506 「AIの進化」と「人類の幸せ」

2026年6月1日

この1年間ほど、日本各地で「AIの進歩」が「求人と雇用」に与える影響について講演をしている。先週、ある所で講演が終わった後で、恒例の質疑応答の時間に入った。何問かの質問に答えた後で、最後列で車椅子に座って聴講されていた高齢のご老人が怒った顔で次のような質問をされた。ご老人は、マイクをきちんと持っておられなかったようで、私には、よく聞き取れなかったのだが「いくらAIが進歩しても、私たちは今より幸せになれるのか?」、「AIは、我々に一体何をしてくれるというのだ?」という内容だったと思う。ご老人の感想は、日頃、私のAIに対する感じとほぼ同じで、全く当然とも言える質問内容だった。しかし、私は、その場ですぐに適切な回答を思いつかなかった。

その直後に、咄嗟に言った言葉が「今後、AIにできなくて、人間だけにできることは子供を産むことだけになるかも知れません」と言ってしまった。全く、なんという乱暴な回答だろう。もちろん、この受け答えは根本的に間違っている。AIにできなくて人間だけしかできないことは、それ以外にももっと沢山あるはずだ。しかし、これだけAIが進歩すると、近い将来にあれもこれもAIが実現してしまうのではないか?と思ってしまい、つい出た言葉だった。それほどに、毎日、新聞や雑誌、テレビで報道されるAIの進歩は急速で、右往左往する私たちを微塵の情けも見せずに置いてきぼりにしている。この進歩が、どのような影響を及ぼすものか、昨今のAI技術の急速な進歩は、私たちにじっくりと考える時間さえ与えていない。

机に座ってパソコンに向かって行う定型業務が、会社に行かなくてもリモートで実行できるということがコロナ禍の中で証明された。私の友人で、ある会社で社長を務める経営者は、これだけ「何ヶ月もリモートワークで業務を行っていながら全く影響なくコロナ禍前と同じように業務を継続できる」ことが信じられなかった。それで、ある日、自ら会社に行って事務所を見に行った。そこで彼が目にした景色は、驚くことに働く人が一人もいない無人の事務所だった。ここで、彼は欧米の一流企業が人事や経理といった管理部門を自社に持たずに外部へアウトソーシングしていることを思い出した。雇用が流動的な欧米の企業では、どこの会社も事務管理業務が標準化されているため、日系企業よりもアウトソーシングすることに全く抵抗がない。

こうした一般事務管理業を標準化した欧米の企業群では、アウトソーシングするのが容易なため、「AIエージェントで業務を自動化する」ことも、全く問題なくできてしまう。いくつかの欧米企業がコロナ禍でリモートワークを一般化した。そのコロナ禍が終息した後に、これらの業務を元に戻す過程で従業員を復職させずに「AIエージェント」化を進めている。私は、「AIの進化」で、今後何が起きるかを予測するだけの見識を持っていない。しかし、米国駐在経験以来30年近くアメリカを注視してきた中で「今、アメリカで起きていることは、3年後の日本で必ず起きる」という法則を知っている。この2−3年で起きているアメリカの「大離職時代」は、コロナ禍で減少した労働参加率がコロナ回復後も元に戻っていないことを示している。この労働参加率の減少は、一時言われていた「ベビーブーマーの一斉リタイア」に関わるものではなかったのだ。

むしろ、今のアメリカでは、大学を卒業したばかりの23-27歳の若年層の失業率が7%近くまで上昇し、全労働者の平均失業率である4%より遥かに高い。つまり、アメリカでは、多くの日本企業が切望している若い高学歴労働者は、むしろ余剰労働力となってしまった。トランプ大統領が次々と奇妙な政策を打ち出すのは、彼のビジネス感覚が狂っているわけではない。私は、むしろ、本能的に今のアメリカに抱いているトランプ大統領の危機感は実は正しいのではないかと思っている。ただ、そのために行なっている彼の施策が、あまりに短絡的で辻褄が合わないだけなのだ。その結果、今のアメリカの若者(α世代)達は、大学へ行くよりも、医療検査、塗装や配管、電気工事など手に仕事を覚えられる技術を学べる技術専門学校を志望するようになってきた。

こうした大学を卒業したばかりの若者が就職に苦しんでいるのは、アメリカばかりではない。中国では大学新卒で就職できない学生が20%にも及び、韓国では30%にも達する。昨年、アメリカで最大のコンサルタント企業は大学を卒業したばかりの若手コンサルタントを5,000人ほど解雇した。大学で学んだばかりで、現場の経験が乏しい若手コンサルの能力では「AIエージェント」に簡単には勝てないというわけだ。しかし、もっと恐ろしいことに、こうした若手の就職難が日本では全く語られないだけでなく、むしろ、企業間では大学新卒の学生を死に物狂いの取り合いが起きている。この理由の一つとして、それだけ日本の少子化が深刻だということもあるかも知れない。しかし、私がもっと恐れているのは、日本だけがアメリカや中国、韓国に比べて「業務のAI化」が遅れているのではないかという懸念である。

「蒸気機関」が登場した産業革命以降、「ガソリンエンジン」や「電動モータ」の出現で、それまで「力の源泉」だった「馬」は、産業構造の中では「馬力」という力量の指標としてしか残らなくなった。一方、「人類」が「他の種」に対して、これだけ大繁栄を遂げられたのは、あらゆる生物に勝る「知的能力」があるからだ。しかし、「生成AI」や「AIエージェント」の登場で、「人類だけが独占していた知的能力」より「物量的」にも「処理速度的」にも優るコンピューターによる代替能力が、これまでの人類だけが独占してきた「知的職業の存在」を危うくしてきている。逆に、知能指数が高くさえあれば、やりたいことは何事も望みが叶うという世の中であり続けることが、今後はますます難しくなるとすれば、それは歴史的に見て、逆に一つの進歩と言えるかも知れない。

しかし、豊富な知識さえ得られれば必ず正しい判断ができると考えることは一体どれほどの意味があるのだろうか? もし、そうであるならば「政治」や「宗教」という活動そのものの存在が必要なのかが、今後問われることになるだろう。しかし、つい最近アンソロピック社から発表された「Claude Mythos」という脆弱性発見を行うAIエージェントの登場が、AIが登場する前には当たり前だった「普通の人々が毎日安全な生活を送る」ということが極めて重要だと認識させることになった。現在、アンソロピック社は「Claude Mythos」をマイクロソフト、アップル、グーグルなどOSなどの基本ソフトを提供している40社に限定提供を行ない、最初の1週間で極めて危険な脆弱性を4,000箇所発見した。その後、1ヶ月に10,000箇所以上にまで増えている。各社とも、全力をあげて修復を行なっているが、現在、発見された部分の修正箇所は全体の1%にも満たない。

「Claude Mythos」は、2026年4月アンソロピック社が「ソフトウエアの脆弱性を発見・悪用する能力が、最も熟練した人間を上回るレベルに達した」と公式に認め、一般公開しないという異例の決断を下した「AIエージェント」である。さらに、アンソロピック社はAIを使って重要なソフトウエアの未発見の脆弱性を特定・修正することを目的とした「Project Glasswing (透明な翅)」という枠組みを作り、50以上の技術組織に「Claude Mythos」のアクセス権と1億ドル以上の利用クレジットを提供することを決めた。この組織に、AWS, Apple, Broadcom, Cisco, CrowdStrike, Google, JPMorgan Chase, Linux, Foundation, Microsoft, NVIDEA, Palo Alto Networkらが参加を許されている。アンソロピック社が一般公開しない理由は、「Claude Mythos」が脆弱性を発見するだけでなく、それを武器化する攻撃コードを作る能力を持つことが判明したからだ。

米国のベッセント財務長官はトランプ大統領に同行し5月14〜15日に北京で行われる米中首脳会談に出席する前の5月11日に訪日し、高市首相、片山財務大臣、植田日銀総裁と会談したが、この会談での内容には為替問題だけでなく、「Claude Mythos」を用いた日米共同対策連携についても話し合ったと言われている。その結果を受けて、三菱UFJ銀行、三井住友銀行、みずほ銀行の3メガバンクは、直ちに「Claude Mythos」対策へ動き出した。これら3メガバンクは、揃って、これまでスマホ連携を含めてネットとの融合を深めていたのだが、これらの重要戦略を先送りにしても「Claude Mythos」対策を優先する方針へと戦略変更する模様である。

最近の日本では、複数の大手優良企業がランサムウエアで大きな被害を受けている中、今後、ビジネス拡大に向けてネット化を深めていく金融機関は安全性を第一に行動する必要に迫られている。そして遂に金融庁は、日本の金融機関の首脳に対して、「万が一脆弱性攻撃を受けた場合は、躊躇わずに全てのシステムを停止させるべき」との指示を出した。本当に、私たちは、今、テクノロジーに攻撃されるという恐ろしい時代に生きていると自覚するべきだ。このように、過度に発展しすぎたデジタル空間で人類の安全を担保する保安装置として、今後はAIが人類のために役に立つことを望んでいる。

505 AI研究の進歩が急加速

2026年5月1日

私は、今から56年前の1970年に大学の卒業論文として「AI」を選んだ。私が所属していた藤崎研究室には富士通から寄附された科学技術専用コンピュータであるFACOM 270-20があった。当時の藤崎研究室は「音声認識」を主たるテーマとしており、このコンピュータには音声入力装置と音声出力装置が接続されていた。また、その時代としては珍しく大容量の磁気ドラムが内蔵されていた。当時のコンピュータの外部接続記憶装置としては磁気テープ(MT)が一般的だったが、磁気ドラムはランダムアクセスが可能な記録媒体として極めて「高性能な力」を発揮した。東大には日立製作所製の大型コンピュータがあったが、学生や一般の研究員が直接触ることはできずオフラインで計算依頼する方法しか許されていなかった。

私が、卒業論文を書くのに藤崎研究室を選んだのは、音声認識を行うためというよりも、こうした高性能コンピューターを自ら直接使いたいと考えたからだ。この藤崎研究室で管理するコンピューターは昼間、教授や助教授、講師、大学院生が使用できたが、我々卒論で使う学部生は、皆が帰宅した後の夜間であれば好きな時間使うことができた。さて、このコンピュータには音声入出力装置だけでなく、ペン入力型の描画装置と共に、当時としては大変珍しい画像出力モニターも接続されていた。それで、私は、これらの入出力装置を使って「手書き文字認識装置の研究開発を目指したい」と藤崎先生に訴えた。さらに、私は、「音声認識は難度が非常に高く、その成功にはリスクが大きい。だから、研究室として文字認識もサブテーマとして持たれた方が安全だと思います」と余計なことまで言った。先生は、「確かに貴方の言うことも一理ある」と生意気な学生の意見を快く了承してくださった。

それで、まだ「AI」などと言う言葉が一般的ではない時代に、「文字認識」をテーマとする卒業論文を目指すこととなった。当時の東大は、大学紛争で7ヶ月間のストライキが開けた直後で、私たちは本郷キャンパスにおける専門課程の授業を十分には受講していなかった。それで大学当局は卒業論文の期間をこれまでより少し長くとり、それで何とか期日内に卒業させようと考えた。半年ほど、研究活動を続けた頃だっただろうか、藤崎先生から富士通から池田常務が見学に来られるのでみんなと一緒に研究成果を披露するように命じられた。私は、他の研究員と一緒に実演を交えて研究成果をお見せしたが、それから2週間ほど経って、先生から池田常務が「もう一度あなたの研究成果だけを見たい」と仰っていると知らされた。

私は、前回よりも少し長く丁寧に説明すると、池田常務は「君は、会社に入ってからも、こんなことをしたいの?」と私に質問をされた。私は、生意気にも、「もうコンピュータは誰でも開発できる時代になりました。私は、そう簡単にはできないことをしたいと思っています」と答えたのだ。日本の「国産コンピュータ開発の父」と呼ばれている方に、こんな生意気な言葉を発するなど、なんと傲慢な学生だと思われても仕方のない返答だった。しかし、池田常務はニコリと笑みを見せて「もし、貴方が富士通に来て、こんなことをやりたいと言うなら、そういう部署に配属してあげますよ」と言われた。その池田常務の指示があったからか、私が富士通に入社して配属されたのが、文字認識装置(OCR)を開発する部署だった。その後、私が入社してから2年ほどして池田常務はIBMとの頻繁な交渉の最中、アメリカから帰国した羽田空港で過労のため亡くなられ、没後に専務に昇格された。もし、その後も存命されていたら社長になられる方だったと私は今でも信じている。

それから20年間、私は富士通で文字認識だけでなく、音声認識、画像認識、ベクトル認識と「AIに関連するテーマ」に没頭した。まあ、それなりの成果はあげたようにも思ってはいたが、「やはりコンピュータは人間には勝てないな!」と言うのが正直な本音だった。それで、仲間たちと共に、自分たちが培ってきた「マルチメディアに関する技術」を使ったパソコンの開発部隊に転籍することにした。当時、富士通が開発したCD-ROM内臓のマルチメディアパソコン「FM-TOWNS」は世界中から脚光を浴びていたが、その基本アーキテクチャがIBM互換ではなかったため、ビジネスとして世界に飛躍することは出来なかった。その後、富士通は「IBM互換パソコン」に戦略転換するのだが、時すでに遅かった。それ以前は、IBMとの係争問題が未だ後を引いていて互換製品を開発出来なかったのだから仕方がない。

そんな私の「AI研究の歴史」は「AIの暗黒時代」を象徴する時代だったのではないかと思う。その「AIの暗黒時代」の終焉を成し遂げ「AIのビッグバン」を起こしたのが、私と同い年のトロント大学教授のヒントン先生だ。ヒントン先生はケンブリッジ大学を卒業された後に、AIの研究を続けようとしたが、ロンドンでは適当な場所が見つからず、カナダのトロント大学へ移られた。ヒントン先生の研究室は、2012年、毎年開催されていた「画像認識コンテスト」において圧倒的な差で優勝した。その原動力が人間の脳の中で記憶として学習するメカニズムと同じと言われているバック・プロパゲーション(誤差逆伝播法)の習熟だった。ヒントン先生は、この発見で2024年ノーベル物理学賞を受賞されている。まさに、この方程式によって世界中で「AIのビッグバン」が起きた。2012年、アメリカ各地を訪れた私は、AI関連の研究者が大興奮に包まれているのを肌で感じた。

さらに、私が、この時訪れた場所の一つとしてサンタクララにある旧NASA基地跡に未来学者カーツワイルが2008年に創立したシンギュラリティ大学があった。カーツワイルが提唱したシンギュラリティ(技術的特異点)とは「AI(人工知能)が自律的に自己改善を繰り返し、人間の知能を完全に超える時点(転換点)」を指す。カーツワイルは、その実現時期を2045年と予想していた。この大学は、シンギュラリティが起きる前に、そのために発生する多くの問題を解決するために事前に用意しておくべきものは何かを研究する大学として設立された。私が感銘を受けた一つは、2012年に起きた「AIのビッグバン」の前の2008年という「AIの暗黒時代」にカーツワイルが、既に「シンギュラリティが2045年に起きる」ことを予測して色々な準備を進めていたことにある。

もう一つ私が感銘を受けたのは、今、いろいろなところで実現が予測されている「汎用人工知能(AGI)」の出現をカーツワイルが2045年と言い切っていることだ。これは、物凄く勇気がいる予測であった。何しろ、文字認識や音声認識や顔認識などの「特化型のAI」ですら、どこまで人間に匹敵するレベルを実現できるかどうかわからない、「AIのビッグバンが起きる2012年」の前の2008年に「AGIは2045年に実現する」と言い切ったところが凄い。私は、半世紀前のAI研究者で、最近の最先端の分野まで深く理解しているわけではないが、それでも、今のAI研究の進展には驚いている。AIの進化に関するニュースには関心高く注意しているつもりではあるが、「この次のレベルに到達するには3年はかかる」と思っているレベルに一年も経たないうちに次々と実現しているからだ。

今や、AI技術の進化にAIが深く関わっている。つまり、AIのプログラム作成能力は既に人間の能力を超えているので、その開発速度が加速度的に早くなっているのだ。しかもAIの処理速度は人間を圧倒的に超えているので、今のAI技術は幾何級数的な開発速度で進化しているのだ。こうなると多額の資本や多数の優秀な人間が集まらなくても、少数の知的なメンバーで新しいAIの仕組みが開発できる。特に最近、話題になっている「Open Claw」は、オーストリアのスタインバーガー(Steinberger)が開発したオープンソース型のAIエージェントだ。開発者のスタインバーガー自身は、もはやこのオープンソース型Open Claw組織とは離れて Chat GPTを産み出したOpen AI社に入社した。アメリカのAIソフト業界では、この不気味なAIエージェントである「Open Claw」に対して様子見であるが、一方で非常に熱心なのがNVIDEAのCEOであるジェンスン・ファン氏だけでなく多くの中国の起業家たちである。

まず、アメリカのAIソフト業界は、Open Clawに熱心ではない理由の一つがOpen ClawはAIエージェントであって単独で動くことができないからだ。つまり、Open Clawは、Open AI社やアンソロピック社のLLM(大規模言語モデル)など他社のLLMを駆使することで動く。そのため、この2社の生成AIをビジネスベースで駆使するにはLLM提供者から高い料金を取られるので、それを危惧して普及しないと言うことらしい。ところが中国の国家AI戦略では、2030年までにAIを全産業の90%に普及させるという目標を掲げており、中国にはDeep SeekやWeChatと言う安価な国産AIモデルが複数あり中国のOpen Clawユーザが最も多く使っているモデルの上位3つは極めて安価か、あるいは無償の中国製LLMで実現できる。さらに,このOpen Clawの台頭は、現代中国の理系大学卒者の失業率が20%にも達し、中国の経済成長率が数十年ぶりの低水準となっていることも影響している。中国では、こうした雇用不安の中で、「ひとり会社(OPC)」と言う概念が広がっている。AIエージェントを使えば、一人で会社業務を回せると言う発想で普及しているらしい。

さらにNVIDEAのファンCEOがOpen Clawを支持するのはAIエージェントが24時間稼働し、AIチャットのプロンプトに比べて100万倍のトークンを消費すると言うNVIDEAにとっては「完璧な製品」だからだ。このため、NVIDEAはOpen Clawの開発者と協力してエンタープライズ向けにセキュリティを強化した「Nemo Claw」を発表。Open Clawを安全・大規模に導入できるプラットフォームを展開し始めた。Open AI社も、元々はAIのオープンソースを提供することを目的とした会社設立だった。こうしてAIエージェントもオープンソースとして次々と新たなものができている中で、今後、さらに私たち想像を遥かに超える進化を遂げることになるだろう。まさに、今後のAIの進化はカーツワイルが予測した「AGIが2045年に実現」を超える速度になりつつある。

504  イランとは、どういう国なのか?

2026年4月1日

2026年2月28日イスラエルとアメリカがイランに対して軍事攻撃を開始した。作戦名は「獅子の雄叫び」、「エピック・フューリー作戦」、「ユダの盾作戦」などのコードネームが使われた。3月1日早朝、イラン国営メディアは最高指導者ハメネイ師が殺害されたと報じた。トランプ大統領は、「イランは既に制空権を失い、反撃能力を失った」と述べているが、イランは中東各国の米軍基地だけでなく、サウジアラビアやカタールなど主たる精油所を爆撃し、次々と閉鎖に追い込んでいる。さらに、イランは、無人で操縦される小型の爆撃ボートを使って、ペルシャ湾沿岸で生産される多くの原油やLNGを運ぶ船舶が通過しなくてはならないホルムズ海峡を封鎖した。イランは、トランプ大統領が要求している無条件降伏を飲むどころか、徹底抗戦を見せている。

そもそも、超大国アメリカに対して、その厳しい制裁にもめげず、既に何十年も抵抗し続けているイランという国は、一体どんな国なのだろうか? そして、隣接する中東各国との関係を、イランはどうように考えているのか?さらに、イランは、インドのような将来の超大国とどのような関係を持っているのか? 私は、未だイランには行ったことがない。しかし、トルコやカタール、アラブ首長国連邦やインドを訪問した際に、いつもイランの話題が出てくるし、彼らの、イランに対しての態度の中には、一定の敬意と少なからぬ警戒心を持っている。そうした周辺国のイランに対する複雑な感情が、どういうことから来ているのか私なりに調べてみた。

2008年5月、私は、総務省のメンバーと共に、カタール(ドーハ)、アラブ首長国連邦(UAE:アブダビ、ドバイ)を訪問した。ドーハでは政府高官と会議を行い、その後、アルジャジーラの放送局内を見学、アブダビでは政府高官と話し合い証券取引所を見学、ドバイでも政府高官と意見交換をした後に、エミレーツ航空の幹部と会談を行った。この1週間の訪問で中東各国の複雑な関係を私は初めて知った。特に、一番興味を持ったのがその時には訪れていない「イラン」の存在だった。カタールにも、アラブ首長国連邦(UAE)にも多くのイラン人が色々なビジネス分野で働いており、その存在感は極めて大きい。何しろ、カタールやUAEから見たらイランはペルシャ湾を隔ててすぐ隣にある大国である。現地で、色々な人々の話を聞いてみると、イランに対して一定程度の敬意と恐怖の両方が併存しているように感じたのだ。

まず、中東各国はイスラエルを除いて、いずれもイスラム教の国である。しかし、イラクの一部とイランがシーア派、その他の国はスンニー派とお互いに相容れない宗派に別れている。また、スンニー派の中でもサウジアラビアは非常に厳格なワッハーブ派である。この時、訪問したカタールもワッハーブ派の影響を強く受けているが、実は、サウジアラビアとはあまり仲が良くないばかりか、米軍基地に隣接する「アルジャジーラ」という自由な報道を行う放送局を運営している。「アルジャジーラ」はカタール政府が資金援助を行っているが、口出しは全く行なっていない。そしてカタールは、イランとも実業の世界では各種取引や交流も多い。さらに、首都ドーハの中心地にある広場の高座に飾られていた戦車の主砲は「実は隣国サウジアラビアの方向を向いているのだ」とカタール人のガイドがひっそり教えてくれた。

そして、アブダビとドバイを抱えるアラブ首長国連邦(UAE)はスンニー派ではあるがサウジアラビアのワッハーブ派とは全く異なり、自由で穏健な親西洋主義の国である。このUAEの人々も、イランに対しては敬意と不安が同居した複雑な感情を持っているように見えた。カタールは世界で最大のLNG埋蔵量を誇る資源大国である。一方、UAEではアブダビは暫く使える石油資源を持っているものの、同じ連邦のドバイは、もはや地下資源を全く持たない首長国である。このため、ドバイは近年、石油に頼らない物流や金融、観光産業で国を運営してきたのだ。同じ連邦のアブダビは、いわばドバイへの投資を賄っている国でもある。こうした、カタールやUAEの国々から見たらイランは「中東の大国」なのだ。「中東の大国」と言われている国は、イランの他にはサウジアラビア、トルコ、エジプトを含めて3つある。中東の人々から見た「イラン」という国は、実は、その他の3つの「中東の大国」の中でも最も「怖い国」でもあるらしい。

まず「イラン」という国名から話を始めたい。その語源は、古代ペルシャ語の「アーリヤーナム:アーリア人の土地」という意味である。そもそも「アーリア」はインド・イラン語派の民族が自称した言葉で「高貴な」、「気高い」という意味である。この「アーリヤーナ」から「エーラン」、そして「イラン」となった。1935年、パフラヴィー国王が国名を正式に「イラン」と決定した。インドも「アーリア」語族で、両国の国名は言語的にも深く結びついている。インドと言えば、インド最大の財閥である「タタ財閥」は、1868年タタ一族がムンバイで創業し、繊維業からスタートし、製鉄、ホテル、自動車、IT、航空業など100社以上の企業を傘下に持つインド最大の財閥である。このタタ一族は、「パールシー」というコミュニティ出身で、7〜10世紀にイスラム勢力の迫害から逃れてイランからインドに移住した「ゾロアスター教徒」の子孫である。

さて、この「ゾロアスター教」とは、世界最古の1神教で紀元前1,500〜1,000年に古代イランで成立した。預言者ザラスシュトラが創始し、ギリシャ語で「ゾロアスター」となり宗教名となった。最高神アフラ・マズダ(光と善の神)を唯一神として崇拝し、火を聖なるものとして神殿に灯し続けることから「拝火教」と呼ばれている。その教えは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教において「天国と地獄」、「最後の審判」、「救世主(メシア)」といった基本概念に大きな影響を与えた。7世紀にイスラム教がペルシャを征服するとゾロアスター教信者はインドに逃れて「パールシー」となった。この一族の子孫は、タタ財閥だけではない。現代では、クイーンのフレディ・マーキュリーも「パールシー」その一族である。

今後、21世紀の超大国として、アメリカ、中国、インドの3カ国が世界を支配することになると思われるが、現在、ロシアと中国と深い関係にあるイランは、実はインドとも数千年にわたる深い歴史的な関係を持っている。両国は、インド・イラン語族のルーツを持ち、言語・文化的に深く繋がっている。ペルシャ語は、インド先史のムガル帝国時代には宮廷語・文学語として使われていた。今でも、インドの主要言語であるウルドゥー語やヒンディー語にはペルシャ語由来の単語が大量に存在する。タタ財閥を産んだ「パールシー」のようにイランからインドへの移民が歴史的に大きな役割を果たしたのである。現在でも、地政学的にはインドとイランはパキスタンを共通の敵としてお互いに意識し合い、イランはインドにとってエネルギー・回廊・地政学的に欠かせないパートナーとなっている。

そうした中で、イランはアメリカに対して徹底抗戦の構えを崩しておらず、最高指導者であるハメネイ師が殺害された後に、その後継者として次男のモジタバ・ハメネイ師を選出した。米国CNNによれば、イランは、既に、ホルムズ海峡に数十個の機雷を敷設したと伝えている。しかも、イランは、トランプ大統領の発表とは異なり、未だ機雷敷設機の90%を保持しており、これから数百個の機雷を敷設することが可能だという。しかも、米国の艦隊は、「ホルムズ海峡の安全を確保するためにすぐにも出動せよ」というトランプ大統領の命令には「安全性に危惧がある」として未だに従っていない。今年7月4日に建国250年を迎えるアメリカに対して、数千年の歴史に誇りを持つイラン国民は、トランプ大統領の圧力に屈して簡単に降伏することはないだろう。

一説には、トランプ大統領は11月に行われる中間選挙の前に、これまで親中派としてアメリカに抵抗してきた「ベネズエラ」、「イラン」、「キューバ」の3カ国を徹底的に攻め立てて中国との関係を断つことを目的にしてきたのではないかとも言われている。それがうまくいけば、例えエプスタイン問題で何かが起きたとしても彼は英雄として乗り越えられるのではないかと思ったのだろうか。しかし、トランプ大統領を熱烈に支持してきたMAGAの人たちは、元来、厭戦派であり、こうした帝国主義的な思想に彩られた戦争に駆り立てられることを嫌っている。もし、イランが、ホルムズ海峡の封鎖に成功すれば、世界は深刻なエネルギー危機に陥ることになる。トランプ大統領が株やドル相場の下落を見て、得意のTACO: Trump Always Chickens Out戦術で、突然、現在の方向を大きく転換をしても、もはや間に合わない事態に陥ることを恐れている。

さらに、シーア派教徒を主体とするイランでは、殉教精神が神学的に重要なことと位置付けられている。西暦608年に起きたカルバラーの悲劇では、預言者ムハンマドの孫であるフサイン・イブン・アリーが圧倒的な敵に囲まれて戦い殉教した。このため、毎年、フサインの殉教を悼む追悼行事はイラン・シーア派の最重要行事になっている。今回、殺戮されたホメイニ師は、この殉教精神を積極的に政治化した。1979年のイラン革命では「圧政者に対するフサインの抵抗」の枠組みが革命運動に援用された。また、1980~1988年のイラン・イラク戦争では、若者が戦場に赴くことが「フサインへの追従」と位置付けられ「殉教」の美化が国家によって積極的に行われた。

しかし、イラン国民は8,500万人にもおよび、多様で世俗的な人々で政治的イスラームに批判的な人々も多い。つい最近の2022年、イラン国内の反政府運動である「女性・命・自由」運動は「殉教を美化する国家イデオロギー」への抵抗運動として知られている。今回、トランプ大統領は、米軍のテヘラン攻撃によって、こうした人々がイスラム主義国家の転覆を図ることを期待したのかも知れない。しかし、この度起きた米軍の小学校爆撃によって160人以上の罪のない子供たちが殺されたことで、多くのイラン国民は冷静さを失い、アメリカとイランの戦争が、今後、どういう方向に向かうのか誰も予想がつかない状況となっている。原油の95%を中東に依存している日本の命運は、トランプ大統領というよりも、むしろイラン政府の今後の方針にかかっている。