2011年11月 のアーカイブ

96 スパコン「京」誕生物語 (その4)

2011年11月26日 土曜日

「京」の誕生には、本当に多くの方にお世話になった。その中で、今日は、文部科学省 情報科学技術委員長、次世代スパコン戦略委員長として「京」の応援をして頂いた慶応大学名誉教授 土居範久先生と、次世代スパコン開発計画を最終的に決定頂いた、前内閣府総合科学技術会議議員で、現在、芝浦工大の学長をされている柘植綾夫先生について、お礼の意味も込めて、その思い出を振り返ってみたい。

まず土居先生とは、私が文科省の情報科学技術委員に選任された時に、委員長をされていた先生に初めてお目にかかった。人生というのは不思議な縁である。土居先生は、私の息子が慶応大学で卒業論文を書くときの指導教官で、息子は何度も、土居先生のご自宅にお招きを受けていた。息子に言わせると「土居先生は、人生最大の恩人」と言っているが、私も全く異存がない。なぜなら、あれだけグータラな子供だった息子が、会社に入ってからは徹夜も辞さない仕事人間になったほどに育てて頂いたのは、土居研のサーバー管理を先生から任されて、昼も夜も、一日中研究室に入りびたりになって働くようになってからである。

土居先生は、国がICT分野の研究開発方針を決めることに大変大きな影響力をお持ちではあるが、ハードウエアに多額の研究費を投入することには必ずしも同意されていなかった。日本は、国家としてソフトウエアの研究開発に、もっと軸足を移すべきだという主張をお持ちだった。私も、全く同じ意見であるが、そうした考えからいけば、1,000億円という巨額の開発費をスパコンというハードウエア及びそれを格納する建築物に投入すれば、総額の予算が限られている中で、ソフトウエア開発に投資される研究費は減額されるだろうという懸念をお持ちだった。

それが変化しだしたのは、神戸に設置される予定の次世代スパコンを、どの研究機関に使って頂くかを決める次世代スパコン戦略委員会を開催してからである。私も一緒に、その委員会に参加させて頂き、大変、感銘を受けたので、土居先生も同じ思いだったに違いない。なにしろ、日本中から100を超えるスパコンを使って研究を行っている機関から、プレゼンテーションを聴いた。ヒアリングはトータル100時間を超えただろうか。私の実感は、第一は、日本には、スパコンを使って、これだけ素晴らしい研究を行っている研究機関が、こんなに沢山あるのかということ。第二は、スパコンの利用は、これほど広い分野にまで普及していたのかということ。そして、最後の、これが一番大事なことのだが、研究者達が「世界一のスパコンで世界一の研究をしたい」という情熱がひしひしとプレゼンテーションから伝わってきたことである。

もちろん、その頃は、確かに建物は神戸に建築中だったが、肝心のスパコンは未だ未完成で、世界一をとれるかどうかなど、全くわからない時である。それでも、研究者達の情熱は熱気に満ちていた。やはり、研究というのは才能と地味な努力が重要だが、それに加えて「情熱」がなくては成就しない。「世界一のスパコン」というのは、「そこでは世界一の研究が出来る」という克己心に繋がるのだろう。こうした熱い情熱に接した土居先生は、ハードウエアというのは、確かに「ソフトが無ければ、ただの箱」に過ぎないけれども、それが、「世界一」という冠がつけば、これほどに研究者達の情熱を引き出す「場:プラットフォーム」として極めて有効なのだと思われたに違いない。私も、同席していて、全くそのように思った。

そして、忘れもしない米国オレゴン州ポートランドで開かれたスパコンの学会SC09。前日の仕分け会議で、次世代スパコン開発計画は全面的に見直しとの結論が出され、あの名言「なぜ世界一でないといけないんですか?」が発せられた翌日である。私たちは、SC09の開会式前夜祭で、夜7時に日本からポートランドの会場に到着する土居先生を待っていた。先生が到着するとすぐ、簡素なディナーパーティーを始めたのだが、その食事中に土居先生の携帯電話が鳴った。先生曰く、「明日、日本に帰らなくてはならなくなった」。何と、土居先生はポートランドに到着して6時間後の翌朝の午前2時には、朝5時発の飛行機に乗られるためにホテルを離れられたのだった。

多分、日本に到着してから日本学術会議の幹部でもあられる土居先生が音頭を取り、まとめられたのであろう。野依先生を始め、ノーベルを受賞された先生方が、こぞって記者会見されて、次世代スパコンの開発計画を遂行されるよう、応援演説をして頂いた。未だに、土居先生は詳しくは仰らないが、あの携帯電話は、その電話だったに違いないと思っている。

次の大恩人は、柘植綾夫先生である。柘植先生は三菱重工業で常務取締役CTO(最高技術開発責任者)から内閣府総合科学技術会議 議員になられた。総合科学技術会議は小泉内閣が創設した日本の科学技術予算の最高決定機関である。議員の多くは学者で、柘植先生のように民間企業から就任される方は少ない。巨額の開発費用をかけることとなった次世代スパコンが科学技術の発展だけでなく、民間分野での産業育成については、どのような役割を果たすかなどという課題の検討は、民間企業出身の柘植先生に多くが委ねられていた。

後になってから、柘植先生から伺ったことではあるが、柘植先生が議員に就任するとすぐに、何人もの政治家から、早くスパコンの計画を承認するよう圧力がかかったのだという。柘植先生は、民間出身だからこそなのかも知れないが、「ここで安易に政治の圧力に屈してはいけない」と思われたらしい。そのため、ご自身で、各方面へ出向いて、かなりの詳細レベルのヒアリングを行われた。私も、何度もご説明に伺った記憶がある。それで、ご自身が納得しきってから、最終的に「GO」の決定を下された。

ご自身で徹底的に調べられた後の柘植先生は、私たちがビックリするほどの強力なスパコンのサポーターになられた。つい先日の、文科省主催の「次々世代スパコン開発」のキックオフ集会にも、既に芝浦工大学長になられた柘植先生に基調講演をして頂き、私も、柘植先生に続いて講演をさせて頂いた。柘植先生とは、今でも、時々、芝浦工大の学長室でお会いするが、「日本の大学改革は芝工大から」という強い意志を持って大変精力的な活動をされている。

95 スパコン「京」誕生物語 (その3)

2011年11月23日 水曜日

今年11月に米国シアトルで開催されたスーパーコンピュータ学会 SC11にて日本のスパコン「京」は、再び世界一にランキングされた。この4年前のSC07にて、私はJAXA(宇宙航空研究機構)のスパコンの権威である藤井孝蔵教授に呼ばれて次のような要請を受けた。「再び、日本が世界に誇れるスパコンをJAXAのために開発してもらえないか?」 富士通のスパコンの歴史は、常にJAXAにリードされてきた。しかし、今から4年前は、かつて世界一を誇ったNEC製の地球シミュレータを遥かに凌駕する米国勢のスパコンが圧倒的優位を誇っていた。もはや、世界のTOP10に入る高性能スパコンと言えばIBM、クレイ、SGIの製品で独占され、ましてや地球シミュレータにも参加していない富士通は、既に、スパコン市場での存在感は全くなく、かつてのスパコンメーカーとしての世界に誇った優位性は、もはや地に落ちていた。

JAXAの藤井教授は、その富士通に「再度、世界一級のスパコンに挑戦して欲しい」と要請されたのだ。我々、富士通自身も、「今さら、独自方式のスパコンに挑戦したって勝ち目はない。もうこれからはINTELチップで作るしかないだろう。」という意見が圧倒的だった。しかし、結論から言えば、「もう一度、最後の挑戦をやってみよう」ということになった。この スパコン「京」誕生物語(その2)で述べたように、スパコンは性能を上げるにはプロセッサの数を増やせば良いが、「ある数」以上に増やしても、今度は増やせば増やすほど性能が落ちていく。その「ある数」は何で決まるかと言えば、それは「実行効率」で決まる。「実行効率」とは、多数のプロセッサの中で実際に働いている割合を言う。つまり、100個のプロセッサで実行効率が80%と言えば、働いているプロセッサは80個で遊んで何もしないプロセッサが20個ということである。

つまり、富士通はJAXAの藤井教授の要請に対して、「実行効率で世界一」のスパコンを作ることを第一の目標とした。実行効率が世界一になれば、あとはプロセッサの数を増やせ必ず世界一になるはずだ。つまり、地球シミュレーターのような大型プロジェクトが再度日本で始まったら、日本が世界一を取れるという根拠にもなる。そして、遂に2009年4月、富士通の「FX1」を中核とする「JAXA統合スーパーコンピュータシステム」が動き出した。その「実行効率」は91.19%で当時のスパコンランキングTOP500の中では世界一だった。その時点で、次世代日の丸スパコン「京」の計画は既に始まっていた。つまり、JAXA向けFX1は、もちろん商用機として立派な製品ではあるが、ある意味で「京」のプロトタイプであり、「京」が成功するかしないかの大きな試金石だったのだ。その意味で、JAXAの藤井教授の要請がなければ、富士通はFX1を開発することはなかったし、もちろんスパコンで世界一をとった「京」の出現もなかったことになる。藤井教授は、まさに「京」誕生の大恩人である。

JAXAには、もう一人、「京」誕生の大恩人がいる。それは立川敬二JAXA理事長である。次世代スパコンプロジェクトを行うべきかどうか? 総合科学技術会議を含めて賛否両論が巻き起こっているときに、「JAXAの立川理事長がスパコンのプロジェクトに反対されている」という話が入ってきた。話のストーリーはこうである。日本の科学技術予算は総額が決まっている。もし、次世代スパコンが大型予算を獲得すれば、宇宙開発予算にシワ寄せが行き減額されるかも知れない。だから「JAXAは次世代スパコンの計画に反対だ」というわけだ。立川さんのような超大物が本気で反対されたら、スパコンの開発計画は本当にボツになってしまうと関係者が色めきだっていた。

私は意を決して、JAXAの理事長室に一人で行って、立川さんに直接面談し、その真意を確認した。やはり、立川さんは、そんなケチなことを言う矮小な人ではなかった。もっとスケールの大きい人で、「宇宙開発のために高性能スパコンは絶対必要だ。むしろスパコンの必要性を説く資料に宇宙開発というテーマを必ず入れてくれ」と仰った。世の中には、発言力のある人の威を借りて、流れを変えようと目論む卑怯な輩が必ず居るものだ。立川さんは、こうした流言飛語を毅然とした態度で一蹴して下さった。立川さんは、面と向かって対峙するには、ちょっと怖い人だが、本当は優しく思いやりのある方である。

私が携帯電話を担当していた時代に、当時NTTドコモの社長だった立川さんから、「らくらくホン」のプロジェクトを命じられた。「らくらくホン」プロジェクトはドコモでは社長直轄のプロジェクトだった。立川さんは、高齢者が簡単に使える、使いやすい携帯電話を作るのはドコモの社会的使命だと思っていた。しかし、この第一世代の「らくらくホン」プロジェクトは不幸にも富士通はドコモからは命じられなかった。結果として、第一世代の「らくらくホン」プロジェクトは大失敗だった。この失敗を見た、業界他社は、立川さんの命令に誰も従わなかったのだ。そして、遂にドコモ傘下の最下位の富士通に「らくらくホン」プロジェクトは回ってきた。そして、立川さんはただでさえ怖い顔をさらに怖くして「らくらくホン」を、我々に命じるものだから、「これを断ったら、もう富士通はドコモグループには残れないな」と皆、観念をした。

そして、富士通は決断したのだった。「どうせやるなら、いやいや、やるのではなく、立川さんの意を汲み取って、徹底的に高齢者に優しい携帯電話を作ってやろうじゃないか」と腹を括ったのである。その結果は大成功、富士通はドコモ傘下の最下位から、らくらくホンのおかげでTOPシェアを取るまでになったのである。富士通の携帯電話事業は、まさに立川さんによって救われた。そして、富士通は、携帯電話事業の次に、スパコン開発でも、また立川さんに、お世話になることになった。

JAXAは立川理事長に交代してから、それまで失敗続きだったロケット打ち上げで全く失敗しなくなった。そして、今回の「はやぶさ」では、日本の宇宙開発は国民的支持を得ることになった。JAXAにとっては、まさに「立川大明神」である。そして、富士通も、携帯電話とスパコンの両方で「立川大明神」のご利益をおすそ分け頂くことになった。本当にありがたいことである。

94 ヨーロッパはどうしたのか?

2011年11月21日 月曜日

昨日のスペインの総選挙でサバテロ首相率いる社会労働党政権が7年ぶりに交代した。ギリシャ、イタリアに続いて、遂にスペインも政権が維持できなくなったわけだ。特にスペインは、このたびの国債暴落とは別に深刻な失業問題を抱えていた。国民の平均失業率は20%でEU平均の10%の2倍にも及び、24歳以下の若年層だけとってみると、なんと45%にもなり若者の半分が職に就けないという異常事態になっていた。この原因として、以前から指摘されているのが、ヨーロッパで一番厳しい労働規制だと言われている。非正規労働者を一切認めない、労働者の既得権を重視し中高年の労働者を解雇するのは不可能に近い。それが結果的に、スペインの労働市場全体の不活性化を招き、さらに若者の就職の道を閉ざしてしまったというわけだ。

「競争社会の悲惨さ」を書いた本は山ほどあるが、「競争を排除した社会」の悲惨さを書いた本は全くと言ってよいほどない。7年間にわたりスペインを統治した社会労働党が目指したのは、この「競争を排除した社会」だったのかも知れない。もちろん、行き過ぎた競争社会は、人々の心を荒廃させ、不幸せにする可能性が高いが、それでは競争がない社会は安定していて、皆が幸せになれるのだろうか? 競争のない社会とは、言い換えれば、これまで蓄積した既得権が守られているということで、新たに、もっと豊かになろうとか、幸せになろうとして努力する意欲を奪うことにもなる。スペインの若者が置かれた状況とは、そうしたものではなかろうか?

5年ほど前に、私は、富士通の海外事業における欧州総代表に就任してヨーロッパ各国をあちこち見て回った。その時代は、今から考えると、まさに通貨統合したEUの絶頂期だった。共通通貨に支えられた自由経済統合は、これほど豊かな実りを結ぶのかと感動したものである。アジアも近い将来、共通通貨で統合されたら、これほど豊かな生活が出来るのだろうと夢を見たものである。そして、何といっても生活の全てに「ゆとり」がある。「これがヨーロッパが永年積み重ねたストックの豊かさなのだ」と思った。「成金のアメリカには真似できないヨーロッパの豊かさ」、「ヨーロッパは、働きアリのように、粗末な身なりで毎日汗を流して、あくせく働いているアジアの国々とは全く違う別世界」とも思った。「日本が目指すのは、やはりアメリカでもアジアでもなくヨーロッパだ!」と、私は信じて疑わなかった。

実は、EUは域内の関税を撤廃した自由貿易経済によって繁栄を築いてきたが、域外の国々に対しては高い関税によって侵入を排除してきたことは、あまり知られていない。例えば、途上国からの輸入品にかけた関税の総額は、途上国支援のための支出金を大幅に上回っている。「EUは途上国から召し上げた関税の一部を支援金として拠出している」と悪口を言われる所以でもある。さらに先進国との二国間、多国間の貿易協定も殆ど結んでいない。ある意味でEUとは「域外との競争を回避」した「排他的経済連合」だったとも言える。ヨーロッパの都市を見ると、その多くが外敵の侵入を防ぐための城壁で囲まれている。EUとは、まさに、こうした中世の城壁都市を思わせる経済共同体だった。そして、経済運営の結果は、実力No1でEUの盟主でもあるドイツの一人勝ちだったのだ。

域内に閉じた経済で、ドイツがただ一人勝ったとなれば、あとは全員が負けである。この負け組みの国の経済を支え、ドイツ製品の消費を促すために、ドイツの銀行はどんどん貸し出した。何だか、アメリカのサブプライムローンと構造が同じである。返済能力がないとわかっている国々に、どんどん貸し出した。しかし、サブプライム問題と大きく違うのは、この仕組みにアメリカも日本も中国も乗らなかったことだ。ユーロという通貨が良く理解できなかったし、EUで何が起きているかも良く分からなかったからだ。

その分だけ、ヨーロッパの銀行は深刻である。昨年、訪日されたスペインのサバテロ首相の演説を聞きに行ったが、「スペインの銀行は厳しいストレステストに対して、たった2行を除き、全て合格した。スペイン金融界の健全性を示す良い証拠となった。」と訴えられたが、その後、このストレステストが実にいい加減で、多くの不良債権が隠されていただけでなく、当時は全く問題なかったギリシャなどの国債が、さらに追加されたことで、今では、ヨーロッパ金融界を自ら進んで助けに行こうという国は誰も現れない。もはや、「ストレステスト」という言葉は、「いい加減なテスト」という意味になったので、もうこれからは使わない方が良いと思われる。

さて、こうしたヨーロッパを再建する処方箋は一体何だろうか? それは、やはりEUを世界に開かれた経済地域にするしかないだろう。IMF介入を受けた韓国が自国の市場を開くことによって国際化し、グローバル市場に攻勢していったように、EUは城壁を取り崩すべきである。そして、もっと世界の競争に積極的に参加すべきだと思われる。アジアの人々が毎日汗を流して働いているのに、ヨーロッパの人々だけが、ゆとりを持って楽に暮らせるわけがない。世界は、好むと好まざるとに関わらず、もう閉じた世界だけで競争を排除しては生きていけないからだ。

一昨年だったか、ベルギーのブッリュセルで日本のEU駐在大使から聞いたことがある。「日本が理想とすべき国はスエーデンです。競争社会と無競争社会を混在させて、うまく共存させている。グローバル企業は従業員の解雇は自由で、その経営者は高額の報酬を得ても構わない。そのかわりに国がセーフティネットはしっかり張っている。教育、介護、医療など公的な役割を担う人々は全て公務員として適度な報酬で働いてもらう。」「なるほど、素晴らしい、これからはスエーデンが目標だな!」と私は大使の言葉を聞いて、そう思った。しかし、先日、ある大手スエーデン企業の社外取締役を務めている友人と会食をしたら、「とんでもない。スエーデンの社会保障は、もはや壊れつつあるよ。スエーデンの富裕層は高額納税に嫌気がさして、どんどん国外に脱出している。競争社会と無競争社会が共存するなんてありえないよ。」さあ、困った。日本は、どの国を模範にして行けば良いのだろうか?