2011年9月 のアーカイブ

78 貞観地震とは何だったか?

2011年9月15日 木曜日

今日、産総研の岡村 行信 活断層・地震研究センター長から、今年、3月11日の起きた東北地方太平洋沖地震と、同じく西暦869年に東日本の太平洋沿岸を襲う大津波を生じさせた貞観地震との関係を解説して頂いた。日本と異なり、米国では地震予知学は、既に意味のない研究として国から研究予算も出なくなったが、岡村先生が行われている学問は、地震予知学ではなくて、地層に埋もれている津波堆積物を調査分析する「地震考古学」と言えるものである。

駿河湾沖の東海地震の予知を目指して、精密な計器を沢山使う地震予知学は、華やかではあったが、この学問は、地震計が、この世に登場する、せいぜい100年の歴史しかない。一方、地層に埋もれた津波堆積物の調査は、数千年単位での分析が可能である。ところが、その分析結果が正しいものかどうかが文献によって立証されなかったため、これまで日の目を見てこなかった。残念なことに、この岡村先生達のグループは地震学会の中ではマイナーで、2009年には貞観津波の全貌を明らかにしているのに、東日本太平洋沿岸の原子力発電所の防災計画には全く反映されることがなかったのだ。

今日、岡村先生のお話を伺って、私自身も津波に対する認識を新たにすることが大変多くあったので、私が特に印象に残ったことだけでも、皆様に紹介をしたい。まず、津波というのは地震の揺れで起きるものではないということ。海底の地形が地殻変動で沈降、あるいは隆起した時に初めて起きる。日本近海の地殻変動は東日本太平洋沿岸が太平洋プレート、東南海、南海がフィリピンプレートによって起こされるが。太平洋プレートは1年に8センチ、フィリピンプレートは1年間に5センチづつ常に移動している。今回の東北地方太平洋沖地震では約24メートルの地殻移動が見られるので、日常のプレート移動の300年分が補正されたことになる。しかし、869年に起きた貞観地震からは既に1000年以上経っているので途中の空白の辻褄が合わない。

そうは言っても、1896年の明治三陸大津波、1933年に昭和三陸大津波もあったと思わるかも知れないが、岡村先生に言わせると、これらの津波は所謂、M8クラスの一般的な海溝型地震による津波で、今回の3.11大津波は連動型と呼ばれる、もっと大規模なものらしい。貞観地震も、実は、今回と同じ連動型だったのだ。それが、1000年に一度の大地震/大津波と言われる所以である。

ところがである。岡村先生達が2005年から2009年まで、仙台から三陸海岸で行った地質調査では、貞観地震と今回の3.11の間の1400年代である室町時代に、同じ連動型の大規模地震/大津波があったらしいのだ。もちろん、貞観地震の500年前にも、同じ連動型の津波堆積物があり、さらに、その数百年前にも、同じ規模の連動型地震/大津波の堆積物があるという。つまり、数百年単位で、この東日本太平洋沿岸は、日常の地殻変動を一気に補正する連動型大地震が起きていた。それでは、なぜ室町時代の地震は、古文書に記録が無いのかである。

どうも、日本の自然災害に関する記録は近畿地方は奈良・平安時代からあるが、関東・東北は江戸時代になってようやく登場し、北海道に至っては明治時代から漸く記録に掲載されることになっている。むしろ、869年の貞観地震の記録が残っているほうが不思議なのだと言う。日本の正式な国史には、六国史と言って、日本書紀(-697)、続日本記(697-791)、日本後記(792-833)、続日本後記(833-850)、日本文徳天皇実録(850-858)、日本三代実録(858-887)と連続的に国史が書かれており、残念なことに887年以降はしばらく途絶えている。

869年に起きた貞観地震は、清和天皇から光孝天皇まで三代の天皇の治世を記録した日本三代実録に、たった6行分だけ掲載されている。それでも奈良の都から遠い東北地方で起きた大津波の悲惨な状況を簡潔に、しかも正確に記録している。当時の国府は多賀城にあった。この多賀城まで津波は襲ったと書かれているが、実は、今回の3.11大津波は、この多賀城跡まで達していない。その意味では、貞観大津波は、3.11大津波の規模を遥かに超えた規模だったことを示している。

そして、明治三陸大津波も昭和三陸大津波も、実は被害は、その名のとおり、三陸沿岸だけで、今回津波の被害に遭った、仙台や、福島浜通り、茨城、千葉は殆ど大きな被害はなかった。ところがである、2001年に渡辺氏という研究者の調査では、仙台はもちろん、茨城、千葉までの各地で、貞観大津波の口頭での伝承が残っており、しかも、その内容は極めて正確であったというのだから驚きだ。精密な地震計やGPSを使った地殻変動など、現代科学の粋を尽くした地震学も大事かもしれないが、昔からの古老の伝承にきちんと耳を傾けることも、もっと大事なことだった。

これは、現代科学の脆弱さでもある。地震は数百年、数千年単位で起きるもの。だから、何時起きるかを正確に予知することに莫大な資金を投入するよりも、過去に何が起きたかを地質をベースに考古学的に調べる岡村さんたちの学問の方が遥かに意味がある。米国は、地震予知学を一切学問と認めず、研究費を打ち切ったが、原子力発電所の立地を認可するに当たっては、過去1万年の地殻変動を地質調査して報告することを義務づけている。菅前総理が浜岡原発に対して停止命令を出した根拠は、今年1月に日本地震学会が出した、今後M8以上の地震が起きる発生確率だった。確かに、その報告書には、浜岡原発地域が86%の確率で大地震が起きるということが記されていたが、福島第一原発地域は、なんと「ゼロ%」であった。将来の地震発生確率と、過去に起きた地震の痕跡との、どちらを議論すべきかは誰にでも分かる明快なこと。

そして岡村さんは、最後に、3.11のような連動型の巨大地震・巨大津波は、東日本太平洋沿岸だけでなく、南海・東南海でも起きる、1707年の宝永大地震は駿河地方から四国まで、全部連動した大規模なものだった。さらに、千島海溝の沿った北海道東岸でも起きる。これらの大地震・大津波が、いつ起きるかは分からない。しかし、両地区とも、既に相当エネルギーが溜まっているので、いつ起きてもおかしくはない。今回の規模の大津波は、どれほど堅固な防波堤を築いても無力である。ただ、ひたすら逃げるしかない。その逃げ道を、いかに確保し、普段から訓練を重ねるしかないと結んだ。

77 日本の再生は中小企業から

2011年9月12日 月曜日

先週、富士通のパートナー様が主催する、お客様向けの講演を軽井沢でやらせて頂いた。翌日は、そのお客様方達と一緒に、終日、ゴルフをさせて頂きながら、前日の講演の内容に関わる、大変興味あるお話を沢山聞かせて頂いた。

もともと、大震災前から行っている私の講演の主たる内容は、「日本再生の鍵は中小企業にあり」というものである。それは、経団連の産業政策部会の部会長をさせて頂きながら多くのことを学んだことからだ。つまり、大企業が巨額の設備投資をして、世界市場に向けて、品質の良いものを安く大量に製造し販売するというビジネスモデルは、少なくとも、もはや日本では成り立たなくなっている。

半導体メモリー、液晶パネル、パソコン、携帯電話から自動車まで、台湾、韓国、中国の台頭は目覚ましいものがある。こうした、日本が立ち上げた「コモデティ製品」の大量生産というビジネスモデルは、3ー5年後には必ず台湾、韓国に追い上げられ、さらに、その3ー5年後には中国に追いつかれるということが繰り返されている。学者やメディアの方々は、こうしたコモデティ製品に対する日本企業の脆弱さをだらしがないと批判されるが、税制から電気水道料金まで国家が全面的に支援し、国内市場の独占で得た豊富な資金で世界市場に打って出るというビジネスモデルを、先進国である日本が真似することは、もはや許されない。

一方、今後、高齢化社会が進み内需拡大の可能性が全くない日本経済の再生を可能とする道は輸出しか残されてない。現在、世界経済の牽引車であるドイツ、中国、韓国の対GDPの輸出比率は、いずれも40~50%であるのに対して日本はたった18%に留まっている。しかし、ドイツと日本を比べた時には、先の台湾、韓国、中国との比較で議論した国家の全面的な支援はなく、国内における産業の立地競争力は、税金も電気料金も人件費も日本と大差がない。

このドイツと日本の輸出比率の差は中小企業の強さの差である。ドイツの輸出の大半を担っているのが中小企業だからだ。日本の中小企業の多くがコモデティ製品で世界市場で活躍している大企業の下請けメーカーとして生きているのに対して、ドイツの中小企業は自ら世界市場に出て顧客と密接な関係を築いている。そして、彼らの製品は厨房器具や洗浄機など、ニッチな分野なので、韓国や中国のベンダーは見向きもしない。顧客要望を着実に反映しながら、その世界シェアは80%近くも持っている。もちろん、利益率も30-50%と非常に高い。これがドイツの中小企業の生き方である。

さて、話は、冒頭の軽井沢のセミナーに戻るが、翌日のゴルフでご一緒した、ある金属加工の中堅メーカーの社長の話が、このドイツの中小企業と全く同じ生き方をされていた。この会社は、以前は日本のある大手自動車メーカーの下請けで長年生きてきた会社である。製品は自動車エンジンの基幹部品であるピストンだ。ご推察のとおり、ピストンは極めて精密加工を要する、自動車のエンジンにとってもっとも重要な部品である。ピストンはシリンダー内をスムースに滑りながら往復運動を行い、それでいて決して隙間から燃料漏れを起こしてはならないという二律背反した機能を持たされている。パソコンに例えればインテルのプロセッサにも相当する基幹部品である。

そして驚くのは、このピストンを一個、たった300円で大手自動車メーカーに納品しているということである。系列の下請けに入れば、自ら顧客を探しに行かなくても、言われた通りに品質と価格を守っていさえすれば自動的に次々と注文が来る。ただし、価格は、発注の度に少しづつ、しかも着実に値切られて行く。それに抵抗しようものなら、注文は打ち切られ廃業するしかないから、渋々ながら従わざるを得ない。その結果が、ピストン一個300円である。極端な言い方をすれば、4気筒と8気筒の部品のコスト差は数千円にしかならないということだ。つまり、その価値が世間と比較されない閉じた世界で値段が決められていく。これでは倒産はしないが、いくら頑張っても大きな利益は出ないし、従業員の暮らしも楽にはならない。

その社長さんは、アメリカの販売子会社の社長を経験しながら、この日本の下請けシステムは何かおかしいのではないかと疑問を持たれたそうである。そして、自ら社長になったときに長年下請け関係にあった大手自動車メーカーとの縁を切った。確かに、世界中の顧客を相手に商売するのは大変だが、努力した分だけ、成果が出るからやりがいがあるという。もちろん、今でもピストンは作っているが、中国や日本の農機具メーカー向けだという。自動車業界よりも農機具業界の方が価値を認めてくれるからだという。そして、世界市場を相手にしているので、コストダウンが必要になると、生産の一部を、その都度海外に移転しているとのことだ。

世界が認めている日本製品の品質は、その基幹部品を作っている中小企業が支えている。だから高い技術力を持った日本の中小企業が国内の系列の下請けの呪縛を抜け出られた時に、ニッチかもしれないが世界に雄飛できるチャンスが待っている。ドイツの中小企業が元気なのは、こうした付加価値の高いグローバル・ニッチのビジネス分野で頑張っているからだ。ここでは、半導体メモリーや液晶パネルのような巨額の研究開発費用や設備投資が全く要らない。中庸の技術と中庸の設備があれば良い。あと大事なことは、顧客との密接な会話である。逆に、小規模の商談でも顧客を大切にする、こうした細目な仕事は巨額の管理費用が必要な大企業には向いていない。そこにこそ、中小企業の生きる道がある。

もう一人の社長さんは、長野県の縫製メーカーだが、アメリカの有名ブランドの洋服の縫製を一手に引き受けているのだという。このブランドは、私が米国駐在時代に大変気に入って、日本に帰ってからも買い求めているものだ。最近は、家の近くのたまプラーザ東急にも出店しているので、自分のものだけでなく息子の分まで買っている。この縫製メーカーの工場は、当初は中国の厦門で始めたが、今は昆明が主力工場だそうだ。さらにベトナムにも進出しており、近いうちにスリランカへの進出も計画している。凄い。日本の中小企業だって、十分にグローバルな会社は沢山存在する。

この社長さんは、私が名刺に厦門(アモイ)事業所と印刷してあるのを、厦門(シャーメン)と読んだのを大変気に入って下さった。私のつたない知識から、「アメリカ企業がメキシコに縫製工場を作るのはインディオの血を引くメキシコ人の視力が非常に高いからですよね。」と申し上げたら、その社長さんも全く同じ考えで、昆明の少数民族の人たちは視力が非常に高い、3.0とか4.0の人が普通に居て、暗い作業場でも繊細な仕事が出来るのだと言う。逆に明るいと眩しくて仕事が出来ないそうだ。スリランカ人も同じように高い視力の人が多いという。こうした特別な能力を持った人でないと高級ブランド洋品は作れないのだという。

さらに、こうして海外の工場で製造して海外の顧客に売っているので、昨今の円高は全く影響を受けないのだという。こんな素晴らしいグローバルな中堅企業が長野県にあるというのがまた凄い。こちらは、逆に海外の大手ブランドメーカーの下請けではあるが、社長さんの顔には、下請けという惨めさや暗さが全く感じられない。

経団連の産業政策部会での調査では、日本の資本金10億円以下の中小企業が保有している現金資産は、資本金10億円以上の大企業が持っている現金資産の10倍近くあるのだ。中小企業がお金に困っているというのは、事実ではない。困っている中小企業だけに焦点を当てていると国の産業政策は間違える。逆に、この中小企業の「金余り」こそが大きな問題である。大企業は余剰資金をきちんと成長余力のある海外への投資に振り向けている。それが中小企業には出来ていないので余剰の現金が貯まる。ここを何とかすれば、もともと技術力の高い日本の中小企業はドイツの中小企業に負けない戦いを世界市場で出来るに違いない。つまり日本の再生は中小企業のグローバル展開にかかっている。

76 震災後六ヶ月を迎えた被災地で (その2)

2011年9月5日 月曜日

日和山公園から石巻の海岸一帯を眺めて下に降り、石巻が誇る郷里の漫画家である石ノ森章太郎氏の作品を集めた石ノ森萬画館近くを散策した後、石巻でも最も被害が酷い渡波地区を回ってから、海岸から少し離れた高台の三陸河北新報社を訪問し、河北新報本社の常務も兼任されている西川社長から、お話を伺った。一般的には、新聞社は取材をする側であり、こちらから新聞社に取材を申し込むのは失礼に当たるのに貴重なお時間を割いて快く受け入れて頂いたことに感謝している。

仙台市に本社を持ち、東北地方最大の新聞社である河北新報は、震災に備えて、印刷工場を津波の被害を受けない高台に建設、併せて徹底的な免震化を施すと共に、自家発電装置を装備した完璧な備えを誇っていた。それでも、あの震度7以上とも言われる強烈な揺れで、本社のコンピューター室にあるサーバーは全て倒れてしまった。余震が続いていたこともあり、その日の復旧を断念した。記者が集めた記事は全て事前に提携関係を結んでいた新潟日報社に送り、新潟のサーバを使って編集された版組データを仙台の印刷工場に送り戻し、その日の号外から翌日まで休むことなく新聞の発行ができた。翌日、余震が収まってから倒れたサーバを元に戻したら、全て順調に稼働したので新潟日報社への委託は1日だけで済んだが、まさに危機管理の手本のような見事な連携であった。

しかし、石巻の海岸から少し高台にある三陸河北新報社では、そう、うまくはいかなかった。3階建ての社屋の1階は、半年たった今でも未だに使えないでいる。事務所は全て2階に緊急避難しているありさまだ。ここでは津波の直接被害はなかったが、津波は社屋に隣接する旧北上川を遡り、逆流した遡水が付近一帯を完全に水没させた。三陸河北新報社も1階は全て水没、水は2階まで押しかけて来る勢いだったという。2時46分に地震が起きてから、約40分後に津波の第一波が襲ってきた。そして、津波は合計5回も繰り返し襲来してきたのだという。最後の5回目は、なんと深夜の11時半だというから、実に、地震発生後から8時間以上も住民を恐怖に陥れたのだ。実際に、経験してみて分かったことは、津波の恐ろしさは襲ってくる波よりも、襲った後に海に引いていく引き波だという。前回、3か月前に日和山公園を訪れた時に、日和山の麓に住む古老が言っていたのは、「引き波の時に、何十台もの人が乗ったままの車が、時速50キロくらいの猛スピードで海に運ばれていった。何人もの運転者と目が合ったが、どうすることも出来なかった」と話していた。

そして、5波の津波の内の第二波と第三波が一番強く、来る前に2-3百メートルも海が引いて海底が現れ、近くの島まで陸がつながったのが見えたという。それも石巻では地形の影響か、海は後ろに引いたのではなくて左右に引いたので海が割れたように見えたという。まさに、 旧約聖書出エジプト記第14章のいわゆる「葦の海の奇跡」のようではないか。あの奇跡は。きっと事実だったのだ。 石巻に住んでいた私の曾祖母からも、多分、明治三陸大津波だと思うが、私が小さいときに、「海が轟音を立てて遠くまで引いたので、それを見て皆で高台に逃げた」と語ってくれたのを思い出して、西川社長に話すと、西川さんは、次のように仰った。

「昔はね、この辺の集落の家もまばらで、どこの家からも海が見えたんでしょう。だから、海の様子が自分の目で見えて、津波の前兆である轟音も聞こえたんでしょう。そうすると、自分の判断で逃げることが出来た。しかし、今は、これだけ家やビルが密集すると、もう海は見えない。波の音も聞こえない。大体、すぐそばに海があることを意識しないで生きていける。そのことが、被害を大きくしてしまったということもあるでしょうね。」と仰った。つまり、西川さんは、人々と自然の距離が遠くなってしまったことで、自然を恐れなくなった、それがまた被害を大きくしたと言っている。

そして苦渋の顔で、この三陸河北新報社の失敗を語る。この失敗は、三陸地区の多くの建造物で同じように経験した失敗でもある。その一つは、非常時に使う自家発電装置を1階に設置したことだ。また非常用に停電した時でも通話できる48Vの直流電力線を兼ねる昔ながらのアナログ専用回線も特別に敷いていたが、その交換機も一階に設置してあった。つまり、多くの非常用設備は全て1階に設置してあったのだ。いずれも、相当の重量物なので、屋上に設置するには建物の強度を強くしなくてはならないからだ。そして、北上川から溢れ出た水は一階部分の非常用施設を全て水没させ機能出来なくしてしまったのだ。この教訓は非常に意味がある。まさに福島第一原発と同じミスが三陸地区のあちこちで起きていたのだ。

そして、固定電話回線が使えないとなれば携帯電話が頼りだが、これがまた、地震直後は全てサービスが止まってしまった。そして信じられないことが起きた。一番最初に繋がったのはウイルコム、それからAU、ドコモは一番遅く1日半かかってようやく復旧したからだ。災害に対する携帯キャリアの耐力は事業規模の大きさは必ずしも比例しなかった。そして三陸河北新報社では駐車していた車も全て冠水して動かなくなった。ただ1台だけ出張取材していた女性記者の軽自動車だけが生き残り、その車のバッテリーで繋がっている携帯電話を充電しながら記事を送り続けたのだという。

今も、全国の地方紙から津波の取材がひっきりなしにやってくる。こうした記者達に、必ず案内する場所が、近くの女川町立病院だという。海岸から見上げる山の上にそびえ立つ病院の一階は津波で壊され、病院玄関前の高台に駐車していた車は全て海へ持ち去られたからだ。病院の駐車場からかなり下の眼下に見える海岸。海沿いの敷地に建っていた3階建ての鉄筋コンクリートのビルが津波で押し倒されて横転しているのが見える。訪れた記者たちは絶句して息を飲む。そして、「この高さまで逃げても助からないんですか?」と驚いて帰る。この女川町立病院の惨状を見てからは、「これからは高台に住めば良い」など安易には発言もできなくなる。

そして、私は村井宮城県知事の漁業権を巡る発言に関して西川社長と、相当に突っ込んだ議論をした。最後は、ノルウェーの漁業資源保護の話まで行ったところで西川さんが私に言った。「ノルウェーの漁民が豊かなのは多額の補助金ですよ。ノルウェー政府は、漁民に大型の船を購入させて長い間漁に出れば報奨金を出すんです。漁民に沿岸警備をさせているんですね。ロシアの船が安易に領海に入って来れないようにです。そんな知識は三陸の漁民なら誰でも知っています。アメリカだって、欧州だって、先進国の農業や水産業は補助金なしでは成立しません。しかし、補助金を貰う側の漁民に、どういう役割を担わせて、国民から納得性を持たせるか、それが「政治」ですよ。」と述べられた。それを聞いた私はぐうの音も出ず、全く反論も出来なかった。