349  光り輝やく女性たちの物語(14)

2016年9月18日

今から2年前、富士通が年に数回、パートナーの方々をお招きして開催する女子プロを交えたチャリティーゴルフコンペに参加した。日本を代表する女子プロ33人をお招きして33組のチームが各ホールからショットガン方式でスタートした。私の組は、シングルHCをお持ちの上級者のお客様が二人と2004年のミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープンで優勝された山岸陽子プロだった。私は、山岸プロをよく存じ上げなかったが、パートナーの皆様は、すでにママさんとなられていた美人ゴルファーの陽子さんを良くご存知で、スタート前に皆様、ご挨拶に来られていた。

私も一緒に回り始めて驚いたのだが、陽子さんは容姿が淡麗だけでなくスイングフォームが素晴らしく綺麗なのだ。さらに、ゆっくりとしたスイングで軽く250ヤード以上飛ばすパワーヒッターでもあった。これなら、皆さん、一緒にラウンドしたいと思うのも無理はない。朝から、陽子さんに、多くの方から声がかかってくるのも当然だと思い、幸運な組み合わせに恵まれたと感謝した。そして、運命の武蔵丘ゴルフコース12番ショートホールを迎えたのだった。

富士通主催のプロアマゴルフのルールは、まず、お客様お二人が先に打って頂き、それから主催者のメンバーが打ち、最後の女子プロが打って、ベストボールを選択するということになっている。その12番ショートホールでは、シングルHCのお客様二人とも、ピンからかなり近い場所に乗せられた。これで、私はほっとした。もう、私は、どこに打っても構わない。もともと、これまでの私は、ショートホールでティーショットがグリーンに乗ることなど滅多にないので、この二人以上に近くつけることなど有りえないからだ。

気が楽になった私は、149ヤードの、このショートホールを6番アイアンで本当に軽く打った。そして、ボールはピンを目指して高く舞い上がった。次の瞬間、陽子さんは「これ、入るわよ!」と口にされ、ボールが頂点に達するころ「入れー」と大声で叫ばれた。周りじゅうの人々が、その声を聞いて、私が打ったボールに注目した。果たして、そのボールはピンの2mほど前に落下し、ゆっくりと転がってホールに吸い込まれた。全く想像だにしなかった「ホールインワン」である。

次の瞬間、私の頭は真っ白になった。何しろ132人のプレーヤが参加する大コンペである。よりによって、こんなスケールの大きなコンペで「ホールインワン」はないだろう。それでも、気をとり直し、ポケットの入れていたカメラでお客様二人と陽子さんを交えて記念写真を撮った。そして、その時、プロって本当に凄いなと感動した。何しろ打った瞬間に、それが入ると感じ取るのだ。多分、入るために必要な軌道が逆算して分かっていて、打ったボールが、その軌道に乗ったということがわかるのだろう。本当に凄い。

今回は、その陽子さんの物語をこれから書いてみたい。陽子さんは、福井県勝山市に生まれ、小学校1年生から高校3年生までアルペンスキーに熱中し、福井県では3位に入賞するプレーヤになっていた。陽子さんとしては、絶対に優勝できると思って頑張っていた。しかし、お父上は、いくら頑張っても絶対に優勝なんて出来ないし、スキーのプロを目指したって活躍できるわけがないと大変厳しい評価だった。

その、お父上は地元福井県で繊維関連の会社を経営されていて、趣味のゴルフはHC1で、もはや、趣味の域を超える領域に達していた。そのお父上の影響もあったのだろう、高校卒業後、陽子さんは、お隣の岐阜県に前の年に開校した日本女子ゴルフ専門学校への入学を自分の意思で決めた。これまで、陽子さんは、ゴルフは一度もしたことがなかったが、ゴルフなら、お父上も反対しないだろうと思ったのと、いつか女子プロになって、お父上を見返してやろうという気持ちも多少はあったかもしれない。

そこで陽子さんは、たった1年で、スキーで鍛えられた体幹を活かして中日女子アマで優勝し、東海クラシックへの出場権を得るなど、アマ女子ゴルフ界の新星となった。この東海クラッシクでプロと一緒にラウンドした陽子さんは、女子プロを目指すことを決め、アマチュアの競技会に参加することはやめて、いきなりプロテストを受けることにした。1994年8月、挑戦4回目で、プロテストに合格した陽子さんは、翌年の1995年4月には、25歳で単身アメリカに渡った。

「よく、一人でアメリカに行くことを決心しましたね」と私が尋ねると、陽子さんは、「東京の大学を出た母が、地方で育つ娘が東京の子供に対抗するには、英語で卓越した才能を持つしかないと、小学校低学年から中学生まで、外国人が主宰する本格的な英会話学校に通わせてくれました。だから、言葉に対しては何の不安もありませんでした。」と言う。それで、陽子さんは南カルフォルニアのゴルフスクールに席を置き、アメリカの女子プロ下部ツアーに参戦し、3年間で2度の優勝も果たしている。

陽子さんの華麗なスイングフォームは、この米国でのゴルフ修行から来ているようだ。米国から帰国した陽子さんは、一時、日本のゴルフコーチにもついたが、やはり米国でなくてはと、暇を見つけては、米国のゴルフスクールに通った。米国の何が日本と違うかと言えば、米国の教え方が科学的だと言うのである。すべてのスイングをビデオに録画して、陽子さんのスイングが、理想のクラブ軌道とどこがどう違うのかを徹底的に明らかにした。本人が、自分の目で見て納得出来る教え方である。

本格的にゴルフを修業したのが18歳と、プロゴルファーとして遅いスタートだったが、プロに転向してから11年目に、陽子さんは、遂に、ミヤギテレビ杯で古閑美保プロとプレーオフの末に優勝した。その時の優勝インタビューで、陽子さんは記者に対して「私はゴルフが好きで、一生懸命やってきましたが、これまで、辛いとか苦しいと思ったことは一度もありませんでした。ぜひ、明日の新聞には『苦節11年』なんて書かないでください」と全く涙も見せずに気丈に答えている。いつも、前向きに生きている陽子さんらしい言葉である。

日本の女子プロは、1,000人近くいるが、優勝を経験する女子プロはほんの一握りである。プロゴルファーは男子も女子も、一度プロ登録を果たせば、会費を支払っている限り一生涯プロである。もちろん陽子さんも、今も立派な女子プロであり、毎月4−5回はプロとして、プロアマ戦に招待され立派に仕事を果たしている。しかし、39歳を境に、名古屋グランパス所属のコーチで、元Jリーガーの飯島寿久氏と結婚し、ツアーに挑戦することより母親になる道を選ぶことにした。

現在、陽子さんは、3年前に名古屋グランパスのコーチを辞任した、ご主人と二人で名古屋市郊外の閑静な住宅地に、心休まる喫茶店を経営している。プロアスリートたちの華やかな人生は短い。その後に、どのように暮らしていくかが、極めて大事なこととなる。陽子さんと、ご主人は、そのことをわきまえた上で、これからの長い第二の人生設計をされている。東京町田市で生まれた、ご主人の飯島寿久さんは、サッカーの名門である帝京高校から東海大学を経て、名古屋グランパスで活躍された後、なんと富士通がサポートする川崎フロンターレにも籍を置かれたことがあった。現役引退後はずっと名古屋グランパスのコーチをされてきた。

この喫茶店も、もともと、陽子さんが、娘さんの幼稚園の送り迎えの際に待ち時間を過ごしていた憩いの場だったと言う。何度も通っている内に、オーナーから買い取らないかと誘われた。ちょうど名古屋グランパスのコーチを退任した、ご主人が、第二の人生のために、この喫茶店を買い取ることを決断したのだという。今、お二人の共通の生きがいは、この9月に名古屋インターナショナルスクールの小学校1年生になった娘さんの存在である。

米国で修業した陽子さん、英国にサッカー留学し、世界各地で日本代表として戦った飯島氏が、娘さんに期待しているのはグローバル人材になって欲しいということである。幼稚園からインターナショナル校に通っている娘さんは、小さい時から多くの外国人の子供達と付き合うことで、英語が堪能なことはもちろん、多様な考え方を容認できる寛容な子供に育っているという。目に入れても痛くないくらい可愛い娘さんがすくすくと育っていく様子は、私も、陽子さんのFacebookで楽しくみさせていただいている。

「娘さんをプロゴルファーにしたいとは思わないのですか?」という私の問いかけに、「私が18歳からゴルフを始めたのは遅すぎた。それでも、ゴルフで生きていくために、全てを犠牲にして、非常に狭い範囲で生きてきた。娘には、もっと広い世界を知ってほしい。単に知識を詰め込む日本の教育より、自分の頭で考えさせる海外の教育を受けさせることによって、娘には、世界に羽ばたいてほしい」と陽子さんは語る。

共に厳しい世界の水準を知り尽くしたプロアスリートの夫婦が選択した、娘さんの教育方針には、やはり重みがある。そして、今の陽子さんは、ここまで好きなことをやって生きてこられたのは、祖父母や両親のおかげだと感謝している。若い時には、厳しい父親の意見にはついていけないと思ったことがあったが、いざ、自分が親になってみると、その父親の愛情が身にしみるという。今も立派に現役の女子プロを続けながら、自らが信じるやり方で子育てをし、ご主人と一緒に新たな人生を歩み始めた陽子さんは、まさに、光り輝く女性である。

348  光り輝やく女性たちの物語(13)

2016年8月18日

東大を卒業後、コロンビア大学院で学びながら、ジュリアード音楽院に通い、プロのソプラノ歌手になった武井涼子さんについては、既に、この物語で紹介済みである。その涼子さんのコンサートを聴きに行こうと、夕方、田園都市線の電車に乗った時のことである。向かいの席に、ちょっと他では見ないほどの美しさを漂わせている和装の麗人が座っていた。なんて綺麗な人なのだろうと、そちらに目をやると、思わず目が合ってしまった。次の瞬間、その女性から私に声がかかる。「伊東さん、これから武井涼子さんのコンサートに行くのですか?」と。

なんと、その麗人である宮原巻由子さんはFacebookの友達だった。少し言い訳をすれば、女性は、和装と洋装では全く違う雰囲気になるので、私には、直ぐに、巻由子さんとはわからなかった。私は、涼子さんのコンサートを応援するために、随分前から、この日に涼子さんのコンサートがあり、自分も聴きに行くとFacebookで公言していたのである。そして、私は、この日の公演会場であるサンパール荒川には、どうやって行ったら良いかが、わかっていなかった。

早速、私は、巻由子さんの隣に席を移して、「私は、今日の会場への行き方がわからないのです」と言うと、「大丈夫です。ご心配要りません。私が、会場まで、ご案内します」と言われたので、素直に巻由子さんに、ついていくことにした。その間、1時間半ほどの道中で、巻由子さんから聞いた話は、私にとって、全く別世界の話であり、そこには途方もない物語があると直感し、一度、詳しく聞いてみたいと、今回インタビューを申し込んでみることになった。

そもそも巻由子さんは、大阪船場で生を受けた。巻由子さんの曽祖父は四国から幼い頃に大阪に出てきて、麻問屋に丁稚として奉公し、のれん分けしてもらい巨万の富を築くことになった。その大家族の中で、一族の子女たちと一緒に日本舞踊や社交ダンスなどを嗜んだのが、巻由子さんの芸事始めだったという。また巻由子さんの音楽活動に最も影響を与えた義兄は無類の音楽好き・オーディオファンで、義兄の自宅には本格的なカラオケルームがあった。巻由子さんは、小学校時代から義兄と一緒に深夜まで、そのカラオケルームで歌い込んだという。そうした一連のことが、将来、巻由子さんを芸能界に進めるきっかけになったのかもしれない。

そして、巻由子さんが小学校5年生の頃、一世を風靡した人気グループである「Finger 5」。グループ内の、最年少の晃君と妙子さんは、それぞれ11歳と10歳であった。巻由子さんは、自分と同い年の子が、歌を職業にしていることに、いたく感銘を受けた。「よし、自分も芸能界にデビューしてみよう」と思い立ち、当時、素人の女の子が芸能界にデビューする、一番手っ取り早い登竜門であった日本テレビの「スター誕生」に応募ハガキを出した。幼き夢多き少女の、ほんの少しの気まぐれであった。

それから巻由子さんは、順調にすくすくと成長し、大阪府立今宮高校に進学した。今宮高校は、ノーベル化学賞を受賞した福井先生も卒業した大阪府内きっての名門進学校である。高校2年になった巻由子さんは、学年で一桁の順位を維持し、将来、弁護士か検事になろうと、大阪大学法学部を目指して勉学に励んでいた。その16歳になった巻由子さんに、10歳の時に出したスター誕生への応募ハガキの返信が来たのである。「大阪地区のオーディションに来られたし」と。

当時の応募ハガキは、写真も歌のデモテープも同封する必要がなかったので、全国から何十万通もの応募ハガキが来たのだった。日本テレビは、逐次対応するのに膨大な作業を有して、巻由子さんに返信するのに、6年もの歳月が必要だった。しかし、6年もの歳月は、あまりにも長い。巻由子さんは、すでに芸能界にデビューするなどという根拠のない夢を追いかけている暇はなく、阪大法学部への入学に専念していたので、そのハガキを無視しようとしたのだが、巻由子さんの並外れた美貌に気がついていた家族は「せっかくだから挑戦だけでもしてみたら」と熱心に勧めるのだった。

「どうせ合格する訳がないし、普通は出来ない良い経験になるから行ってみるか」と仕方なく、大阪地区のオーディション会場へ行った巻由子さんは、応募者の多さに驚いた。会場には1,000人以上の少女たちが押しかけていた。会場には、アコーディオン奏者として有名な横森良造さんが、ピアノの前に座っておられて、「何を歌いたいの?」と聞き。ピアノの伴奏で数小節だけ歌わせると「はい、次」という具合に、次々とテストが続けられた。受かるつもりもなく面白くて良い経験だったとそれだけで満足していた巻由子さんは、なんと合格してしまったのだ。大阪地区1,000人の受験者のうち合格者は、たった数人、巻由子さんと、もう一人、巻由子さんの4歳年下の柏原芳恵さんが、その中にいた。そして、次は関西地区全体のTV予選に出場することになった。豊中の大ホールで行われたTV予選は、大阪地区だけでなく、神戸、京都、奈良、和歌山など各地区から選ばれた10人ほどが登場して、TV放映される「スター誕生」の予選が行われた。

殆どの年配の方は、この人気番組である「スター誕生」をご覧になった方があると思われるが、出場者が歌った後、会場にいる芸能プロダクションやレコード会社のスカウトが、欲しいと思う出場者に対して社名が書かれたプラカードを上げるのである。多数のプラカードが上がった柏原芳恵さんは、この予選の最優秀賞に輝いたわけだが、巻由子さんには、一枚のプラカードも上がらなかった。巻由子さんは、コメントを求められて「今日は、楽しい思い出が作れました。良い経験を味わせて頂きありがとうございました」と答えた。不合格ではあったが、大変な緊張の中、精一杯がんばったので悔いはなかった。

しかし、そこで信じられないことが起きた。阿久悠、都倉俊一、松田としこ、中村泰士、三木たかしといった著名な審査員たちが、今回だけ審査員特別賞を出すという。要は、スカウトたちの目は節穴か?ということだった。今回の出場者には、既に引退を表明していた山口百恵の後継者としての逸材がいたではないか? 審査員たちは、この出演者に特別に次回の決戦大会への出場を認めるというコメントであった。

その名前として「宮原巻由子さん」と呼ばれた時には、巻由子さんは、本当に驚いたという。そして、数カ月後に行われた次回の「スター誕生決戦大会」に再度出場した巻由子さんには、浅井企画と日本ビクターからプラカードが挙げられて、めでたく浅井企画に所属する芸能人としてスタートすることになった。浅井企画は、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いであった、この「スター誕生」の司会者を務める萩本欽一が所属するプロダクションである。巻由子さんは、この浅井企画のヒーロである欽ちゃんほど素晴らしい芸能人はいないと振り返る。

当時、欽ちゃんが総合司会を努めていた日本TVの主力番組である「24時間TV」に毎年出演していた巻由子さんは、欽ちゃんの人間性には心から感銘を受けたという。欽ちゃんは24時間、スタッフから仮眠をとるように求められても寝ようとしないのだという。TVに写っていないときでも、寄付して頂いた方への感謝のお礼、寄付を頂いた方からの感謝の言葉を受けることなど、すべて誠実に対応している様に、巻由子さんは、感動さえ覚えたという。

しかし、巻由子さんは、4年間を過ごした芸能界は、やはり自分には向いていなかったと考えて、別な道を歩むことにした。今後は、高校時代に得意だった英語の力で生きようと英語学校に通う。芸能界を引退した巻由子さんは、まずは、外国人向けの日本語教師として生きていこうとしたのだ。そして、その後、この英語学校で一緒に学んだ青年と、巻由子さんは恋に落ち、一男一女をもうけて、ごく普通の幸せな専業主婦となった。

しかし、好事魔多し、幸せな結婚生活も、それほど長く続くことはなかった。いつか自分の会社を持ちたいという、ご主人の野望に、有り余る資金を提供した億万長者の女性に、この幸せを壊されてしまったのだ。離婚した巻由子さんは、二人のお子さんを抱えて暮らしていくことになる。その時、巻由子さんの人生を救うことになったのは、その美貌と英語力であった。

シングルマザーとしての巻由子さんを支えた職業の一つは、モデル業である。東京銀座に本社を持つ創業50年の日本最大のモデル専業エージェントである、SOSに所属した巻由子さんは、雑誌や広告を始めとするモデル業だけでも、普通のOL以上の収入を得ることができたが、もう一つ、巻由子さんを支えた仕事は洋画の翻訳業だった。

当時は、CSなどの衛星放送が始まろうとしていた時期。毎月何百本もの洋画・海外ドラマ・アニメ・情報番組などの字幕・吹替え作品を必要としており、翻訳家が絶対的に不足する事態となった。当時日本シェアNO.1だった洋画制作部を有する制作会社東北新社でフリーランスとして活動を始めた巻由子さん。その仕事ぶりはすこぶる評判が良かった。それも、芸能界で過ごした経験が大きく役立ったのではないかと巻由子さんは言う。女優や歌手として取り組んだ演技の勉強が、映画の製作者の意図を理解しセリフを書くための素地となっていた。

翻訳家になった後もモデルを続けつつ、二人の子供たちを立派に育て上げた巻由子さんは、それぞれが自分の巣から旅立った後、寂しさと不安を感じて再婚を決意する。お相手は、何と、富士通グループの会社で部長まで勤められたITエンジニアであった。この、京都生まれで京都育ちの、新たな人生の伴侶が、会社がリタイア後の生活設計にと与えてくれた研修で、全力を尽くして書き上げた論文は、ITを用いた京都の伝統産業の振興策であった。あまりに、この論文の出来が良くて、巻由子さんのご主人は早期退職を決意して、巻由子さんと一緒に、京都の伝統産業振興プロモーションを生涯の仕事として始めることになる。

2010年、ご主人の退職を前にまず巻由子さんが最初に、事業の立ち上げ準備として使ったのはFacebookであった。どうやら、この辺から、私と巻由子さんとの接点が始まったのではないかと想像する。巻由子さんが、最初にアタックした相手は、京都に本社を持つ、株式会社中川パッケージだった。ネットで主力商品を見て、その発想力に心酔したのだ。中川パッケージは、ダンボールや緩衝材を扱う会社で、ディスプレイ・パッケージやミツバチの巣など、ダンボールでいろいろな応用分野を開拓している大変ユニークな会社である。

この会社の代表である中川仁氏からいただいたご縁で、京都発の伝統産業の仲間達を中心にしたITのグループが出来た。京都の伝統産業の優れたところを世界に知らせたい、と始めた事業はそこを基盤にして、現在は伝統工芸品の商品開発や、伝統芸能の担い手、音楽家、現代アートの芸術家の方々の応援にまで広がってきた。巻由子さんとご主人が営業・プロデュース・コーディネート・デザイン部門を分担、またご主人がIT、写真の技術とマーケティングを担当しており、その共創基盤となっている。

その仲間達の一つとして、錦織で有名な(株)龍村光峯 がある。この話のきっかけとなったオペラ歌手の武井涼子さんと友達になったのも、この龍村光峯での、ご縁だという。こうして、巻由子さんの友達の輪は、どんどん広がっていく。巻由子さんの将来の夢は、後継者不足に悩む伝統産業と自立支援を必要とする子供たちのマッチメイキングだ。児童養護施設で育った子供たちに、伝統産業の職人としての仕事を知ってもらい、職人になりたいと思う子供たちの夢を叶えるお手伝いをしたいという願いである。

今、まさに、巻由子さんは、京都の伝統産業を支える、光り輝やく女性の一人であることに間違いない。

347 新都知事に就任した小池百合子さん

2016年8月1日

昨日の東京都知事選挙で圧倒的多数で勝利した小池百合子さん。私は、個人的に小池さんを存じ上げないが、たった一度だけ二人だけで、ご一緒したことがある。もっと正確に言えば、小池さんと二人だけで座った机の向こう側のTV画面には、その時のデンマーク環境大臣コニー・ヘデゴー女史が居た。

この年、2009年12月にコペンハーゲンで開催される予定の第15回気候変動枠組条約締約国会議(COP15)の議長を務める予定のヘデゴー女史は、成功させるために年初から懸命の活動を行っていた。私が、ヘデゴー大臣から代官山のデンマーク大使館へ呼ばれた理由は、12月のCOP15本会議の半年前に、世界のビジネス界の首脳を招いて、CO2削減のための経済人会議を開催するので、それに参加するよう私に要請することだった。

なぜ、私が、その場に、呼ばれたかを想像すると、2009年当時、私は毎年ダボス会議に参加していて、欧州では、それなりに名前が売れていたことと、また富士通の欧州総代表を務めていたことが関わっていたのかもしれない。当時の富士通欧州は、従業員35,000人、売上高1兆5千億円と、富士通の歴史上最盛期だったからだ。

デンマーク大使館に着くと、大型TVスクリーンの前に机が用意されており、椅子が二つあった。そこに登場したのが、小池百合子さんである。前年の2008年に自民党総裁選挙に出馬し、将来の総理候補とまで言われた、小池さんが目の前に現れたのには本当に驚いた。そして、あのTVで見る勇猛果敢な戦闘モードの小池さんとは全く違う、礼儀正しくて、お淑やかな女性だったからだ。それから、楚々と、小池さんが、カバンから机の上に出されたのは、可愛らしい筆箱と自筆と思われる数枚の英文資料だった。

私なぞは、全く原稿も用意せず、ぶっつけ本番で、直接、ヘデゴー女史とやりとりするつもりなのに、小池さんは、流石、準備万端で会議に望まれるのは偉いなと感心した。この方は、十分に周到な準備をしてから戦闘モードに入る方なのだと、この時に思った。しかし、ヘデゴー大臣とのTV会議は終始和やかに進んでいった。

ヘデゴー大臣と小池さんは、コニー、ゆり子とファーストネームで呼び合う仲で、お互いに尊敬し合う同士のような雰囲気だった。お互いに環境大臣を経験し、ヘデゴー女史は、COP15の議長として成果を挙げれば、次にデンマーク首相に就任するという暗黙の了解が、デンマーク政界にはあったようである。その意味で、日本で最初の女性総理大臣候補No1だった小池さんと、ヘデゴー女史は、首相になるという目標を共有されていた。

その後、ヘデゴー大臣が主催され、私も参加させて頂いた、世界ビジネス環境会議は、ゴア元米国副大統領、潘 基文国連事務総長を始めとして、多数の世界のグローバル企業のTOPが参加されて大成功だった。その会議のランチで、私は、世界最大の風力発電機製造会社であるデンマークのベスタス社のCEOや、インド最大の電力会社であるタタ電力のCEOと同じテーブルになり、有益な話を沢山させて頂いた。その意味で、この会議に招待して頂いたヘデゴー女史には、本当に感謝している。

しかし、12月に行われたCOP15の本会議で議長を務めたヘデゴー女史は、中国の妨害で全く成果をあげられなかっただけでなく、先進国の中で、あらかじめ筋書きが作られていたとの新興国からの告発を受けて、無念にも議長を途中で交代させられた。このCOP15で成功すれば、デンマーク首相になっていたはずの、ヘデゴー女史はデンマーク政界から引退せざるをえなくなった。しかし、その後、ヘデゴー女史はEUの環境大臣として、もっと大きな舞台で見事に復活することになる。

環境大臣から防衛大臣まで務めた、小池さんも、ヘデゴー女史と同じく、将来の総理大臣候補と言われながら、安倍総理の総裁選に敵対することで、もはや、その目がなくなったと言われてきた。しかし、この度、日本の総理大臣以上に世界から注目を浴びる東京都知事に就任することでリベンジを果たしたとも言える。

さて、世界から見た東京は3,500万人を擁する世界最大の都市と認識されている。コトラー著「世界都市間競争」では、世界経済は、もはや国と国との競争ではなくて、都市と都市との競争で勃興・没落が決まるとも論じられている。つまり、アベノミックスよりコイケノミックスの方が、より責任が重いという意味である。さて、小池さん、これからどうするか?