2011年4月 のアーカイブ

30 初めてのローマ

2011年4月29日 金曜日

世界中をくまなく歩いているような気もするが、私にとってローマは初めての街である。それも、そのはずで大体世界を歩いているのは商売のためだったが、イタリアでは本社から直接応援に行くほどの規模の大商談が私の時代にはなかったからかも知れない。一昨日の夕方、ローマ空港に着きホテルでチェックインを済ませると、まず一番に向かったのはバチカン市国のサンピエトロ大聖堂である。日本で日曜日のイースターのミサに出て、東日本大震災で亡くなられた方々へのお祈りをするとともに、僅かばかり義援金を神父様から仙台の教会宛に送って頂いた。翌、月曜日に成田を出て、ミュンヘン経由で、一昨日の水曜日に、ようやく憧れのサンピエトロ大聖堂に着くことができた。やはり、凄い。さすがはカトリックの大本山である。サンピエトロ大聖堂が、今の姿になったのは江戸時代の初期だというから1,000年以上も建築を続けたのであろう。何もかも圧倒される。ここで、大震災で犠牲になられた方々に、お祈りできたことは何よりも良かった。

今週の日曜日、5月1日には、このサンピエトロ大聖堂で故ヨハネパウロ二世の列福式が行われるので、世界中から200万人の信者がミサに参列するのだという。それだけ沢山の信者が集まるのも、やはり世界の平和に貢献されたヨハネパウロ二世の人徳であろうか。そのため、この数日間は、ローマのホテルは全て一杯だという。私たちが泊まっているサンピエトロ大聖堂を見下ろせる丘の上に建つカバリエホテルに何とか泊まれるのも、日・EUビジネス円卓会議のために1年前から予約して頂いたローマ市とイタリア政府及びEU政府の方々のお陰である。さて、この列福式とは、聖人になる前の位である福者に推挙される儀式だという。聖職者でない一般人は生存中に何か一つ奇跡を起こさないと福者には成れないのだが、法王はしっかりとした業績を残されれば奇跡を起こさなくても福者にはなれるのだそうだ。

サンピエトロ大聖堂に参拝した、ご利益のせいか、今年の日・EUビジネス円卓会議の様子は例年とは大分違う。5年前から参加していて、その違いがよくわかる。単に、この度の東日本大震災に同情しているという単純な理由ではない。EUの日本政府代表部、丸山大使の説明に依れば、それはEU側の変化だという。特に、2009年12月に発効したリスボン条約はEUを政治的に統合する挑戦的な試みであり、そう簡単にはうまく行かないだろうと言うのが大方の見方だった。しかし、リーマンショック以降の欧州の金融危機、さらにはギリシャ、アイルランド、ポルトガルと立て続けに起きる財政破綻の危機で、各国は、もはや単独で、この難局を乗り切れないと覚悟した。もともとEUに加盟できる基準である、GDP比率で3パーセント以下の財政赤字を守っている国は、EUの17カ国中、3カ国しかなくなった。

そして、もっと大きな変化はEU域内における地政学的な変化である。EUを支えているのはユーロという共通通貨の存在である。EU域内に為替リスクが無くなったことが、EUの目覚ましい繁栄を支えてきた。そして、そのユーロが、それだけ安定した通貨価値を保てたのはドイツのお陰である。そう、ユーロ=マルクなのだ。だから、英国はユーロには参加しなかった。栄光あるスターリング・ポンドをマルクに埋没させたくなかったからである。リーマンショック以降、ユーロが危機に瀕した時にユーロに参加しなかった英国の見識が評価されたが、今、そういうことを論じる人はいない。むしろ、ユーロが安くなったことで、ドイツが未曾有の好景気に湧き、相変わらず金融業に代わるリアルエコノミーを見出せない英国とは大きな差を付けてしまった。ミュンヘンで富士通の欧州大陸本社で聞いた話では、未曾有の好景気で全ての価格が上がっていると言う。ICT機器も、その恩恵を受けて好調な業績を上げている。少なくとも私の40年間の経験で、IT機器の価格が上がるなど想像だに出来なかった。

特に、ドイツの好景気の要因は自動車産業である。中国に行けば、その理由が良くわかる。企業人でお金を儲けた人は例外なくメルセデスのS500、S600といった最高級車を買う。そして、政府要人は決まってAUDIの最高級車を買う。ドイツの高級車はドイツ国内でしか生産をしていない。大体、価格が安くなることは、新興国での富裕層向けのドイツ車としての意味がない。従って、高揚した中国経済の恩恵を最も受けているのがドイツ国民である。ユーロ安で輸入品の値段が上がっても給与水準が上がれば相殺するので、全く問題が無い。便乗してICT機器まで値上げをさせてもらっているというわけだ。この好循環で、ドイツは未曾有の好景気となっている。しかし、そのことがEU域内での各国の関係を微妙に変化させている。つまり、従来、ユーロ圏の外にいた英国はEU加盟国でありながら、他所者であった。ところが、リスボン条約発効後は、英国とフランスが蜜月関係になってEUの支配権をとりそうな雰囲気である。ドイツだけが一人勝ちで、EU域内での仲間外れになりつつある。この度のリビアのカダフィ攻撃もドイツの反対でEUが一枚岩に成れなかった。

従来の、日・EU BRT(ビジネス円卓会議)は、いつも最後はドイツの自動車連盟の横車で、それまでの議論がたち消えになってきた。しかし、ドイツは誰が見てもEUの盟主である。ドイツがEUから脱退したら、ユーロは吹けば飛ぶような弱体の通貨になってしまう。だから、皆、多少疑問を感じながらドイツの言うことには従わざるを得なかった。それが、今、変化の兆しを見せている。なぜなら、今回の日・EU BRTの前に、英国と北欧、フランスは、共同で、EU政府に対して、日本との経済関係を前向きに見直すよう勧告を出している。そして、考えてみれば、フランスとイタリアは先進国の中で数少ない日本への輸出超過国である。彼らは、もっと日本への輸出を増やしたい。つまり、日本との経済連携にチャンスを見いだせると思っているのだ。日本との経済連携協定は何の国益にもならないとするドイツとは大きな違いである。

フランスは、今年、G8、G20の主催国である。しかし、福島第一原発事故の直後に来日したフランスのサルコジ大統領のリスクを取る覚悟は日本では好感を持たれている。自国が原発大国であるというリスクもさることながら、福島第一原発事故終息支援に向けて、今ひとつ腰が引けている米国の代わりに、フランスが数千億円かかると言われている廃炉処理に国家的事業として乗り出すビジネスチャンスだと考えているに違いない。やはり頼もしい大統領である。そうした、いろいろな情勢の変化の中で、従来通り、日本とは疎遠な関係を保ちたいドイツの意向は、もはやEUの主流ではなくなりつつあるのかも知れない。私も、5年間、この日・EU BRTに関わり続けたかいがあったという思いである。しかし、油断は禁物である。日本とEUとのEIA(経済統合協定)で最大の難関は、実は農業の関税問題ではない。彼らが最大の非関税障壁として取り上げているのは、日本の巨大な国営金融機関、即ち『郵貯』と『カンポ』の存在である。

29 ドイツ博物館

2011年4月28日 木曜日

ミュンヘンには、これまで数十回来ているのに、このドイツ博物館には一度も来たことがなかった。恥ずかしながら、私は、この度、初めて訪れたのだが、科学技術の博物館としては世界一だという。丁度、イースター休暇で、子供達で満員だったが、このように子供が展示の全てを見るには数日を要するという。ドイツでも、子供達の理科離れが深刻なので、学校の教師や教育熱心な親たちが、このように子供を連れて来るのだという。ドイツの子供達は幸せだ。日本にも、こうした博物館があったら良いのにと思うのは私だけだろうか。そして、この博物館は、子供達だけでなく、大人でも面白い。私は、時間がなかったので、船と飛行機とロケットのコーナを集中的に見せて頂いた。

まず、最初に見たのは第二次世界大戦で世界中を恐怖に陥れたドイツの潜水艦、Uボートである。実物が展示してあったのだが、想像していたより遥かに大きい。こうして実物が展示してあるところが凄い。錆びてボロボロになっているところもあるが、そこがまた迫力がある。こんな粗末な設備の潜水艦で長い間水中に潜っていたのだと、また感慨に浸る。次は、同じく第二次世界大戦でロンドンを空襲したV2ロケットである。これも、こんなに大きかったのだとビックリした。そして、そのV2の隣に展示されているのがV2の前身であるV1ロケットである。何とV1の羽根は木製だった。重量の都合で木材を使わざるを得なかったのだろうが、こんな稚拙なものから、巨大なV2ロケットまで短期間に随分進歩したものである。そのV2ですら、飛行距離がたった300キロしかなかったので、オランダまで運んで、ロンドンまで飛ばしたらしい。ドイツ国内から直接攻撃できる力は未だ備わってなかったのだ。

最後に見たのは、同じく第二次世界大戦で使われた名戦闘機メッサーシュミットである。そして、その横に置いてあったのが、量産直前に敗戦となり世に出ることがなかった、メッサーシュミットのジェットエンジン版であった。凄い。このジェットエンジン版のメッサーシュミットから見たらプロペラ機のメッサーシュミットはおもちゃの様に小さくて可愛いものに見える。多分、ジェットエンジン搭載のメッサーシュミットは、たった1機でも、敵のプロペラ戦闘機、数十機を瞬時に撃墜したことだろう。この2機の戦闘機を並べて見て見ると全く対等な喧嘩にはなりようがないことが直ぐにわかる。

第二次世界大戦末期のドイツは核兵器も実用化寸前にあった。あと2、3年戦争の集結が長引いたら、ドイツは、その核兵器をUボート、V2ロケット、ジェットエンジン搭載のメッサーシュミットに搭載していたに違いない。これでは誰もドイツには敵わない、アメリカでさえもドイツを負かすことは容易ではなかっただろう。少なくとも、そう思わせる。この博物館は、単にドイツの科学技術の歴史を展示しているだけではないようだ。「ドイツは先の戦争に負けたけれども、ドイツの科学技術は世界水準を遥かに凌駕していたんだ」と子供達に鼓舞しているようにも見える。一方で、「これ程進んでいた科学技術を戦争とは別な方面に使っていたらドイツはもっと豊かな国に成れた」とも言っているようにも見える。

そして、私は考えた。Uボート、V2ロケット、ジェット戦闘機、こうしたイノベーションを生み出したものは、やはり戦争だったのではないかと。天文学的な賠償金を背負わされ欧米各国から追い詰められたドイツが、どうしようもない窮地から抜け出すために必死で考え付いたイノベーションの数々ではなかったかと。もし、ドイツが第二次世界大戦で生み出した数多くのイノベーションの引き金になったものが追い詰められた窮状だったとすれば、今の日本の追い詰められた状況こそが、21世紀の人類を救うイノベーションを生み出す、その土壌になるはずだとは思わないか。

28 3年ぶりのミュンヘン

2011年4月27日 水曜日

3年ぶりにミュンヘンにやって来た。相変わらず美しい街である。私は富士通とSiemensとの合弁会社として1999年に設立された富士通シーメンスコンピューターのボードメンバーとして毎年最低4回はこの地を訪れていた。2009年以降は、富士通の100%子会社となり富士通の欧州大陸を統括する地域本社となっている。今回、ローマで行われる日・EUビジネスラウンドテーブルに参加する前に、久しぶりに、この会社を訪問し、沈滞している欧州全体を覆う不況をよそに好景気に湧いているドイツ経済と欧州市場の今後の話を聞きに来た。

私が、このミュンヘンに頻繁に来るようになったのはアメリカから日本に帰任した2001年以降である。当然、この地に本社を構えるSiemensのTOP Executiveの方たちとも何度も会話をさせて頂く機会があった。ドイツには電機会社はSiemens 1社しかない。だから、このSiemensは、ドイツの本当の上澄みだけしか入社出来ないという超エリート集団である。そこでさらに選ばれExecutiveであるから、こういう方々から、いろいろな話を聞くことは大変勉強になった。

私が最初にお会いしたSiemensのCEOはフォン・ピエール氏だった。物静かな紳士で常に大局的な思考をされる立派な方だった。あの忌わしい事件がなければドイツの大統領になっていただろうと言われていたが、まさに誰が見てもドイツの大統領に相応しい方だった。ところで、あの忌わしい事件とは、Siemensが通信機器ビジネスで新興国の政権に賄賂を送ったとされる疑惑事件である。相手国との外交上の問題もあってか、未だに真相は良く解らない。結果は、ドイツ国内法に基づき、Siemensの関係役員が逮捕され、会長に退いていたピエールさんと、ピエールさんの後継CEOに就任していたクラインフェルト氏が共にSiemensから去ることになった。

そのクラインフェルト氏にも何度かお会いしたが、ピエールさんとは全く異なるタイプの経営者で、一見アメリカ人に見える若獅子だった。クラインフェルト氏は、Siemens本社のCEOに就任する前、Siemens USのCEOとして、それまで低迷していたSiemens USをSiemens Europe以上の規模の会社に成長させるなど目覚ましい業績を挙げた。彼は、入社以来、一度もSiemensの通信事業には関わったことはなく、しかも事件が起きたとされる時期にはアメリカに居たのだ。それでも、事件の収束のためにCEOとして辞任させられたことは全くもって納得が行かなかったに違いない。

それでも、クラインフェルト氏は、この件に関して、退任時に一切のコメントをしなかった。そして、その半年後、将来のCEO就任含みで、今を時めくアルミメジャーであるアルコアの副社長に就任した。もちろん、現在は立派なアルコアのCEOである。スイスのダボス会議や、中国で行われるサマーダボス会議の常連でもあり、資源メジャーの帝王として、会場を颯爽と闊歩する姿は惚れ惚れするばかりである。そのクラインフェルト氏の後を引き継いだのは、当時、アメリカ最大の製薬会社であるメルクの副社長であったレッヒャー氏だった。

レッヒャー氏は、Siemensには在籍したこともなく、また、これまで一度もCEOの経験がなかったので、本当に世界のSiemensを率いることが出来るのかという懸念も業界にはあったと聞いている。レッヒャー氏は、メルクの日本支社長として日本に滞在したこともあるので、日本の製薬業界には知己が多い。そのレッヒャー氏が、今、Siemensを再興した名経営者として、いろいろな雑誌に取り上げられている。つい、最近、Siemensに最後まで残っていたICT部門であるソフトウエア&ITサービス部門をフランスのIT企業であるATOS社に売却したことを評価された結果でもある。レッヒャー氏は、GEに在籍した経験からGEのようにオープンな会社にすることを目指すと共に、今後SiemensがGEを圧倒的に凌駕することを最終目標としている。

私が関わるようになってからのSiemensの歴史は、ICT関連事業からの撤退の歴史だった。まず、最初は半導体事業のスピンオフである。インフィニオンと名を変えてSiemensから独立してからも、しばらくはDRAMの世界的なメーカーであり続けるほどの巨大な事業規模だった。次に、分離対象になったのは携帯電話事業である。一時は世界第三位のシェアを誇り、スペインのプレミアリーグで活躍するレアルマドリードのユニフォームにもSiemens Mobileの広告を出すほどだった。台湾のBENーQとの合弁を設立後、最終的には事業清算をした。その次がコンピューター製品事業である。富士通との合弁設立後、2009年には富士通に完全譲渡した。このコンピューター事業部門には、かつての名門ニクスドルフ・コンピューターも含まれている。あのダボス会議の創立者である クラウス・シュワブ教授も、「私の最初の職場はニクスドルフでした」と私に誇らしく語った。その次が、Siemens創業の生業でもある通信機器事業である。Siemens本体から分離し、NOKIAとの合弁会社を設立したが、今は支配権をNOKIAが掌握している実態はNOKIAの会社である。

その後を引き継いだ、レッヒャー氏は、過去の歴史を全く意に介さず、3万人以上の従業員を抱えるソフトウエア&ITサービス部門をフランスのIT企業に売却し、SiemensにおけるICT関連事業からの完全撤退を整えた。Siemensは、レッヒャーCEOのもと、以下の3部門に経営資源の全てを投入しGEと真っ向勝負で戦い挑んでいる。その第一は水とエネルギー、第二は医療、そして第三は産業機器と鉄道である。非常にわかりやすい。世界は、このレッヒャー氏の思い切った経営戦略と、その結果としての業績向上に大きな賞賛を与えている。

レッヒャー氏は、CEOに就任後、役員全員とミドルマネージメント層の半数を入れ替えたと言われている。こうした新生Siemensの戦略は非常にダイナミックである。100年続いた会社を、さらにもう100年持続させようとするには、こうしたダイナミックな会社経営が必要なのかも知れない。このように10年近く、大きく変貌を遂げたSiemensの歴史を間近に見続けることが出来たことは、私にとって本当に幸せであった。