2011年3月 のアーカイブ

10.コミュニティーの大切さ  

2011年3月27日 日曜日

津波や原発の被災者たちが集団移転を開始した。数十年に一度は必ず襲われる津波の恐ろしさを誰よりも熟知している三陸の人たちが故郷を離れなかったのは風光明媚な三陸海岸の景色のためだけではない。皆、津波の恐ろしさ以上に、コミュニティーの大切さを理解していたからだ。今回、各自治体が、こぞって被災地の住民に対して集団移転の受け入れを表明しているのは素晴らしいことである。住民にとって命より大事なコミュニティーの連帯が保存されれば、皆で力を合わせて再び故郷の再建に取り組むことができる。日本は災害大国である。こうして、日本各地の自治体が相互に連帯して助け合うことが出来れば、これほど素晴らしいコミュニティーの連合体は世界中どこを探しても見つからないだろう。

経済中心の社会が見直しを迫られている中で、今、「コミュニティー」が持つ本質的な価値に注目が集まっている。昨年、鈴木寛文科副大臣から熱のこもった「コミュニティー・スクール」の話を伺った。鈴木副大臣は、元々、経済産業省の出身で産業振興が本職であったが、これからは人材育成こそが、国の繁栄の鍵だとの信念から教育分野に政治生命をかけている。特に英国で始められた「コミュニティー・スクール」を東京から全国に広めることに尽くされてきた。せっかくなので、ここで「コミュニティー・スクール」の概要を紹介したい。

鈴木副大臣の話によると、今の学校は、ほんの少数のおかしな教師と、ほんの少しのモンスター・ペアレントで学校全体が掻き回されているのだという。教育に対して情熱を持った大多数の教師たちと、常識をわきまえた多くの立派な父兄達が、この擾乱に対して全く無力だった。これを救ったのが学校周辺に住む人たちで構成される「コミュニティー・スクール」の応援団だ。教師でも父兄でもない第三者が紛争の調整機能を持つ事で、学校運営は世間の常識の範囲で行われるようになると言う。それだけではない。今、地域にはリタイアをした後でも未だ未だ健康な方々が沢山おられて、「コミュニティースクール」では学校教育の中味にまで参加している。例えばインターネットで、ある小学校の教室で「分数」の時間で個人授業の先生を10人募集すると、その5倍以上の応募があり、むしろ選抜に苦労するのだという。まさにコミュニティーの力である。

もう一つ、コミュニティーの話をしたい。それはイタリアである。イタリアは、もう20年以上も前に精神病院を廃止した。アルコールや麻薬の依存症患者、心の病を持った人達を、イタリアでは地域コミュニティーの力で治癒していく。日本でも政府は精神医療に年間2兆円近くを支出しているが、イタリアのように地域と共に患者に優しい治療をコミュニティーの事業として有効に使っていくことも一考の余地があるのかもしれない。

話は変わるが、今、Facebookの勢いはGoogleを大きく凌いでいる。一体、Facebookの何処に勝因があるのだろうか?よく言われていることは、左脳のGoogle、右脳のFacebookということだ。数学が得意なエンジニアが創業したGoogleは統計数字こそが全てのビジネスモデルであった。世界中で一番注目されている情報、日本で一番関心がある情報をGoogleは直ぐに教えてくれる。事実こそが全ての真実であり、それを一番顕著に示しているのが統計情報だというわけだ。一方、Facebookは、単に数字が積算された統計情報よりも「人と人との繋がり」である「コミュニティー」にこそ本質的な価値があるという。つまり、全世界でいかに多くの人達が「いいね!」という事よりも、自分の仲間達、つまり自分の属する「コミュニティー」で自分の大事な友達が「いいね!」と言ってくれる方が、より大きな価値があると思っているからだ。私たちは、もっと「コミュニティー」が持つ大きな力や価値に注目する必要があるだろう。

9.放射線の話  

2011年3月25日 金曜日

東京都の水道水が放射能汚染されているというニュースが流れて大騒ぎになった。今日は、だいぶ下がってもう安全宣言がされているので一安心だが、天気予報は今夕から雨と言っており、また少し値が上昇するかも知れない。とにかく放射線は、目に見えないから、余計に、その恐怖心を煽ることになる。毎日、行われている枝野官房長官の記者会見は、外国人記者が翻訳できなくて苦しんでいるそうだ。日本語で聞いている我々も、安全なのか、そうでないのか判らない話し方だから、Yes/Noが日本語より明確な外国語に翻訳するのはさぞかし大変なことだろう。

だいぶ前に医者をしている弟から「レントゲン検査を受けてガンが見つかる可能性より放射線被曝でガンになる可能性の方が、ひょっとしたら高いかも知れないよ。もっとも、どちらも極めて低い確率だけどね。とにかく胸のレントゲン検査は毎年やらないほうが良いと思う。」と言われてショックだったことがある。それでも、私は未だに胸のレントゲン検査を毎年受けている。「今更、そんなことを言われたって」という思いからだ。しかし、少しは弟の助言を参考にして胃のバリウム透視は避けて胃カメラの方を選択している。

3年前に、前立腺ガンが見つかったときに、主治医から「あなたは人一倍、飛行機に乗っていたからね。」と言われた。確かに一番忙しいときは1年に30万マイル近く飛んだ。累積マイル数でもアメリカンとJALでは既に100万マイルを越え、ANAを含むStar Allianceでも、もう50万マイル近くになっているはずだ。最近、よく比較に出されるが、飛行機では成層圏でかなりの量を被曝するという。「それに比べれば、今、検出された、この放射線量は全く安全だ」と言う意味だろう。しかし、私は、この成層圏被曝を事前に知らされていたとしても、飛行機に乗って外国へ行く回数を減らしたとは思えない。多くの見知らぬ国に行って、多くの人と会い、いろいろな事を学ぶことは被曝のリスク以上に多くのメリットがあるからだ。

広島と長崎で原爆の体験を持つ日本人は、放射線に対して過剰なアレルギーを持っていると言われている。もちろん、放射線に対して、十分に注意することは良いことなので、アレルギーとも何とも言われようと気にする必要はないように思える。ところが、話は、そう簡単ではない。例えば、ガン治療の話である。私もガンを宣告されてから、多くの専門書を読み、インターネットでも調べて、また専門医によるセカンド・オピニオン、サード・オピニオンも聞いた。最終的に導き出した結論は、「私にとって最良の治療方法は放射線」ということだった。このことは、ガン治療の先進国であるアメリカでは当たり前のことらしいが、日本での放射線治療率はアメリカの約半分である。私が放射線治療を施して頂いていた医師は「日本人は放射線を殺人光線だと思っていますからね」と困った顔をして言う。とくに、最近のガン治療は、本人告知が前提で治療方法も最終的には本人が選択する。このときに、日本人特有の放射線アレルギーから来る正確でない知識に妨げられて、せっかくの治癒機会を失っていくのは勿体ない。

この混乱の中で、我々は冷静に判断し行動することが迫られる。乳幼児や子供と、私のような高齢者と、どちらを、どのように優先順位付けすべきかは明白だ。政府は真実を全てリアルタイムに公開してほしい。それを参考にして避難すべきかどうかを判断するのは市民自身である。

8.後藤新平 待望論   

2011年3月24日 木曜日

未曾有の大災害である東北関東大震災の復旧に際して、関東大震災で壊滅的打撃を受けた東京市の復興に粉骨砕身した後藤新平に再び登場してもらえないだろうかという熱い期待が各方面で上がっている。さて、どうして、今、後藤新平なのだろうか? そのユニークな発想と有り余るほどの才能を持ちながら、あと一歩のところで総理大臣には成れなかった後藤新平。「ほらふき」、「大風呂敷」、「中二階」との悪評もありながら、何故、今、後藤新平なのだろうか?

後藤が、総理大臣になれなかったのは、長く院政を敷いていた西園寺公望に迎合しなかったからだとか、薩長が大勢を占める当時の支配階級の中で、後藤が東北の賊軍の支配下の生まれだからだとか、同郷で一つ違いの平民宰相、原敬から妙な牽制をされたからだとか、いろいろな理由を言われるのは、後藤が総理大臣になっても全くおかしくない華麗な経歴と輝かしい功績を残して来たからでもある。

後藤新平は、岩手県奥州市(旧水沢市)の生まれで、今回の大災害の被災地の大半を占める東北地方が誇る日本の巨星でもあった。そして、水沢と言えば、小沢元民主党代表の地元でもある。昨年、私が講演のため盛岡を訪れたときに、「もし小沢元代表が総理大臣になっていたら、岩手県は山口県(長州)と同じ数の総理大臣を輩出したことで、ともに総理大臣輩出者数日本一の栄誉に輝いたはずだ」というのである。だとすれば、後藤新平と小沢一郎が共に総理大臣になっていれば、岩手県は山口県を抜いて日本一となっていたのかも知れない。明治維新で賊軍というハンディキャップを背負っての、この岩手県の健闘ぶりは、東北には綺羅星のような人材がいかに豊富に居るかという証でもあろう。

ちなみに、後藤新平の経歴を羅列すると、次のようになる。1857 岩手県水沢市生まれ、1875 福島県須賀川医学校卒、1879 愛知病院長、1892 内務省衛生局長、1898 台湾総督府民生局長、1906 満鉄総裁、1908 逓信大臣、鉄道院総裁、1916 内務大臣、1918 外務大臣、1920 東京市長、1923 4月に東京市長を辞職後、9月1日関東大震災が起こる。翌9月2日に内務大臣に就任。9月29日には内務大臣のまま帝都復興院総裁を兼務。10月には、後藤の復興案が否決。12月に内閣総辞職。1924 東京放送局(現NHK)初代総裁と言った具合である。この経歴をよく眺めてみると、これは、いわゆる政争に明け暮れる「政治家」の経歴ではない。その仕事の内容は、医師、衛生管理、都市設計、鉄道設計と、まさに高度なテクノクラートの経歴である。 

もう一つ、この年表を見て判ることは、関東大震災が起きた当時の山本権兵衛総理大臣は、地震発生の翌日に、東京市長を辞職した後藤新平を震災復興のための総責任者として内務大臣に任命している。まさに電光石火の早さである。そして同じ9月中に東京市の復興専任組織である帝都復興院を創設し、後藤新平を内務大臣兼務のまま初代総裁に就任させている。中央の権力を保持させたまま、東京市復興の現場監督をやらせているのだ。

さて、この未曾有の大災害の復興に際して、内務大臣から外務大臣まで内閣の要職を勤め上げて、一度は政界の花道から退いた後藤新平に、なぜ山本総理は全権を委嘱したのだろうか? それは台湾総督府において後藤が行った都市設計・産業振興の功績である。

欧米の列強は、日本が台湾を植民地にしたものの、永年鎖国を続けた結果として熱帯特有の伝染病に対して免疫を持たない日本人が台湾に上陸した途端に、コレラや赤痢でバタバタと死に、たちまち日本に逃げ帰るだろうと考えていた。ところが後藤が台湾に赴任して最初に行ったことは、日本から派遣されていた法学士の官僚を全て日本に帰還させたことだった。代わりに台湾総督府の役人を医師、建築士、土木技師、機械技師、電気技師と言ったテクノクラートへと総入れ替えを行った。そして、後藤自身、医師であり、衛生局長だった知見を活かして、首都台北に当時の東京を凌ぐ高度な上下水道を完備した。

そして、台湾で後藤が行ったことは都市設計だけではなかった、サトウキビの増産施策と現地での精糖工場の建設だった。その結果、台湾は日本の植民地の中でも群を抜く豊かで清潔な地域となった。後藤は、この功績を買われて日本では未経験の広軌の満州鉄道建設を任される。また、そこでも大成功を収めて初代鉄道院総裁として日本国内の鉄道建設をも任されるのである。

その後藤が、なぜ東京市再建の途中で失脚したのか?である。後藤の東京再建計画は壮大なもので、総工費は、当時の日本の国家予算にも匹敵するものだったという。後藤は、東京に世界の首都で初めて環状道路を建設する計画を立てた。それが、現在の環状1号線から8号線までの道路である。しかし、現在に至るまでに後藤の計画どおりに最後まで完成したのは環状7号線だけである。後藤の考えに一番共鳴していた昭和天皇は、「もし東京が後藤の計画どおりに作られていたら、東京大空襲で、あれだけの多くの犠牲者を出さずに済んだ。」と大変残念がられたそうである。

そんな素晴らしい計画が、なぜ頓挫したかである。総工費がかかりすぎたのか? だから「大風呂敷」とか、「ほらふき」と言う悪評が浴びせられたのだろうか? 私は、そうは思わない。後藤は、東京を全く新しい都市に作り変えるために、個人の私権を制限しようとしていたのだった。つまり、欧米並みに個人に土地の所有権を認めない、つまり使用権に留めることを画策していたらしいのだ。これで、既得権を持つ人々の顰蹙を買い失脚させられたのだと思われる。これで、東京は世界に類をみない近代都市に生まれ変わる機会を阻害された。この教訓は、これから東北関東大震災の復興計画に活かしていかなければならないだろう。後藤新平 待望論は、そこまで含んでの期待があるのかも知れない。