2011年4月 のアーカイブ

27 知らされないことへの恐怖

2011年4月27日 水曜日

ミュンヘン空港へ着くと、ANAの日本人職員から、ドイツ人の空港職員が日本から到着した航空機に近づくのを怖がっていることを聞いた。そのため、到着すると直ぐに機体の放射線チェックを行い、同時に乗客が預けた荷物も飛行機から持ち出す前にチェックしているとの事だった。確かに、バゲージ・カウンターで待っていると、先にクルーの荷物が出て来て、乗客の荷物は中々出てこない。多分、クルーの荷物は事前に放射線チェックが済んでいるのだろう。やはり、いつもと違う異様な光景である。

3月16日の福島原発1号機の水蒸気爆発を受けて、ルフトハンザはドイツから成田空港への直行便をやめ、韓国の仁川行きに変更した。今は、ようやく成田空港まで来るようになったが、最終到着地は相変わらず仁川である。つまり、フランクフルトー成田ー仁川という経路で毎日飛んでいる。ドイツ人乗員が福島原発に近い成田空港に宿泊するのを怖がっているからだ。ドイツは、三陸への救急援助隊も3月16日に本国に引き返す命令を出した。

ドイツは科学技術の先進国であり、何でも理詰めで行動するドイツ人はデマや流言飛語を信じたりする人達ではない。このミュンヘンに来て判ったことは、ドイツ人は、あのチェルノブイリの原発事故に対して異常なほどの恐怖心、すなわちトラウマを持っていることである。彼らは、別に日本や日本人に対して特別な偏見を持っているわけではなく、とにかく、あのチェルノブイリを思い出すと居ても立っても居られないのだ。その証拠に、ドイツでは、今もなおキノコとイノシシは食べないのだという。

しかし、ドイツからチェルノブイリは十分に距離がある、遠い彼方である。むしろ、ポーランドやチェコの方がドイツよりずっとチェルノブイリに近いのに、彼らはドイツ人のようなトラウマを持っているようには見えないという。何故なのか? さて、よく思い出してみよう。あのチェルノブイリ事故は未だベルリンの壁がしっかり存在していた東西冷戦時代の出来事であった。今は統一された東ドイツは、その冷戦の壁の東側にあった。

西ドイツが西側経済圏のリーダーであったように、東ドイツは東側経済圏の確固たるリーダーだった。当然、東ドイツは東欧諸国だけでなく、チェルノブイリがあったウクライナを含むソ連邦の各地まで活発なビジネスを行っていたに違いない。つまり、チェルノブイリは東ドイツの日常的な経済活動範囲の中にあったのだ。多分、東ドイツは、この事故で犠牲者を出したに違いない。しかし、当時の状況の中では、彼らは正しい情報を適切な時期に得ることが出来なかった。そのことこそが、ドイツ人のチェルノブイリに対するトラウマの本質であろう。そして、想像するに、このトラウマこそがベルリンの壁を破壊するエネルギーになったのかも知れない。だからこそ、ドイツは先進国の中で原発に対して最も厳しい国民となった。

そう考えると、この度の福島原発に関するドイツの一連の行動を理解する事が出来る。正しい情報を「知らされないことへの恐怖」が、未だに彼らのトラウマになっている。私たちは、チェルノブイリ事故を身近に自分の問題として体験したドイツの人々の考え方に学ばなくてはならないことが沢山ある。正しい情報とは、座して待っていれば自動的に得られるものではない。自らの目と耳と頭をフルに使って何が正しい情報かを見極めることが重要だ。さらに今回の福島原発事故では、「知らされないことへの恐怖」を自ら体得している中国の人々が日本から一斉に帰国したことも、多くの本質を物語っている。彼らは、自国の公式情報と同様に他国の公式情報をも信じてはいない。

26. 放射線による差別 

2011年4月22日 金曜日

何とも情けない話である。「福島県」ということに関わるだけで、放射線を理由に言われ無き差別を受けるなど絶対に許せない話である。何と言う無知。何と言う恥知らずであろう。こういう輩に言ってやりたい。「そういう貴方だって、海外に行けば「日本」というだけで言われなき差別を受けるのですよ!」と。現に、私は先週、上海虹橋空港の入国手続きの前に放射線チェックゲートを通された。もちろん、決められたことには素直に従うしかない。

何年か前に読売ジャイアンツを最後に引退した張本さんが、引退するまで「被爆者」であることを隠し続けていたと仰っていた。広島で被爆された張本さんが恐れたのは、やはり言われ無き差別であった。原爆とか放射能に対して正しい知識の乏しかった60年以上前のことだから、こうした庶民の無知から来る差別もあったのかも知れないと大変残念に思った。しかし、これだけTVや新聞で正しい知識が手に入る時代に、こうした差別行動にでるのは単なる無知では済まされない。これは、意図的な人権侵害、つまり犯罪である。

先日も、宇宙飛行士の山崎直子さんが、Twitterで、「私は、宇宙空間に7日間滞在し、合計20ミリシーベルトを被曝しました。宇宙で被曝した、この私を歓迎してくださった皆さん、どうか福島県の方々を差別しないでください」と発言をしていた。放射線というのは、もちろん十分注意しなければならないものではあるが、放射線のない空間など、この宇宙には存在しないのだということを、もっと皆で理解しなくてはならない。私に放射線治療を施して頂いた先生は、ある週刊誌で「日本の名医」に取り上げられていた。この先生が、「日本人には過度の放射線アレルギーがある。だいたい殺人光線だと思っている。このために、どれだけ多くの方が治るはずのガンで命を落とされたか、まことに残念です」と無念さを吐露していた。

私は、自分の前立腺の中に、ヨウ素125の小線源を永久挿入している。長さ20ミリくらいの針が50本ほど体内に入っている。今、騒がれているヨウ素131の半減期は8日、ヨウ素125の半減期はそれよりもっと長く60日である。それでも1年間でヨウ素125の線源から出る放射線は殆どゼロになる。このように言うと、例の無知なる差別主義者は、「お前は、何で、そんなことわかるのだ! まだ放射能が出ているかもしれないじゃないか?」と言われる節もあるかも知れない。

ところが、それがわかるのだ。実は、上海虹橋空港に設置してあった放射線検出装置は、この度の日本の福島原発事故で新たに設置されたものではない。私は退院したあとで、主治医から英語で記述されたヨウ素125の小線源挿入手術証明書を頂いた。日本で最初に、この手術をした医師は、入国手続きの時に放射能検出をしている国が世界で3ヶ国あることを教えてくれた。この3カ国とは、アメリカ、ロシア、中国である。しかし、手術後、6ヶ月も経てば、この証明書は不要になるとも仰った。手術後、3ヶ月で海外出張を始めた私は、先生が言われたとおり、見事にアメリカと中国で引っ掛かった。中国で引っ掛かったのは北京である。別室に案内された私は、ちょっと不安な面持ちで、例の手術証明書を提出した。なぜ、不安かと言えば、中国の入国審査官が英語を理解できるか心配だったからである。しかし、この心配は全くの徒労に終わった。彼らは、こうした書類を沢山見慣れていたのだった。つまり、この手術をしている患者が既に多数中国に入国しているということである。私は書類を見せた後、直ぐに開放された。

次は、アメリカのサンフランシスコである。私の入国審査の時に、審査官の腰にある計器が鳴りはじめた。多分放射線検出カウンターであろう。しかし、この審査官は、何が起きたのか、よく理解出来ないようだった。一生懸命リセットしようとしているが計器が鳴り止まない。私は、少しお節介だと思ったが、手術証明を見せて、「計器が鳴っているのは、このためだ」と審査官に教えた。審査官は、直ぐに、何が起きたのかを理解した。そして、私に対して「貴方は、米国の入国審査で、こういう検査をしていることを一体誰から聞いた?」と厳しい顔で問い詰める。私は正直に、「この証明書を書いた医師から聞きました」と答えると、審査官は、「確かに、それはそうだろう」と納得した顔で入国を許可してくれた。

私の貴重な体験は、この2回だけで終わった。その後、ロシアには行っていないし、アメリカと中国も6ヶ月経ってから入国したからだ。大体、放射能が怖いのは外部被曝ではなく内部被曝である。食物や水は注意するにこしたことはない。しかし、外部被曝については、それほど神経質になることはないように思われる。今、立ち入り禁止区域に指定されている放射線量は20-100ミリシーベルトである。人間は50シーベルトを全身に浴びると即死するそうだ。だから致死量の500分の一以下ということなのだろう。さて、山崎直子さんは1週間で20ミリシーベルト被曝されたという。そうすると15週間の長期にわたって宇宙に滞在された若田光一さんは、総被曝量は300ミリシーベルトにもなるはずだ。やはり、宇宙飛行士というのは凄い。まさに人類の英雄である。

ところで、私がヨウ素125小線源挿入に加えて、25日間にわたって毎日、外部放射された放射線の量は、一体どんなものだったのだろうか? ちょっと調べてみたくなった。やはり、知らないというのは恐ろしいものである。私が25日間に浴びた総放射線量は50シーベルトに及ぶのだという。50ミリシーベルトではない。50シーベルトである。それって即死する致死量じゃあないの? と不思議に思ったが。どうも正しいらしい。全身に浴びると人間の致死量になるのだが、局部に絞り込むと「ガン」という難病の治療に役立つのだという。このことを知って「それだけ放射線を浴びせれば、そりゃガンも死ぬわな」と私は思った。人類を含む生物は、皆、生まれてから長い間、放射線と共存をしてきた。だから、我々はもっと放射線に関してよく勉強し、正しく警戒し、正しく利用していかなければならない。ましてや、放射線に対する無知から被災者を差別することなど、もってのほかである。

25.初めての南京訪問で学んだこと 

2011年4月21日 木曜日

昨年は6回、中国を訪問。これまで何十回も中国に来ているのに、南京は初めてだった。やはり上海から、ちょっと遠くて大変だという認識だった。それが、どうだろう。羽田から上海虹橋まで2時間のフライト。虹橋から南京までは新幹線に乗りノンストップで1時間15分。本当に近くなった。こうして中国全土に新幹線が張り巡らされたら中国はさらに大きく成長するに違いない。

それにしても、この上海虹橋の新幹線の駅の大きさはなんだろう。大きさでは世界最大の駅だという。中国と言う国は限界を知らない。北京空港のターミナルも4,000メートルで、滑走路と同じ長さを誇る。中国では、何でもかんでも大きくて全てが世界一だ。一方で、あまりに大きすぎて便利さが遠のくのも問題だ。

昨年は、上海万博に二回を含めて、この上海虹橋空港には三回も来たが、もっと空が青かったような気がしたが、やはり万博後は大気汚染が酷くなったという。万博の期間中は、大気を綺麗に保つために、いろいろ規制もあったようだ。それでも、万博前よりは空気は少し綺麗になったような気がしないでもない。

しかし、4月なのに南京は既に暑い。もう30度近くあるようだ。本当の夏は40度にもなるという。そして、冬は雪が積もるというから、1年の寒暖の差は結構厳しいようだ。古い歴史を誇るという意味でも、南京は丁度、日本の京都に似ているのかも知れない。その南京が誇る中国全国区の大学である南京大学も、日本で言うと、まさに京都大学だ。その南京大学と富士通の合弁会社で講演をするために、今回、南京を訪れた。やはり、優秀な人たちを前に講演するのは緊張する。150人ほどの中国人社員を前に日本語で講演をした。本当に理解して頂いているか不安だったので、時々ジョークを入れたが、見事に素早く反応されたので安心した。やはり、ソフトウエア開発というのは言語能力に優れた人たちに向いているのだろう。

翌日は、南京から車を2時間ほど走らせて、隣の安徽省まで行き、奇瑞汽車の工場見学をさせて頂いた。おりしも、上海モーターショーを翌日に控えて、幹部は皆、上海にご出張中という多忙な時期にも関わらず、ご対応頂いたことに感謝する。一番、感動したのは、奇瑞のベストセラーであるQQという名のコンパクトカーだ。とにかく可愛らしい。排気量は800CCだから日本で言えば軽自動車である。価格は25,000元。今、円高だから、1元は12円である。つまり30万円で買える車なのだ。インド、TATA自動車のNanoが25万円で、あれだけ騒がれたが、このQQはNanoより遥かに実力がある。4ドアで、サイドミラーだって、ちゃんと二つ付いている。クラッチはマニュアルだが、自動車として最低限必要なものは全て付いている。凄い。だから売れるのだ。そして組み立てラインは、床が動くだけで、あとは何もない。何の設備も自動機もない。

とにかく、幾らでも売れるらしい。これだけのコストを実現するのだから、当然、部品は全て中国国内調達である。そのはずだった。ところが、この度の東日本大震災の影響を、この奇瑞汽車も受けてしまった。奇瑞が発注した中国の部品ベンダーが一部の部品を日本から調達していたのだ。これほど安価な自動車ですら日本製の部品に依存していたのだ。それには奇瑞ですら驚いた。トータルで、たった4つの小さな部品。それが手に入らなくて来月は操業が停まる。彼らは、これを「Made in Japanリスク」と呼ぶ。まさに東日本が世界のサプライチェーンに大きな貢献をしてきたことが判る。この度の大震災の復興にて、この世界から得た信頼をいち早く取り戻さないと大変なことになる。一度、失った信頼は二度と取り戻せないからだ。

これまでに日本の信頼性に関する議論は事故を起こさない「予防措置」に重点が置かれてきた。しかし事故は必ず起きる。これから重要なことは「事故は必ず起きる」、「部品は必ず故障する」、「設計ミスは必ずある」という前提で、いかに「人の命を守る」、「製品の供給を守る」ことを考えなくてはならないだろう。安徽省から南京に戻る高速道路を走る車の窓から、中国特有の頑丈な携帯電話の地上局アンテナが一定間隔で立っているのが目に入る。必ず、2本か、3本同じ場所に立っている。通信方式が異なる携帯電話会社のアンテナ群である。国を守るインフラは「冗長」であることに意味があるのだと中国が教えてくれる。効率だけを追求していたら必ず大きな失敗に遭うのだと中国が我々に教えてくれている。