2012年9月 のアーカイブ

175   シンギュラリティとは (その2)

2012年9月25日 火曜日

我々は「コンピューターは人間の知を超えることが出来るか?」という命題について、どう考えたら良いのだろうか。このシンギュラリティについて、もう少し、書いてみたい。前回の議論では、米長先生とコンピューターとの将棋について、書かせて頂いたが、もう少し将棋に拘ってみたい。実は、今、私が、この秋から全国を講演して回る内容の中に、この将棋の話が出てくるのである。そして、そのテーマは今を時めくビッグ・データに関してである。

ビッグ・データの本質は、人間が予見を持たずに、コンピューターに、ただデータだけを見せて考えさせるというものである。その例として、私は、コンピューター将棋を例にとって解説しようとしている。従来の将棋ソフトは、将棋を良く知っている人、高段者、時にはプロも参加して、開発者は一つの先入観を持ってプログラムを書いた。何万もある過去の棋譜の中から、自然で意味のある指し手を抽出して、コンピューターに教え込んだ。

つまり全ての指し手を評価すると選択肢が膨大となってコンピューターが負荷に耐えられないと思ったからである。そして500ほどもある、評価パラメータも開発者が主観で設定をした。こうして作られた将棋ソフトはせいぜいアマチュア有段者レベルに留まっていて、その実力は、到底、プロ棋士のお足元にも及ばなかった。

その流れを変えたのは、将棋については殆ど素人であるカナダ在住の化学者、保木邦仁氏が開発したBonanzaからである。このソフトの特徴は、保木さんがインターネットで入手した6万局の棋譜を先入観に囚われず、あらゆる指し手を評価する全幅検索したことにある。そして、保木さんが与えた評価関数は、たった2つ。一つは、駒の価値で、例えば、歩が87点で角が569点というような格付けを行った。もう一つは駒の位置関係。2ケか3ヶの駒の位置関係について9つ程の評価関数を与えただけである。

そうすると、コンピューターが扱えるパラメーターの数は、合計9,000万ほどになるのだが、これをコンピューターは機会学習で勝手に設定したのである。こうしたやり方で、コンピューターは、とてつもなく強くなった。Bonanzaは、遂にコンピューター将棋のコンテストで頂点に立った。さらに、プロの棋士でも簡単には勝てない強さにまでなった。

このBonanza以降、コンピューター将棋ソフトの開発の仕方は大きく変化した。つまり、開発者の先入観を入れないで「データに語らせる」という、ビッグデータの考え方、そのものになったのである。先日、米長さんと対戦したコンピューター将棋ソフト「ボンクラーズ」も、このBonanzaの流れを汲んでいる。

しかし、良く考えてみると、これには恐ろしい話が潜んでいる。人間が先生となって教え込むよりも、コンピューターにデータを見せて、勝手に学習させた方が、素晴らしい考えが出来るということだ。そして、もっと恐ろしいことは、コンピューターが、自己学習の中で、どのような論理、どういうアルゴリズムを構築したかが、人間からは、さっぱり見えないということである。

米長先生が、半年間、大好きなお酒を断って、人間ではなくコンピューターを相手に対戦し続けられたのは、コンピューターが、一体、どういう論理で、考えているのかを探ろうとなされたに違いない。そして、米長先生が仰るには、戦略的思考、つまり大局観については、やはり、コンピューターより人間の方が遥かに優秀だと言うのである。しかし、コンピューターは感情を入れないで、冷静に、しかも疲れを知らずに、「ミクロな戦術的な攻め」で、人間の「優れた戦略」を圧倒してくるのだという。結局、最後は、「戦略」が疲れをしらない「戦術」の怒涛に負けてしまうという結果になるらしい。

さて、こうした将棋ソフトでは、人間が過去の数万局にも及ぶ棋譜をコンピューターに与えたわけであるが、例えば、保木さんにしても、最初のBonanzaを訓練した棋譜データはインターネットから採取したものである。そして、今、インターネットからは、人類が長い歴史で得た全ての知識を取り出すことが出来る。仮に、コンピューターが、何らかの目的を持って、自ら勝手にインターネットを経由してデータを採取し、自己学習し始めたとしたら、さて、どうなるだろうか? 我々は、このコンピューターの中で構築されていく論理を知ることすら出来ないのだ。

しかし、コンピューターの進歩を怖がってばかりいても仕方がない。もっと、コンピューターを活かした前向きな話をしよう。それもまた、別な意味での「シンギュラリティ」である。例えば、ジョナサン・ワイナー著「寿命1000年」の中に書かれている、ケンブリッジ大学のオーブリー・デ・グレイ教授が唱える、ヒトの寿命は将来1000歳まで伸びるという学説である。デ・グレイ教授は、近年、一番進んでいる学問と言われる老年学研究の第一人者である。

デ・グレイ教授の説は、ヒトの老化は、胎児の時から始まっていて、その原因は7つに纏められる。つまり、老化は基本的に体の細胞の中にゴミが溜まることで起きているという。まず、第一は体内の分子が年齢とともに絡み合って硬くなりホチキスのような架橋結合を起こすこと。第二はミトコンドリアの衰え、第三は細胞内にたまるゴミ。第四は細胞外隔壁にたまるゴミ。第五は細胞自身が衰えて役に立たなくなる。第六は、細胞が死んで毒素を撒き散らす。第七が細胞核の遺伝子が異常となり癌細胞となることだと言う。

世界の老年学研究者の殆どは、そうしたゴミが出来ないようにどうするかを考えている。それに対して、デ・グレイ教授は、ゴミが出来ないようにすることを考えるよりも、出来たゴミを取り除けばよいとしているのだ。そして、その解法は、膨大な数のヒトの遺伝子にあるというのである。またもや、ここでビッグ・データの話に結び付いてくる。

例えば、細胞の老化はミトコンドリアの37個の遺伝子の内13個が影響している。もともと、ミトコンドリアには1,000個以上の遺伝子があったのに、その殆どは細胞核内に移動した。なぜ、老化に関わる13個の遺伝子が細胞核より遥かに外部環境に対して傷つきやすいミトコンドリア内に留まっているのか?を突き止めれば良いというのである。

このように、生物の起源、人間の老化に関わる問題をビッグ・データ問題としてコンピューターに学習させ解析させれば、人類の未来には不老長寿の道が開かれて来るかも知れないというのである。これこそが、「コンピューターは人間の知を超えるか」と言うテーマより、もっと刺激的な、もう一つの「シンギュラリティ」とも言える。

老年研究の大きなテーマとして、細胞の染色体の末端にあるテロメアの存在がある。細胞が分裂するたびに、このテロメアが短くなるため細胞は無限に分裂することが出来ない。生物の中にはテロメラーゼというテロメア修復酵素があるのだが、年齢と共に分泌が減って細胞内の染色体はすり減って限界に至る。

老年学研究者は老いゆく細胞にテラメラーゼを供給して長生きの道を探り、癌研究者は癌細胞からテラメラーゼを締め出し、癌細胞の増殖を防ぎたい。いずれも重要な研究で、最近は、かなりのことまで判ってきている。こうした不老長寿という人類の夢の実現も、生命科学の分野での技術的特異点「シンギュラリティ」と言える。コンピューター分野の「シンギュラリティ」と共創して、新たな発展を遂げることを望みたい。

174   シンギュラリティとは  (その1)

2012年9月24日 月曜日

シンギュラリティを日本語に直訳すると「技術的特異点」となるが、敢えて訳さず、「シンギュラリティ」と言うのは、未来学の中で、ある時期以降から、その未来が人類の予測を超えるスピードで進歩すると言われているからだ。未来学者カーツァイルは、その時期をコンピューターが人間の知能を超えるであろう2045年と予測した。カーツァイルは、若いころ文字認識装置(OCR)を研究した人工知能学者でもあった。同じOCRの研究者だった私は、カーツァイルが提言した技術の進歩は指数関数的に加速するという収穫加速の法則には大いに賛同するものである。

そのカーツァイルは、今から4年前の2008年にシリコンバレーでシンギュラリティ・サミットを開催している。そして、Googleはシリコンバレーの北部サンフランシスコ湾に面したモフェットのNASAの施設の中に、夏だけ開催されるシンギュラリティ大学を創立した。シスコ本社近くのパトリックヘンリーのオフィスから、アップル本社があるクパチーノの自宅まで、3年間、毎日237号線を経由して通勤していた私にとって、その沿道際のモフェットにあった体育館のような大きな風洞が懐かしい。かつて、スペースシャトルの風洞実験を行っていた、その施設はコンピューターシミュレーションの進歩で不要となった。

先週21日、野中郁次郎先生が代表発起人を務める第一回トポス会議が六本木ヒルズのアカデミーホールで行われた。トポスとはギリシャ語で「場」を意味し、この会議は世界中の賢者を一同に同じ「場」に集めて、日本や世界の未来を議論するという趣旨で発足した。その第一回が、まさに「シンギュラリティ」、コンピューターは人間の知性を超えるかという議論であった。そして、その会議は、先日、コンピューターとの対戦に敗れた日本将棋連盟会長、米長邦雄永世棋聖の「われ敗れたり、されど」の特別講演から始まった。

米長先生によれば、現在の将棋界のTOPと、かつてTOPだった現在の米長先生との差は、100m競争で例えればTOPのウサイン・ボルトの世界記録が9秒58だとすると、ベストレコードが9秒7くらいの走者との関係に相当するのだと言う。つまり、実力は極めて近いけれども、戦えば殆ど負けるという関係なのだと言う。そして、実は、最近のコンピューター将棋はめきめき強くなったので、一流の現役プロと言えども、平均して10回に1回位しか勝てなくなった。それで、いずれ現役の一流の棋士がコンピューターと公式に戦う時期が来るのであれば、その前に現役を退いた自分が、まず最初に戦うべきだと覚悟されたのだ。

米長さんは、コンピューターと対戦する5か月前から、大好きなお酒も断って、ひたすらコンピューター向けの戦い方を研究されてきた。さて、コンピューター将棋の強さとは何なのだろうか? それは考える速さと、感情を持たないということなのだそうだ。米長さんは、中学生から高校生にかけて、盛んに詰将棋を研究された。一般に、詰将棋は最長600手まであるらしいのだが、答えは一通りしかない。米長さんは、中学生時代に200手くらいの詰将棋を2時間ほどで正解を出されて、まさに「神童」と言われたそうである。しかし、1秒間に2000万手を考えることが出来るコンピューターは、200手くらいの詰将棋なら1-2秒で簡単に解いてしまう。要は、コンピューターは答えが一つしかない問題は得意中の得意なのである。そして、コンピューターは感情を持たずに常に冷静で疲れを知らない。

米長さんは、相手が人間だと思っていつものように戦っていたら、コンピューターに勝つことは極めて難しいのでコンピューター向けの対戦方法を練ったのだと言う。つまり、コンピューターは、過去の高段者が戦った5万譜もの棋譜をベースに学習したロジックで戦ってくる。コンピューターに勝つには、その裏をかくしかない。米長さんは、一流のプロ棋士として強くなるには、時に目や耳から入る情報を一切遮断して「無」の中で考える時間を大事にするという習慣を身に着けないと成長しないのだという。膨大な過去の棋譜を瞬時に参照できるコンピューターに勝つには、むしろ全てを「無」にして戦うしかない。

実際に、米長さんは、最初の一手から、従来のプロであれば絶対に打たない所謂、悪手から始められて、コンピューターの思考を混乱させた。その作戦は、着々と成功され、休憩時間に入るまでは、互角と言うより、むしろ米長さんの方が有利に展開された。しかし、休憩時間の始めに、観戦する女性記者から心無い撮影をされて気分を害し、感情的に冷静さを失った。そして休憩後の最初の一手で間違ったのである。こうなるとコンピューターは強い。なぜなら将棋や碁には持ち時間の制限がある。持ち時間と言う意味で1秒間に2000万手を考えられるコンピューターの持ち時間は、ほぼ無限大である。例えば、1手10秒の持ち時間制限をしたら、どんなに強いプロ棋士を相手にしても、コンピューターは全戦全勝だというのである。一度、劣勢に立ったら、持ち時間制限で、もはや人間に勝機はないのだそうだ。

結局、米長さんは、コンピューターに敗れたわけだが、この戦いは、私たちに多くのことを教えてくれた。かつて、私は羽生さんから次のような話を聞いたことがある。「今のプロ棋士は、皆、パソコンを駆使して過去の棋譜を常に参照しながら研究を続けている。だから、常に新しい手を考えていかなければ勝ち続けることは難しい。自分は、過去に悪手と言われた中から新しい手を創ってきた。そのやり方は、相手の思考を一時的にせよ混乱させるので二重に効果がある。」コンピューターは、考える速度と、膨大なデータ(知識)を参照する速度では人間を圧倒する。しかし、蓄積された知識からは推定できない、新たな知恵を創造する力は、まだ当分の間持てないだろう。

そして、コンピューターは答えが一つしかない問題は得意中の得意である。あらゆる可能性を瞬時に検証し、即座に答えを見つけることが出来る。しかし、サンデル教授の授業「正義とは何か」から判るように、現代の世界が抱える多くの問題は、答えが全く存在しなかったり、あるいは、いくつもの答えがある問題が殆どである。こうなると、もはやコンピューターは全くお手上げに近い。こうした社会的な課題を解くための基本として、人種や国境を越えた人類の「共通善」を共有することが必要である。そして、もし、我々が、この「共通善」を放棄して物事を考えるのであれば、殆どの考え事はコンピューターで済むことになり、「人間の知恵」の存在意義が問われることになるだろう。

173 日本農業の国際競争力

2012年9月16日 日曜日

私は、JAXAの立川理事長が主宰する、技術系出身の会社経営者及び大学教授の会である、技術同友会に参加しているが、毎回、その勉強会で、大変素晴らしい知見を得ている。先週も、東大法学部を卒業され、農林省に入省された後、米国ミシガン大学でMBAを取得、また母校東京大学から農学博士号を授与された山下一仁さんから、日本農業の国際競争力について、お話を伺った。山下さんは、農林省において日本の農業振興を目指して30年間奉職された後、現在、キャノングローバル戦略研究所研究主幹として、日本の農業再生にはTPPが絶対に必須だという主張を全国で講演されて回っている。

TPPについては、いろいろ難しい議論があるが、山下さんは、高齢化と人口減少で絶対的に食糧需要が減っていく日本において、真剣に次世代が担える本物の農業振興を考えるのであれば、これまでの国内需要を守るという守勢の政策では、日本の農業の凋落を防ぐことは出来ないと主張されている。むしろ美味しい日本の農産品を海外に輸出するという積極的な考えのもとにグローバル展開を考えた、前向きの農業振興策を考えるしか解がないというのである。そして、日本の農業には、それを可能とする国際競争力が備わっているというのである。

TPPを議論する前に、日本は既にFTAAP(アジア太平洋自由貿易圏)という、ASEAN+米、ロシア、カナダ、豪州、日中韓を含むAPEC各国が一堂に加入する一大貿易同盟に入ることは既に決まっている。このFTAAPに日本だけが入らないということは、日本の将来にとって全く考える余地がない。もはや、日本だけが江戸時代のように鎖国をして世界から独立して生き残れるということはありえないからだ。今、もし議論が残っているとすれば、このFTAAPに向けて、米国を主体とするTPPを経由して到達するのか、あるいは日中韓を基軸としたASEAN+3、はたまた、それにインド、豪州、ニュージーランドを入れたASEAN+6を経由してFTAAPというゴールに達するのかという2者選択の議論しか残されていない。

山下先生は、TPPは、日本ではなく中国を強く意識した米国の自由貿易戦略があるという。米国がTPPにおいて最も意識している対象は、不透明で不公正で、国内市場を独占し、自由市場を意図的に歪めている、中国の国営企業の存在だという。最近の中国では「国進民退」と言われるほど、主要企業は殆ど国営企業が独占、純粋な民間企業は殆ど市場から退場させられてしまった。そして、現在の中国経済の停滞の根本は、実は、莫大な不良資産、過剰在庫を隠してきた国営企業が市場を席巻し、自由な発想ができる民間企業が殆ど消滅してしまったからだと言われている。

アメリカがTPPでターゲットとしているのは、世界経済の成長を妨げる要因ともなった、この中国の国営企業の存在にあるというのである。だからこそ、TPPにアメリカはベトナムを入れている。ベトナムとの間に、自由競争を担保できる国営企業があるべき本来の姿をルール化できれば、これをベースにしてFTAAPの基本にしていけるとアメリカは考えたらしい。従って、TPPは中国を排除しようという戦略ではなくて、むしろ中国を積極的にFTAAPに迎え入れて、自由で公正な貿易環境を構築したいというアメリカの対中国戦略、そのものなのだと山下さんは言う。

もっと判りやすい例で言えば、現在、日本市場においてキロ600円で売られている新潟県魚沼郡の最高級コシヒカリは中国ではキロ1300円で売られている。確かに、中国は米に関して高い関税をかけているが、実は食糧安定化政策の元で中国は650万トンの輸入までは関税をかけていない。従って、日本から中国へのコメ輸出は650万トンには達していないので、全て関税はゼロである。しかし、今の中国で、米の流通は全て国営企業が寡占しており、この国営企業が市場価格を完全にコントロールしている。もし、この流通市場で自由競争が確保されていれば、新潟産コシヒカリの価格は下がり、中国で、もっと爆発的に売れるだろうと言うのである。

もっと言えば、もはや日本のコメの生産コストは、既に中国の生産コストを抜きつつある。世界最大の食糧需要家である中国を相手に日本の農業が価格競争力を持てば、日本の農業は将来に向けてバラ色の未来が見えてくるはずだと言う。そして、その可能性はもっとあるというのである。例えば、食糧増産に向けての品種改良である。1980年代の減反政策前までは、日本と米国カルフォルニアのコメの増産に向けての品種改良は凌ぎを削る対等の争いが出来ていた。しかし、日本が減反政策を始めた途端に、日本の農業試験場での増産に向けての品種改良の進歩は止まってしまったのだと言う。

むしろ、農業試験場での品種改良は、大蔵省の指導によって意図的に止められたように見える。大蔵省は、減反政策に貢献できる減産できる品種改良を望んだのであった。この結果、現在のカルフォルニア米の単位面積当たりの生産効率は、日本の倍近くまで上昇している。ヘリコプターから、いい加減に撒いて育てたカルフォルニアのコメの方が、碁盤の目の筋のように、整然と田植えされた日本の米作より圧倒的に生産効率が良いと言うのは誰が考えてもおかしいではないか。明らかに日本の農業政策がサボタージュした結果であるのだと山下先生は言う。

秋田県大潟村の大規模農業は、どの農家も年収1,000万円を遥かに超える。大潟村の農家の子供は、地元に高校がないので、中学を出ると高校に通うために家を出る。そして、東京の大学に進学する。大学を卒業して、子供たちはハタと気が付く。どんな、一流企業に就職しても、年収1000万円に到達するには、どれだけ長く辛抱しなくてはならないかと。だから、大潟村の子供たちは東京の大学を卒業すると、皆、親の稼業を継ぐために故郷に戻ってくるのだという。これこそが、日本の農業が望むべき姿であると山下先生は言う。

1960年に609万ヘクタールあった農地、農林省は、これに諫早湾の干拓などを行い105万ヘクタールの農地を増やした。ところが、結果として、現在の農地は459万ヘクタールしか残っていない。実に250万ヘクタールの農地が転用され、耕作放棄で消えてしまったのだ。食糧自給率の危機を訴え続けている農林省は、その存続のために、永久にこの危機を訴え続けるには、日本の食糧自給率を絶対に40%以上にはしないつもりではないかと疑わざるを得ないのだという。万が一、日本の食料自給率が欧米並みに高くなってしまうと、もはや農林省の主要な仕事がなくなってしまうからだらしい。だから、財務省と結託して減反政策を行ってきたと山下さんは訴える。

さて、日本の農業の国際競争力とは何だろうか? それは、まず南北に長い国土にあるという。例えば、サトウキビとテンサイ糖が同時に出来る国は、世界では極めて珍しい貴重な存在である。これに気が付いた米国の農業メジャーであるドールは日本全国に7か所の農場を確保、ブロコッリーを植えてリレー出荷している。実は、農業収入が低いのは、生産性が低いせいだが、それは働く時間が短いことによる。ドールの農場では、同じメンバーが農業機械を携えて全国7か所の農場を渡り歩くのだ。種まき、収穫の時期が北と南でずれるので、働く時間を上手くリレーしていけば、極めて効率的な生産が出来る。

つまり、コメ作中心の農業の最大の問題は、働ける時間が極めて少ないということである。労働時間が少なければ、当然、収入が少なくなる。今、日本の農業で最大の出荷額を誇るのは野菜で、次が牛や豚や鳥といった畜産業、コメは第三番目の農業産品分野に転落した。もうじき花卉に抜かれて第四番目になる日も間近になっている。しかし、それは江戸時代からそうだった。江戸時代に農民の総称を「百姓」と呼ぶようになったのは、農民は農業以外に「百種類にも及ぶ生業」を持っていて、農業生産以外の生計の道をしっかり持っていたからだと言う。しかも、それはプロフェッショナルとしての域に達する確かな技術まで持っていたのだ。

今、まさに、その「百姓」の本来的な意義を、また再現しようというのが、農業の「6次化」政策である。単に農産物生産という第一次産業だけでなく、農産品の加工を目指した第二次産業、そして、農産品や加工品の流通まで含む、第三次産業まで含む農業の価値の拡大化に繋がっていく。1×2×3=6、1+2+3=6というように「6」は素晴らしい数字である。世界中が食糧不足に陥り、食糧の安全保障が叫ばれる中で、日本だけが農産品の減産政策に大金を使い、若い後継者の育成を阻んでいるのはおかしいと山下先生は懸念される。

日本農業のもう一つの競争力となる新たな視点は、日本の農業の特徴は中山間地区が多いということである。新潟の魚沼のコシヒカリに代表されるように、おいしいコメは、朝晩と日中の寒暖の差に起因する。つまり、中山間地区は、美味しい高級米の宝庫なのだ。そして、ここでは標高差を利用することができる。広島の中国山地の奥にある、ある農家は家族だけで20ヘクタールの米作をこなす。もちろん、ここでの水田は、中山間地域の段々畑である。極めて有利なことは、標高差が500m近くあるため、田植えの時期が上と下では2-3か月も異なるのだ。北海道の平地で、20ヘクタールの米作をやるのは極めて難しい。10日くらいの間に同じ仕事を完了しなくてはならないからだ。こう考えると、日本の中山間地は、むしろ大規模農業に極めて向いているとも言える。

しかし、この大規模農業において、アメリカは日本の100倍、オーストラリアは日本の1000倍の耕作面積だから、所詮、勝てるはずがないと言う人がいるが、これも大きな間違いであるという。オーストラリアの農地の質はアフリカのサハラ砂漠並みであり、コメや麦などとんでもない話で、羊や牛の牧草を育てるのが精一杯である。アメリカにしても、トウモロコシなどの単作専用の耕作地であり、日本のように豊穣で多様性のある農地とは全く質が違うのだそうだ。だから、単純に耕作面積比だけで、優劣は決められないのだと言う。

さらにグローバルな嗜好を理解すれば、日本の農作物は、もっと世界に売れるという。大玉のリンゴが英国でさっぱり売れないことに業を煮やした、青森のリンゴ農家は、ジュースにしかならない小粒のリンゴを大量に英国に輸出したら、「君ら、やればできるじゃないか」と英国の流通業者に褒められ、大変な評判を博して全て売り切れたという。英国ではサンドイッチを弁当に持っていく習慣があり、リンゴは、そのランチボックスに入る小粒であることが必須条件だったからだ。また、北海道で、長すぎて日本の流通機構で嫌われる山芋を台湾に輸出したら、台湾では長い山芋ほど滋養強壮に効くという伝説があり、日本では考えられない高い値段で全て売り切れたというのである。

減反で補助金を出し、さらに関税で高い価格にして、需要家である国民を苦しめる。まさに最も逆進性の高い政策であると山下さんは怒る。欧米各国では、関税なしで国民には安価な食糧を提供して、農業生産者には、海外産とのコスト差分を補助金として個別保障するのが一般的な農業補助の考え方である。この方が、農業生産者は安心して増産できる。輸出だってできるからだ。そして、需要家である国民も、国際的な安価な価格で食糧を得ることが出来るから安心だという。こんな、当たり前の政策を目指すTPPが、なぜ、メディアも交えて、公に批判されるのか。それは、誰か既得権益を持っている人たちが陰で邪魔しているに違いない。と山下先生は熱く訴える。

今、日本では、収入1億円を超える農業法人が5300団体あり、この人たちは、もちろんTPPには大賛成であるという。つまり、農業生産者の45%が反対の中で、17%の農家が積極的にTPP賛成に回っている。この人たちは、皆、農業という国民にとって最も重要な産業での成功者である。日本の中で、この成功者の数をもっともっと増やしていけば、やる気のある若者を、この重要な産業に後継者として迎え入れることができる。TPPに反対して、減反を推進して、ただ衰退をしていくだけの農業で、しかも高々年収100-200万円しか稼げない農業では、若い人の内、一体誰が一生の仕事として、これから、やっていきたいと思うだろうかと山下先生は講演の最後に結んでいる。