348  光り輝やく女性たちの物語(13)

2016年8月18日

東大を卒業後、コロンビア大学院で学びながら、ジュリアード音楽院に通い、プロのソプラノ歌手になった武井涼子さんについては、既に、この物語で紹介済みである。その涼子さんのコンサートを聴きに行こうと、夕方、田園都市線の電車に乗った時のことである。向かいの席に、ちょっと他では見ないほどの美しさを漂わせている和装の麗人が座っていた。なんて綺麗な人なのだろうと、そちらに目をやると、思わず目が合ってしまった。次の瞬間、その女性から私に声がかかる。「伊東さん、これから武井涼子さんのコンサートに行くのですか?」と。

なんと、その麗人である宮原巻由子さんはFacebookの友達だった。少し言い訳をすれば、女性は、和装と洋装では全く違う雰囲気になるので、私には、直ぐに、巻由子さんとはわからなかった。私は、涼子さんのコンサートを応援するために、随分前から、この日に涼子さんのコンサートがあり、自分も聴きに行くとFacebookで公言していたのである。そして、私は、この日の公演会場であるサンパール荒川には、どうやって行ったら良いかが、わかっていなかった。

早速、私は、巻由子さんの隣に席を移して、「私は、今日の会場への行き方がわからないのです」と言うと、「大丈夫です。ご心配要りません。私が、会場まで、ご案内します」と言われたので、素直に巻由子さんに、ついていくことにした。その間、1時間半ほどの道中で、巻由子さんから聞いた話は、私にとって、全く別世界の話であり、そこには途方もない物語があると直感し、一度、詳しく聞いてみたいと、今回インタビューを申し込んでみることになった。

そもそも巻由子さんは、大阪船場で生を受けた。巻由子さんの曽祖父は四国から幼い頃に大阪に出てきて、麻問屋に丁稚として奉公し、のれん分けしてもらい巨万の富を築くことになった。その大家族の中で、一族の子女たちと一緒に日本舞踊や社交ダンスなどを嗜んだのが、巻由子さんの芸事始めだったという。また巻由子さんの音楽活動に最も影響を与えた義兄は無類の音楽好き・オーディオファンで、義兄の自宅には本格的なカラオケルームがあった。巻由子さんは、小学校時代から義兄と一緒に深夜まで、そのカラオケルームで歌い込んだという。そうした一連のことが、将来、巻由子さんを芸能界に進めるきっかけになったのかもしれない。

そして、巻由子さんが小学校5年生の頃、一世を風靡した人気グループである「Finger 5」。グループ内の、最年少の晃君と妙子さんは、それぞれ11歳と10歳であった。巻由子さんは、自分と同い年の子が、歌を職業にしていることに、いたく感銘を受けた。「よし、自分も芸能界にデビューしてみよう」と思い立ち、当時、素人の女の子が芸能界にデビューする、一番手っ取り早い登竜門であった日本テレビの「スター誕生」に応募ハガキを出した。幼き夢多き少女の、ほんの少しの気まぐれであった。

それから巻由子さんは、順調にすくすくと成長し、大阪府立今宮高校に進学した。今宮高校は、ノーベル化学賞を受賞した福井先生も卒業した大阪府内きっての名門進学校である。高校2年になった巻由子さんは、学年で一桁の順位を維持し、将来、弁護士か検事になろうと、大阪大学法学部を目指して勉学に励んでいた。その16歳になった巻由子さんに、10歳の時に出したスター誕生への応募ハガキの返信が来たのである。「大阪地区のオーディションに来られたし」と。

当時の応募ハガキは、写真も歌のデモテープも同封する必要がなかったので、全国から何十万通もの応募ハガキが来たのだった。日本テレビは、逐次対応するのに膨大な作業を有して、巻由子さんに返信するのに、6年もの歳月が必要だった。しかし、6年もの歳月は、あまりにも長い。巻由子さんは、すでに芸能界にデビューするなどという根拠のない夢を追いかけている暇はなく、阪大法学部への入学に専念していたので、そのハガキを無視しようとしたのだが、巻由子さんの並外れた美貌に気がついていた家族は「せっかくだから挑戦だけでもしてみたら」と熱心に勧めるのだった。

「どうせ合格する訳がないし、普通は出来ない良い経験になるから行ってみるか」と仕方なく、大阪地区のオーディション会場へ行った巻由子さんは、応募者の多さに驚いた。会場には1,000人以上の少女たちが押しかけていた。会場には、アコーディオン奏者として有名な横森良造さんが、ピアノの前に座っておられて、「何を歌いたいの?」と聞き。ピアノの伴奏で数小節だけ歌わせると「はい、次」という具合に、次々とテストが続けられた。受かるつもりもなく面白くて良い経験だったとそれだけで満足していた巻由子さんは、なんと合格してしまったのだ。大阪地区1,000人の受験者のうち合格者は、たった数人、巻由子さんと、もう一人、巻由子さんの4歳年下の柏原芳恵さんが、その中にいた。そして、次は関西地区全体のTV予選に出場することになった。豊中の大ホールで行われたTV予選は、大阪地区だけでなく、神戸、京都、奈良、和歌山など各地区から選ばれた10人ほどが登場して、TV放映される「スター誕生」の予選が行われた。

殆どの年配の方は、この人気番組である「スター誕生」をご覧になった方があると思われるが、出場者が歌った後、会場にいる芸能プロダクションやレコード会社のスカウトが、欲しいと思う出場者に対して社名が書かれたプラカードを上げるのである。多数のプラカードが上がった柏原芳恵さんは、この予選の最優秀賞に輝いたわけだが、巻由子さんには、一枚のプラカードも上がらなかった。巻由子さんは、コメントを求められて「今日は、楽しい思い出が作れました。良い経験を味わせて頂きありがとうございました」と答えた。不合格ではあったが、大変な緊張の中、精一杯がんばったので悔いはなかった。

しかし、そこで信じられないことが起きた。阿久悠、都倉俊一、松田としこ、中村泰士、三木たかしといった著名な審査員たちが、今回だけ審査員特別賞を出すという。要は、スカウトたちの目は節穴か?ということだった。今回の出場者には、既に引退を表明していた山口百恵の後継者としての逸材がいたではないか? 審査員たちは、この出演者に特別に次回の決戦大会への出場を認めるというコメントであった。

その名前として「宮原巻由子さん」と呼ばれた時には、巻由子さんは、本当に驚いたという。そして、数カ月後に行われた次回の「スター誕生決戦大会」に再度出場した巻由子さんには、浅井企画と日本ビクターからプラカードが挙げられて、めでたく浅井企画に所属する芸能人としてスタートすることになった。浅井企画は、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いであった、この「スター誕生」の司会者を務める萩本欽一が所属するプロダクションである。巻由子さんは、この浅井企画のヒーロである欽ちゃんほど素晴らしい芸能人はいないと振り返る。

当時、欽ちゃんが総合司会を努めていた日本TVの主力番組である「24時間TV」に毎年出演していた巻由子さんは、欽ちゃんの人間性には心から感銘を受けたという。欽ちゃんは24時間、スタッフから仮眠をとるように求められても寝ようとしないのだという。TVに写っていないときでも、寄付して頂いた方への感謝のお礼、寄付を頂いた方からの感謝の言葉を受けることなど、すべて誠実に対応している様に、巻由子さんは、感動さえ覚えたという。

しかし、巻由子さんは、4年間を過ごした芸能界は、やはり自分には向いていなかったと考えて、別な道を歩むことにした。今後は、高校時代に得意だった英語の力で生きようと英語学校に通う。芸能界を引退した巻由子さんは、まずは、外国人向けの日本語教師として生きていこうとしたのだ。そして、その後、この英語学校で一緒に学んだ青年と、巻由子さんは恋に落ち、一男一女をもうけて、ごく普通の幸せな専業主婦となった。

しかし、好事魔多し、幸せな結婚生活も、それほど長く続くことはなかった。いつか自分の会社を持ちたいという、ご主人の野望に、有り余る資金を提供した億万長者の女性に、この幸せを壊されてしまったのだ。離婚した巻由子さんは、二人のお子さんを抱えて暮らしていくことになる。その時、巻由子さんの人生を救うことになったのは、その美貌と英語力であった。

シングルマザーとしての巻由子さんを支えた職業の一つは、モデル業である。東京銀座に本社を持つ創業50年の日本最大のモデル専業エージェントである、SOSに所属した巻由子さんは、雑誌や広告を始めとするモデル業だけでも、普通のOL以上の収入を得ることができたが、もう一つ、巻由子さんを支えた仕事は洋画の翻訳業だった。

当時は、CSなどの衛星放送が始まろうとしていた時期。毎月何百本もの洋画・海外ドラマ・アニメ・情報番組などの字幕・吹替え作品を必要としており、翻訳家が絶対的に不足する事態となった。当時日本シェアNO.1だった洋画制作部を有する制作会社東北新社でフリーランスとして活動を始めた巻由子さん。その仕事ぶりはすこぶる評判が良かった。それも、芸能界で過ごした経験が大きく役立ったのではないかと巻由子さんは言う。女優や歌手として取り組んだ演技の勉強が、映画の製作者の意図を理解しセリフを書くための素地となっていた。

翻訳家になった後もモデルを続けつつ、二人の子供たちを立派に育て上げた巻由子さんは、それぞれが自分の巣から旅立った後、寂しさと不安を感じて再婚を決意する。お相手は、何と、富士通グループの会社で部長まで勤められたITエンジニアであった。この、京都生まれで京都育ちの、新たな人生の伴侶が、会社がリタイア後の生活設計にと与えてくれた研修で、全力を尽くして書き上げた論文は、ITを用いた京都の伝統産業の振興策であった。あまりに、この論文の出来が良くて、巻由子さんのご主人は早期退職を決意して、巻由子さんと一緒に、京都の伝統産業振興プロモーションを生涯の仕事として始めることになる。

2010年、ご主人の退職を前にまず巻由子さんが最初に、事業の立ち上げ準備として使ったのはFacebookであった。どうやら、この辺から、私と巻由子さんとの接点が始まったのではないかと想像する。巻由子さんが、最初にアタックした相手は、京都に本社を持つ、株式会社中川パッケージだった。ネットで主力商品を見て、その発想力に心酔したのだ。中川パッケージは、ダンボールや緩衝材を扱う会社で、ディスプレイ・パッケージやミツバチの巣など、ダンボールでいろいろな応用分野を開拓している大変ユニークな会社である。

この会社の代表である中川仁氏からいただいたご縁で、京都発の伝統産業の仲間達を中心にしたITのグループが出来た。京都の伝統産業の優れたところを世界に知らせたい、と始めた事業はそこを基盤にして、現在は伝統工芸品の商品開発や、伝統芸能の担い手、音楽家、現代アートの芸術家の方々の応援にまで広がってきた。巻由子さんとご主人が営業・プロデュース・コーディネート・デザイン部門を分担、またご主人がIT、写真の技術とマーケティングを担当しており、その共創基盤となっている。

その仲間達の一つとして、錦織で有名な(株)龍村光峯 がある。この話のきっかけとなったオペラ歌手の武井涼子さんと友達になったのも、この龍村光峯での、ご縁だという。こうして、巻由子さんの友達の輪は、どんどん広がっていく。巻由子さんの将来の夢は、後継者不足に悩む伝統産業と自立支援を必要とする子供たちのマッチメイキングだ。児童養護施設で育った子供たちに、伝統産業の職人としての仕事を知ってもらい、職人になりたいと思う子供たちの夢を叶えるお手伝いをしたいという願いである。

今、まさに、巻由子さんは、京都の伝統産業を支える、光り輝やく女性の一人であることに間違いない。

347 新都知事に就任した小池百合子さん

2016年8月1日

昨日の東京都知事選挙で圧倒的多数で勝利した小池百合子さん。私は、個人的に小池さんを存じ上げないが、たった一度だけ二人だけで、ご一緒したことがある。もっと正確に言えば、小池さんと二人だけで座った机の向こう側のTV画面には、その時のデンマーク環境大臣コニー・ヘデゴー女史が居た。

この年、2009年12月にコペンハーゲンで開催される予定の第15回気候変動枠組条約締約国会議(COP15)の議長を務める予定のヘデゴー女史は、成功させるために年初から懸命の活動を行っていた。私が、ヘデゴー大臣から代官山のデンマーク大使館へ呼ばれた理由は、12月のCOP15本会議の半年前に、世界のビジネス界の首脳を招いて、CO2削減のための経済人会議を開催するので、それに参加するよう私に要請することだった。

なぜ、私が、その場に、呼ばれたかを想像すると、2009年当時、私は毎年ダボス会議に参加していて、欧州では、それなりに名前が売れていたことと、また富士通の欧州総代表を務めていたことが関わっていたのかもしれない。当時の富士通欧州は、従業員35,000人、売上高1兆5千億円と、富士通の歴史上最盛期だったからだ。

デンマーク大使館に着くと、大型TVスクリーンの前に机が用意されており、椅子が二つあった。そこに登場したのが、小池百合子さんである。前年の2008年に自民党総裁選挙に出馬し、将来の総理候補とまで言われた、小池さんが目の前に現れたのには本当に驚いた。そして、あのTVで見る勇猛果敢な戦闘モードの小池さんとは全く違う、礼儀正しくて、お淑やかな女性だったからだ。それから、楚々と、小池さんが、カバンから机の上に出されたのは、可愛らしい筆箱と自筆と思われる数枚の英文資料だった。

私なぞは、全く原稿も用意せず、ぶっつけ本番で、直接、ヘデゴー女史とやりとりするつもりなのに、小池さんは、流石、準備万端で会議に望まれるのは偉いなと感心した。この方は、十分に周到な準備をしてから戦闘モードに入る方なのだと、この時に思った。しかし、ヘデゴー大臣とのTV会議は終始和やかに進んでいった。

ヘデゴー大臣と小池さんは、コニー、ゆり子とファーストネームで呼び合う仲で、お互いに尊敬し合う同士のような雰囲気だった。お互いに環境大臣を経験し、ヘデゴー女史は、COP15の議長として成果を挙げれば、次にデンマーク首相に就任するという暗黙の了解が、デンマーク政界にはあったようである。その意味で、日本で最初の女性総理大臣候補No1だった小池さんと、ヘデゴー女史は、首相になるという目標を共有されていた。

その後、ヘデゴー大臣が主催され、私も参加させて頂いた、世界ビジネス環境会議は、ゴア元米国副大統領、潘 基文国連事務総長を始めとして、多数の世界のグローバル企業のTOPが参加されて大成功だった。その会議のランチで、私は、世界最大の風力発電機製造会社であるデンマークのベスタス社のCEOや、インド最大の電力会社であるタタ電力のCEOと同じテーブルになり、有益な話を沢山させて頂いた。その意味で、この会議に招待して頂いたヘデゴー女史には、本当に感謝している。

しかし、12月に行われたCOP15の本会議で議長を務めたヘデゴー女史は、中国の妨害で全く成果をあげられなかっただけでなく、先進国の中で、あらかじめ筋書きが作られていたとの新興国からの告発を受けて、無念にも議長を途中で交代させられた。このCOP15で成功すれば、デンマーク首相になっていたはずの、ヘデゴー女史はデンマーク政界から引退せざるをえなくなった。しかし、その後、ヘデゴー女史はEUの環境大臣として、もっと大きな舞台で見事に復活することになる。

環境大臣から防衛大臣まで務めた、小池さんも、ヘデゴー女史と同じく、将来の総理大臣候補と言われながら、安倍総理の総裁選に敵対することで、もはや、その目がなくなったと言われてきた。しかし、この度、日本の総理大臣以上に世界から注目を浴びる東京都知事に就任することでリベンジを果たしたとも言える。

さて、世界から見た東京は3,500万人を擁する世界最大の都市と認識されている。コトラー著「世界都市間競争」では、世界経済は、もはや国と国との競争ではなくて、都市と都市との競争で勃興・没落が決まるとも論じられている。つまり、アベノミックスよりコイケノミックスの方が、より責任が重いという意味である。さて、小池さん、これからどうするか?

346 堅信の秘蹟

2016年7月30日

7月24日、鷺沼教会にて、横浜教区長の梅村司教さまより堅信の秘蹟を授けて頂いた。もともと堅信の秘蹟は、幼児洗礼を受けた子供が自分の意思で信徒となることを誓う儀式で、私のように成人してから信徒となった場合は、洗礼と堅信を同じ日に行うのが通例らしい。しかし、二年前の復活祭の日には、私は、ヨーロッパへの出張と重なり、皆と一緒に洗礼式に出席できず、その1週間後に一人だけで洗礼の秘蹟を授けて頂いたので、同時に堅信を受けることはなかった。

それから、二年経って、梅村司教さまが鷺沼教会に来られる、この7月24日に合わせて、私は堅信の秘蹟を受けることになった。梅村司教さまが教区長を務める横浜教区は、神奈川県、山梨県、静岡県、長野県にある88の教会が傘下にあり、司教さまが毎週のように回られても二年間かかる。そのため、この日のミサでは43人の信徒が堅信の秘蹟を受けることになり、普段の倍以上の数の信徒が訪れて椅子に座りきれないほどであった。

大学では人工知能の研究室を卒業して、会社でも20年間人工知能の研究開発をし、今も、人工知能の可能性を人一倍信じている私だが、神に対しての畏敬の念は持っている。それは、これまでの私の人生で次々と起きたこと、良いことも悪いことも含めて、数学や物理学や生物学では、全く説明できないことばかりであったからだ。特に、人との出会いが一番大きい。出会いが私の人生を大きく変えてきた。単なる出会いは日常的に起きることだが、その出会いの中でお互いに意気通じるかどうかは、まさに奇跡としか言いようがない。

今回も、堅信の秘蹟の三日前から、多くの奇跡の出会いが始まった。その7月21日は、富士通静岡支社主催のお客様向TOPエグゼクティブフォーラムにて講演をさせて頂いた。この講演は、富士通初の女性支社長として静岡に赴任した広澤里佳さんから、今年の1月に依頼されたものである。講演のテーマは、里佳さんの了解も得て、毎年定点観測をしているシリコンバレーの動向ということにした。私は、この講演も含めて、富士通を退職してからの講演依頼は、エージェントを通して受けている。

里佳さんの支社長就任祝いとして良い話ができればと張り切っていたところ、2月頃だろうか、エージェントから、準備が予定どおり進んでいないとの知らせを受けた。どうも静岡支社では14年ぶりに開催するお客さま向けフォーラムなのだという。つまり、13年間全くやったことがないわけだから、担当の方も、どこから手をつけて良いかわからなかったらしい。それで、私と里佳さんの共通の友人である、東北支社の菅野敦子マネージャーに助けを求めることにした。敦子さんは、私が知る限り、こうしたイベント開催に関しては富士通で最も優秀なマネージャーである。

私が、頻繁に外部で講演するようになったのも、この敦子さんのお陰である。私は、敦子さんに出会うまでは、経営方針や新製品の発表とか、会社の業務に関わるプレゼンテーションしかしたことがなかった。それが、敦子さんにおだてられて、会社の業務とはあまり関係のない、ごく一般的な演題で、東北6県の各所で講演をするようになった。そして、数をこなすうちに、どう話せば聴衆の関心が得られるかという極意を少しずつ学ぶことができた。どの講演会場も、敦子さんの事前の設定は完璧であり、いつも話しやすい環境を提供してもらっていたからであろう。

それで、敦子さんに支援を依頼すると、すぐさま里佳さん宛に、フォーラム開催準備のための分厚いマニュアルが送られてきたという。そのため、今回の14年ぶりに開催された静岡支社主催のフォーラムの会場設定は完璧に近かった。マニュアルの出来も素晴らしかったのだろうが、支社の担当の方もマニュアル通り、きちんと仕事を果たされたのだろう。200席近く用意された会場はほぼ満席で、事前のお客様への案内も含めて全て完璧に行われていた。

今回、静岡で講演したテーマ「シリコンバレーから見える未来社会」と同様の話は、これまで、他でも何回もしている。しかし、今回に限って言えば、私自身も、とても話しやすかったし、お客様からも大変好評だった。一体、どうしてだろうか?と考えてみると、従来、十年以上にわたってシリコンバレーを毎年訪問していた、私の立場は、ITサービスを提供する企業からの視点だった。それが、今年は、社外取締役をさせて頂いている日立造船の社員を引率し、顧客側の立場でシリコンバレーを訪問したので、私の見方も変わったし、訪問した相手の話し方も全く異なっていた。つまり、私自身が、お客様の立場に近づいた分だけ、わかりやすい話ができるようになったのかもしれない。今年、私にシリコンバレーへの出張を命じて頂いた日立造船の谷所社長には心から感謝をしている。

静岡でのフォーラムを無事に終えた私は、次の日、22日には淡路島に向けて出発した。翌23日の土曜日に淡路島で行われる日立造船の役員研修に参加するためである。ここで、またもや素晴らしい出会いがあった。研修会の講師は、日立製作所で社長・会長をされた川村隆さんである。日立造船は戦前、日立製作所の子会社であったが、戦後の財閥解体で日立製作所とは資本関係は全くなくなった。それでも、昔、日立グループだったということで、両社は、互いに敬意を表している。そうした縁で、川村さんも、わざわざ遠く淡路島まで足を運んで下さったに違いない。

私は、既に川村さんとは面識があった。東大の電気工学科で同級生だった中西宏明さんを、日立製作所の次の社長に指名して頂いたということもあるが、富士通時代の上司で、副社長も務められた丸山さんと川村さんが札幌の高校で同級生だったという縁もある。69歳にして日立製作所の再建を任されて社長として呼び戻された川村さんのことが新聞に掲載されると、丸山さんから私に電話があった。「伊東くん、あの川村って、私と札幌の高校で同期だから。会ったら、気さくに話をしてご覧なさい」と言われ、経団連の会議で、たまたまお隣の席になった時に川村さんに話しかけた。今回、お会いした際も、そのことをしっかり覚えていて下さった。

それにしても、川村さんの講演は素晴らしかった。既に69歳になった、川村さんが日立製作所の社長として呼び戻されたのは、2008年、リーマンショックの影響を受けて7,800億円の赤字を出したからだが、それは前任の社長の責任だけではないという。1989年、日本のバブルが弾けてから、20年近く日立製作所は腐り続けてきたのだという。その膿が一気に出たのが、たまたまリーマンショックがきっかけになっただけだと言う。自分が副社長になった、2000年には、日立製作所は、既に十分に腐っていた。それでも、毎日の業務に忙殺され、世界中を飛び回っていた自分にも不作為の罪という大きな責任があったと川村さんは言う。

会社の中の、ほんの小さな組織でも腐り始めたら、それが瞬く間に全社に蔓延する。だから、腐敗の芽が小さいうちに摘み取るしかないという。自分は、社長時代に、可能な限り、腐った組織を摘み取ったつもりだが、それでも全て取り除くことはできなかったし、その後、腐り始めた組織もあるはずだ。だから、経営TOPは、常に目を光らせて腐った芽を摘み取り続けていかなければならない。穏やかな語り口で、大変厳しい内容の話を川村さんは仰った。

そして、川村さんは、次のように語られた。今日は7月23日ですよね。今から17年前の今日、7月23日に私は北海道に帰省しようと羽田から飛行機に乗りました。その飛行機がハイジャック犯に乗っ取られて機長が殺されてしまいました。飛行機は、どんどん高度を下げて墜落していくわけです。私は、もう、このまま死ぬと思いました。遺言を書こうと思ってメモとペンを取り出したのですが、姿勢が前のめりなので全く書けませんでした。後で聞いた話ですが、地上200mまで降下したそうです。機内にいた非番のクルーが操縦室に突入して犯人を取り押さえて副操縦士とともに機体を立て直して助かりました。

それから10年後でしたね。日立製作所の社長として戻れと言われたのは。すぐに返事できませんでしたよ。もう、69歳ですからね。でも、私は、一度死んだのだ。今、生きているのは、この使命を成し遂げるための天命だったのだと考えました。そして、やるべきことを早くするためには、誰にも邪魔されたくない。それで、社外取締役を過半数にして、しかも外国人の役員も増やしました。腐った組織を蘇生するには、かなり厳しいことをしないと出来ない。もう、私に怖いものはありませんでした。なにしろ、私は、一度、死んだのですから。

こんな素晴らしい話を聞いて、翌日の24日。私は、爽やかな気持ちで、堅信式を迎えることができた。この堅信式の代父は、洗礼の時にも代父を務めて頂いた岩淵英介さんで、東大から富士通まで、45年間も一緒に過ごした友人である。岩淵さんは、栄光学園高校時代に、両親の反対を押し切って洗礼を受けられたという。その時の校長は、あの有名なグスタス・フォス神父だった。私は岩淵さんの結婚式の司会をさせて頂いたので、主賓であったフォス神父の祝辞を聞かせて頂いたが、こんなに感動した祝辞を今まで一度も聞いたことがない。

フォス神父の祝辞は、次のような話だった。「岩淵さん、ご結婚おめでとう。岩淵さんは、東大を卒業され富士通に入社されて大変活躍されていると伺っています。しかし、私が、皆さんに教えてきたのは、一流大学に入学するためでも、一流会社に就職して、活躍できるようにするためでもありません。私の一番の願いは、貴方方に、立派な父親になって欲しいのです。私が、今日、あるのは、全て父親のお陰です。」と言う趣旨の話だった。フォス神父の結婚式の祝辞に感動した方は、私だけではないようで、フォス神父が、教え子の結婚式で語られた話が、その後、一冊の本として出版された。題名は「日本の父へ」である。

そして、堅信式に居合わせてくれた、もう一人の友人がいた。神奈川県の平塚市で小学校から高校まで12年間も一緒で、NTTデータの社長を務められた山下徹さんである。今年の1月に、ある会合で、山下さんから呼び止められて「伊東くん、所属は鷺沼教会だって。どんな、教会なの? 実は、聖イグナチオ教会で洗礼を受けたのだけど、所属は家の近くの鷺沼教会が良いのではと勧められたのだけど」と聞かれたので「とても良い教会だよ。今度、都筑区のサレジオ学院に隣接した敷地に移転する予定だから、あなた歩いて通えるよ!」と助言したので、山下さんは、鷺沼教会に所属することになった。

堅信式を含むミサが終わった後、地下の大ホールで、梅村司教を囲む懇親会が行われた。その日、普段ならミサが終わった後、すぐに帰る人も、皆、ホールに集まった。私も、一言挨拶しようと思い、二人の友人とホールに行った。しかし、多くの信者さんたちは、司教さまを遠巻きにして、なかなか近寄らない。そうしたら、二人が「司教さんに挨拶に行こう」私を誘う。なんと、二人とも司教さまと昵懇の間柄だったのだ。岩淵さんは、司教さまとは、栄光学園の先輩後輩の間柄で、長年交流があるらしい。そして、山下さんは、NTTデータの立場でバチカン図書館のアーカイビング事業に協力していることから、梅村司教とは既知の間柄であった。

とめどもなく、いろいろ書き綴ったが、この堅信式も含めて、その日を迎えるまでの3日間には、多くの出会いがあった。その出会いの伏線にも、また多くの出会いがあった。こうした出会いを私に与えてくださるのは、やはり神様のお恵みとしか思えない。