。そして、子供達は、その時に命を落とす。そう考えたら、片田先生は、いても立ってもいられなくなったのだと言う。
今でこそ3.11があったからこそ、ひっきりなしに、あちこちから講演を依頼されるが、その前は、この釜石地区だけでなく、三陸海岸全体が防災なんて関心も全くなかったそうだ。「あんた、又、その話かい」と相手にもしてくれなかったのだという。しかし、先生は、絶対に来るという気持ちで住民に訴えていたが、一人で空回りをされていた。そして、先生の予測通り、大地震、大津波は来た。そして、膨大な犠牲者を出すことになった。先生は言う「本当に、わかっていたのに防げなかったという悔しさに、私は、今も苛まれている。」
先生は、あのスマトラ島沖大地震が起こしたインド洋大津波から日本に帰って来て、防災教育で三陸海岸をあちこち回られたが、会場に集まって来る人は最初から防災意識の高い人か、もしくは、防災おたくと言われている人たちばかりだったと言う。そういう人々が毎回、会場に来てくれて意識の高いもの同志が「そうだよね」とお互いに言い合っていたそうだ。先生は、こんな講演会を重ねることに一体、何の意味があるのだろうと疑念を抱くまでに追いつめられた。そして、もはや、大人を相手にしていても駄目だと思われ、子供を中心に防災教育をやろうと決意された。
日本国民は、3.11以降、正直、気持ちが大きく変化した。あのような惨状を目の前に見せつけられたので、今度は南海トラフで30万人もの犠牲者が出ると言いだした。先生も、東海、東南海、南海の3連動地震は絶対に来ると思っておられる。ところが、先生は3.11大惨事があったばかりに派手な数字が一人歩きしていると懸念される。高知県の黒潮町では、地震発生から、わずか5分以内に34.4mの津波が来るというが、そんな津波が来たら諦めるしかないと先生は言う。
先生は釜石に行かれる前から尾鷲に13年通っておられて、最近、また地元の古老とお話をされたそうだ。古老は「これまでは、6mだと言われていたので孫に迎えに来るように頼んでいたが、24.5mと言われたので、もういいと言った。孫に迎えに来てもらって孫に命を落とされたのではワシも行くところにいけんからなと孫に断った」と言っていたそうだ。これは不味い、逆効果だと先生は言う。もう、あたかも次の津波は必ず高さ25.4mと決まったような雰囲気で逃げることを放棄しているからだ。
先生は、国民が千年確率の意味合いを正しく理解されていない状況のなかで、つまり国民がリスクに対してまともに向かい合えない状況の中で、津波の専門家や、地震の専門家が、もう「想定外」を出さないために極端な数字をどんどん出してきていることに対して怒っておられる。先生は、彼らが、こういう数字をだしている理由を次のように批判する。3.11の後、地震学者や津波の専門家は総ざんげした。今度は、「ちゃんと言ったぞ!」という自分たちのアリバイ工作をしているのだと言う。「国民がリスクコミュニケーションを出来ていない中で、可能性としてはあるかも知れない話だけをどうしてするのだろうか?一万年確率で言えば高さ50mだってあるかも知れない。学者は、言ったぞ!という積りかもしれないが、それを聞いた国民は、普通の津波なら助かるものを、これじゃあ避難してもダメだなと諦めてしまう。そして、25.4mの津波がすぐさま来るので、避難所の高さは、25.4mから1cmもまけられないと言う話になってしまう。しかし、そういう行動は、間違っている。 」と先生は憤る。
先生は今回の地震発生のメカニズムを次のように説明された。「今回の東北地方の震源地は幅200㎞、縦500㎞。メチャクチャな領域の震源域を形成しました。これを三陸沖、宮城沖、福島沖というような想定で、今回は、これが全て一度に起きた。私は、あの時、八戸にいました。本当に揺れました。もう立っていることも出来ないし、正直言って何が怖かったかと言えば、6分間ぐらい揺れていたことだった。 割れ初めは、この宮城県沖からです。ここを震源地にして南北500kmにわたり、バリバリバリと割れ続けるわけです。これだけ揺れ続けるとどうなるのだろうか?と恐怖に慄きました。ちょっと頭に入れておいて頂きたいのは、これだけ長く揺れが続くときは、つまり海溝型のバリバリバリと割れるタイプの地震は必ず津波を起こします。この揺れる時間が長いほど、震源域が大きく形成され津波の程度が酷くなる。内陸の地震の場合は長くても1分。断層地震の場合は、そんなに長くは揺れない。」つまり、長い揺れを伴う地震は、必ず危険な津波を起こすと仰っている。
そして、今回の東日本大震災が、今後、日本の他の地域に及ぼす影響を次のように解説されている。「日本は4枚のプレートが複雑に入り組んでいる。この北海道方面は北米プレートと言ってアメリカから来ている。アメリカと繋がっている。関西の方はユーラシアプレート。ヨーロッパと繋がっている。それにフィリピン海プレートと太平洋プレートがあって、何かこう、日本は地球の繋ぎ目みたいな所です。今回の、3.11で、この4枚のプレートが押し合っている微妙なバランスが大きく崩れた。そうなると、今度は、この4枚のプレートの位置関係の補正が始まる。過去に、日本周辺で、首都圏、西日本、東日本で過去に起きた地震の関係を調べてみると、最初が、1,000年前に東日本で起きた貞観津波、それから慶長津波、明治津波、昭和三陸において、その前後を見てみると、9年後、4年後、2年前、10年前と、いずれにしても10年以内に、その他の地域で大きな何かが起きている。従って、今後10年以内に、首都圏、西日本では、確実に大きな地震や津波が起きる。これは警戒しなければならない。 」と警告をされている。
特に今、議論が始まった東海、東南海、南海の3連動については次のように述べられている。「慶長地震は、東海、南海、東南海全部で同時にドカンと起きている。その後、100年の間隔をおいて、宝永地震というのがまたドカンと同時に起きている。その150年後に、また起きているが、これは3地域同時ではないので、地震の名前が二つ付いている。しかし、東海、東南海で起きた30時間後に南海が起きている。この30時間と言うのを別の地震とみるか同じ地震と見るかだけの違いである。直近は昭和19年に東南海が起きている。昭和21年に南海が起きました。そして、この時に東海だけ動かなかった。だから、今に至るまで、東海、東海と叫ばれ続けてきた。まもなく、まもなくと言われて静岡の人たちは警戒疲れである。」
そして、来るべきはずの東海が来なかったので、多くの地震学者は、もう次に来る地震は3連動しかないと決めつけた。そして、片田先生は、地震学者は、さらに次のような脚色を付け加えたと言うのである。「これまでの3連動ではマグニチュード8だけだったのが、今回、マグニチュード9を見てしまったものだから、もう9を考えなくては不味いと言うことになった。そして、マグニチュード9を起こすように震源域を拡張していくと、もう3連動どころではない、4連動、5連動にしないとマグニチュード9には成らないので、地震学者たちは一気に震源域を広げだした。すると、四国全体が震源域の中に取り込まれ、和歌山などは、2-3分で大津波が来るので、逃げようがないという話になっている。」と解説する。そうなのだ、地震学者たちは、むりやりマグニチュード9を作り出しているのだ。
こうして、全国でマグニチュード9を想定して津波の高さを推定した結果、例えば高知県の黒潮町、34.4m、日本全国軒並み20mが連なったのだという。これは、東日本大震災と同規模の地震が起きたらという想定、つまり1000年確率での議論をしていて、1000年に一度は、こういうこともあり得るということでは確かに正しいのだと先生は言う。先生が、尾鷲の街の中でおじいちゃんと会ったら、「もうわしゃいい。もう孫にも迎えに来んで良いと言ってる。」と自暴自棄になっていたそうだ。このお祖父さんは、もう、この次は25.4mの津波が必ず来ると思っている。そこで先生は、「違います。25.4mの津波が来る可能性はあるけれども、これは1000年確率だ。3000年確率だったら30m位になるだろうし、5000年確率だったら50mにだってなるだろう。今、たまたま1000年確率の数字が出たが、これから3000年確率、5000年確率の数字に怯え続けて、結局、全ての対策を放棄するのですか?それは違いますよ」と説得したそうだ。
そして、先生は尾鷲の方々に対して次のように述べられた。「尾鷲は海に近くて魚も美味しくて風光明媚で人柄も良くて、メチャクチャ良い所ではないのですか?自然に思いっきり近づいているからこそ、1000年に一度のビッグイベントである25.4mの高さを持つ津波も来るらしい。それも全部含めて尾鷲に住むという行為じゃあないのですか?で、皆さんは、津波より遥かに可能性の高い交通事故のことは全く気になさらずに車に乗ってこの会場に来られている。交通事故のリスクは受け取れて、津波のリスクは受け取れんと言うのはオカシイでしょ。」そして、会場に来られた尾鷲の住民の方々に次のように話されたのだ。「この想定が出てから、皆さんは何か対策をしましたか、手を上げて下さい。あれ?誰も居ないのですか?皆さんは不安じゃあないのですか?不安は100回口にしたって何の意味もないですよ!不安を100回口にするより一つでも対策を取ったほうが絶対にいいですよ。」
先生のお話しに拠れば、NHKの世論調査で、3.11震災の後、3か月後と9か月後にやった調査で、「この震災を機に、何か対策をしましたか」と尋ねたら、家具の転倒防止は29%、3割以下だったとのこと。そして、震災を契機にやった方は、この29%の内、たった12%で、要は、あの3.11の惨状を見ても、皆、何もやっていない。「非常持ち出し袋を取りやすい場所に準備していますか?」との問いでも、震災を機に始めましたというのが20%。9か月たって今もやっていますというのは、それから6%も減っているのだそうだ。つまり、国民は何の対策もしていない。不安を口にしても自ら何も備えるわけではない。
先生は、ここに、根本的な問題が隠されていると指摘する。何で、不安は口にしても自分では備えないか? つまり、防災は自分の役割でなく役所の仕事だと言う割り切りが蔓延している。「おい、こんな数字出たけど、市役所はどうしてくれるんだ?」 自分の安全に対して備える主体的な行動は何もしないで、役所は、俺をどう守ってくれるんだい?という完全に他人にやらせようという魂胆が見え見えで、自分の命を自分で守ると言う主体性が全く欠落していると言う。リスクに向かい合うというのは、自分が向かい合うこと。その意識なくして、とにかく完全なる安全の要求を公助に求める。この姿勢にある限りにおいて防災のリスク管理は出来ない。自分が向かい合うリスクをどのように自助や共助で軽減するのかという意識が全くない。日本国民の間に、こうした防災意識が蔓延しているかぎり、日本での津波による大惨事は何回でも繰り返されると先生は警告する。
防災も、今回は想定を超える災害だった。まさか、あんな津波が来るとは誰も思わなかった。そして日本の防災は、ずっと行政主体で支えて来た。危ない所は行政が堤防を作って守ってくれる、危ない所はハザードマップを作って教えてくれる。いざ逃げるべき時になったら避難勧告で教えてくれる。全部、自分の命を守ってくれるのは行政だという、日本の防災は「大きな行政」という形で進んできたと先生は指摘する。そして、個人はどういう行動をしたかと調べてみれば、3.11以前では、皆、逃げていない。「どうして逃げなかったんですか」と聞けば。「避難勧告がなかったから」と答える。「避難勧告がなかったと言っても、こんなに水が来ているじゃあないですか、危なかったじゃあないですか」と聞くと。「こんなに危なかったのに、ついに避難勧告が出なかったんだぜ」と不満が一杯な態度を見ることほど腹立たしいことはないと先生は怒る。
そして先生が「じゃあ、あなたは逃げろって言われないと逃げないんですか?」と聞けば 「だって避難勧告がなかったから」と最後まで行政の責任にする。完全に自分の命を守るのは行政で、危ない時には教えてくれるという住民の防災意識。「何処へ行けばいいんじゃ?」それで避難所はここですと教えられる。避難所へ行けば、「飯は未だか?」と文句を言い、「また、おにぎりか?おれはパンしか食わないんだ。」という話を聞くと先生も完全に切れるそうだ。自分の命は行政が守ってくれるという、大人の背中を子供たちがしっかり見ていることが、大災害を何世代にも渡って繰り返してきた要因だと先生は指摘する。
そして、先生は「釜石の奇跡」という評価に次のように反論する。「奇跡なんて言われているけれども、そんなことはないです。実は、本当に悔しいですが、釜石も1,000人の方が津波で亡くなっている。僕は釜石になぜ入ったかと言うと、釜石には津波が来るってわかっていたからです。で、その時を迎えたときに、僕は、釜石の犠牲者をゼロだった!これこそが、片田の功績だと言って貰いたかった。正直な話。絶対にゼロにしてやるというファイティングスピリッツを持って行動していました。でも、ダメでした。私は、いつか大津波が来ると本当にわかっていた。で、毎回、毎回、防災講演をやっていて、聴衆がいつも同じなのにイライラしながらもやっていた。 」
先生の方から押しかけてまでも防災の講演を行ってやっていたそうだ。一番酷い時は公民館に、おばあちゃんが、二人だけ座っていたということもあったとのこと。それでも、何とかしようとして続けていたが、もうダメだと思われた。それで、大人は、もういいやと諦められた。もう子供たちの命だけでも、何とかして助けてやろうと思い始められた。学校の先生方をけしかけられたが、先生方も最初は、そんな面倒くさいことは言ってくるなと言う感じだったそうだ。「今の教師は忙しんだ」と迷惑がられたとのこと。「でも、このまま行ったらあなた方が教えている子供たちの命は守れませんよ!」という話を粘り強くされ、多くの先生を味方につけることができた結果、釜石の24の小中学校、3,000人の子供たちの防災教育をスタートすることが出来たのだ。
そして、ついに2011年3月11日。その日を迎えました。片田先生は、その日の子供たちの行動に対して、次のように賞賛と感謝の言葉を送っている。「子供たちだけは、本当に良く逃げてくれました。揺れが収まるや否や、懸命に逃げてくれた。津波は必ず来るものだ。そして、どんな津波が来るかわからないから出来る限りのことをやればいいんだと。その結果は、後は運命として受け入れるしかないのだと。大事なことは、どんな津波が来るか分からないから、君は精一杯逃げるんだと、それをやってればいいんだと。それだけを子供たちに教えてきた。その感覚で子供たちは大人たちを見た。おじいちゃん、おばあちゃんは逃げようとしない。子供たちから見たときに、大人たちの行動はとっても奇異でした。もう、本当におじいちゃんに子供たちは泣きじゃくって訴え、おじいちゃんの体に纏わりついて逃げさせた。」大人の知識や経験て何だろうと考えさせられる。大人たちは、これまで自分が生きてきた経験でものごとを考えている。大災害の猛威は、一人の人間が数十年間にわたって得た知識と経験に基づく「想定」を遥かに超える。
片田先生や釜石の小中学校の先生の必死の教育の成果で子供たちは、逃げなきゃいけない津波の厳しさを良く分かっていた。そして中学生達は保育園の子供たちが保育士さんたちだけでは逃げとうせないということも判っていた。だから、彼らは保育園の園児たちを、皆で一人づつ抱きかかえて山へ登って行った。こうやって中学生達は、本当に多くの命までも守ることができた。さらに、釜石の子供たちはリヤカーを引いてお年寄りを助ける訓練までしていたのだが、今回は、そこまでは出来なかった。 釜石の1,000人の犠牲者は殆どがお年寄りだった。
先生は、釜石の鵜住居地区の写真を皆に見せる。「これが16mの津波が襲った跡です。何にもなくなりました。僕は、震災前に、この地に何度も立っていますけれども、海がこんなに近いなんて知りませんでした。だって、ここには沢山の木造家屋が一杯建っていて、向こうが見えなかったのですから。そして、堤防がずうっと向こうまであって、海が全く見えなかった。今、家も堤防も全てなくなって見ると、こんなに海が近いと初めて知った。愕然としました。あの堅固な堤防が全部壊されたのですからね。」と説明する。先生が示された写真では、鵜住居地区は、一面砂まみれになって、あちこちの地盤は陥没し海水が溜まっていた。
先生は、実は「津波」と言う表現が誤解のもとだという。「16mの津波と言うのは海の水面が16m上がると言うことです。海と言うのは水が無限にある。だから、16mのまんま走って行く。津波は川の洪水とは全然違う。川の洪水というのは所詮、水の供給源は川ですから有限の水の量なんです。堤防が切れるでしょ。ピンポイントから水が出て拡散していくわけです。それも一か所堤防が切れれば、水位は下がるから他の堤防は切れない。しかも水の供給源が限られているから徐々に水位があがる津波に比べればずっと穏やかな災害である。しかし、16mの津波が来ると標高16m以下の所は一挙に水で満たします。ここにあった家は深さ16mの流れの川底に沈んだと同じことになる。全部飛びました。メチャクチャな破壊力でした。」と「津波」とは本来海面の高さが持ち上がることなのだと、そして、それは最早「波」ではなく「壁」なのだと説明する。
そして、この鵜住居地区にある釜石東中学校と鵜住居小学校の子供たちが避難した様子を次のように説明して下さった。「でも、この地域の子供たちは、本当に見事でした。よく逃げてくれたって思います。ここに小高い山がありますよね。あの山の脇に、釜石東中学校、そのさらに隣に鵜住居小学校、この地域の唯一の中学校と小学校です。中学校の生徒たちは、僕たちは、もう守られる立場じゃない守る立場だと、そう、この地域は田舎なもんですから、お父さんお母さんが仕事に出かけてしまうと、地域に残るのはお年寄りと小さな子供だけになります。だから、私も、君らは助けられる立場じゃない助ける立場だと、地域の一員としての役割を果たすんだと、こう言ってきたわけです。そんな子供たちが、地震の揺れが収まるや否や直ちに避難を始め、隣の小学校の校庭を横切り、小学生に「おーい津波が来るぞー」と声をかけ走って逃げました。」
この時、鵜住居小学校の先生たちは、学童を校舎の3階に登らせて避難させていたのだった。片田先生に拠れば、中学生は、その小学校の先生たちよりも遥かに危機意識が高かったというのである。だから中学生達は、小学生に校舎から降りて来いと、そこでは不十分だと言って降ろさせた。先生は説明を続ける。「小学校の子供たちも次から、次から校舎から降りて来ました。この赤白帽の小学生に手を繋いで誘導しているのは中学生です。そして、凄い揺れが5分も6分も続くものですから、お年寄りは腰を抜かして道にへたり込んでいます。それを中学生が叱咤し、声をかけて手を繋いで一緒に山を登らせて逃げてくれました。そして子供たちは地域の信頼が厚かった。津波に一番詳しいのは中学生だと。その中学生が懸命に逃げる姿をみて、お年寄りも、どんどん、その列の中に加わっていった。そして、逃げている途中では、保育園の保育士さんがゼロ歳児を抱き、1歳児、2歳児は大きなベビーカーに一杯詰め込んで坂道を上がってきた。それを見つけた中学生は、この子たちは、このままでは逃げとおせないと分かった。それで、皆、子供たちに駆け寄って、一人一人が抱きかかえて一緒に逃げてくれた。こうややって弱きもの幼きものを一緒に連れて逃げてくれた中学生達には、いくら褒めても褒めたりない。釜石の14の小中学生は、自分の命を守るだけでなく弱きものを助けた。やはり精一杯褒めてあげたい。この釜石東中学校、鵜住居小学校は未だ良かった。ここは下校前で、ここに居たからよかった。統一した行動が取れたからよかった。」と話は釜石市の市街地の中央にある釜石小学校に移る。
この釜石小学校では一歩間違うと大変な惨事になっていたのだった。実は、釜石小学校は崖の上にあるのに、この小学校に通う子供たちの家は平場の市街地にある。つまり、学校の方が自宅より安全なのに、地震後、釜石小学校の先生たちは180人の小学校1年生までの子供たちを全員、津波に襲われたら最も危険な平場の自宅に帰していたのだった。それでも、学校で防災教育を受けた子供たちは、小学校1年生の小さい子まで揺れが収まると直ぐに走り始めて、泣きながら走って高台へ逃げ切ったそうだ。もちろん、一人も死なずに全員助かったとのこと。子供たちは、自分たちの力と考えだけで自分の命を守ったのだ。
これから片田先生は何人かの賢い子どもたちの事例を話される。最初は、小学校4年生と小学校1年生の兄弟の話である。「二人は、この空き地に家があったんです。その日は雪が降っていました。二人でTVゲームやって遊んでいたのですが、そこに凄い揺れです。お兄ちゃんは地震や津波の事を学校で習っている。これだけ揺れが長く続いたら、絶対に大きな津波が来る。その上に雪が降っている。弟に直ぐにジャンパーを着せるんです。「おい、揺れが収まったら、逃げるぞ!」と弟に言いました。揺れが収まるや否や、家の裏にある階段を駆け上がろうとしました。」このお兄ちゃんは偉いですよね。それで、この家に、大人は居なかったんでしょうか?実はいたんです。先生は、その子たちのお祖母ちゃんの様子も話してくれました。
「家には、この子たちの子供たちのおばあちゃんが居ました。子供たちのおばあちゃんですから、未だ若いんですね。おばあちゃんに、「おばあ、行くよ!」ってお兄ちゃんが声をかけるんです。ところが、おばあちゃんは最初から津波の事なんて警戒していないもんだから、お兄ちゃんが弟にジャンパーを着せていることが理解できない。おばあちゃんは、もたもたしながら支度をしているとお兄ちゃんはおばあちゃんを叱りつけて手を引いて山へ駆け上がって行った。」
次に先生は、家にたった一人でいた小学校3年生の男の子の例を話された。この話も涙なしでは聞けない話である。「この子は家に一人でいてTVゲームをやっている所でした。凄い揺れです。もう直ぐに布団を被り、揺れを凌いで揺れが収まるや否や家の前の横断歩道を横切り、公園を横切り山に駆け上って行きました。この子、こんなこと言っています。『お父さんやお母さんのことを考えないで、自分で一人で生き延びろと言われていた。』自分の身は自分で守れとずっと言われてきた。 」。本当に偉い子である。家にはお父さんもお母さんも誰も居ないのに、この子は一人の判断、しかも独力で逃げ延びたのだ
この子は、最初から、こんな立派な子だったのだろうか? 片田先生は、ここに至る経過を説明する。片田先生たちは 子供たちに防災教育やるときに、特に低学年の子供を相手にするとき、最初にやる問いかけは、「君が一人でいる時に大きな地震があったら、君はどうする?」と聞くと、その答えは、十中八九「お母さんが帰ってくるのを待つ」、「お母さんに電話する」、という答えばっかりだったそうだ。それで、そんな子供たちに先生たちは、「そうだよな、お母さんが帰ってきてくれると安心だよな」という話をしながら、「でもな、お母さんは、車で5分離れた工場でパートやっているんだろう。いつもだったら、5分で帰ってきてくれるけど、大きな地震の後だぞ、道路だってこんなになっちゃって、家なんか倒れちゃって、道は通れないかも知れないぞ。皆、車で逃げようとするから渋滞もするよ。お母さん、5分で帰って来れないかもしれないぞ。でもな、君が、お母さんが帰ってくるまで待つと言うなら、お母さんは、どんな状態でも君を迎えに来る。君を助けに来る。そう、お母さんは、自分の命よりも君の命を大事なんだ。いくら道路がどんな状態になっていようとも、おかあさん、津波がそこまで来ていても、君がお母さんを待つと言う子なら、お母さんは君をちゃんと迎えに来てくれる。でもな、間に合わないかも知れない。だから、君は、ちゃんと一人でも逃げなきゃいけないんだ。」と説明するのだそうだ。
それでも、その子は、自分一人でも逃げなさいと言われたことに対して、それは自分の問題なので、とおりいっぺんの返事で「わかりました」としか答えないそうだ。しかし、片田先生たちは、これはダメだなと思ってさらに、「でもな、君がお母さんを待って、お母さんは君を迎えに来る。君の命も危ないけど、実はお母さんの命も危ないんだよ。でも、お母さんは、津波がそこまで来ていたって、津波の中に飛び込んで行ったって、君がお母さんを待つと言う限り、お母さんは君を助けに来る。そして、お母さんも命を落としてしまう。どうしたらいいと思う?」という問いかけをすると、その段階で子供は本当にコロッと態度が変わるのだという。「わかった、僕は一人で逃げる」とキリッとした真顔で真剣に答えるのだそうだ。自分一人で逃げろと教えている限りは「わかりました」と言う通り一遍の返事しかしない子が、その子の命が家族の中で持っている意味、お母さんにとっての、その子の命の意義を教えてやると、自分が一人で生き延びると言うことが、お母さんの命を守ることになるんだと子供たちは気づくのだと言う。そして、ここから後の、避難訓練は、全然、行動が違ってくるという。それまでの避難訓練は、べちゃべちゃ無駄話をしてダラダラとやっていたのに、こうした話をすると子供たちの避難訓練はガラッと変わり、そんなに、走らなくても良いのにと思うほど一生懸命に子供たちは走りようになるのだそうだ。
そして、もう一つの例として子供一人ではなくては、昼間、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんと一緒に暮らしてい小学校4年生の男の子の例を話された。「この家では昼間、お祖父ちゃんお祖母ちゃんが一緒にいるのですが、お祖母ちゃんは糖尿病で目が見えないのです。そして、この子は、いつものようにお祖父ちゃん、お祖母ちゃんと、この大震災の日を迎えました。凄い揺れです。この子は学校で習ったことを思い出しました。これだけ揺れが長く続いたら大きな津波が来るのだと分かってました。この子の頭の中は津波で一杯です。だから、お祖父ちゃんに言いました。『お祖父ちゃん、逃げよう』。その時に、祖父ちゃんは何と言ったかです。『大丈夫だ。落ち着け!』まずここから始まっています。 」と、こう話すと、お祖父ちゃんが鈍感でダメのような感じを与えるが、片田先生は、必ずしも、お祖父ちゃんが一方的に悪かったわけでもないという説明を加えている。
「津波警報は、この釜石では、最初は3m、次に6m、それから10mと改定されるんです。何で、こういう改定のされかたをするのかというと、気象庁の職員は研究者だからです。普通の官庁だと昼休み電気消して、昼寝しているのに、気象庁の職員は暗闇の中で論文を読んでいる。こういう研究者の仕事は、確かなことしか物を言わない。3mのデータが整ったところで3mと言う。その段階で、6mが来ると思わなかったのか、10mが来るとは思わなかったのかと聞くと、それは思いましたが、確かなデータが未だありませんでしたと言う。全く、馬鹿野郎と言いたい。初めから10mと言ってさえくれたら、もっと逃げて助かった人が沢山いただろうにと残念でならない。 」つまり、気象庁は警報を順次高めていく途中で停電が来てTVが見えなくなると言う災害の状況設定を考えていなかった。さらに先生は、そんな状況の中での、この子の活躍を説明する。
「さて、先ほどのお祖父ちゃんの件に戻ると、TVが3mだと警告した後に、停電になる。つまり、このTVは改定された6m、10mの警報を伝えることが出来なかった。だから、お祖父ちゃんは、『大丈夫、落ち着け!』と言うことになる。でも、子供は『祖父ちゃん、津波が来る、逃げよう』と泣きじゃくってお祖父ちゃんを説得するが、お祖父ちゃんは言うことを聞かない。それを聞いていた、目が見えないお祖母ちゃんが『逃げっぺ』と言ってくれて3人とも逃げることになり全員が助かった。何ということだろう。三陸の津波犠牲者の多くは高齢者であるが、勿論逃げられなかった人も少なくないだろうが、殆どが逃げなかったのだ。」という先生の説明の中に重要なことが含まれている。お祖父ちゃんはTVの津波警報を信じていたが、この子は、TVの警報よりも、自分の感覚の方を重要視していたのだ。TVが何と言おうと、これは危ない。自分で、命を守らないと危ないと考えたのだ。
そして、助かった子供の最後の例として先生が説明された話は奥が深い。「今度は、4人で一緒に遊んでいた子供達の例です。この4人一緒に逃げ始めたのですが、このうちの一人が義足なんです。その義足の子が逃げ遅れ始めた。それを周りの3人が気付いたのだが、この子は、3人になんと言ったかと言うと、『僕はいいから』と言った。何で、この子は、こんなことを言ったかと言えば、『僕に付き合って3人が死んではダメだ』とその義足の子は言ったのだ。何で、こんなことを言うようになったかと言えば、小学校高学年や中学生になると、「津波テンデンコ」という話をします。津波の時にはテンデンバラバラに逃げろという意味です。一人一人で逃げろ、つまり家族の絆を切ってでも逃げろと言う意味。 」ですと、ここで先生は東北三陸に伝わる津波テンデンコの話を切り出した。
「何で、東北地方に、こんな冷酷な言葉が残ったかと言えば、家族の絆が津波の被害を大きくしてきたからだ。母親は、子供を放っておいて逃げろ、年老いた親を放っておいて逃げろということだった。何で、こんなに薄情なことを言うのだろうと、この子たちと授業の中で話し合ったのです。実際に、家族の絆を大事にして村中が全滅したこともありました。堤防で有名な田老町は明治三陸津波で村人1859人全員が死にました。助かったのは漁に出ていた36名だけでした。それだけ、津波は過酷なものです。その構造の中には、親子の当然の助け合う気持ちが災いしていたとも言われています。そんな先人が苦渋に満ちた辛い辛い気持ちで伝えてくれたのが津波テンデンコだったのです。」と先生は、津波テンデンコの解説をされたが、その言葉にはもっと奥が深い意味があるのだという。それも、先生が釜石の子供たちに教わったことだという。
先生は、授業で子供たちと徹底的に話し合われたそうだ。どうして、そんな残酷なことを言うのだろうかと子供たちに問いかけて何時間も議論していると、ある子供が言うのには、「津波テンデンコの本当の意味は津波テンデンコが可能な家庭であれということなんじゃあないの」と言ったそうだ。それは、どういうことかと言えば、一人一人が自分で自分の命を守れる決意を持っていて、家族がお互いに、その決意を信頼し合える家庭であること。つまり、子供がお母さんを待つことがなければ、お母さんは逃げることが出来る。これが「テンデンコ出来る家庭」だということ、そう先人は教えているのではないかと子供たちは言うのだった。先生は、釜石に行くたびに道でお会いするお母さんに尋ねてみるそうだ。「お母さん逃げたんですか?」と聞くと、殆どの釜石のお母さんは「そりゃ逃げますよ。家の子なんて、逃げるなって言ったって逃げる子ですからね。はっはっは!」と笑って答えてくれるとのこと。先生は、そんな言葉を聞くと思うのだそうだ。お母さんの命を救ったのは子供だなと。それが、「津波テンデンコ」の本質なのだと。
そういう教育の中で、義足の子は「僕はいいから」と言った。本当に、その子は、一体どんな思いで言ったのだろうか?と考えるだけで胸が痛くなる話である。しかし、その3人の友達は、テンデンコの本質が判っていたので、かわるがわる義足の子を背負って山に登って逃げたのだそうだ。釜石の奇跡と言われている本質は、こうした子供たちがしたことだと先生は言う。
そして、先生は、この子供たちに関われたことが本当に幸せでならないと言う。こういう行動を取ってくれた子供たちをとても誇りに思うのだそうだ。そして、どうして子供たちにこんな行動が出来たのだろうと改めて先生は考えてみた。やはり突き詰めて考えてみると、子供たちは当たり前のことをやっているに過ぎないのではないかと先生は考えた。釜石は津波の常襲地域だ。いつか必ず津波が来る。それは住民の皆が知っている。しかし、どんな津波が来るか、それはわからない。だからグラグラと揺れたら、来るかもしれない、来ないかも知れないが、でも取りあえず逃げておくべきなのだ。
それで、「どこまで逃げたら良いの?」という子供たちの質問に対して先生は、「できるだけ上へ」と答えた。だって、どんな津波が来るのかわからないのだから。君が出来る限りのことをやっていればそれで良いのだと指導された。だから、子供たちは懸命に逃げた。やってくれたことはそれだけだった。何か特別なことをやったのか?何も特別なことではない。釜石の子供たちは、津波に向かい合う姿勢として、ごくあたりまえのことをしただけだと先生は言う。むしろ、一方で、それが出来ない大人たちが沢山死んでいった。何だか、子供たちの当たり前の行動を「奇跡」としか言えない大人たちの方が間違っているのではないかと先生は大きな疑問を呈している。
そして、先生は、釜石の奇跡と言われた小学生1927人、中学生999人、合計約3,000人の子供たちが助かったことは本当に喜ばしいが、一方で、5人の小中学生の命を守ってやることは出来なかったと悔恨の情を隠さない。この5人のことを考えると決して「釜石の奇跡」と言って喜んではいられないと言う。一人でも犠牲者は出さないと言う先生の思いは達せられなかったからだ。
「この5人の犠牲者のことを紹介させて頂いて、防災という考え方に役立ててほしい。」と先生は亡くなった5人の子供達の話を始められた。「まず最初の二人ですが、この子たちは学校を休んでいました。私は学校と家庭が連携しないと防災教育なんて出来ないと思っています。」と言う。なぜなら、1年間でも子供が学校に行くのは、たった200日、また一日の時間の中でほぼ4分の一だから、結局、子供が学校にいるのは15%以下ということになるからだ。
つまり、子供は殆どの時間は家庭にいるわけで、学校で一生懸命防災教育をやっても、家庭に居る子供は、お父さんやお祖父ちゃんが逃げなかったら、子供だけで逃げやしないと言う。こういう家庭の親たちが言う口癖があるのだという。「学校の先生は、理想論掲げていて、学校はあるべき論を言う。現実の世の中は、そんなものではない。」こういう家庭では、子供は、学校で教わったことを単なる形式知としてでしか理解しなくなるのだと残念がる。子供に教育するということは、大人が模範を見せることしかない。結局、この二人の子供は病気で休んで家にいた結果、親子共々命を落とすことになる。
3人目の子は、引き渡しで亡くなったと本当に悔しいという苦渋の顔で先生は説明された。そして、これは大変考えさせられる例である。「この引き渡しですが、親の気持ちとしては当たり前でしょと言われるが、これは明らかに親のエゴです。30人のクラス全員の親が、子供を引き取りに来たら、その対応だけで逃げ遅れてしまう。この一人の子を引き渡す時間は、残りの29人の子供が逃げる時間を消費していることになるのです。災害の最中に親への引き渡しなんてやっていいはずがない。学校にも、子供たちにも、このことは何度も徹底していたつもりだったが、残念ながら一人だけ起きた。この子は、皆が逃げようとしているときに『あ!お母さん迎えに来ちゃった』と言った。それが、その子の最後の言葉だった。お母さんと一緒に車もろとも津波に飲まれて命を失ってしまったのだ。」と涙声で話された。
4人目の子の例は本当に悲しい話である。私も、この話で涙が抑えられなくなった。「この子は、下校後に母親と買い物中に被災されました。もう災害の惨さ、そのものを醸し出しているような亡くなりかたです。この子、小学校6年生の女の子で、家庭の事情でお父さんと暮らしていました。お母さんは、少し離れた所に住んで居るという家庭環境でした。小学校6年生です。もうすぐ中学校に上がるわけですが、その準備には男親ではやってあげられないことがあるわけです。そのために、お母さんが買い物に付き合ってくれることになりました。この子、喜んで職員室に来て、その話をしたそうです。先生も家庭の事情が分かっているので、『良かったな、今日はお母さんと一緒に気兼ねなく買い物が出来るように早引けしろ!』と言ったそうです。そして、街でお母さんと買い物をしていました。その最中に、津波に飲まれて、お母さんと一緒に亡くなりました。一つ残念だったのは、この子がお母さんと一緒に早く逃げて欲しかった。そこまでの教育が徹底できていなかったことを悔やむばかりです。 」なんて言うことだろう。
さらに悲劇は続く「最後の5人目の、この子です。この子に対しては、自責の念も含めて申し上げたいことが沢山あります。責任の一端はお前にもあるだろうと言われれば、まさに私にも責任があります。私は中学生には、君たちは守られる立場じゃない。守る立場だと常々言ってきました。やはり、田舎ですからね、お父さん、お母さんが仕事に行ってしまうと、地域には年寄と子供しかいなくなるんですよ。君ら、体も立派なんだから地域の一員としての役割を果たすんだぞと言ってきました。そして、リヤカーで地域のお爺ちゃんお婆ちゃんを助ける練習をしていました。この子は、それをやっていて死にました。学校から帰ってきて一人で家にいました。家の裏には一人暮らしのお婆ちゃんが居ました。この子は、そのお婆ちゃんを助けに行ったんです。お婆ちゃんに「逃げるよ!」と言ったら、お祖母ちゃんが支度を始めたのですが、それを、その子はじっと待っていました。そのうちに、また大きな余震が来て、その子は箪笥の下敷きになって死にました。 」もうここで、また涙が止まらなくなる。
そして、今、先生は、釜石の子供たちと、二度と後世の人達に、こんな悲しい目に会わせないために、どうするかと言う議論をされている。明治三陸津波、釜石、当時6,500人の人口の内、4,000人亡くなっているが、これでも釜石の人たちはさっぱり懲りていなかった。その結果、昭和三陸津波、チリ津波の後も沢山亡くなっている。毎回、毎回、そんなことばっかり繰り返しているのは、どうしてなのかと、先生は、今回の大震災が来る前にも、中学生と話されたそうだ。「なあ、この人達って、どういう思いで死んで行ったと思う」。とにかく災害が起きるたびに碑ばっかり増えて行くのだという。宮古の姉吉の碑に「高き住居は児孫の和楽、想へ惨禍の大津浪。これより下に家を建てるな。」津波が遡上した所に、この碑が建立されたわけだが、実際には、その碑の下に家が沢山建っているとのこと。
例えば、釜石には、こういう碑は34基あるのだそうだが、この碑の前で、先生は、この碑を作った人の思いを中学生と話されたそうだ。「釜石市民6,500人の内の4,000人も死んだら、きっと家族の誰かを亡くしただろう。財産もみんな亡くしただろう。でも、なけなしの金を集めて、この碑を作ったのだよ。自分たちだって先人から聞いていただろう。それなのに、それを無視して災害に会ってしまった。もう、これ以上、こうしたことは繰り返すまい。後世の人には、もうこんな目には会わせたくない。一体、この碑を建てる時に、先人達は、どんな思いで、この碑を建てたと思う?」。その碑の前に、先生は中学生達を連れて行って、「明治29年と書いてあるだろ」と言った。そして、この碑は、苔だらけ、周りは草ぼうぼうであった。そして、そこから下に、沢山の家が立ち並んでいる。そして、先生は中学生に言った。「この碑を建てた先人たちの思いは何処へ行ったのだろうね」と。そうしたら、中学生全員が、その碑を綺麗に磨いてくれた。そして周りの草刈りもやってくれたそうだ。彼らは、先人の気持ちを理解できたのだ。
しかし、こんな思いが先人からずっと続いていたことは間違いない。でも、3.11以前の日本はどういう状況だったかというと、もう惨憺たるものだったという。3.11の丁度、1年前にチリ津波があった時のことを先生は説明された。「あの時、南米チリで大きな地震があって22時間で日本へ到達したんです。その時、日本の気象庁は17時間沈黙のまま見続けました。なぜ、17時間かと言うと、残り5時間は逃げるのに必要な時間で、その時点で最も正確な情報を出したかったからです。気象庁はメキシコやハワイの情報を入手し、これ以上精度が高められないほど高めて避難情報を出したんです。 」気象庁は精一杯努力したということだろう。
しかし、その時の、住民の反応は酷いものだったという。「大津波警報が出た地域の避難率は7.5%です。何をやっているのだ!という感じですよね。津波警報の発令地域は2.8%。逃げるべき対象地域全体で見て、避難した人は3.8%でした。これが、三陸地方の人たちの災害意識の実体でした。これが3.11以前の実態です。釜石だって褒められたものではない。その時に釜石には避難指示が出ました。避難勧告より強烈なやつです。対象地域の20%の住民にアンケートを出しました。我が家は誰も逃げなかったとの回答が9割以上です。こんな家庭環境の中で、釜石の子供たちは育っていたのです。」 そういう先生の話を聞くと、やはり、そんな状況の中で、本当に釜石の子供たちは凄かったと感動せざるを得ない。大人社会の油断文化に染まらなかったのだ。
それをさらに悪化させたのが、あの世界一の湾口防波堤だったと先生は残念がる。「3.11以前に学校に行って遊んでいる子供たちに聞いてみたことがあります。『この辺は、津波が来るのを知ってるか?』と聞くと、子供たちは『知ってるよ。学校でも習ったし、お祖父ちゃんも言ってた。昔、大きい津波が来たんだってね』と知っていました。『じゃあ、ちゃんと逃げるよね』と聞くと『え!逃げないよ』と、全然、何の躊躇もなく子供たちは答えるのです。逃げないと言うんです、ここの子供たちは。『どうして逃げないの?』と聞くと、『だって、家では、お父さんだって、お祖父ちゃんだって誰も逃げないよ。釜石には世界一の堤防が出来たんだ』と言うのだ。それは湾口防波堤と言うのですが、大きな立派な堤防です。これが出来たから、もう大丈夫。この子は、もう逃げる必要がないと断言するのです。こういうことを誰が言わせしめたのか。間違いなく、家庭のお父さんであり、お祖父さんであり、学校であり、社会であり、大人たち全員が、この子に、そう言わしめているのです。」
さらに片田先生は怒りを露わにして話される。本当に、ご自身が8年間も関わってきた釜石で1000人もの犠牲者を出したことが悔しくてならないのであろう。「この惨憺たる避難率の地域の子供たちが、どうして津波から逃げることが出来るのですか? そう、大人たちよ、襟を正せ!です。何が、防災教育ですか!全く、それ以前の話です。こういう文化が世代を跨いで伝わっていく。これは企業文化でも同じだと思うのです。大人たちが、あるいは先人たちが、どういう行動をとっているか? そこで生まれ落ちた子供、そこに入社した社員は、その社会の中で、その文化に染まって行きます。そして、また、そこに染まろうとします。一刻も早く会社の一員になろうとします。そして、その会社の文化に馴染もうとして行きます。そして、自分の行動規範を作り上げていきます。最近の若い衆はと文句を言うのだったら、多分、その原因は上の方にあります。子供だってそうです。この子が逃げられないのは、大人の責任です。この子が一生を終えるまでに、必ず大津波に会う。その時、この子が津波で命を失うのは、まさに大人の責任です。」
先生は、本当に、あの釜石の世界一の湾口防波堤が憎くてならないのだろう。「3.11に対しての反省として、何が日本は間違っていたのかを考えてみたい。今回の釜石の湾口防波堤です。世界一の堤防と言われた、それはそうですね。水深63mから立ち上げて水上に7mある。高さ70mの大堤防です。ギネスブックにも載りました。これで湾を塞いでいました。メチャクチャ大きな防波堤ですよね。30年かけて作りました。それが津波で無残にも壊されました。津波の破壊力、人知を超える。いわゆる想定外というわけです。この想定外という言葉を出した時点で、だから仕方がなかったと言わんばかりです。ダメですよ、想定外と言う言葉で括っては。でも、こんなにも想定外という言葉が多用された中で、日本の防災文化に大きな脆弱性、弱点があることが見えてくる。 」
ここから、この講演は佳境に入る。いよいよ想定外とは何か?に迫っていく。「つまり、想定外で片づけてしまう心理構造が問題である。そこで、想定外と言う言葉を敢えて取り上げて、じゃあ、本当に想定外だったのかを考えてみたい。想定外と言う以上、そこには想定がある。それを外れたから想定外というわけだ。じゃあ、何を想定していたの?と。こう考えます。僕らは、都合よく、この想定という言葉を使い分けている。一つは、相手は自然でしょ。どんなことだってあり得るよねとして、想定を考えると、今回の津波だって想定の内じゃあないですか。例えば、この関東平野は川が作りました。川の大氾濫で出来たわけです。その時に、この蒲田に居たらえらいことになります。新幹線で、新横浜に止まった時に回りを見て下さい。崖だらけでしょ。あれって、富士山の火砕流なんですよ。ひょっとして、この次の富士山の噴火で横浜も火の海になることだって想定される。その時に、専門家は実は知っていたと新聞は書くだろうか?」と、ここで私は本当に息が詰まった。我が家からそう遠くはない新横浜駅繁華街の反対側の険しい崖が、富士山の噴火による火砕流だったとは知らなかった。自然と言うのは恐ろしい。やはり、「防災」という言葉自体が間違っている。せめて我々人類が出来るのは「減災」までだとつくづく思う。
先生の説明は富士山の火砕流に留まらない、とうとう85mの大津波まで話が行く。「つまり、自然は何だってありなのです。日本で最大の津波は明和の津波で1771年。石垣島で85.4m。こういう津波が来た時にどうしたら良いと思いますか?答えは簡単です、諦める。それしかないです。この写真を見て下さい。石垣島の標高85mの所に女性が座っていますけど、女性と同じ大きさの石は、サンゴ礁の岩です。この高さまで津波がサンゴ礁を運んだ証拠です。まさに、人と同じ大きさのサンゴ礁の岩が標高85mの所に、一列に並んで鎮座しています。こんなこと人手で出来るわけがありません。そして、宮古島には周囲65mのサンゴ礁の大きな岩が標高15mのところまで運ばれた跡があります。」
高さ85mの津波などというものは、隕石の衝突のような特殊な場合かと思えば、先生はいとも簡単に日本近海ではいつでも起こりうるのだと平然と言う。「そして、さらに恐ろしいのは、研究室で、何度もシミュレーションやっても、こんな85mの津波なんて起きない。そして、この明和の津波を起こした地震は、それほど大きなものではないと言うことも分かっている。むしろ小さい地震であった。それでは、なぜ小さい地震で85mの大津波が出来たのか?実は、この時に海底地すべりが起きていたのです。海底地すべりを考えに入れると、こういう津波が出来るのです。ちなみに、今、いろいろな想定がなされているけれども、いくら地震が小さくても、日本の近くには10,000mの日本海溝がある。これは断崖絶壁です。海の中だから関係ないと思ってはいけない。ここでちょっとした地すべりを起こせば、幾らでも大きな津波が発生する。それも含めて考えると、自然って何だってありなのですよ。 」確かに、もう何だか、想定外だとか想定内だとかは、言葉の遊びだけのような気がしてきた。
ここから、先生は、実は防災を拡充すること自体が人間の災害に対する脆弱性を増しているのだという先生特有の持論が、ここから出てくる。「こうして考えると今回の津波は全く想定の内です。そして、私たちが、もう一つ考えなければならないのは防災と言う想定です。85mの津波は諦めるしかない。どこまでも無限に防災の想定を拡大しても無意味だからだ。その中で、この範囲は何とか守りたいというのが、「防災の想定」である。防災とは、防御の目標を作って、そこまでを守ると言うのが防災だ。と言うことは、それ以上のことは守ろうとしていないということだと理解すべきなのだ。」
最初は100年確率に対する防災の反作用である。「日本は災害大国であると同時に防災大国である。世界でも最先端の防災施設のもとで、私たちは人為的安全の上で胡坐をかいて生活をしている。治水の場合は100年確率で防災をする。これを土木屋がどう考えているかと言えば、100年と言うのは、人一人の一生。生きている間に一回あるかないかのレベルのことは守りましょうというのが社会的コンセンサス。ところが、この100年と言う数字が実は魔物なのだ。この100年を世代で考えると、1世代25年だから、100年は4世代になる。自分中心に考えると、自分、親父、祖父ちゃん、曾爺ちゃんとなる。つまり、曾爺ちゃんの時代にあったらしいよということになる。この曾爺ちゃんの時代にあったなどということは、最早ないと言うことと同じになる。」
つまり、100年確率の災害に対しての防災が確立すると人間は限りなく尊大になるとともに、さらに脆弱性を増すというのである。「この100年確率のレベルで防災を考えると、我々は、最早、完全に自然を制圧したということになる。つまり、もう災害なんてないという、こういう理解になる。その上、こうした高いレベルの防災を施したが故の脆弱性が出てくる。つまり、昔は、100年レベル以下の小さな洪水が年中起きていた。だから、その対策を知っていた。水が出るときは、いつもあそこからだ。その程度の洪水は、地域の若い衆は皆で土嚢を積んで、皆で共同体として守る体制が出来ていた。特に治水の場合は右岸が切れれば左岸が助かるということで、右岸と左岸で土嚢積み競争が行われた。水防合戦と言われたこの戦いの中で、相手側の堤防が切れると大喜びをした。でも、これが地域の結束でもあった。水害と言う災害を皆で心得て、皆で地域を守ろうと言う意識、災いをやり過ごす知恵が、個人レベルで浸透した共同体を形成していた。
ところが、100年確率の治水対策をやると、以前は年中起きていた小さな水害はもはや起きなくなる。もう災害なんてないと、こう思うようになる。そして無防備になる、災害過保護になる。災いをやり過ごす知恵も共同体意識も全部なくなる。つまり、防災は行政の役割だという他人任せになってしまう。そんな中で、やはり100年確率の災害は起きる。そうした時に、TVで報道するのは、地域の古老が出てきて「生まれてこのかた70年、こんな災害は見たことがない」それは当たり前だ、100年確率以下の災害は防げているので、2回も会うことは滅多にないのは当たり前なのだ。 」なるほど、防災が起こすパラドックスである。
そして、津波防災は100年確率どころではない。もっと高いレベルでの防災が行われるから、逆に、その副作用も性質が悪いと先生は説く。「つまり、人間の営みのサイクルと自然のサイクルとの間で大きなギャップが生じて誤解を生んでいる。こうした中で無防備さを作っていく。治水の場合は100年確率で行っているが、津波の場合には、洪水ほど頻度がないので、確かな記録が残っている過去最大級を基準とする。そうすると明治三陸津波が、それに相当する。だから、東北の津波対策は世界的にも極めてレベルの高い防災がなされている。例えば、田老の万里の長城と言われた高いX字型の二重の堤防を作った。村人1.859人が全滅した記録により、世界が驚くほどの堤防を築いた。
僕は、この堤防の麓の祖母ちゃんに話を聞きに行ったことがある。『祖母ちゃん、津波に何か備えてる?』と聞くと、『昔は難儀したけれど、今は、立派な堤防作ってもらって』と堤防を見上げる。『でも、お婆ちゃんね、この堤防は10mしかないんよ。昭和三陸津波は10mだったけど、明治三陸津波は15mだったから、この堤防でもダメだよ』と言うと、『あんた、この堤防の上に上がってごらんなさい。堤防は、もう一本あるんよ』と言う。『こんな二本の堤防を越えて津波が来るようなときは、祖父ちゃんが迎えに来たと思ってわしゃ行くよ』と言う。祖母ちゃんは、この堤防を全面的に信頼していることで脆弱性を作ってしまった。今回の大震災で田老の二重の防波堤は無残に破壊されるわけである。」
釜石の湾口防波堤の落成式に呼ばれた片田先生。相も変わらず、津波災害の危険性と逃げることの重要性を演説して、一部の釜石市民からは、一層胡散臭く思われることになった。先生が何を言われたかと言えば、「田老に続いて、釜石。釜石の防波堤は水深3mから水上7mのトータル70mで、海水がなかったら壮大な建造物として見えるに違いない。30年間かけて1250億円の費用で建造された。釜石市民一人当たり、400万円。一家4人で1,200万円です。私は、この湾口防波堤の落成記念に講演を依頼されたところ、出口で一人の老人に捕まった。『あんたは、何だ!こんな立派な防波堤が出来たのに、相変わらず津波が怖いという話しかしないのはけしからん』と言われた。それで、私は、『この防波堤は明治三陸津波を基準に作っているのだから、それ以上の津波が来たらアウトだよ』と言った。そうすると、その老人は『何が悪い。あんたの話を聞いていると、わしら釜石に住む限り未来永劫ヒヤヒヤドキドキしながら暮らすしか住んじゃいかんみたいじゃないか?俺はそんな暮らし方は嫌じゃ』と言う。」これは極めて本質的な問題である。
次に先生がされた恐ろしい話は、ハザードマップが多くの犠牲者を出したと言う信じられないパラドクスである。「人為的に作り上げるものの安全が高くなればなるほど、人は脆弱性が高まる。今回、最後に釜石の堤防が高かったために逃げないで死んで行った人たちの話をしたい。これが釜石のハザードマップです。その昔、この赤いラインが明治三陸津波の浸水地域です。なにしろ、この町にとっては、明治三陸津波が最大の災害ですから、もう一度、この巨大な湾口堤防が出来たという前提の上で、明治三陸津波並みの津波が襲ってきたらどうなるかというシミュレーションをした。当然、この危険地域は赤いラインより小さくなりました。そして、釜石市は、このハザードマップを市民全員に配りました。赤は危険地域。黄色は危険相当地域。緑は安全地域です。そして、今回、釜石で津波で亡くなった方が、どこで亡くなったかをハザードマップに重ね合わせてみましょう。赤や黄色の地域で亡くなったかたは一人も居ません。全て緑の地域です。堤防が出来て安全だとハザードマップが教えた地域で沢山の方が亡くなっているのです。」
釜石市で多くの犠牲者を出したのは、この巨大な堤防とハザードマップだと言われても何も反論できないと先生は言う。防災とは一体なんでしょうか?と先生は問われる。「今回、想定に囚われた人々が死んでいったのです。想定を高めれば高めるほどに、脆弱性を高めるのです。このハザードマップと言うマニュアルを信じた人が皆命を落としている。自然は、何だってありなんだ。想定なんて出来ないんだ。もっと人間は謙虚にならなければならない。防災は全て行政に委ねられ、避難勧告が出ないと逃げだしもしない。 そんな他力本願では、災害で自分の命を守ることなど出来ないのです」と先生は結んだ。最後に、片田先生が掲げられた標語は以下に示す、避難の三原則であった。
【避難の三原則】
想定に囚われるな 想定を作ることが危険を招くだけです。
最善を尽くせ どこまでも逃げろ! 限界はないのです。
率先避難者たれ 誰も最初に逃げない。恥ずかしくない、君から逃げろ!