344 英国のEU離脱について思うこと (2)

2016年6月26日

製造業で優位性を失った英国の基幹産業は金融業である。米国のウオール街ではなく、英国のシティに海外本社を設置した日本の金融企業のトップの方から、「アメリカの金融システムはルール(規則)ベースだが、英国はプリンシプル(原則)ベース。だからシティに本社を移した」と伺った。どうもルール(規則)ベースで雁字搦めの規則に縛られると金融業は成長が難しいということらしい。

それではプリンシプル(原則)ベースとは、一体何なのか? どうも、シティの基本原則は、素人の一般投資家を騙したり、迷惑をかけたりしてはならないということらしい。従って、それ以外は何でも許される。つまり、プロ同士は、騙しても良いということらしい。プロの投資家であれば、騙される方が悪いということのようだ。こうしたシティの柔軟な考え方は、欧州大陸随一の金融街であるフランクフルトでは多分真似できない。EUという巨大な市場をバックにつけたシティがウオール街を凌駕した繁栄を享受できたのも、通貨はポンドではあるけれども、英国がEUに所属していたことが大きな根拠となっていた。

私は、一昨年、シティで5本の指に入るファンドを有する浅井さんの事務所を訪問した。浅井さんが、取り扱っている主要金融商品は日本国債である。なのに、なぜロンドンでビジネスを展開しているかである。その秘密は人材にあった。浅井さんのオフィスで働いているトレーダーの8割はインド人である。浅井さんに言わせると、IQ180以上で毎日3時間の睡眠で働ける人を採用したら、そうなった、これは日本ではできないということらしい。英国の基幹産業である金融業で繁栄とともにトビッキリ豊かな収入を獲得できる人達は、そういう人々である。彼らにとってみれば、英国がEUに残留することを当然支持することになる。EU域内に居るからこそ、フランクフルトの分まで、自分たちの仕事になるからだ。EUから離脱したら、これまでのシティの仕事の多くが、フランクフルトに移ってしまうことになるかもしれない。

それでは、金融業以外の業種において、この度の英国のEU離脱は、どう影響するかである。少なくとも、私が知る限りにおいて、例えば、富士通が買収したICLについては、欧州大陸のビジネスは極めて少ない割合だった。この英国に本社を持つICLの海外ビジネスと言えば、南アフリカ、インド、シンガポール、香港、オーストラリア、カナダなど、旧英連邦が主たるビジネス領域であった。後ほど、また詳しく述べたいが、欧州大陸全体を統括する地域本社を英国のロンドンに置くという選択は、金融業以外では正しい選択とは言えない。トヨタも欧州の地域本社は、EU本部がある、ベルギーのブルッセルに置いている。

数年ほど前にインドのデリーに行った時、日本の援助で地下鉄工事が行われていたが、これはデリーでコモンウエルス(Commonwealth)スポーツ大会が行われるので、その準備だという。インドの人たちにとっては、コモンウエルススポーツ大会はオリンピックより重要な競技会であるという。そのコモンウエルスこそ旧英連邦の別名である。本来のコモンウエルスは「共通善」とか「善なる目標を共有する社会連合」という意味らしいが、英国は、「旧英連邦所属の共和国による、ゆるやかな国家連合」として固有の意味をもたせている。

ロンドンのヒースロー空港に降り立つと、その入国審査の混雑ぶりに驚かされる。これは、未だ英国がEUに加盟する前から、そうだった。旧英連邦の人々が大量に英国にやってくるのである。特に、インド系であるバングラデッシュからの移民は最も多かった。その意味で、英国がEU離脱を果たしたとしても、このコモンウエルスからの移民は途絶えないだろうから、移民問題だけが、EU離脱の大きな要因ではない。

富士通は、10年ほど前にSiemensのコンピューター事業部門を事実上買収し、5年ほど前に完全子会社化した。それを機に、欧州全体の地域本社をロンドンに置いていた管理体制を抜本的に見直して、欧州大陸全体の地域本社をミュンヘンに移し、ロンドンの地域本社では英国と北欧だけを管轄する体制に変更した。先ほど、英国の旧ICLが欧州大陸では殆どビジネスをしていないのと同様に、欧州大陸側の旧Siemensも英国では、殆どビジネスが出来ていなかったからである。

英国が旧英連邦を中心としたビジネスをしているのに対して、欧州大陸、特にドイツ企業のビジネスの相手は、東欧からトルコ、ロシア、中東、そして中国というように東側を向いて海外ビジネスを行っている。EUを構成する2大勢力である英国とドイツは、実は、相互には大きな関連もなく、そして競合もなく、また関心もないように見えるのだ。そして、それは経済関係だけでなく、政治的な関係でも互いに相容れないものを持っている。

アメリカが対イラク戦争を開始した時に、英国は真っ先に参戦を表明した。しかし、ドイツはアメリカへの協力を否んだばかりか対イラク戦争に反対したのである。この時に、私はミュンヘンでドイツ人の同僚に、その理由を尋ねた。その答えは「イラクはドイツの隣国だから、仲良くしなければならない」というものだった。この時に、とっさに地球儀が頭に浮かんだが、どうしてイラクがドイツの隣国なのだろうと思った。

よく考えてみると、ドイツには膨大な数のトルコ人がいる。イラクは、そのトルコの隣国なのだ。かつて、第二次世界大戦の時に、ヒットラーが進めた3B政策、ベルリン、ビザンチン(イスタンブール)、バグダッドを結ぶ枢軸政策の終点にイラクの首都バグダッドがある。そして、それは、英国の海外戦略である3C政策、カイロ、ケープタウン、カルカッタに真っ向から対立するものであった。英国が、EUに加盟しながら通貨をポンドからユーロに変更しなかった理由、ドイツが、未だにユーロだけでなくマルクも使えるように残している理由は、欧州における、このG2(英国、ドイツ)の覇権争いなのかもしれない。

英国のEU離脱は、まだ、今後に、どのような大きな問題を引き起こすか誰にもわからない。しかし、ドイツを中心とするEU側が、英国に残留するよう懇願するのではなく、英国に対して「出て行くなら早く出て行け」と最後通牒を申し渡したということは、ドイツは、既に、こうした事態を早くから織り込み済みだったのかも知れない。

343 英国のEU離脱について思うこと  (1)

2016年6月26日

6月24日、英国のEU離脱の是非を問う国民投票の結果が出るという日に、私は、全日空インターコンチネンタルホテルにて開催された、ゼンショーの株主総会に登壇していた。株主総会開始直前は、残留派が僅かにリードと伝えられていたのが、終了後の昼食会にて離脱がほぼ確定というニュースを聞いた役員全員が、何とも言いようがない感じに包まれた。

例えば、日本最大の外食企業であるゼンショーにとってみても、英国のEU離脱が有利なのか不利なのか全く読めない。大量の食肉を輸入しているので、円高の方が有利であることには間違いないが、それも既に長期的に為替予約をしているので、大きな利益につながるわけではない。むしろ、世界的な景気後退によって、日本の景気も悪化し、顧客単価が下がることの方が怖い。少なくとも、株主総会で、こうした難しい問題が、質問の話題にならなかったことで、とりあえず安堵したというのが正直なところであった。

さて、この問題は、多くのメディアにて沢山の専門家が意見を述べている。私は、こうした議論に参加できるほどの深い見識は、とても持ち合わせていないが、富士通の海外事業において欧州総代表を2年ほど務め、日本-EUビジネスラウンドテーブルに8年間に渡って参加してきた経験から、この問題に関して、いろいろ感じたことを書き綴ってみたい。

富士通は、今から30年ほど前に、サッチャー首相の要請を受けて英国最大のIT企業であったコンピューター公社(ICL)を買収した。元IBMのチーフエンジニアであるアムダール博士が設立した、IBM互換機メーカである米国アムダール社を買収してから、ほどなくの事であった。私たち富士通社員が頻繁にロンドンへ出張するようになったのは、それ以来である。暫くして、そのICLが北欧の雄であるノキアのコンピューター部門を買収することになり、急遽、私もヘルシンキに行くことになった。「ICLが買った会社が、どんな会社か見てこい」という命令である。大英帝国の国営企業であったICLは富士通に買収されてからも、富士通の子会社という意識が全く希薄で、富士通本社への説明を十分にしないまま買収を決定してしまったからだ。

こうして、私と英国との付き合いが始まったわけだが、英国には、日本からは知りえない多くの難しい事情があった。その一つ例をあげたい。私たちの仲間にスコットランド出身者が居た。彼に言わせると、自分は英国人ではなくてスコットランド人であるという。確かに、英国の呼称にはUK:United KingdomやGB:Great Britainなど、いろいろな呼び名があるが、日本人がよく使うイングランドは英国全体の呼称ではない。このスコットランド人の彼に言わせると「もし、サッカーで日本とイングランドが対戦することになったら、自分は、迷うことなく日本を応援する。しかし、スコットランドと日本が対戦する時は、当然、応援はスコットランドだね」という。

そして、英国発祥で、国民的人気を博しているスポーツであるサッカーにおいて、イングランドとスコットランドが合体した英国代表(GB)チームという存在はオリンピックの時だけ結成されるが、その戦績は全く惨めなものである。イングランドとスコットランドの境界線は、大昔、ローマ帝国の国境線であった。これほど、古い時代から、両者は峻別されていたのである。私が、このスコットランドの州都エディンバラに行ったのは、セントアンドリュースで開催される、第一回全英女子オープンでのプロアマ戦に招待されたからだった。

主催者であるリコーの近藤社長と宮里藍さんと、セントアンドリュースのオールドコースを一緒に回れるなど、夢のようなことであった。時は、8月3日、真夏なのに気温3度、冬のような寒さであった。このため、翌日からの本番も暖かい沖縄で育った藍さんの成績は振るわなかった。多分、温暖な地中海に住んでいたローマ帝国の戦士達にも、1日の間に四季の天気が訪れるスコットランドは魅力ある土地には見えなかったのかも知れない。

このエディンバラには、ゴルフコースだけでなく、セントアンドリュース大学があり、王位継承権第2位のウイリアム王子が、ここで大学生活を送られた。ウイリアム王子が、ロンドンにあるオックスフォード大学でもケンブリッジ大学でもなく、セントアンドリュース大学で学ばれたのは、多分、ゴルフが大好きだったからではない。英国政府と英国王室が、対スコットランド融和政策の一環として考えられたに違いない。逆に考えれば、英国にとってスコットランド独立問題は、王室の協力も必要なほど深刻な問題だとも言える。

長い間、イングランドに支配されてきたスコットランドの人たちにとってみれば、英国がEUに残留することによって、独立はできなくても、自分たちがイングランド支配から解放されるかも知れないという希望が持てたに違いない。だから、多くのスコットランド人がEU残留に票を投じたのであろう。それでは、ロンドン市を除く大半のイングランドの人々がEU離脱に票を投じたのは、どうしてだろうか? まず、この英国のEU離脱国民投票の結果が出るまでの、為替レートを見てみると、ドルは110円くらい、ポンドは150円くらい、ユーロは120円くらいである。

カルフォルニアからミュンヘンに転勤にして、暫くしてロンドンに転勤になった富士通の同僚が言うには、食料品を買う時の値札には、ドルもユーロもポンドも、皆、同じ数字が書いてあるというのである。つまり、ロンドンは、食料品だけでなく、とにかく、なんでも高いのだ。一番、恐ろしいのは住宅価格である。富士通のロンドン駐在員も、家賃の説明を東京本社にするのが一番大変だという。「お前、どれだけ豪勢な邸宅を借りようとしているのだ」と本社から怒鳴られるからである。

とにかく、英国の景気はすこぶる良い。そのため物価も家賃も高い。街には高級車がいっぱい走っている。しかし、ロンドンを除くイングランド全体の庶民の所得は、殆ど上がっていない。一方、失業率は、どんどん高くなっている。それで、暮らしは、どんどん厳しくなる一方である。彼らは、その主たる原因が東欧から英国に職を求めてやってきた大量の移民のせいだと考えている。そして、それは多分間違ってはいない。英国経済が伸長しても、自分たちに恩恵はさっぱり来ないとすれば、その原因を断ち切るには、移民を制限する、つまりEU離脱するしかないと考えても、さほど不思議ではない。

さて、それではロンドン市内では、なぜEU残留賛成が多かったのであろうか?一昨年、多くの若者が起業しているというイーストエンド・ロンドンに行ってみた。ロンドン市がオリンッピック対策としてロンドン市内のスラム街に住んでいる人たちを、郊外に新築した公共住宅に移転させ、その跡地をリノベーションして、起業家たちに貸すことにした。その政策は、見事に当たり、かつてスラム街だったイーストエンド・ロンドンは、こざっぱりとしたサンフランシスコに見える。まさに、シリコンバレーと同じ活気が溢れている。しかし、街を闊歩している人達の殆どが、非白人の人々で、昔からイングランドに住んでいる人達ではない。こうして、新しいロンドンを支える人達も、また、移民か移民2世である。

こうして移民の知恵や労働力をうまく活用して、英国経済の繁栄を享受している人たちや、移民の人たち自身も含めて、英国のEU残留を支持することになったのであろう。英国が、EU離脱か、残留かをめぐって、深い分裂の闇に陥るには、その必然性があったように見える。

342 光り輝く女性たちの物語  (12)

2016年6月14日

今回は、フリーアナウンサーとして広範囲に活躍されている、香月よう子さんの物語である。私と、よう子さんとは、長くFacebook上での友達として交信し、今回、生のよう子さんとお会いするのは初めてである。よう子さんが、いつも日常的な話題をウイットが効いた形でFacebookに投稿されている記事は、大変評価が高い。最近の投稿では、中学生に成ったばかりの息子さんと一緒に世界ロボット選手権に出場するため、親子で米国アーカンソー州へ出かけた記事が掲載され、非日常的なテーマでも話題を集めている。

そんな、よう子さんは、フリーアナウンサーとして、既に10,000人以上の方にインタビューをされている。つまり、今回、私はプロのインタビュアーをインタビューするわけだから、普段以上に緊張した。しかし、プロのインタビュアーとしてのよう子さんは、私がインタビューしやすいように、上手に、お答え頂くと同時に、しっかり、私をインタビューされていたのである。やはり、プロのインタビュアーは、何と言っても聞き上手なのだ。

お爺様と、お父様の2代に渡って朝日新聞の記者をされるなど、ジャーナリスト一家に育ち、都立西高校では放送部、中央大学では放送研究会に所属した、よう子さんが、現在、フリーアナウンサーとして幅広く活躍されているのは、至極当然な歩みであり、それだけを聞けば、まさに順風満帆な人生の軌跡でしかない。もし、そうであるならば、ここで取り上げる価値のある特別な物語にはならない。これから語る、よう子さんの物語は、長く回り道をして、ようやく現在の姿に辿り着いた「クローニン全集」である。

1989年、日本経済のバブル絶頂期の大学を卒業した、よう子さんは、本当はラジオのパーソナリティの仕事をしたかったのだが、なり方がわからなくて、当時、華やかに輝いていた西武百貨店に入社し、西武百貨店の関西進出のシンボルである、大阪ロイヤルホテル内の富裕層向けブランドショップ西武PISAに勤務することになった。なにしろバブルの絶頂期であり、店には3億円のダイヤまで陳列されていて、もちろん、直ぐに売れた。さらに、700万円もするKelly bagなど店頭に並べる前に完売してしまったというから今では考えられないほど凄い。

東京育ちの、よう子さんは、初めて親元を離れて大阪で花の独身生活を満喫していた。ミナミで深夜まで飲んだ時には、帰りのタクシーがつかまらずに、もう一軒、もう一軒とハシゴをしているうちに朝が明けていることもあった。しかし、翌年、前代未聞のバブルが弾けると世の中は一変した。よう子さんも、私が目指していたのは、こんな生活じゃないと気づく。その時に、よう子さんの頭に閃いたのは、ファッションショーでこなした司会の評判がすこぶる良かったこと。それで、よう子さんは、西武百貨店を辞めて、本当は自分が一番やりたかったアナウンサーを目指すことにした。

そして、よう子さんは、せっかく大阪に来たのだから、大阪でアナウンサーとしての道を開こうと考える。いろいろなアルバイトをしながら、アナウンサーの勉強をし、アナウンサーとしての就活を3年間にわたって続けることになる。時は、バブルが完全に弾けた1995年、よう子さんは26歳になった。今も花形の職業となった「女子アナ」は、当時から既に、人気の職業であった。フリーアナンウンサーとして、どこかの事務所と契約するにしても、まず、その前に履歴書には「局アナ」としてのキャリアがないと話にならなかったのである。

すっかり途方に暮れた、よう子さんは、生まれ故郷の東京に戻って、再挑戦することとした。ある時、大手から独立をした新しいプロダクションが立ち上がることを知る。よう子さんは、早速、赤坂にある事務所に電話をして応募に必要な書類や資料を聞いて郵送しようと思ったのだが、これまでも書類審査では、全て門前払いだったという悪夢を思い出して事務所に直接持参することにした。

事務所に到着すると、運良く事務所の社長に会えたので、よう子さんは、思い切って、その場で発声テストをしてもらうことにした。この社長さんが、大変優しい方で、よう子さんの声を聞いた後に、東京FMのオーデションを紹介して下さった。そして、よう子さんは見事合格。遂に、念願のラジオパーソナリティとしての第一歩を手にしたのである。こうなると、元々素質に恵まれていた、よう子さんは、あちこちから声がかかり、シンポジウムのコーディネーターやモデレータなど多彩な仕事をこなすようになる。冒頭紹介したように、10,000人以上の方々とのインタビューやトークショウ、結婚披露宴の司会だけでも600回以上もこなしている。

よう子さんが、インタビューをされた方の中には、元聖路加病院院長の日野原重明氏、ノーベル賞受賞者の小柴昌俊先生、建築家の安藤忠雄氏など蒼々たる方々がおられるわけだが、よう子さんの凄いところは、こうした貴重な出会いを、これから紹介する社会貢献活動に次々と活かしていくところである。余談ではあるが、ご主人との出会いも仕事を通じてだった。大阪に本社があるイベント企業の東京支社に勤務しているご主人が、女性のフリーアナウンサーを探していて、よう子さんと出会うことになった。よう子さんは、仕事柄、大阪の芸能プロダクションの幹部と会うことも多いのだが、大阪の業界に詳しい、ご主人が、事前に、アドバイスをくれることが大変助かっているという。

フリーアナウンサーとして活躍している、よう子さんの関心事の一つが教育分野にあった。特に、自分で考え、新しいものを生み出す力が必要とされる時代に、前時代的な教育を施す学校教育に対して何とかしなければならないと思っていた。そんなことを考えているとき、ある方の講演会で出会ったソニーの方より紹介されたのが「きてきて先生プロジェクト」だった。NHKで放映されている「ようこそ先輩 課外授業」を思い浮かべていただくと想像がつくと思われるが、一芸に秀でた「ホンモノ先生」が学校へいって授業をする市民団体だ。リクルートにいた藤崎慎一氏(現株式会社地域活性プランニング代表取締役)により立ち上げられ、リクルートが受託した地域活性事業のひとつとして、静岡県伊東市の小学校10校に「ホンモノ先生」を派遣した。

よう子さんの思いは、地域(地縁血縁団体だけでなく企業や大学も含む)と学校が連携し、社会総がかりで子どもを育てることにより、学校を核として地域コミュニティを再生したいということである。言い換えれば、子どもがしっかり根をはれる場を作るということでもある。そのためには、それぞれをつなぐコーディネーターも必要だし、外部講師や外部プログラムをきちんとカリキュラムに組み込める教員を増やす必要もある。外部講師がやってきてただお話をするだけであれば、たった一回限りのイベント授業になってしまう。

そうではなく、本当に子どもが自分の力で考え、生きていけるようになるために子どもが担任の先生と考え、変容していける授業を作らねばならない。そのために外部の講師やプログラムを有効に活用できる教員やコーディネーターを育て、さらに、良質な外部の講師やプログラこうした活動は厚生省健康回復都市事業の一環として伊東市の小学校10校を手始めに、これまでに200校、1,000人以上の外部講師と子供との出会いを作ってきた。現在、よう子さんは、一般社団法人きてきて先生プロジェクトの代表理事を務めている。

よう子さんは、東京FM以外でも、青葉区の地域コミュニティFMであるFMサルースも定番の番組を持っていた。その番組で、よう子さんが知り合ったのが、たまプラーザ駅近くで産婦人科を開業されている桜井明弘医師だった。これまで、3万人以上の不妊治療患者を診察してこられた経験を生かして、女性の生き方、ワークスタイル、食事などに対して高い見識を持っておられる先生である。

よう子さんは、中学生になる優秀な息子さんがおられるが、その前後の、お子さん達を流産で失っている。息子さんは、まさに奇跡の子だったのだ。こうした実体験を踏まえて、桜井先生の考え方に共鳴し、桜井先生が代表で、よう子さんが事務局長を務める一般社団法人子宮美人化計画を立ち上げた。ちょっと、ドキッとする名前のせいもあるのか、現在、中央官庁や企業、団体などから、多くの問い合わせを受けている。このプロジェクトは、仕事か出産かで悩む女性に対して、多様なワークスタイル、ライフスタイルを身体的、心理的、社会的見地から提案をしている。

桜井先生は、「2007年に開業した当時、一番多かったのが40代前半の患者さん。彼女たちはバブル絶頂期を経験して、仕事も遊びも満喫。でも、その後に不妊という現実が待っていた。初めてお金で手に入らないものがあることを知ったんです。今まで、誰も教えてくれなかった。そう泣き崩れる女性を数え切れないほど見てきました。」と語る。まさに、よう子さんと同期の女性たちである。この女性達も含めて、多くの女性たちに、どのような救いの手を差し伸べられるかが、このプロジェクトの大きな目的である。

こうして、よう子さんの半生を伺ってみると、順調でなかったからこそ、そして、回り道をしたからこそ、得たものが大きいように見える。だからこそ、苦しんでいる人々に共感を持てるのであろう。フリーアナウンサーとして、数多くの司会やコーディネーターをこなしている、よう子さんだが、この役目は、無事に次第が進行して時間通りに終われば良いというものではない。聴衆の方々に何を感じてもらい、何を考えてもらうかという大切な役割がある。きっと、いろいろな社会貢献を手がけているからこそ、そうした難しい仕事が出来るのにちがいない。よう子さんは、まさに、日本が誇る、光り輝く女性の一人である。