143 ハルビン旅行記 (その2)

2012年5月23日

731部隊跡地資料館を見学して、相当に落ち込んだ後、重工業都市ハルビンが誇るハルビン電機グル―プ傘下のタービン工場を見学した。工場と言っても、このタービン製造の工場敷地の景観はまるで大学のキャンパスのように美しい。工場建屋間には広い道路が縦横に走っており道路の両側には街路樹が整然と植えられている。「どうして、この工場は、こんなに綺麗なんですか?」という私の質問に対して、タービン工場幹部は「ソ連が自国のタービン工場と全く同じものを、ここハルビンに建設したんですよ」と答えた。そうなのだ。ソ連国境に接する、ここハルビンの町は、ソ連が中国の近代化を支援する最初の入口となったのだ。

私は、タービンの製造工場を初めて見た。一般的に加工工場は、部品を組み上げて製品を作るものだが、このタービンについては羽の部分は除いて回転軸については大きな鋼鉄の塊を削りだして作るのだ。巨大な鉄の塊を扱う工場は、まさに男の職場と言えるのだが、工員さんの半数は女性であった。確かに何十トンもの重量を持つ鉄の塊は、いくら頑健な男であっても自分の手で持ち上げられるものではない。そして研削マシンはもちろん自動加工機である。それを繊細に操るのは、むしろ女性の方が向いているのかも知れない。

そして、この工場は本当に清潔で綺麗である。工員さんは、自動機を遠くで見守りながら常に職場の周囲を一所懸命清掃をしている。だから、工場の中にはチリ一つ落ちていない。重工業製造業という業種の性格もあるだろうが、工場内の時間は非常にゆっくりと流れている。同じ中国でも、民間運営の中小企業と、こうした国営大企業とはゆとりの面でも随分違うように見える。

私は、日本メーカーのタービン工場を見学したわけではないが、こんなに沢山のタービンが同時並行で製造されている工場はあるのだろうか?と思う。小は5万キロワットから大は100万キロワットまで、私たちが見せて頂いただけで100本以上のタービンが同時に製造されている。今、中国市場は全世界のタービン市場の40%近くを占めている。その中国市場を中国の3大メーカー(ハルビン、上海、東方)が独占していることを考えると、このハルビン・タービンは少なくとも世界市場の10%近いシェアを持っていることになる。

もっと具体的に言えば、現在のハルビン・タービン工場の製造量は、年間2000万キロワットとのこと。しかし、3年前のピーク時は3000万キロワットだったので、やはりピーク時からは相当落ち込んでいることは間違いない。しかし、2000万キロ、3000万キロとは何と凄いレベルのことを言っているのだろう。東京電力を除く日本の電力会社1社分のタービンを、このハルビン・タービンは毎年製造していることになる。青島の家電大手ハイアール社の工場の規模を見たときもそうだった。何しろ、ハイアールの工場は地平線まで広がっているのだから。もはや日本企業は、規模で中国企業と競うのは無理だと思った方が良い。新日鉄・住金の事例のように日本国内の一位・二位・三位の大合併というような抜本的なM&A戦略の検討が必要となろう。

さらに、私はタービンの専門家でも何でもないので、タービン製造というより、この工場に、どんな製造設備が使われているのかに興味がわいた。どの製造現場にも、最新技術を用いた超臨界、超超臨界タービン製造のために、真新しい最新設備が導入されている。後ほど、ハルビン工業大学の先生曰く「中国の工場は設備一流、技術は二流、製品は三流」とは、まさに謙遜されてのことと額面通りは受け取れないが、どうも「設備一流」だけは本当のようだ。中国の国営大企業は製造設備には惜しみなく投資を行うように見える。そして、その製造設備の殆どはドイツ製で、残りがイタリア製である。それも、誰もが知っている有名な大企業の製品ではない。たぶん、タービン業界では名が通った会社なのだろうが私は一度も聞いたことがない。

これなんだと私はハタと思った。このドイツやイタリアの設備メーカーこそが、最近、大変気に入った著作「隠れたグローバル企業」の中で記述されているエクセレントカンパニーの典型である。好調なドイツ経済を支えるグローバル・ニッチ企業は世間の人が名も知らぬ隠れた企業なのだ。もはや日本企業も、企業規模で中国企業や韓国企業と競う時代ではない。今の日本の社会構造では、コストで戦っても中国や韓国、台湾に勝ち目は全くない。むしろ、私たち日本企業が学ぶべきは、ドイツやイタリアの隠れたグローバル企業、グローバル・ニッチを目指す企業なのだと、このハルビン・タービン工場を見学して感じた私の結論である。これこそが日本が目指すべき産業構造の大転換なのではないだろうか。

142 ハルビン旅行記(その1)

2012年5月23日

中国の9つのTier-1重点大学であるハルビン工業大学ビジネススクールにて講演をさせて頂く機会を得て念願のハルビンを初めて訪れることができた。冬季にはマイナス40度にもなる厳寒の地も、5月を迎えると街中が、ハルビンの市花であるライラックの花が満開となり、その品の良い香りが心地よい気持ちにさせてくれる。それでも、毎年5月初旬に満開を迎えるのに、こうして5月下旬になって漸く満開となるのは、今年の春の訪れが遅いのだという。

初めてのハルビン訪問に際して、講演をするハルビン工業大学以外に紹介されたのが、ハルビン電機が誇る世界最大のタービン工場と、731部隊跡地の資料館だった。特に、731部隊跡地には「本当に行かれますか?」という質問が事前にあった。つまり、「お嫌なら別な訪問場所もありますよ」ということだったと思う。そういえば、私自身、731部隊に関してきちんとした歴史教育を一度も受けたことが無いし、自分で勉強したこともない。漫然と浮かんでくるキーワードは「化学兵器」、「細菌兵器」、「人体実験」というものだけである。もちろん、森村誠一の「悪魔の飽食」も読んだことがない。

ただ、この森村誠一氏の著作も含めて731部隊の存在までも含めて、一部あるいは全てがでっち上げという極端な議論があることもうすうすは知っている。だから731部隊について殆ど何も知っていない私が、このコラムで、その真偽について語る資格もないし、そのつもりもない。今回、731部隊跡地に作られた資料館を見学した感想だけをただ淡々と述べていきたい。

私が想像していた731部隊の場所とは人里離れた荒涼たる僻地にあるものとばかり思っていた。いや、当時はそうだったのかも知れない。なにしろ、現地の方に聞くと、当時は上空を飛行機が通過することも禁じられているばかりか、近くを通る鉄道も、731部隊があった場所の前後30キロは窓のカーテンを閉じて外部を覗くことさえ禁じられたのだという。

しかし、その後、ハルビン市街が広がったためだろうと思われるが、731部隊の跡地の周囲は高層アパートが林立しており、敷地の壁のすぐ脇まで生活の場が隣接していたのだ。それだけではない、敷地後方は壁も一部なくなっており、アパートの住民は731部隊跡地を自由に出入りしているのである。さながら、その敷地は、私たちの町の中にある都市公園的存在のように見えなくもない。

731部隊は日本の医学界でも最優秀の医師ばかりが集めれれたという。実際、戦後、このハルビンから日本に戻った医師たちは、皆、日本の医学界の重鎮に就いている。8月15日のポツダム宣言受諾により日本が降伏すると同時に、この敷地の建物は本館を除いて全て爆破され、一部の医師はソ連軍に捉えられ尋問のためソ連軍の捕虜収容所に監禁されたものの、残りの殆どの医師たちは、あの混乱の中、既に周到な準備をしていたとしか言えないほど俊敏な撤退を成し遂げ、8月21日には全員門司港に帰国しているのだ。

なぜ、そんなことが出来たのだろうか?そして、731部隊の存在が、未だにでっち上げだとか言われるほど、これほど秘密のベールに包まれているのは何故だろうか? そうした俊敏な動きや、その後の情報隠匿、関係者の身辺警護まで含めた一連の活動が、既に力尽きた日本政府や日本陸軍の出来るワザとは到底思えない。つまりは、連合国の中で、日本を占領する実質アメリカのGHQが、将来冷戦の敵国となるソ連や、5年後に朝鮮半島で肉弾戦を行う中国に対して731部隊が得た知見を絶対に渡したくなかったからだと思われる。

第二次世界大戦勃発のずっと前から、現在に至るまで、化学兵器や細菌兵器は国際法上禁止されているにも関わらず、常に各国の軍事研究の対象だった。当然、アメリカは日本軍が、このソ連国境近くのハルビンで生物化学兵器の研究活動を行っていることは知っていたにちがいない。だからこそ、全力で、その研究員達を、ソ連や中国から保護し、いち早く日本に帰還させたのだろう。もちろん、極東軍事裁判において彼らを免責する代わりに、彼らから研究活動成果の全てを取得し、また一切口外することを禁じたのであろう。だから、戦後に生まれた私が、731部隊に関して正規に何も教育されていないのも、また何も知らないのも、決して不思議なことではない。

しかし、あまりに突然に急遽帰国したために、731部隊の研究施設の破壊は全く不完全だったようだ。本館は、全て当時のまま残されているばかりか、実験棟が施設の地下にあったため、爆発で破壊された上部の建物の瓦礫の下に、あらゆる実験器具や資料が当時の姿を留めたまま埋設されていたのであった。この資料館は、殆ど無傷で残された本館の建物の中に瓦礫の中らから掘り起こされた当時の実験を想起させる莫大な資料が展示されることで構成されている。まさに圧倒されるほどの量の展示物である。

こうした資料が、果たして、本当に、この敷地の地下から出てきたものなのか? あるいは、この資料に貼付されている説明資料が、正確に事実を語っているものか? 多分、いろいろな議論が、今なお、この資料館についても存在するのかも知れない。ここでも、私は、その議論には組したくはない。やはり、この731部隊の存在に関心のある方は、このハルビンの資料館に実際に来て、ご自身の目で、これらの展示物が真実のものなのか、でっちあげのものなのかを確認されるしかないだろう。

さて、この資料館を見て、私が真っ先に想起したのは「オウムの地下鉄サリン事件」だった。彼らは、東京都心の地下鉄で行う前に松本で事前に人体実験をしている。731部隊が撤退してから、未だ、たった50年しか経っていない。化学兵器、細菌兵器、そして核兵器も含めて非戦闘員の大量虐殺を行う兵器の開発の歴史は、未だに終わってはいない。人類が、もっと賢くなるためには、やはり何人も過去の歴史から目を背けてはならないと思う。

141 防衛大学校長 国分良成先生

2012年5月15日

国分良成先生は、本年4月から第9代防衛大学校長に就任された。昨年までは、 慶応義塾法学部長として、また「戦略的互恵関係」という今日の日中対話の基 本原則をお創りになった日本における中国研究の第一人者であった方が、突然 防衛大学校長に就任されたのだから、当然大きな話題になっても致し方ない。 昨晩は、日本における中国経済研究の第一人者である当社の柯隆主席研究員、 国分先生の教え子で、現在、慶応義塾中国研究センター研究員である 江藤名保子先生とご一緒に、国分先生の「防衛大学校長としての思い」に関し て、大変良いお話を伺うことが出来た。

私は、かねてから機会あるたびに国分先生のご講演を熱心に聴いていた。そして、 講演を聞くたびに「なるほど、そういう背景があったのか!」と納得することが できた。こと、中国に関しては表面的な事象だけで本質を捉えることは極めて 難しい。しかし、その大きさ故に、ちょっとした政策変更が世界に重大な影響 を与える中国に対して、日本のマスコミは必ずしも正しいメッセ―ジを伝え きれていない。今回の、日中韓の首脳会談においても、ある一流新聞は極端に 左傾化した報道を、また、別な一流新聞は極端に右傾化した報道をしており、 正しく中立的な報道をしているメディアは数少ないと国分先生は解説している。

私ども富士通総研の理事長である野中郁次郎先生もUCバークレーを卒業され、 南山大学の教授から防衛大学教授を経験されている。野中先生は、その後、 上司であり防衛大学校長であった猪木正道先生の推薦で、一ツ橋大学の教授 に就任されてから、世界的な学者として名声を馳せられようになられたが、 「防衛大学校時代の経験は、その後の学究生活に大変有意義なものであった」 といつも語られている。私どもも、野中先生から何度も聞かされるのは「毛 沢東の軍事戦略」であり、「米海兵隊の戦略」である。現在、当社で野中先 生が取り組まれている「実践知研究活動」も、何事も「実践」をベースに考 える防衛大学校時代の研究経験から発しているものと思われる。

さて、マスコミは「現代中国研究の第一人者が、なぜ防衛大学校長に?」と いうコンテクストで考えを巡らしているようだが、昨晩の国分先生のお話を 伺う限り、それは全く関係ないということらしい。要は、国分先生は人生の 第一ステージを「中国研究」に注がれ、第二ステージは「日本の国防に携わ る人材育成」に全力を注ぎたいということのようである。先代の五百旗頭校 長からの推挙があったものの、受けるかどうか、思案にあぐねていた国分先 生の最終的な決めては、あの3月11日の東日本大震災だったという。私も含 めて、あの日を境に人生の目的を変えた方は沢山おられるに違いない。

さらに、国分先生が防衛大学校長に就かれる決意をした背景には、もっと 大きなコンテクストがあった。それは、防衛大学校と慶応義塾の間に築 かれた切っても切れない深い縁にある。一見すると、慶応義塾と防衛大学校は 対極の関係にあるように見えるが、それは正しい見方ではない。戦後、 宰相吉田茂は、民主国家日本に相応しい士官学校を設立すべく、当時の慶応 義塾塾長だった小泉信三に相談した。吉田茂も小泉信三も、あの太平洋戦 争には反対だった人物である。

吉田総理から依頼された小泉信三は、慶応義塾の法学部教授だった槇智雄先 生を防衛大学校初代校長に推挙した。この槇校長は英国オックスフォード大 学の出身で、防衛大学校に以下の3つのことを基本理念と定めた。即ち、1) 近代民主主義思想、2)科学的思考、3)武人としてのジェントルマン精神 である。槇校長は12年間の防衛大学校長生活において「服従というのは意味が 解らず暴力によって行われるなら奴隷になるしかないが、自分自身の信念に おいて行われるのであれば崇高なものになりうる」とヨーロッパの自由主義 思想の神髄を説き続けた。

そして、国分先生が防衛大学校長に就かれる決意をされたのは、この小泉信 三塾長と慶応義塾法学部の大先輩である槇先生の影響だけではなかったのだ。 国分先生の恩師で、先生を中国研究の道に導かれた石川忠雄元慶応義塾塾長 の存在がある。石川塾長は、中国政治史の研究者で、特に中国共産党研究の 草分け的存在で、その教え子には国分先生のほか、あの橋本龍太郎元首相も いる。結局、4期16年の長きに渡って慶応義塾塾長を務められ、慶応湘南藤沢 キャンパス(SFC)の創設など数々の大改革をされた。

そして、国分先生が心酔する石川先生も、防衛大学校長への推薦を受けたこ とがあり、その道に進むことも真剣に考えておられたのだという。結局、 石川先生は、そのすぐ後に塾長に就かれることになったのだが、国分先生と しては、尊敬する石川先生がなったかも知れない防衛大学校長に就くことに は運命的なものを感じられたに違いない。慶応義塾と防衛大学校は、こうし て何代にも渡って密接な関係を築いてきた。

こうして後半生を防衛大学校長の職に捧げることに決めた国分先生の着任式の 挨拶は「我々の役割は、日本というかけがいのない祖国とそこに住む人々の 独立と平和と安全を、最後の一線で守り抜くことです。サッカーで言えば、 我々はフォワードではなく、ゴールキーパーです。ゴールキーパーは試合の 全体を細やかな目で見ていなくてはなりませんし、いざとなれば最後の砦と なります。要するに、自衛隊、そして防衛大学校が気を緩めたら。そして 万が一でも諦めでもしたら、日本は終わるということです。我々は日本と日 本人を支えるのが仕事です。」であった。

今回、私は、東北の各被災地を歩き、自衛隊に対する住民の感謝の言葉を沢 山聞いた。イザという時に役に立つ人々が、「本当に価値のある人達」である。 国分先生は、これから数多くの「本当に価値のある人達」を世に送り出される に違いない。