2012年8月 のアーカイブ

167 たかが英語!

2012年8月16日 木曜日

この「たかが英語!」という題名の本は、楽天ホールディング(以下楽天と略)社長の三木谷浩史さんが、楽天の社内公用語を英語化された時の奮闘記である。テンポの良い記述が実に面白い。社員に競争をさせる一方、一旦競争から落ちこぼれた人たちにも救いの手を差し伸べている。それでも、社内英語化については、絶対に妥協しない三木谷さんの決意は、自分にも部下にも手ぬるい日本の一般的な経営者とは、あまりに違っていて痛快である。

私は、三木谷さんと直接の面識はない。しかし、楽天の顧問弁護士で取締役を長年務めている草野耕一弁護士から、三木谷さんついてのお話をよく伺っている。東大法学部とハーバード ロースクールを共に首席で卒業した草野先生は、国際M&A分野では日本で五本の指に入ると評されていて、私の縁戚では最も優秀な方であるが、三木谷さんには心酔し、心から敬意を表している。だから、三木谷さんは、きっと草野先生以上に立派な方に違いないと私は信じている。

私は、日本の再生は、特殊な技能やセンスを持ち合わせ、地域に地盤を持つ中堅企業が、ニッチな分野の世界市場で活躍するというドイツの成功モデルを踏襲するしかないと信じている。このためには、この日本の優秀な中堅企業を世界市場と結びつける仲介役が絶対に必要である。このグローバルなニッチ市場に向けての仲介役は、大手商社や大手広告代理店では決して出来はしない。コスト的にも、インターネットを駆使したEコマースで実現するしか道はない。しかも、日本の企業を重要視してくれる日本のEコマース事業者でしか実現はあり得ない。その意味で楽天には、是非、日本の中堅企業の救世主になって頂きたいと心から願っている。

三木谷さんも、多分、全く同じ思いで、楽天のグローバル化が必要だと思っておられて、そのためには社内の公用語を英語にするくらいは当然の措置だと思われたに違いない。実際、この「たかが英語!」の本の中で書かれているが、楽天のアフィリエート企業のなかでは、月商数百万円程度の海外ビジネスは既に当たり前になっており、しかもその伸長率は国内売上より遥かに高いのだという。つまり、楽天の英語公用語化は、三木谷さんの趣味や個人的な拘りというよりも楽天のアフィリエート企業成長のためにも絶対に必要な道筋であった。そのことを、三木谷さんは、「楽天が目指す市場は、第6番目の大陸だ。そこはインターネット大陸だ。その大陸で話されている言語は、当然英語だから、我々は英語でビジネスをしなければならない」と言う。全く、ごもっともな話である。

さて、私は51歳で突然、米国転勤を命じられた。その時点で、TOEICも600点にも満たない、英語が聞けない、話せない、まさにドメスティックなサラリーマンであった。それが、巨額の赤字を出し続ける米国子会のTOPとして再建を託されたのだから、まさに頭が真っ白になった。一体、どうなるのだろうか?と悲嘆にくれるしかなかったのである。

米国に駐在し、最初に手掛けた人事は、日本から派遣され前任のTOPに付き添っていた、通訳を主たる役割とした秘書役を解任したことである。彼は、東大経済学部を卒業後、テキサス州立大学でMBAを取得、TOEICは、何と満点の990点だった。その後、日本に帰国してから富士通本体の社長秘書役も務めるほど極めて優秀な社員だった。私は、これほど優秀な人材に通訳だけをやらせておくのは勿体ないと思ったわけである。彼には、マーケッティング部門に入ってもらい、米国人社員と一緒に価格設定業務をしてもらうことにした。

つまり、英語がろくに聞けもしない、話せもしない自分を、通訳なしの苦境に追い込まないと、一生、グローバルな経営者にはなれないと思い、自ら退路を断つことにしたわけだ。もう一つは、これから大規模なリストラを行う必要があると思ったので、日本人駐在員同士が日本語で会話していることで、現地幹部や社員に無用な疑念を抱かせることを避けたかった。まさに、三木谷さんと同じように、会社内で日本人同士であっても、日本語の会話を一切禁止にした。現地社員から見て透明性の高い会社経営をしたかったからである。

しかし、これは想像を絶するほど大変なことだった。それまで、米国には毎月1回は出張していたし、現地社員と英語で会話することも決して少なくはなかった。しかし、米国人社員は、日本から時々出張してくる幹部と話をするときは、英語に不慣れな日本人幹部の実力に配慮して、判りやすい英語で、ゆっくり話をしてくれていたのだった。それが、毎日、顔を合わせていて、時には、激しい口論もするようになると、もう彼らも私に対する遠慮はない。特に、米国人同士で激論を交わすときなど、早口で、難解なスラングも飛び出し、もうついていけない状況になった。

一日、仕事が終わって、単身アパートに帰ると、もう頭の中が英語で一杯に溢れて、しかも頭自体もガンガン痛む。それでも、寝ている間は、ずっとCNNをつけっ放しにしておいた。まさに、睡眠学習である。しかも、ご存知のように、CNNは、同じニュースを繰り返し放送するので、英語の学習にはうってつけなのだ。最初のうちは、この英語ニュースは全く聞き取れないので、寝付くには、ちょうど良い子守唄でしかなかった。ところが、6か月後に突然、全ての単語が聞けるようになったのだ。判る単語も分からない単語も全て頭に入ってくる。そして、聞いていて判らない単語は辞書で引くようにもなった。

語学は、徐々に進歩するものではなくて、突然開花するものだと、この時に初めて知った。だから、英語学習に関しては、徐々にというのは駄目なのだ。いきなり、窮地に自分を追い込むことが肝要である。三木谷さんは、そのために、社内公用語の全面英語化を推進されたのだろう。私は、3年間の米国駐在を終えて、日本に帰国してから、富士通とシーメンスの合弁会社の取締役に就任した。シーメンス役員を交えた取締役会、ビジネスレビューミーティングは当然全て英語で行われる。四半期に一度、開催される取締役会は、議事も多く議論すべき内容も沢山あるので、逐次通訳を入れている暇はない。この時に、シーメンス側の役員が極めて英語に堪能なことには感心した。それは、海外の会社なのだから当たり前ではないかと思われるかも知れないが、それが決して当たり前ではなかったのだ。

今から、30年ほど前、私の初めての海外出張はヨーロッパだった。上司や先輩から、「伊東君、心配ないよ。ヨーロッパの人たちは君と同様、殆ど英語は話せないから」と妙な励まされ方をして日本を出発した。最初に着いたのは、当時世界最大の展示会と言われたハノーバー・メッセが開催されるハノーバーだ。やはり、ここでは先輩たちが言う通り、見事に英語が通じない。宿の主人が私に最初に言った言葉は、「アフトウントツバンツィッヒ」。何だ? 最初はボーッとしていたが、それがドイツ語で「28」であることに気付く。私の部屋は28号室なのだ。なんと「28」も英語で言えない宿の主人の英語力であった。

ハノーバー・メッセの会場に行って、もっと驚いたのは、展示コーナーの係員が殆ど英語を話せないということだ。「この機械は幾ら?」、「カタログを頂戴」と英語で言っても全く通じない。ここは、国際展示会ではないのか?と怒鳴りたくなった。世界の先進工業国であるドイツは、日本同様、英語で話す必要性を全く感じていなかった。ローレライを見るためにライン下りをした船の中でドイツの少年に、ずっと付きまとわれたのは、彼が私から英語を学びたいためだった。信じられるだろうか、私から英語を学ぶだなんて。30年前のドイツ人の英語力は、こんな酷い状況だったのだ。

それが、どうしてシーメンスの幹部は、こんなに英語が堪能なのだろう。しかも、面白いことに、英語の発音の綺麗さが、シーメンス社内の地位と、ぴったり対応しているのだ。当然、上級幹部ほど流暢な英語を話す。そこで、私は、彼らに聞いてみた。どうして、シーメンスの人々は、皆、英語が堪能なのか?と。その答えは、シーメンスはヨーロッパ企業としては、一番早く、1970年に社内公用語を全て英語に統一したからだと言う。そうなのだ、シーメンスは楽天に先駆けること40年も前に社内公用語を英語に定めたのだ。

そう、今からでも遅くはない。日本企業も、皆、少しでも早く、楽天の三木谷さんの後を追いかけようではないか。そうしないと、日本の未来は全く描けない。これからの日本は江戸時代のように鎖国して生きていける状況には全くないからだ。

166  鐘の鳴る丘少年の家

2012年8月15日 水曜日

毎年、8月15日の終戦の日を迎えると、私は、この「鐘の鳴る丘少年の家」のこと思い出す。戦後生まれの私にとって、最も身近な戦争の話だからだ。この少年の家は、1947年、丁度、私が生まれた年に、群馬県前橋市に設立された戦災孤児の擁護施設である。もともと、この施設の名前は創立者である、品川博さんが、同じ時期にNHKで始まった菊田一夫作のラジオドラマ「鐘の鳴る丘」に感動し、命名したものだった。

命名に先立ち、品川さんは、NHKに名前を使わせて貰う許諾を得に行った。そのNHKで、「鐘の鳴る丘」の主人公である加賀美修平が架空の人物であり、物語は、あくまでフィクションであったことに大きなショックを受けた。一方、原作者の菊田一夫さんは、自分が創作したドラマと全く同じことを、既に前橋で行っている人物が実在していることに感動し、物心両面で「鐘の鳴る丘少年の家」に援助を行っていく。この菊田さんの行動に感動した女優小暮実千代さんは、鐘の鳴る丘少年の家の理事長として、終生、この施設の支援を行っている。

この「鐘の鳴る丘」のドラマが始まった1947年に生まれた私が、このラジオ放送を知っているのは、このドラマは、一時は視聴率が90%を超える超人気放送で、視聴者の要請を受けて1950年までロングランで続けられるたからである。だから、私は、このドラマの最初と最後に歌われる下記の歌詞を、今でも口ずさむことができる。

緑の丘の 赤い屋根
とんがり帽子の 時計台
鐘が鳴ります キンコンカン
メイメイ子山羊も ないてます
風がそよそよ 丘の上
黄色いお窓は おいらの家よ

このラジオドラマは、幼子だった私にとっても大好きな放送であったが、あくまで、それは菊田一夫原作の架空の物語だった。それから、暫くたっても、このラジオ放送の主題と同じ名前の「鐘の鳴る丘少年の家」という施設が群馬県前橋市にあって、女優小暮実千代さんが、私財を投げ打って支援されているという話を小耳に挟んだ程度だった。小学生の私には、ラジオ放送のドラマと実存する二つの「鐘の鳴る丘少年の家」は混同していて全く区別がつかないでいたとしても、それは無理のないことだった。

ところが、小学校6年生になった時に、この話は、自分にとって身につまされる現実のものとなった。神奈川県平塚市の私の実家に、一人の青年が訪れてきたのである。聞けば、どうも私の従兄らしい。これまで、私が一度も、その存在を聞いたこともない従兄である。彼は、私の父親の姉の子で、静岡県の沼津市で生また。それは丁度、彼が6歳の時、今からしてみれば終戦を目前に控えた1945年7月17日の深夜の出来事だった。米軍のB-29 130機の大編隊が、海軍工廠のあった沼津市を2時間の間に9000発、1000トンの焼夷弾で焼き尽くした。爆撃による焼失家屋は9500戸、死者は274人に上った。

その9500戸の焼失家屋に彼の家が含まれており、274人の死者の中に、彼の両親と兄妹が含まれていた。空襲は、午前1時から始まったので、一家揃って寝ている間の出来事であった。たった一人で、命からがら焼け跡から脱出した彼を救うものは誰もいなかった。私の父親は、まだ当時は、独り者だったので、沼津大空襲の知らせを受けて、両親から捜索を命じられて、実家の厚木から、すぐさま沼津の焼け跡に向かったのだという。二日間懸命に探したが、姉の家は全て焼け落ちて、近所にも、姉の家族らしい人影は全くなかったという。父親は、姉家族全員が空襲で死んだと思ったのだ。

戦災孤児となった彼は、東海道線の沼津駅に行き、毎日、電車の中で、物乞いをして飢えを凌いでいる中で、そのうちに上野駅に辿り着いた。上野駅で靴磨きをしている最中に、鐘の鳴る丘少年の家の創立者である品川さんに救われて、前橋の施設に行った。そこで中学まで育てられたのだという。中学を卒業後、岐阜のバス会社で運転手として採用されたが、自分のルーツを必死になって探した結果、ようやく母親の弟である私の父親に辿り着いたというわけだ。

もう既に、きちんとしたバス会社の運転手として立派な生活をしていた彼は、私の父親に何かを求めて頼ってきたわけではなかった。天涯孤独の自分に、血が繋がっている親戚は、どんな顔をして、どんな暮らしをしているのか知りたくて、必死の思いで探しあてて訪ねてきたのだった。まだ、小学生とは言え、私は、このことが、どんなに凄いドラマなのかと、あまりに感動して涙が止まらなかった。聞けば、その鐘の鳴る丘少年の家で育った子供たちは、皆、しっかりと成長したようだ。中でも、特別優秀な子は前橋高校から東大医学部まで行った者もいて、それが自分たち戦災孤児達の誇りなのだと彼は自慢した。

1945年7月17日と言えば、終戦の日の今日、8月15日から、たった1か月前のことである。8月6日の広島、それに続く長崎の原爆投下は、もっと近い。なぜ、1年以上も前に日本の敗戦は決定的になっていながら、日本の軍部は降伏を決断出来なかったのか? 東京大空襲を含めた日本全国の大空襲、広島、長崎の原爆は、もっと早く軍部が降伏さえすれば、きっと防ぐことが出来たはずだ。そして、こうした軍部の横暴に何の抵抗もできなかった日本人の国民性に対しても極めて残念に思う。さらに、その国民性が、今でも大きくは変わっていないように見えるのは私だけだろうかと、この8月15日に毎年自問する。

165  アムステルダム散歩

2012年8月14日 火曜日

今年、フェルメールの「真珠の耳飾の少女」が12年ぶりに日本にやって来た。「北方のモナリザ」として人気の高い、この作品は、オランダでもハーグのマウリッツハイス王立美術館にあるので、私は、未だ本物を見たことがない。しかし、同じフェルメールでも、アムステルダム国立博物館に所蔵されている「牛乳を注ぐ女」は何度も見て、そのたびに感動したものだ。

そう、私はアムステルダムに一体何回行ったのだろうか? 少なくとも、20回以上は行っているような気がする。それは、富士通とシーメンスの合弁会社の登記上の本社がアムステルダムにあったからである。法律に従って、四半期毎の取締役会は本店登記地で行われることが定められており、シーメンス側役員はミュンヘンから、富士通側と東京から、このアムステルダムに取締役会だけのために集まるのである。税法上の理由から、このアムステルダムに欧州本社を置いている日本の大企業は沢山あると思うが、東京からはやはり遠い。

取締役会は、アムステルダムのスキポール空港内のホテルで行われ、前日の夕方集まって取締役全員でディナーをとり、あくる日は朝から午後4時くらいまで、みっちり取締役会とビジネスレビューミーティングを行い、夕方の飛行機で、また東京とミュンヘンへ帰ることになっていた。前任者からも、この海外出張が一番つらい、なにしろ空港から一歩も外へ出ないで、1泊3日の欧州往復だから、一番身体に堪える出張だと警告を受けていた。そのとおり、2-3度やったら、とても辛くて、これ以上は体が持たない感じがした。

それ以降、私は、取締役会の翌日は午前中だけでもアムステルダム市街を散歩して夕方の飛行機で帰る、2泊4日の出張スケジュールに変えることにした。さて、午前中、半日でアムステルダムで何を見るかである。私は、出張で世界各地を訪れた際に、空いた時間があると必ず、その地の美術館か博物館に行くことにしている。そして、オランダの画家と言えば、何といってもゴッホ、レンブラント、そして冒頭のフェルメールである。まず、ゴッホについては、書くことが沢山あるので後述することにして、私はレンブラントの夜警が大好きで、是非いつか本物を見たいと前々から思っていた。

夜警は、アムステルダムのオランダ国立美術館で所蔵・展示されている。ところが、タクシーで美術館に着いてみると、驚いたことに、レンブラントのことについては何の記述も案内も全くない。係員に聞いてみると、どうも、この美術館にありそうなのだが、この美術館の最大の売りはフェルメールなのだ。入口から始まって、館内の至る所で、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」の案内がある。平日ということもあるだろうが、海外の美術館は、どこでも空いている。お蔭様で、フェルメールの作品をゆっくりと鑑賞できた。確かにフェルメールが描く女性は、何とも言えない不思議な魅力がある。

一方、レンブラントの夜警は大作である。私は、この光の描写が大好きで夜警の大ファンである。何年か前に、この大作は暴漢に襲われナイフで一部を切り裂かれてしまった。私は、心配になって、その直後にも見に行った。確かに、綺麗に補修されてはいるが、気を付けて良く見ると、ここが切られた場所だと確認できるほどの傷跡が残っていて痛々しい。暴漢は、この夜警の、何処に嫉妬したのだろうか? 確かに、余りに素晴らしい作品なので圧倒されるのは判るが、切り裂くことはないだろうにと思う。

そして、アムステルダムの美術館の最高位は、やはりゴッホ美術館である。日本人の誰しもそうだと言われているが、私もゴッホには特別な思いがある。しかし、タクシーの運転手に「ゴッホ・ミュージアム」と言ったときに、「アムステルダムには、そんなミュージアムはない!」と言われたのは、ちょっとショックだった。大昔、パリのソルボンヌ大学へ行って、教授と議論した後で、「この後、どこに行くのか?」と聞かれて、「ルーブル・ミュージアム」と答えたら、教授に「私は、そんな美術館を知らない」と言われた時以上に大きなショックだった。

ゴッホ美術館に行きたければ、タクシーの運ちゃんには「バン・ゴー ミュージアム」と発音しなければならない。ゴッホ美術館は、それほど大きな建物ではないが、なにしろゴッホの作品で一杯だ。ゴッホの油絵が200点、素描が500点、そしてゴッホが収集した日本の浮世絵が500点も展示されている。あの有名なゴッホの自画像だけでも4点も並べてあるのだ。その変化の経緯を見るだけでも感動する。だから、この美術館には、もう10回以上訪れたが全く飽きることがない。ちなみに、この美術館の館長はゴッホの弟の孫であるバン・ゴー氏である。

また、このゴッホ美術館の周囲は、殆ど全ての店が、ダイヤモンド宝飾店である。オランダはダイヤモンド大国で、特に、このアムステルダムは第二次世界大戦前は世界最大のダイヤモンド加工地であった。一説には旧約聖書の時代からダイヤモンドはユダヤ人の専門分野で、ここアムステルダムのダイヤビジネスもユダヤ人によって営まれている。アンネの日記で有名なアンネ・フランクも、ここアムステルダムでナチスにより捕えられて殺されたが、このユダヤ人大虐殺の後、アムステルダムのダイヤビジネスは衰退し、戦後は、同じオランダのアントワープに再びユダヤ人が戻ってきて、世界最大のダイヤモンドの街となった。もちろん、アンネ・フランクの館も観光スポットとなっているが、私は未だ行ったことがない。

さて、オランダは、面積・人口では小国ではあるが、欧州における経済的地位は極めて高い。現在のEUで経常収支が黒字なのはドイツとオランダだけだ。オランダは、この経済繁栄のためには、いろいろな知恵を絞っている。課税優遇措置で多くの大企業の欧州本社を呼び込んでいるばかりか、分かり易い話で言うと、オランダでは、なんと売春やマリファナでさえも合法なのだ。どちらにせよ、撲滅できないのであれば、きちんと管理して税金を取ったほうが得だと考えているらしい。極めて合理的な考え方で、日本も、オランダの爪の垢でも煎じて、せめてカジノくらいは財政救済策として早く始めた方が良い

このため、アムステルダム観光の一つとして飾り窓(売春宿)がある。私も、一見の価値があると思い、飾り窓街区を回ってみたが。想像していたよりも甘美さに欠ける。興味のある方は、一度行ってみたら、私の言っている意味が、よくお分かりになるだろう。ゴッホ美術館と異なり、一度見て回れば、二度と行く必要はないと思われる。

それよりも、もっと面白いのは、アムステルダム中央駅近くにあるセックス・ミュージアムである。ぶらぶら歩いていて、たまたま見つけたのだが、これは世界最古のセックス・ミュージアムで年間50万人が訪れる、アムステルダムでも有名な観光スポットなのだという。若いカップルも楽しそうに入っていくだけあって、性に関するあらゆることが、あっけらかんと極めてオープンに展示されているので、逆にいやらしさが全くない。こここそ、私のお勧め観光スポットである。

オランダと言えば、チューリップと風車に代表される農業国と思われがちだが、それだけでなく、金融サービスやダイヤモンド、観光産業、そして半導体関連装置や医療機器など高度な製造業も発達していて、私たち日本のような旧来の先進国が、今後、どうしていけば持続性のある経済運営が出来るかという意味で、学ぶべきところが極めて多い。さあ、また、アムステルダムへ、ゴッホやフェルメール、レンブラントを見に行こうかと思う。